とりとめも

 白紙のルーズリーフにこつりとシャープペンシルの先を当て、離す。黒鉛の跡が雀斑のように広がりつつあった。こち、こち、と机のうえに置いた腕時計の秒針が時を刻む。短針は十二を越えようとしている。両親はまだ起きているのか、階下から微かな音が響いた。
 集中力が途切れる。深々と息を吐きペンを置いた。ふと視界に入った手首、三つ並んだほくろを撫でる。太刀川くんがそうしたように。かさついた指の温度を思い出すと頰が熱くなる気がして、吐息を重ねてそれを鎮めた。うわさを助長していることは知っていても、腕時計を人前で外すのはやはり羞恥心が勝つ。気にしすぎだとわかっているけれど。
 日曜日の深夜。茹だるような熱をエアコンで追い払い机に向かう。いつもは参考書とノートを広げるそこに、ルーズリーフを一枚だけ置いた。
『イショの書き方、教えてくれ』
 その声は不思議と明瞭に思い出すことができた。初めは冗談だと思ったのだ。けれど彼が嘘をついているようには見えなかった。だから彼が真実、死を臨む場所にいて、残したい言葉があるとしたら――残せないまま死んでしまうのは悲しいことだと、思って。
 彼が他人でしかなかったから引き受けることができたのだろう。ただ悲しいだけで、その喪失への怯えがかけらもなかったから。
 ――いやだな。
 外に出せないまま降り積もった言葉が、胸のうちに重く沈んでいく。いやだな。いやだ。太刀川くんに死んでほしくないし、遺書だって書いてほしくない。私にはどうしたってできないことを、容易くやれてしまう。そのくせ、私なら何にでもなれると笑うようなひとを、うしなうのはいやだった。
 でも。書いてほしくはないけれど、書かなければ太刀川くんは死なないとか、そんな話ではないのだ。太刀川くんが生きているのはそういう世界、なのだと思う。私がいる場所とは違う場所。あの有刺鉄線の向こう側。死なないはずなのに、死ぬ覚悟をさせる場所。そこから彼を遠ざける術を私は持たず、やっぱり彼の生死には関われない。
 だったら私は、太刀川くんの言葉が残る方がいい。遥か彼岸から言葉を届けることは叶わないのだから。
 遺書に何を書けばいいのか。何を書くべきなのか。
 太刀川くんは、何を書けばいいのかわからないという。書きたいと言ったわりに、書きたいものはないのだと。難題だった。今まで解いたどんな模試の問題よりも難しかった。
 教える、調べておくと言った手前、何もしないわけにはいかない。だから、ひとまず自分で書いてみようとしたものの――あまりいい判断ではなかったかもしれない。
 家族への感謝、死後にしてほしいこと、死を覚悟した理由。書くべきだろうことはわかっても、それをかたちにすることが難しい。迷った時間だけルーズリーフが汚れていく。
 簡単なことだとは思っていなかったけれど、それにしたって書けなかった。綺麗事が書けないのなら恨み言のひとつくらい、と思ってもだめだ。『ありがとう。』『ごめんなさい。』その二言だけが頭のなかを巡る。具体的に何が、となると途端に言葉に詰まった。
 短針が十二を越えた。きしきしと微かにフローリングが鳴っている。その気配にどきりと肩が震える。
「まだ起きてるの?」
 部屋の外にいるだろう母が微かに咎めるような声で言う。ありがとう。ごめんなさい。自分の字で書き付けたそれを見ながら答えた。
「もう寝るよ」
「そう。――勉強、無理しないでね」 
 穏やかな声に、ほんの少しの遠慮が棘のように生えている。気のせいかもしれない。あるいは、先に棘を生やしたのは私だったのだろうか。
『大学受験のときにがんばればいいのよ』
 そう言って背を撫でる手はどこまでも優しかったのに、その言葉はまるで荊のように巻きついて、ときどきひどく痛んだ。
「大丈夫。おやすみ」
「おやすみなさい」
 母は悪いひとではない。途轍もない善人ではないにしても、優しいひとだと思う。私は恵まれていると知っている。それなのに、その言葉を呪いのように受け止めている自分のことがたまらなく恥ずかしかった。

 ありがとうもごめんなさいも消して、白紙に戻ったくたびれたルーズリーフを折りたたんで屑かごに捨てる。筆箱を通学鞄に仕舞い、電気を消した。
 夏用の薄い布団を被る。暗闇を見つめて気付いた。
 遺したい言葉なんて、ひとつもなかった。だから私には遺書が書けない。
 ただただ、いなくなってしまいたいだけだった。跡形もなく消えてしまいたい人間に遺書は不要で――だから、あの冬の私は書こうとさえ思い至らなかったのだろう。
 あえて綴るなら、それはきっと感謝でも謝罪でもなく身勝手な要望だ。
『忘れてください。』
 私のような人間がいたことを、その不出来さを、情けなさを、どうか忘れて、いなかったことにしてください。それだけが、あのときの私の望みだった。
 瞼を下ろした瞳があつかった。頬を雫が伝って、シーツに染み込んでいく。
 太刀川くんはどんな言葉を綴るだろう。胸の痛みを吐息にとかしながら考える。何も思い浮かばないと言っていたけれど、私とはなにもかもちがう彼の言葉が、ただ知りたかった。

   *

「おそかったな」
 空き教室の戸を開けば、いつものように飄々とした太刀川くんが出迎える。夏休みをすぐそこに控えても、やっぱり彼の様子に変化はなかった。
 大きな口がコロッケパンをばくりとかじり、頬を膨らませながら咀嚼する。あっという間に食べ終えて、パンの袋をくしゃりと丸めた。
 戸口に立ったまま、何の変哲もない横顔を見つめる。七月の空の青さも、この暑さも、窓から入ってくる蝉の音色も学校の騒々しさも。ここに太刀川くんがいるということを焼き付けてしまいたかった。そうすることで何が変わるわけでもないのに。
「どうした?」
「うん……ごめん」
「謝るようなことじゃねえだろ」
 でも温くなってても文句言うなよ。へらりと笑い、机上に置かれたいちごオレを指差す。太刀川くんが訝しげな顔になる前に、許された席に座った。
「なんかあったか? 遅くなったの」
 淡々とした声と裏腹に、あわい影のような瞳は思慮深く私を窺っているようだった。もしかしたら、同級生とのことを心配してくれているのかもしれない。ここに来るのが遅くなったのはあの日だけだ。それに胸が騒ぐものだから、こほん、と咳払いをして落ち着かせた。
「先生に提出物を集めるよう頼まれて……」
「マジメなやつは大変だな」
 けらけらと笑う太刀川くんは、先生から何か頼まれたことなんてない、と豪語する。
「提出物は出してね」そろりと目をそらされた。
 いちごオレにストローをさす。ふわりとあまい香りが広がり、口をつければいつもと同じにやさしい味がする。
「そんで、遺書の書き方わかったか?」
 呆気なくその話題を出す太刀川くんが、遺書というもの、その先にある死をどう受け止めているかはわからない。少なくとも私とはちがうのだろう。最初からわかっていたことだ。
「……要素は三つあると思う。感謝と、謝罪と、要望」
 濡れた枕の冷たさを思い出しながら諳んじる。こうして教えられるのであれば、あれもおそらく無駄ではなかった。
「つまり?」
「ありがとうとごめんなさいと、してほしいこと」
「なんで謝んだ?」
 さくり、と鋭い言葉が差し込まれる。聞きようによっては怒っている声だが、その感情を正しく言うなら釈然としない、だろう。
「……死んで……悲しませてごめん、みたいな……」
「ふーん? でも死んじまったもんは仕方ねぇし、悲しむのはそいつの勝手じゃね? 他人のキモチまで責任はとれねえだろ。逆に謝られたってどうしようもねえしさ」
 悲しむのは残された人間の勝手。突き放すような言葉が胸を穿った。けれど同時になにかを掬いあげる。勝手でいいのだ、と。
 かなしいと思うのは私でその責任をだれかに求めるのは違う。だからこそ、私はきっとかなしいと思ってもいいのだろう。関わりがなくても、友達になれなくても、身勝手に。
「そう、かもしれない。……でも、なんだろう……それを抜きにしても、ごめんなさいって、言いたくなる、と思う。……私だったら、だけど」
 残される側ではなく、残す立場に立てばその言葉が溢れる。
 死にたいと願ってみても、死を選ぶことは情けなく恥ずかしいことだと理性は告げる。謝りたいのは許してほしいからだ。そういう死を選んでしまったことを、そういう人間だったことをだれかに許してほしいから。
 あとは迷惑をかけるから、だろうか。葬儀に後片付けに世間の目に、人がひとり死ぬことで被る不利益は、きっとたくさんある。そういう面倒なことを押し付けて、ひとりだけ逃げ出してしまってごめん。とか。
「まあ、そうか。言いたいこと言っときゃいいのか」
 沈みかけた思考をあっさりと拾い上げて、彼は頷いた。英語の構文を説明したときと同じように、理解や共感には遠くともそういうものかと受け入れる。ほんの二週間程度の付き合いだけれど、太刀川くんは意外なほどに柔軟で、けれど一本芯が通っているひとだった。
「……うん。そうだと思うよ」
「はじめてバトったときのいけ好かねえ顔覚えてんぞ、とか」
「いや、それは……どうなんだろう」
「みょうじのほくろは隠さなくていいと思う、とかか?」
「そ、それは関係ないでしょ」
 顔赤くなってんぞ、底意地の悪そうににやりと笑った太刀川くんが指をさす。ひとを指でさしてはいけないと咎めれば、へいへいと気のない様子で返された。皮膚を撫でたあの感覚がまたよみがえって、すうはあと呼吸を整える。
「……だいたい、その、私宛てじゃなくて、もっと他の……大切なひとへの言葉から考えたほうがいいと思う」
「例えば?」
「家族とか」
「今更言うことねえって」
「と、友達とか……」
「トモダチじゃん。俺とお前」
 ぐ、と言葉に詰まる。太刀川くんは、無邪気と言っていいほど当たり前に紡ぐ。それがうれしくて、情けない。痛みを押し潰して「あとは、」と囁く。
「その、恋人、とか」
「それはムリだろ。いねえんだし」
 えっ。間抜けな音がくちびるからこぼれ落ち、太刀川くんは、
「なんでそんな驚いてんだよ。悪ィか」
 とちょっとだけ怒った顔をつくった。恋人はいない。無理。いないから。嘘には見えない。
「……いない、の? え、いやだって、図書館で、……あっ、」
 失言だった。図書館で彼と彼女を見たことは言っていない。見たと言うべきでもなかったと思うが、隠し事をしていたようで気まずい。太刀川くんの瞳がきょとりと瞬く。
「図書館? ……あ! お前さては蓮のこと言ってんだろ。やめろ。その噂のせいでなんでか俺がめちゃくちゃ怒られたんだぞ」
 心当たりがあったらしい太刀川くんは、何故か苦虫を噛んだように顔を顰め「マジで怖ぇんだぞ」と凄んで見せた。噂。混乱する頭のなかでどうにか拾えた単語が巡り、やがてくちびるから漏れる。
「噂、って」
「ああ、幼馴染みがいんだけどよ、蓮ってやつ。図書館って先週の日曜のだろ? お前が見たのもそいつだと思う」
 つうか見てたなら声かけろよな。
 ふてくされた顔には、デートを目撃されて気恥ずかしい、とかそういった感情は一切見当たらなかった。師匠と呼ぶ忍田さんのことを話すときのほうがまだはしゃいでいる。
「あの、髪の長い美人さん、が……?」
 おさななじみ? 問いかければ、おう、と首肯される。
「確かに顔はいいな。こう……崖の上の花的な」
「……高嶺の花?」
「それだ。前に歩いてたとこクラスのやつに見られて、付き合ってるって噂になったんだよ。でもなんでそれで俺が怒られんだ? 俺は悪くねえよな?」
 不満だ、と腕を組んで考え込む太刀川くんをよそに、心臓は少しずつ落ち着きを取り戻していた。ふわりと締め付けが緩んで、痛みさえ引いていく。
 あの美しいひとは恋人ではないらしい。
 それで何が変わるわけでも、もちろんないけれど。幼馴染みだって大切な存在には違いないだろうし、彼に勉強を教えるのが私だけの役目ではないのもそうだ。それでも――ほっとしている。理由のわからない感覚がむず痒くて、そっと深呼吸を重ねた。
「にしても蓮に言うことなぁ……引き出しの奥のテスト燃やしといてくれ、とかはあるな」
「……それは自分で処分したほうがいいと思う」
 あの美しい幼馴染みさんがその遺書を読んだときの気持ちを想像して助言しておく。幼馴染みというだけあって付き合いは長いだろうし、もしかしたら太刀川くんらしいと笑ってくれるかもしれないけれど。
「難しいな、遺書」
 太刀川くんはくちびるを尖らせ、椅子の背もたれに身を預けて椅子ごとぎいぎい揺れていた。かろうじて保たれるバランスに見ているほうがはらはらする。数秒そうして、がたん、と四つ足が床についた。
「なんかいい案あるか?」
「えっと……」
 凪いだ瞳に問われ、太刀川くんが言い残したいことを否定ばかりしていることに気付く。彼が何を残したいのか知りたいと、そう思っていたくせに。
「……あの、ごめん。さっきから。私の言ってることは気にせず、思うように書くのが一番いいと思う」
「テスト燃やせもアリ?」
「ん、んん……あ、り……」
「よっしゃ」
 いいのかな。胸の内側から訊ねる声に、これでいいんだ、と返した。
 どんな言葉でも太刀川くんの言葉であることに意味がある。借り物の言葉でも、変に整えられたものでもなく、彼が遺したいと思った言葉が綴られるべきだ。そうでなければ――きっとかなしい。さみしい。太刀川くんが、ほんとうにどこにもいなくなってしまうから。
 ああ。でも。やっぱり、書いてほしくないな。
 整理をつけたはずの考えが鎌首をもたげる。だめだ。我儘を深くふかく沈める。私が太刀川くんから、彼に残される彼の大切なひとたちから、彼の言葉を奪っていい理由なんてひとつもない。なかった。
 不要になればいいのに。彼の書こうとしている、書き上げるだろう遺書が、だれにも見られず屑かごに捨てられてしまえばいいのに。太刀川くんには悪いけれどそう願ってしまう。
 それとも彼は、たいして気に留めないだろうか。それくらい彼にとって死という事象が軽々しく、受け入れ易いことだとしたら、そんなにかなしいことはなかった。

「つうかみょうじ、メシ食わねえの?」
 じかん。太刀川くんが指差した先には腕時計があり、昼休みが終わるまであと十分というところだった。
「あっ、」
 慌てて鞄からお弁当箱を取り出す。こんな日に限って食べるのに時間がかかる小骨の多い焼き魚と煮豆がある。夕飯の残りと焼くだけの惣菜、つくるのは簡単だけれど。お弁当箱を覗き込んだ太刀川くんが「忍田さんの朝メシみてぇだな」と呟いた。
「食べ終わんなかったらサボるか?」
「さぼらないよ」
 こくん、と口のなかのものを飲み込んでから答える。太刀川くんは頬杖をついて「そうか」と笑い、私が食べるのを見つめた。居心地が悪くて視線で訴えかける。
「さっき見てただろ。仕返しだ」
「……、それは……ごめん」
「いいから早く食えよ。授業出たいんだろ」
 その意を汲んでくれるなら視線を外してほしかったけれど、太刀川くんはくちびるに笑みをたたえたまま、食べ終わるまでそうしていた。

   *

 太刀川くんはどうして遺書を書くのだろう。どうしてそうする必要があるのか。
 どうして――死を覚悟するような場所にあなたがいなくちゃいけないの。
 骨のなかで巡る言葉たちはいっそ恨み言のように響いた。太刀川くんがシャープペンシルをぱしりと回す音を聴きながら、快晴の空を見遣る。これからさらに青く暑くなる空は今日も黒点に穿たれ、なのに素知らぬふりを続けていた。
 火曜日の放課後。空き教室には私と太刀川くんのふたりだけだった。迅くんもあの日以来ここを訪れていない。もともと、彼にこの場所を教えていたわけではなかったらしい。
『学年が違うのに仲がいいんだね』と言ったら、
『俺のが強いけどな』と微妙にずれた答えがあった。
 その瞳はいつになくぎらぎらとかがやいていて、私の知らない太刀川くんの顔だった。
 太刀川くんのこと。ボーダーのこと。遺書のこと。知らないことやわからないことばかりでいやになる。悔しい、と言うべきかもしれない。最終問題がどうしても解けなくて、シャープペンシルを握ったまま刻々と時間が過ぎていくときの気持ちに似ている。
 太刀川くんは遺書を書き、死を臨む。
 それはもう、どうしようもなく決まっていることだった。
 ネイバーと戦うボーダー隊員は死なないはずだ。それなのに遺書を書こうと思った太刀川くんがどんな場所にいるのか、なにを考えているのか、私ではわからない。
 ほんとうは太刀川くんが命を賭ける理由なんてどこにもないんじゃないかとさえ思う。ただそれを口に出すことは叶わない。彼の歩みを止める資格はなかった。もっとちがう立場だったらできたこともあったかもしれない。けれどそんな事実はなく、この無力さが現実だ。
 わかることはひとつだけ。彼は望んでそこにいるということ。
 おもしろそうだったから。書きたいと思ったから。それ以上の答えはきっとなかった。そこに私が納得できる理由を求めるのはなにもかも間違っている。

「――なあ、みょうじ」
 不意に響いた声が思考を掬いあげた。窓の外に向けていた視線を太刀川くんに戻す。見えてしまったルーズリーフは白紙のままだ。昨日話したことを書けばいいはずなのに、紙を前にすると手が止まってしまうらしい。
「どうかした?」
「おまえ、俺が死んだら悲しいか?」
「……は、」
 戦慄いたくちびるから吐息にも似た音が溢れた。ばちり、と目が合う。照りつける陽射しがつくる木陰のように深く、穏やかに凪いだ瞳だった。口元にはゆるく笑みすら浮かんでいる。
「どうだ」
 彼は窺うように小首を傾げる。止まっていた呼吸がヒュッと喉を掠めた。
「……かなしい、よ」
 紡いだ言葉が頼りなく震える。太刀川くんはぱちりと瞳を瞬かせた。それを問うにはあまりに淡白だった声が頭の奥に残ってぐわんぐわんと揺れている。
 俺が死んだら悲しいか。
 そんなの訊かれるまでもなくひとつだ。私と彼はちがういきもので、だからきっと関わりはなくて。だれよりも自由な背中は離れるばかりで、彼はただ燦然とかがやいて。そんな資格もない私を友達と言ってくれた、そんなひとがいなくなるとしたら。
 ――かなしい、かなしいに決まっている。わるいか、となじるような言葉が浮き上がって喉に詰まる。悲しいと思うことが残された人間の勝手なら、あなたのことをなんにも知らない私にだって、そう思う自由はあるはずだ。
「そうかそうか」
 くちびるがへらりとたわんで笑みになる。自分の死をだれかが悲しんだとして、それに対して謝るのは釈然としない。太刀川くんはそんなふうなことを言っていて、だからか、私が悲しむと言っても笑うだけだった。
「ま、死ぬつもりはねえけど」
「……そう、なんだ」
 私にとってなによりも重要な言葉さえ、薄いくちびるは呆気なく紡いでしまう。それをどう受け止めるべきか――信じていいのかわからなくて、声は静かに落ちた。沈黙を補うための音が足りない。置いてけぼりになったみたいに、音も温度も色彩もあらゆるものが遠くとおくへ離れていく。
「ンな顔すんなよ」
 かろうじて私の目の前に在り続ける笑みには、微かなからかいが混じっていた。彼は当たり前に死を臨んでいる。いっそかけらも現実味はなく、あたかも与太話を語るかのように、少しの特別もそこにはない。
 途方もない断絶があった。シネマスクリーンの方がよほど近い。私たちはおそらく崖の両岸から互いを見ていた。同じ教室にいて向かい合って座っているはずなのに、私と彼の見ているものはあまりにもちがっていた。
「あ。書くの教えてほしいって言ったのが冗談だったわけじゃねえからな。風間さんが書いてたらしいんだよ。あと東さんも。……そんでまあ、とりあえず俺も書いてみっかなって感じで」
 風間さんと東さんは、太刀川くんと同じボーダー隊員だ。忍田さんや迅くんとは違って、断片のように語られるそのひとたちのことを詳しくは知らない。彼らにとっても遺書を書くことは自然なことだったのだろうか。きっと彼らと彼はおなじいきものだ。
「どうして、」
 やっと出てきた声はひどくかすれていた。ぴんと張った糸をくすぐるように撫でたときの音に似ている。
「……ううん。……太刀川くんが悲しむなって言っても、私は、勝手にかなしむよ」
「だから死なねえって」
 それは間違っても約束ではなく、ただ彼が勝手に宣っただけのことに聞こえた。言葉はやはり軽々しくて、それを紡ぐ彼は眩い。信じたいけれど、信じるために必要なものを私は何一つとして持っていなかった。
 筋張った手はシャープペンシルを手放すこともない。こつり、とペン先がルーズリーフを叩く。その音で金縛りが解けたように、蝉たちは一斉に鳴き始めた。


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