りくつなき

 空き教室の戸に鍵を差し込む。かちゃり、と微かな音があった。手を添えれば、からからとレールの上を滑っていく。教室の中も廊下もたいして温度差はなかった。湿った肌にスカートがまとわりつく。窓を開ければささやかな風が舞いこんでわずかに髪がそよぐ。いつもの昼休みよりも静かだった。
 終礼を済ませて自分の教室を出たとき、となりのクラスからはまだ先生の声がした。
「夏休みだ!」
 と廊下に躍り出ながらはしゃいだ声をあげた友人が面映ゆそうに口をつぐんで、けれどそれに微笑みひとつ浮かべることはできなかった。
 夏休みだ。サウナのような体育館の終業式を耐え抜いて、一学期の通知表も手渡されて、課題の多さに辟易する声を聞きながら帰り仕度を整えて。長期休暇中も節度ある行動を、警戒区域に近付かないように、なんてお決まりの注意事項をきいて。さようならを、言って。それでもう――夏休みに、なってしまった。
 あ。
 と、ただその一音がこぼれる間のことだった。氷が融けるほど儚く、炭酸飲料の細やかな泡が浮き上がって弾けるだけの一瞬。この三週間は、それだけの速さで過ぎていった。
 夏の陽射しが瞼を透かして瞳を灼く。私がどれだけ眠れなくても夜は沈んで朝は来た。朝が来なければ夏休みも始まらなかったのに。
 がらり。
 明るい暗闇に無遠慮な音が響く。そっと瞼を持ち上げ振り返れば、いつもと同じゆるい笑みで表情を覆った太刀川くんが立っていた。
「見てくれ、みょうじ」
 目が合うなり、どこか悪どくにやりと笑った太刀川くんは、エナメルバッグに手を入れて中身をまさぐる。がさがさと紙が擦れる音が微かに聴こえて肩を揺らした。
 なにをみろっていうの。訊ねる前に答えは示される。
「どうだ」
「……通知表?」
「おう」
 コピー用紙より少し厚い紙を二つ折りにしただけの、簡素な通知表は私の鞄にも入っている。太刀川慶。印刷された文字は端正で、ふだん彼が書く字とは全く違っていた。こうして見るととても格好いい名前だったのだな、とぼんやり思う。
 テストを見せたときのように机の上に広げ、太刀川くんは来いよと手招きする。窓辺から離れて机に向かえば、そこに書かれた数字が視界に入る。
 ――感傷を根こそぎ奪っていくような数字は、いっそ慰めようとしているのでは、とさえ思うほどだった。
 もちろんそんなはずもない。ぱちぱちと瞬いて数字を追う。三十はあるから赤点ではないのだろう。通知表に赤点という概念があるのかはわからないけれど。
「すげえだろ」
「……すごい」
 こんな点数は見たことがない、とも思ったけれど。太刀川くんが胸を張っているということは、この点数は一年生の時よりも良いのだろう。そしてそれは、ボーダーに入隊したことを考慮されているという以上に、再試で結果を出したからだと信じたい。彼が頑張ったことが目に見える形で報われたのだと。
「これで文句は言われないな」
 太刀川くんは上機嫌に呟き、関節の角ばった指先で顎を撫でる。瞳は漣が立つように煌めいていた。
 ――……に行ける。
 ぽそり、と呟かれた言葉のすべてを拾うことは叶わなかった。口にした本人でさえ音と認識できないような本当に小さな声は、きっとだれに聞かせるつもりもなかったのだろう。ただ彼の声に馴染んだ私の耳だけは、その残滓を鼓膜に留めている。
 行ける。どこへ? 訊ねることは許されるのだろうか。逡巡のうちに太刀川くんは通知表をしまい、エナメルバッグから出てきた手は再びなにかを握っていた。
 ぎしり、と全身が強張る。
 心臓を穿たれたような浮遊感と痛みがあって、彼の指先の動きがやけに遅く、コマ送りのように見えた。
「じゃ、よろしく頼んだ」
 差し出されたのは電力会社の封筒だ。封は開いたまま、糊づけされていた部分は紙が傷んでいる。宛名を見せるための透明なフィルムの下にはルーズリーフの罫線が見えていた。封筒はほんとうに微かな厚みがあって――余白にはのたくった字で『遣書』と書いてある。
 ぐるりと言葉が巡っていた。よろしく、よろしくたのんだってなんだ。私に持っていろっていうのか。なんで。どうして私にこれを――これは。じっとそれを見た。先の潰れた鉛筆で書いたような詰まった字だ。一秒、二秒、三四と時が過ぎる。見間違いではなかった。
 いやに渇いた喉をつばで潤して、震える声を隠すように囁く。
「……まちがえてるよ、漢字」
「マジか。うそだろ?」
 驚いたように瞳を丸くした太刀川くんとその手にある封筒から目をそらし、空き教室のなかで視線を彷徨わせる。使われなくなった机と椅子がうず高く積まれていた。自分の役目を忘れてしまったように、しん、と黙っている。地震がきたら崩れて危なそうだけれど、太刀川くんはどうも思わなかったのだろうか。それかむしろ太刀川くんが広々とした空間を確保するためにこの机たちを端に追いやったのかもしれない。彼なら、あぶないとかそんなことは露ほども考えずにやってしまいそうだった。
「え、どこが違うんだこれ」
「……遺書のイは、しんにょうに貴族のキ。それは派遣のケン」
「ややこしいな」
 気の抜けた声は再試対策の勉強をしているときに聞いたものと同じで、ほんの少しも重大そうではない。
「みょうじ、消しゴム貸してくれ。筆箱わすれた」
「……なんで、」
「いや、だって終業式だろ? いらなくねぇか、筆箱とか」
 積まれた机の足の数を数える。机の数に四を掛ければいいだけなのに、一本ずつ。くにゃりと曲がっていたり、ひどく汚れていたり。あの机を使っていたひとは大変だったと思う。
「どうして、それを私に持っていろって言うの」
「ああ、こっちか。だれかに渡しとかねぇとだろ」
 会話はどこまでも遠かった。彼の言葉も自分の言葉も、まるで透明な壁の向こうにあるようだ。等しく別々の果てに。眠りに落ちる寸前のひとときのように、助手席から眺めた街並みのように、現実であるという感覚がひどく希薄だった。頭蓋の内側のすべてがこのからだの外側で起こっていることを否定していた。
「……自分の部屋の、机の上とか」
「死んでねぇのに見られたら俺が恥ずかしいやつじゃないか?」
「ひきだしのなか、とか……」
「埋もれるな」
 彼の引き出しを想像するのは容易かった。視界に留めた机に教科書とノートとあらゆるプリントを詰め込む。いつも飛び出たシャツの裾みたいに、真っ白い解答用紙が風に揺れている。
「ボーダーの、ひとは」
「ビビってるって思われるだろ」
「幼馴染みさん、」
「あいつもボーダーなんだよ」
 そうなんだ、と頷いた。あの美しいひとは彼と同じところにいる。かなわないなぁ。ぽとりと落ちて、しみのように広がっていく薄靄を掴むことはできなかった。
「なんだよ、嫌なのか?」
「いやだよ」
 こころの底に積もったことが、不意に問われて崩れる。
「いや、だよ」
 一度でも口にしてしまえば、それは意識しなくとも溢れた。砂の城が塩水におかされるようにひどく呆気なく。潮騒にも似た耳鳴りがざあざあと、言葉を砕いて散らしていく。
「やだ」
 彼を見ることはできなかった。金属の歪んだ机の引き出しを見つめる。
「なんでだよ」
 淡々と穏やかな声に疑問はあっても苛立ちはなかった。そこにはただ不理解があって、だからこそちっとも近寄れる気がしない。
 いやなのはそれを預かることじゃない。それすらも彼にはわからないのだ。
 太刀川くんがいなくなるなんて、そんなことは考えるだけでいやだ。あなたがそんな風に軽々しく自分の生死を扱うことがいやだ。どうしてそんな簡単なことが彼には伝わらないのだろう。伝えていないからだ、と告げる理性は無視した。
「みょうじが言ったんじゃねえか。提出物は出せって」
「い、った……けど」
 覚えはあった。つい一昨日のことだ。一瞬で過ぎ去った日々だったはずなのに、思い返せばどこまでも遠かった。あの時間はもう過去に追いやられてしまっている。
「でも、だって……なんで、私なの」
「おまえに預かってて欲しいからに決まってんだろ」
 じゃなきゃ頼むかよ。
 拗ねたような声が、あっさりと答えた。
 欲しかった言葉はそれではない。じゃあ行かないし、死なない。遺書もいらないから捨ててしまおう。夏休みは宿題をやって友達と遊ぶ。普通のひととおんなじように過ごすと約束して欲しかったはずだった。――なのにどうして。どうして私は、うれしいなんて思ってしまうんだろう。
「……ごめん」
「そんなに嫌か?」
「……そうだけど、そうじゃなくて、」
 小学生がお道具箱を落としたときみたいに、いろんなものがぐちゃぐちゃになっていた。よろこんでしまった。彼に頼られて。彼が死を臨む立場にいることがあんなにかなしいと思っていたのに。こころが一瞬で染め替えられて、その軽薄さがいやになる。向けられた信用があたたかくて痛い。私はあなたにそう言ってもらえるような人間ではないのに。
「……太刀川くんは、」
「ん?」
「いやじゃないの? ……死ぬ、の」
「だから死ぬつもりはねえって」
 呆れたような声は笑みを含んでいる。どうしてそう思えるのか、その根拠も私ではないだれかなら知っているのだろうか。彼とおなじいきものであったなら。
「でも、だって、遺書をかきたいって……死ぬかもしれないからでしょう。ボーダーで。なのになんで、」
「……そりゃあ死ぬかもしんねぇけど。別にフツーに生きててもそうだろ、それは。だったらまあ――選べるなら選ばねえか、死に方」
 声はいつもとおなじに平淡で、だからこそ、それがたったひとつの真実であると告げるようだった。一年前の三門には、生きたくても生きられなかったひとがいた。ただ為すすべもなくしんだひとが、いた。
「……だから、太刀川くんは、ボーダーに入った、の?」
「おもしろそうだったしな」
 じっと見下ろした床がぐらぐらと揺れているような気がする。いつのまにか視線は下がり、両の手はプリーツスカートを握りしめていた。彼の顔はやっぱり見れなかった。
「……そう、なんだね」
 太刀川くんは自分がそうしたいと思ったからそこにいる。もう何度も繰り返した言葉が重くのしかかる。太刀川くんは、自分の意志で死に臨む。私はできなかった。太刀川くんみたいになれなかったよ。――あの冬の夜は。自分のためにだって死ねなかった。死に方ひとつ、選べなかった。
「……あ。おまえ、さてはほんとに悲しいんだな? 俺が死んだら」
 いつもより少し高く、軽やかな声だ。わかった。と、数学の解き方を教えたときの返事によく似ている。私が悲しむということは彼にとってあくまでも私の勝手で、どこまでも他人事であるらしかった。
「……言ったよ。昨日。かなしいって」
「そうか。それは悪い」
 なんで謝るんだ、って言ったくせに、太刀川くんはどういうわけか謝った。勝手に悲しむことではなくて、それを信じなかったことに対してだろうか。言葉が痛みと一緒にじわりと染み込んで、聞き質す余裕はなかった。
 とっ。と、かすかな震動がある。ぐしゃぐしゃと髪をかき回される。となりに並んだ太刀川くんが私の頭を荒っぽく撫でていた。首がぐわんくわんと揺れる。力強い手はこの暑さのなかでもつめたく、やがて熱を分かち合ってもなお、かたい皮膚の感覚が隔たりを与え続けた。
「安心しろ。死なねえから」
 頷くことはできなかった。何かを言うことも。黙って見送るしかないのだ。彼の生死に私が関われる要素はなにひとつとしてない。だから――私はただ、彼が心臓のうえに軽く押し付けた封筒を、落としてしまわないように支えることしかできなかった。

 夏のなかを、私と彼はバス停まで歩いた。ほとんど空っぽなはずの鞄が登校したときよりもずっと重く思えた。
 なぁ、かき氷食べに行くか?
 となりを歩きながら不意に問われて、ほとんど反射的に、次の機会にしようと答えた。なんでもいいからこの先の約束がほしかった。彼は、じゃあそうすっか、とだけ頷いた。
 バスに乗り込む寸前、「またな」と、彼はへらりと笑った。閉まる扉の隙間から「またね」と返して――それで、おしまいだった。

   *

 夏休みはあまり好きではない。
 家にいる時間が長くなって、そのぶんだけ窒息していく。彼は休みが長いからいいと言ったけれど、全く逆だった。そんなところまで私と彼はちがういきものだった。

 自由参加の夏期講習を受けに来るのは三年生がほとんどで、同級生は少ない。できるなら勉強なんてやりたくないと言っていた彼は当然いなかった。それから、となりの教室でやっている補講にも。前に迅くんが言ったように、私が彼に勉強を教えなければ、彼はここにいてくれたのかもしれない。意味のないことを考えながら蒸し暑い廊下を歩いた。
 図書館でも彼を見かけることはなかった。あの美しいひとだけが時々カフェで本を読んでいたが、かといって話しかけて彼の様子を訊くわけにもいかない。私と彼女は他人だった。
 三門の空は相変わらず黒点に穿たれて、警報音は蝉の声とともに鳴り響く。去年の夏よりは平和にゆるんだ空気のなかに、彼はいなかった。

 宿題は七月のうちに終わった。八月は模試があって、その結果に両親は『この調子だよ』と微笑んだ。墓掃除に行った霊園にはまだ綺麗なままの墓石が並んでいて、知らないだれかが泣きながら線香の煙を見つめていた。お盆の真ん中、親戚の集いは憂鬱だ。従弟と距離のある会話をこなして、料理を張り切る祖母の手伝いに徹した。吹奏楽部の彼女は部活の練習があって忙しそうだったけれど、オフの日には課題を手伝ったり、ほんの少し遠出をしてショッピングに行ったりと遊んだ。それでも夏休みはまだ終わらない。
 新聞を読むのが日課になっていた。新聞の地域欄と訃報欄。彼の生死を知ることすら、私には難しかった。

 かち、こち、と秒針の音が耳朶を打つ。ベッドに寝転んで、書き直されなかった『遣書』を心臓のうえに置いて天井を見つめる。指先で表面を撫でた。封筒は開かれたままだ。中身を見ることは簡単だったけれど、光に透かすことさえできずにいる。
 彼が何を書いたのか。知りたいと思っていたはずなのに、今はこわい。ほんとうのことを言えば目のつかないところに置いて忘れてしまいたい。けれど、もしも、を考えるとそうすることもできず、肌身離さず持っていた。使い回された封筒はますますくたびれている。
 エアコンのつめたい風が頬を撫でる。外の暑さが嘘みたいに部屋のなかは涼しく、勉強に集中するためならいいよと微笑んだ母の顔が浮かんで消える。
 今日は登校日で、学校にはほとんどの生徒が来ていた。旅行中で欠席だったひともいるし、あるいは引っ越したらしいと噂されるひともいた。
『慶ちゃんと連絡ついたやついる?』
『おれもムリ。電話出ないしメールの返事も来ない』
『ボーダーで忙しいとは言ってたけどな』
 ぴょんと跳ねた寝癖を探していたところに、となりのクラスの声が耳に滑り込んだ。心臓がつめたい手に握られる。彼の姿を見つけることはできなかった。
『つつみん、なんか知ってる? ボーダー入ったんだろ?』
 となりのクラスのひとは教室までやってきて、前の席の堤くんと話していた。堤くんは、いつのまにボーダーへ入隊したのだろう。同じ学校に通って同じ教室で同じ授業を受けているのに、私は彼らのことをなにも知らなかった。
『隊員のスカウトに出てるって聞いたよ』
『へぇ、そんなこともやるんか。つつみんも大変だな』
『オレはまだ全然』
 彼が遺書をしたためたことを知っているひとはいないようだった。堤くんの穏やかな声は嘘をついているようには聞こえなかったけれど、スカウトに遺書は必要だったのだろうか。どこに行っているのだろう。何をしているのだろう。何もかもわからなくて、近くて遠い空の黒点を見るたび心臓がざわついた。
 夏休みが終わるまであと十日。二十九日は彼の誕生日らしく、『もう祝ってやんねえ』と彼の友人らしきひとがふてくされた様子で呟いていた。
 息を吸って、吐く。肋骨が上下して、封筒がかさりと音を立てる。彼の、さいごになるかもしれない言葉は、あまりにも軽かった。
 彼は無事だろうか。元気だろうか。生きていてくれてるだろうか。いくら案じても、祈っても、その安否さえ私にはわからないという事実が降り注ぐだけだ。
 有刺鉄線の向こうに行けば会えるのだろうか。
 ――あの冬の夜、越えることすらできなかった境界線の先に、きっと彼が臨む死はあった。

   *

 その年の学年末テストは例年よりも少し早く、二月に執り行われた。年度替りを機に転校する生徒や転勤する教師が多いからだ、という噂がまことしやかに囁かれていたが、真実はわからない。ただ、二月のきんと冷え切った空気にその噂はよく馴染んで、校舎には寒々とした雰囲気が漂っていた。
 三門市立第一高等学校に入学して一年が経ち、東三門から吹奏楽部の彼女が転校してきて半年が過ぎていた。六頴館の入試に落ちたことは相変わらず棘のようにこころに刺さっていたけれど、彼女のおかげもあってすこし楽しいと思い始めていた頃だった。彼女が転校して来た理由を慮れば、よかったもありがとうも言えなかったし、今も言えていないけれど。

 車で十分ほど離れた祖父母の家に行ったのは、学年末テストの最終日、たぶん金曜日だったと思う。祖母が風邪をひいて、その見舞いだったはずだ。記憶は曖昧だった。つい一年前のことなのに霞みがかったように思い出せないのは、忘れたがっているからかもしれない。
 祖父母の家に着くと、普段はもっと街のほうに住んでいる叔父夫婦と従弟もお見舞いに来ていて、『やっぱり一緒に暮らそうよ』という話をしていた。親たちにとっては予定通りだったのか、互いに驚いた様子もなく話に加わる。
 ひとつ年下の従弟とは昔から仲が良かった。久しぶりだねと声をかけると、その日はどこか遠慮がちに挨拶をされて、少しだけ引っかかりを覚えた。でも彼ももう中学三年生だから、恥ずかしがられるというか、距離感が変わってしまうのも仕方ないのかな、なんて思った。
 それでも、台所でお茶を淹れると手伝いに来てくれたから『ありがとう』とお礼を言って、
『来年からは高校生だね』
 何気なくそれを話題に出した。『う、ん』ぎしり、と顔を強張らせた従弟の反応にきょとんとする。数秒考えて、まだ結果が出る時期ではないことを思い出した。ごめん、とその言葉が音になる寸前――居間の方から母と叔母の声が届いた。祖父母の家は古いつくりで、家のどこにいても声がよく響く。
『これ、少し早いですけれどご入学祝い。おめでとうございます』
『まあ、そんな。ありがとうございます』
『ご準備とか、大変でしょう』
『ええ。夫の制服も残ってたんですけど、やっぱりほら、時代ですよね、いくら伝統でも変わるでしょう? ――六頴館も、ちょっと前に』
 その瞬間の。ふたりで遊んだり、勉強を教えたりした、それにお茶を淹れるのを手伝いに来てくれるようなやさしい従弟の――しまった、という顔が忘れられない。
 ろくえいかん。六頴館高校。父と母が出会った場所。祖父も叔父も、親族の多くは六頴館の卒業生で。私が、行けなかった場所だ。
『おめでとう』
 くちびるが勝手に動いていた。
『いってくれたらよかったのに』
 この時期にもう結果が出ているということは、もっと前、それこそ推薦入試かなにかで合格していたのだろう。入学祝いを用意していた両親も知っていたはずだった。だからたぶん、私だけが、知らなかった。
 年下の従弟は数秒のあいだ表情を彷徨わせたあと、
『……ごめん』
 とだけ、言った。ずきずきと心臓が痛かった。違うのに。どうして。そうじゃなくて、ありがとうとか、言ってくれたら。だって謝られたら、それは。
 一年だ。私が受験に失敗して一年が経つ。最近は高校生活も楽しいと思い始めていた。なのに――なのに、彼らにとって私はずっとそういう存在だった。腫れ物のように扱うべき、不出来でかわいそうな娘だった。

 そのあとの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
 ひどくさむかった、と思う。ベッドのうえで膝を抱え、頭から毛布を被っていた。窓の外を見つめる。夜は深かった。点々とした街灯に淡く照らされ、ちらちらと雪が降っているのが見えた。指先がかじかんで呼吸のたびに肺が震えた。
 六頴館に入って、いい大学に入って、いい企業に入社するか公務員になって、それから。
 ぽろり、と頰をすべった雫があつかった。情けない。はずかしい。腹立たしくて、痛くて、かなしい。どうして私はできなかったのだろう。どうしてこんなにも、だめなんだろう。
 ――いやだな。
 心臓が軋んでいた。頭蓋の奥でなにかが弾ける。
 ――もう、いやだ、な。
 こんなことならいっそ。いっそ。いけないとわかっているのに。こぽり、と浮かんだ言葉が脳裡に瞬く。
 ――死んでしまいたい。

 もっと早くこうするべきだったんだ。
 そう思いながら真夜中の街を歩いた。雪がアスファルトをうっすらと覆っていた。朝日を浴びればそれだけで融けてしまいそうな、儚い白を足跡で汚す。時間のせいか寒さのせいか――向かう先にあるもののせいか、だれに出会うこともなかった。
 雪が頰をかすめて、冷たさにちりりと痛む。降り積もった雪がとけて髪を濡らし、毛先が凍りつく。それでも歩いた。ローファーに押し込んだ素足はもう痛みも寒さも感じない。爪先の果てには、星の光さえ遮る巨大な黒が聳え立っていた。

 立ち入り禁止の看板と有刺鉄線に足を止める。はっ、と息を吐いた。
 歩き通しで跳ねた心臓、荒い呼吸で酸素を取り込めば、冬の夜は内側から肺を貫く。
 警戒区域にはネイバーがいる。この半年で常識となったそれが、救いのように思えた。自分で死ぬのはこわかったけれど――あっというまに、わけもわからないまま殺されてしまえばいいと。そんなふうに、思っていた。
 有刺鉄線を越えればいいだけだった。
 遠くの空がぴかりと光る。地鳴りのような音がかすかに聞こえる。
 今日もネイバーは三門市を襲っていた。ボーダーのひとたちのように戦えない私はかんたんに死んでしまえるに違いない。
 有刺鉄線を、越えればいいだけの話だった。
 やるべきことはわかっているのに足が動かない。有刺鉄線は跨ぐにもくぐるにも難しい。着たままだったコートのポケットにはバスの定期券と学生証が入っていたけれど、持ち物はそれだけだ。鉄線を断ち切る手立てはなかった。
 衝動が急速にしぼんでいくのが自分でもわかった。どうしよう、舌先で囁く。冴え冴えと冷えた夜風が声を攫う。答えはなかった。
 ――雷のような一瞬の光が空をはしり、風が乱れて吹き荒ぶ。さっきよりもずっと近くで、何かが起こっていた。たぶん、ネイバーとボーダーの戦いが。
 行かなければ、と思う。行って。それで。死んでしまいたい。
 吐く息が白く烟る。くちびるから逃げていく熱はまたたく間に冬の夜へ紛れていく。かじかむ指先を温めようとした拳を解いて、有刺鉄線へと伸ばした。
 鋭い棘を避けて、鉄線を握る。ぴんと張られたそれは上下にわずか動くだけで、通り抜けられるような隙間は作れない。
 行かなきゃいけないのに。もう死んでしまいたいのに。
 きしり、鉄線が軋む。金属は雨風に晒されて劣化したのかささくれだっていた。細かな棘が皮膚を破り、生温い血液がじわりと滲む。焦りと、怒りにも似たなにかが背を押すまま、引きちぎるように手を動かしても、鉄線のうえを赤色が滑るだけだ。
 ――痛かった。ただただ痛かった。
 手首を搔き切ることも呼吸もやめることもできず、手のひらが傷つくただそれだけの痛みを得て――私は生きていた。
 凍てついた夜のなかに取り残される。ひとりきりだった。世界から切り離されて、まるで捨てられたみたいに。どこにも居場所なんてなく、だれにとっても不要な存在で、どうしようもないのだと夜闇に浮かぶ雪が囁く。
 きんと澄んだ空気はあまりにもきれいで、なみだがこぼれるのはきっとさむさが瞳を刺すせいで。息がじょうずに吸えないのは空気がつめたいせいで、胸が痛むのは肺のなかに冬が満ちるせいで――冬のせいにするのは私が弱いせいだった。
 気がつけば私はベッドのうえにいて、手のひらの血は止まっていた。傷はわらってしまうくらい小さなものだった。瞳がとけてしまったようにあつくて、ぽろぽろと頰を雫が滑った。
 越えられなかったのだ。私は、あの有刺鉄線を、越えることすらできなかった。


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