ひそやかに

「なんで虎になるんだ、こいつ」
 ぽつりと紡がれた言葉には、おまえが虎になんなきゃ俺は勉強しなくてよかったのに、というニュアンスがある。名作を前にひどい言い草だった。
 いよいよ明日から再試だ。太刀川くん曰く『生まれて初めてこんなに勉強した』という一週間だったが、とうとう限界が来たらしい。瞳からいつになく光が失われている。淀んだように目元が据わっているのは夜通しボーダーの任務があったからだろう。午前中は欠席していた。
「休憩にしようか」
 今日はいちだんと暑い。しっとりと濡れた肌に髪がぺたりと張り付く。ノートに書いた文字もよれていた。太陽はまだまだ空の高いところにいて、青い空にはまばゆいほど白い入道雲が鎮座している。微かに風はあるが、教室のなかに滞る熱を散らすほどではない。蝉の声は騒々しさを増していた。ほんの数日しか生きられないそれが、これほど力強く鳴くことに驚いてしまうときがある。命の短さを知っているからそうするのだろうか。
 ぱたぱたと服を引っ張って風を送れば、太刀川くんが下敷きで扇いでくれる。ぶわりと空気が揺れた。下敷きを行ったり来たりさせて、自分にも風を送っている。じわりとした細かな汗がひたいに浮かんでいた。
「にしても暑ィなぁ、今日は」
「……もう、帰る? ボーダーとか、涼しいところで勉強した方がいいと思う」
「それだと教えてくれるやつがいねえじゃん」
 いるでしょう。言葉をぐっと飲み込む。魚の骨が引っ掛かったみたいにぴりりと痛んだ。
「……残ってるの暗記だけだから、教えることはないよ」
「そうなのか?」
「明日は現代文と古典、あと英語だよね」
「おう。数学は明後日だとよ」
「再試の前にノートをよく読んで、復習すれば大丈夫だと思う。三十点くらい、今の太刀川くんならとれるよ」
 大丈夫、と頬を持ち上げながら告げる。毎日ちゃんと勉強を頑張っていたし、帰ってわからないことがあっても、あのひとに訊けばいい。太刀川くんはぴたりと動きを止めた。風が止んで、すかさずじとりとした暑さが纏わりつく。
「それ、本気で言ってるか?」
 疑ぐり深い眼差しにつくりものではない笑いがこぼれた。いつも自信ありげなのに、勉強となると不安があるらしい。もちろんいくら勉強したってだめなときはだめということを、私は知っている。でも、太刀川くんなら大丈夫だと思ったのも本当だ。
「うん。流石にひゃく……八十点とかは難しいと思うけど」
 数学は応用問題に手をつけなかったし、古典も英語も後半の長文は捨てている。だからどうしたって百点はとれないけれど、うまくいけば五十点くらいはとれる予想だ。
 ほんの二週間足らずだったけれど、ここまでくると感慨深いものがある。正直に言えば、あのテストを見たときはこんなに真面目に勉強してくれると思っていなかった。それだけ再試に受かりたいということなのだろう。再試に受かって夏休みを手に入れて、それで――遺書を書いて、死に臨む。いやだな。飴玉みたいに言葉を蕩かした。
「太刀川くんならできるよ」
「まあ、みょうじに教えてもらったしな」
 学年一位の優等生に泥を塗るわけにはいかないか。
 にやりと笑う太刀川くんはどこか悪どい。泥を塗るという慣用句は知っていたようだ、と感心した。彼の真っ白な解答用紙を知っているとそれが冗談にもならない。
「再試が終わったら次は遺書だな」
「……うん」
 真冬の夜風のように冷たい手が胸に差し込まれた。あたたかな心臓をやわく握りしめ、肋骨の内側を圧して奇妙な隙間をつくる。終業式は水曜日、ちょうど一週間後だ。もうすぐそこまで迫っている。
「なんも考えてねえんだよなぁ、書くこと」
 書かなくていいと思う。
 太刀川くんに死んでほしくない。だれかが死ぬのは悲しいという以上に、ただ目の前にいる彼に生きていてほしい。だって彼のいない世界は、ひどく、ひどく、さみしいと思うから。
 でもやっぱり、それは言えなかった。ボーダー隊員の太刀川くんは街を守っていて、ただの高校生の私は彼に守られている。守られるだけの、彼の生死になにひとつ影響を及ぼせない私が『死なないでほしい』と言ったって、それは何の意味も持たない。
 それを言っていいのは家族とか……恋人だとか、彼の人生に深く関わる赦しを得たひとだけだ。太刀川くんは私を友達と言ってくれたけれど、ほんとうはその資格もなかった。
「なに書きゃいいんだろうな」
「……しらべておくね」
「いいやつかよ」
 くしゃりと笑った顔には何の憂いもない。せめてもっと悲壮な顔をしてくれたなら引き止める理由を得られるのに、彼はただたのしそうに笑う。
「ま、知ってたけどな」
「一回引き受けたことだから」
「出たなマジメ」
 彼から死を遠ざけることはできない。私はあまりにも無力で、だから――やっぱり彼の友人にはなれなかった。

   *

 終礼が済めば教室のなかは一気に騒々しくなる。人の出入りが落ち着くのを自席で待っていれば、前の席の堤くんが「あれ、帰らないの?」と首を傾げた。誰にでも分け隔てなく接する彼は、ときどきこうして声をかけてくれる。
「図書室に、寄ろうと思って」
「そっか。それじゃあまた明日」
 掠れるような声に、穏やかな笑みが返された。ひらりと振られた手に小さく振り返し、その背中をなんとなく目で追う。――あの同級生と、目が合った。
 ひたりと睨まれたのはきっと気のせいではない。そっと視線を外し、竦みそうになるからだを抑える。平気な顔をつくるのには慣れていた。
 太刀川くんは、彼女になにを言ったのだろう。話の途中で逃げ出してしまったからその顛末はわからない。でも、もしかしたら、怒ってくれたのではないかと思う。ときどき鋭い視線を向けられることはあるが、逆に言えばそれだけで、うわさが再熱することもなかった。
 ちらりと窺った視線の先で同級生はがたがたと立ち上がり、よく話している女の子と一緒に教室を出て行った。

 夏休みを控えた図書室は冷房の涼しさもあってかいつもより少し人が多い。課題図書の書架はもう隙間が目立ち始めていた。
 太刀川くん、夏休みの宿題はどうするんだろう。再試を受けている真っ最中の彼はどう考えても最終日まで宿題を残すタイプだ。背表紙を指先で辿りながら、宿題も手伝ったほうがいいかなと考えて、切れ長の瞳が思い浮かぶ。そうだった。彼にはあの美しいひとがついている。
 胸がつきつきと軋んだ。彼に勉強を教える役目は、自分だけのものではなかった。私はそれがそんなに悔しいのだろうか。わからなくて、痛みを逃すように深く息をつく。
 あれだけの美人なら目立ちそうなものなのに、この学校で見かけたことはない。他校のひとなのかもしれない。そう考えると太刀川くんが私に頼んだのも頷ける。教科書や進行度が違うことも多いから、同じ学校のほうが都合よかった。それだけだ。
 書架から離れて、勉強するときの定位置に座る。窓の外を見遣れば、夕立が降り始めたところだった。ぽつりと一滴、やがてぱたぱたとガラスを濡らしていく。透明なリボンが垂れるように水滴が伝った。
 再試が終わったら真っ直ぐボーダーに行くから待たなくていい。
 昼休みに告げられた一言が鈍色の空に浮かぶ。再試の調子も訊きたかったけれど、それができないなら仕方ない。ボーダーの任務は明日の午前中まで入っているようで、次に会えるのは来週だと告げられた。そのときには今度こそ遺書を書く。書かなければならない。
 ――雨が降り止むまで勉強して、それで帰ろう。太刀川くんの歩く速さに合わせなくていいのは、きっと楽だ。
 過ぎる時間と慣れた道がこのうえなく永く感じたのは、気のせいに違いなかった。

   *

 金曜日の放課後、いつものように図書室で時間を潰し、けれど私の爪先は下駄箱ではなく階段を選んだ。一段いちだん登っていく。雨は夜まで降らない予報だが、重く垂れた雲に湿度は高い。たん、と踏みしめる音さえ水気を含んでいるようだった。
 最上階にたどり着き、ふう、と息を吐く。額に張り付いた髪を払う。太ももにまとわりつくプリーツスカートの両端をつまんで、ぱさり、と風を送った。どうせだれも見ていない。
 向かう先はひとつしかなかった。倉庫D。空き教室。太刀川くんの秘密基地で、私が生まれてはじめてサボタージュをした場所。
 今日も太刀川くんは再試を受けている。もうすぐ終わるだろうけれど、それが終われば今日もボーダーへ行く。だからここに来たって彼には会えないのだけれど、図書室よりも自室よりも、ここが心地よいことを知ってしまった。
 私の場所ではないのにな。思いながら太刀川くんからもらった合鍵をかちゃりと回し、戸に手をかける。からり、と――開くはずだった扉は、がたんとレールの上で跳ねた。
 あ、れ? 小さく声がもれる。私はいま鍵を、
「開いてたよ」
 知らない声が、空き教室の中から響いた。

 引き返すことも中に入ることもできず、ぼうっと立っていた。ほんの数秒か、あるいは数分かして、がたりと物音が響く。足音が近づいていた。かちゃり、鍵が回る。
 からからと戸がレールの上を滑る。内側から開くそれは、あまりにも呆気なくその人を私の目の前に立たせた。
 太刀川くんの瞳に近い位置にあるそれは、はてしなく澄んでいる。やわらかなブラウンの髪を後ろに撫でつけ、くちびるを緩めただけの笑みを浮かべていた。冬と春の境の、空を漂うような青い瞳には既視感がある。その静けさが太刀川くんの瞳に似ているのかもしれない。
「あの……」
 全く知らないひと、ではなかった。少し前、太刀川くんと一緒に廊下を歩いているのを見たことがある。遠い窓越しで会話は聞こえなかったけれど、じゃれ合うように彼の肩に腕を回した太刀川くんは笑顔で、仲が良さそうだったから友達なのだろうと思っていた。だから、ここが彼と私しか知らない秘密基地であるというのは、随分な思い上がりだった、ということだ。
「……太刀川くんなら、今日は」
「うん、知ってる。再試でしょ」
 来ないよ。紡ごうとした言葉をあざやかに攫い、彼は笑みを深めた。
「ごめんね」
 と、謝る。何のことか訊ねる前にくるりと背を向けられた。
「大変だったでしょ。太刀川さんに勉強教えるの」
 彼は空き教室のなかを歩く。上履きに入ったラインからして一年生らしい。大人びた横顔は太刀川くんよりもよっぽど落ち着きがあった。
「風間さんも早々に匙を投げてたし、忍田さんが頭を抱えて、」
 話しながらも彼は歩いた。いつもの机を通り過ぎ、窓を開け放つ。蝉の声はいつもより静かだった。吹奏楽部の音色は遠くかすかに響く。
「太刀川さんのお父さんとお母さんが泣いてる未来も、あったのに」
 あまりに離れたまま会話をするのも居心地が悪くて、そっとレールを跨いで中に入る。後ろ手に戸を閉めれば、彼はちょうど窓枠に腰掛けたところだった。風を受けて揺れるカーテンと一緒に毛先がそよぐ。
「そう、だから、みょうじ先輩のおかげ、だ」
 青い瞳を細め、へらり、と笑っている。
 その笑みにこめられた感情について、適当な言葉がすぐには思い浮かばなかった。喜びではなく、かといって怒りや悲しみではない。夕闇の空、群青と赤が折り重なって融けあうように複雑な色をしていた。
「ちょっとしたヒーローだよ。ボーダーの中では」
 ボーダー。その単語がばちりと脳裡で弾けた。界境防衛機関『ボーダー』、太刀川くんがいるところ。街を守るヒーローで、太刀川くんに死を臨ませるのであろう場所。どうやら彼もその一員らしかった。目の前の彼は、太刀川くんが遺書を用意しようとしていることを知っているのだろうか。自分の死を勘定に入れていることを。ちくりと尖ったこころに気付いて呼吸を整える。私が言えることもできることもない。
「……私は、別に、なにも」
「またまた。太刀川さんが一人で勉強して再試に受かるわけないじゃん」
 まだ再試の真っ最中だというのに、彼は結果を知っているように語った。けろりとした顔からはあの笑みが消え失せている。
「ひとりじゃ、なかったと思う」
 きょとり、と青い瞳を瞬かせ、彼は首を傾げた。そうするとやっと歳下らしく見える。
 瞼の裏にはあの美しいひとがいた。記憶のなかで輪郭が霞んでも、美しいと思ったことだけははっきりと覚えている。太刀川くんと彼女は、それこそ、生まれたときから一緒だったように、当たり前にとなりにいた。私はそれが。それが――どうしようもなく、眩しかった。まばゆかったのだ。燦然としていた。彼は。彼女は。彼のとなりにいるひとは、彼と同じにかがやいていた。私とはちがういきものだった。どうしてそれが、その当たり前が、こうも苦しいのかわからない。
「……私は、ほんとうに、なにもしていないよ。太刀川くんが頑張っただけで」
「ふうん?」
 疑問の残るような顔で頷き、彼はぶらりと爪先を遊ばせる。か細い窓枠のうえでゆらりと揺れるからだがそのまま落ちていきそうでひやりとした。ベランダがあるとはいえ絶対に安全というわけでもない。危ないよ、と声をかけるか迷って、結局は口を噤んだ。そのくらい彼もわかっているだろう。
「まあ、そんなに言うなら太刀川さんに聞いてみたら?」
 彼の瞳はあまりにも清澄だった。射抜くように、私を透かした向こう側さえ見えていそうなほど。「う、ん」気圧されるように頷けば、「うん」と静かな相槌が打たれる。
 でも、それを聞いてどうするんだろう。私が欲しいのは『みょうじのおかげだ』だとかそんな言葉ではなくて、ただ太刀川くんがいなくならないことなのに。
 わずかに落ちた沈黙を拾ったのは彼だ。眼差しを緩め、風にゆらゆら揺れている。
「太刀川さんってさ、強いんだよ」
「そう、なんだ」
「うん。強い。ボーダーの中でも相当」
 その声は確かめるような響きを持っていた。太刀川くんは強い。そのことを、彼自身が信じたいかのように。あるいは、私が信じたいからそう聴こえるだけかもしれない。太刀川くんはつよい、つよいから、しなない。そうであってほしい。

「そりゃドーモ」

 がらり、と。無遠慮に戸が開かれて、耳馴染んだ声が割って入った。え、と声を漏らして振り返れば、太刀川くんが立っている。ぱちぱちと視界が瞬いた。
 どうして。来ないはずじゃ。声が掠れる。着崩したシャツにエナメルのバッグ。数学を解きながら悩んだのか、鉛筆色の髪は耳のうえがいつも以上に跳ねていた。太刀川くんはむっとしたように眉を寄せ、窓枠に座った彼を見ている。
「なにしてんだ、迅。勝手に入んな、俺の場所だぞ」
「太刀川さんの場所じゃないでしょ……ていうか、なんで? 真っ直ぐボーダーに行くんじゃなかったの?」
 うわぁ、と困ったように笑う彼は、迅くんというらしい。前に太刀川くんの口からその名前が紡がれたことがあった。
 その太刀川くんはちらりと私を見遣って、「下駄箱にみょうじの靴があったんだよ」とぶっきらぼうに言った。下駄箱を見たの? なんで? と訊ねる前に、気まずげな視線が頰を撫でる。
「また寝てるんじゃねえかと思って」
「あー……なるほど、そこが分岐点か」
 読み逃してたなぁ。
 迅くんはさして残念そうでもなく呟いて、ひょい、と窓枠から降りた。空き教室に入ってきた太刀川くんが、しっしっ、と手を払う。それは流石にひどいと思う。彼は文句を言うでもなくそれに従って、軽い足取りで戸口へ向かった。
「じゃあね、みょうじ先輩――元気そうでよかった」
 去り際、迅くんはそう微笑んだ。まるで旧知の相手に手向けるように。

 足音が遠ざかる。その音が完全になくなってから、太刀川くんが私をちらと見た。
「知り合いか? あいつと」
「ううん……初めて話した、けど」
「じゃあなんでみょうじのこと知ってんだ?」
「太刀川くんが教えたんじゃないの?」
「名前までは言ってねぇよ」
 凪いだ瞳が何かを考えるように少しだけ伏せられた。同じ学校に通っているのだから知られているのはわかるが、『元気そうでよかった』という言葉が少し引っかかる。不自然と言うほどではないけれど、まるで元気ではない私を知っているような口ぶりだった。――あのうわさが囁かれたのは彼が入学する前のことなのに。
「まあ、いい。考えてもわからん」
 あっさりと放棄した太刀川くんが「それより聞け」と笑った。嫌な予感がして肩が震える。
「受かったぞ、再試」
 ほんとうにうれしそうに言うものだから、心臓が悲鳴をあげながら軋んだ。
 ずきずきとした痛みが広がって、咄嗟に表情を繕えない。おめでとう。よかったね。太刀川くんががんばったからだよ。そう言うべきなのに、頭に浮かぶのは全く別の言葉だった。
 ――いやだ。いかないで。
 それを言ってしまったら、彼に告げたいくつもの言葉が嘘になってしまう。太刀川くんならできるよ、と言ったのは私だ。勉強しようと言ったのも。だからちゃんと笑って一緒によろこばなければならない。――彼が死にに行くのを? 違う、そうではなくて、彼の努力が報われたことを。
「みょうじ?」
「……、もう、わかるんだ、ね」
「おう。すぐマルつけされた」
 バッグのファスナーを開け、中から既にくたびれたテストを取り出す。それをいつもの机に広げて、太刀川くんは自慢げにくちびるを釣り上げた。
「どうだ」
 先生達も嬉しかったのだろうか。赤い数字はよろこびを示すようにやけに大きく書かれていた。まじまじとそれを見下ろす。点数はやっぱり高いわけではないけれど、それでもあの白紙のテストと比べれば雲泥の差だ。消しゴムをかけたときにできてしまったのだろう、くしゃりとした皺を指先でなぞる。
「……すごい」
 やっとそれだけ言えた。太刀川くんがとなりで同じように覗きこむ。かすかな影が落ちた。
「だろ?」
「うん」
「みょうじには一番に見せようと思ったんだよな」
 ごめん。喉を突いた言葉をどうにか飲み込む。ごめん。ちゃんとよろこべなくて。
 でも、だって、仕方ないじゃないか。再試に合格して、彼は夏休みを手に入れて。それで、夏休み明け、彼はもうこの世にいないかもしれない。夏休みまでに遺書を書くというのはそういうことなのだから。
 自分で想像しておいて苦しくなる。もしも彼がいなくなってしまったら。家族も、師匠だという忍田さんも悲しむだろう。駄菓子屋さんのおばあさんも。あの美しいひとは泣いてしまうかもしれない。
 私は――私だって、そうだ。かなしくて、さみしいに決まっている。
「んだよ、反応薄いな」
 ぽそりとした声に顔をあげると、太刀川くんは拗ねたようにくちびるを尖らせていた。小さな子どもみたいな顔を、彼はときどきする。
 もっとよろこんでくれると思っていた。
 そう言っているようにも見えた。幼い頃を思い出してきゅうと胸が痺れる。よろこんでほしかった。だれよりも私がきっとその気持ちを知っている。だから、そう。いま大事なのは私のさみしさではなくて、太刀川くんががんばったこと、その努力が報われたことだ。
「……ごめん。びっくりして。すごい、すごいと思う、太刀川くん。よく、がんばったね」
 この先のことを完全に頭から締め出せたわけではない。それでも、心から言った。遺書と夏休みから切り離して考えれば、うれしいことに違いはない。そう言い聞かせながら。
「そうだろそうだろ。――ありがとな」
 得意げに頷いたあと、太刀川くんは、ふ、と笑った。やさしく、ひそやかに。焦げついてしまいそうな陽射しから逃れた影のなかのような。淡い影の満ちた瞳が細まる。薄いくちびるはやわらかく弧を描く。初めて見る笑みだった。
 そんな顔を、こんなことでしてほしくなかった。死を臨む場所への背を押してしまっただろう私に、お礼なんて言ってほしくない。
「なんだ、うれし泣きか?」
 どこまでも呑気な声が教室に落ちる。そうだともちがうとも言えず、ただ霞む視界に彼を収める。夏休みまで、もう一週間もなかった。


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