きづかない

 自殺未遂のうわさが広まったのは三月だった。
 学年末テストが終わり、風邪を引いて一週間休んだあと。年度替わりを機に出て行くひとが増えた時期で、教室には気温だけではない寒々しさが漂っていた。密やかに交わされる言葉がいやに耳について、知りたいと思ったわけでもないのに意味を理解する。
 みょうじさんって。らしいよ。そうなんだ。やっぱり。そんな感じするもんね。
 耳を塞ぐことはしなかった。顔を上げることもできなかったけれど。
 友人は『みんなばかなこと言いたいだけなんだ』と怒ってくれた。でも私がそれを言われるだけの存在なのはそうだ。入学式も熱を出して休んで、この学校で親しいと言えるのは東三門から転校してきた彼女だけ。けれど慣れていた。中学生のときだってクラスで浮いていた自覚はあったし、それを直さなかったのも私だ。
 うわさを否定するための言葉は浮かばなかった。否定できないということを、彼女にも言えなかった。

 灼熱が白土を炙る。からからに乾いた熱砂が歩くたびに舞い上がった。足元から焦げていきそうな暑さだ。これで正午前なのだから、午後から体育が入っているクラスには同情する。
 歩きながら長袖のジャージのファスナーを下ろし、ぱたぱたと風を送る。少しでも熱を逃がしたかった。この炎天下にグラウンドで体育はどうかと思うが、風の入らない体育館に比べれば涼しい。本当なら昨年のうちに設置されるはずだった空調はシェルターに流れ、今年も予算が組めていないと職員室で聞いた。
 吹奏楽部の友人はまだ百メートル走の列に並んでいるようだった。一学期の締めくくりは体力測定で、個人競技なのでずいぶん気が楽だ。運動は好きではないけれど、測定するだけなら疲労も少ない。一足早く休憩に入り、校舎のつくる影のなかへ向かう。
「みょうじ」
 とん、と背中に何かがぶつかった。
 この数日ですっかり耳慣れた声に顔を上げれば、太刀川くんがにかりと笑う。汗をかいたせいか、心なしか髪がぺたりとしていた。
 体育は三クラス合同なので、彼がいることに驚きはない。そのはずなのに心臓がそわりと跳ねて、すこしだけ眉を寄せる。
「暑くねえの、長袖」
「暑いよ」
「脱げばいいじゃん」
「日焼けするから」
「ふぅん。女子ってみんなそう言うよな」
 面白い話ができる人間でないことはもうわかっているだろうに、太刀川くんはとなりを歩き続けた。ちらりと周りを見る。自分のことながら繋がりが見えない奇妙な組み合わせだと思うけれど、この暑さの前には瑣末な事らしい。だれかと目が合うことはない。
 影のなかに入っても、太刀川くんは私のとなりにいた。立ったままで話し続ける。
「昨日は大丈夫だったか」
「なにが?」
「ちゃんと帰れたよな」
「帰れたからここにいるんだよ」
「あー……まぁそうだけど」
 昨日、太刀川くんとは駄菓子屋さんの前で別れた。まっすぐボーダーに向かう太刀川くんをおばあさんと見送り、大通りへの出方を教えてもらって帰った。歩いて帰るには少し遠かったけれど、いつも乗っているバスと同じ路線だったので困るようなこともなかった。
 困ったことと言えば――別れ際、『慶ちゃんをよろしくね』と微笑まれて、私は太刀川くんの何でもないんです、と言いそびれたことぐらいだ。
「怒られて」
「怒られる? 遅刻した、とか?」
「いや、逆。同級生に勉強教えてもらってるって言ったら、色々聞かれてさ。そんで、こっちの都合で遅く帰らせるんだから家まで送ってくもんだ、とか」
「明るかったし、大丈夫だったよ」
「俺もそう言ったんだけどな。なんかダメらしい」
「そうなんだ……」
 どうやら太刀川くんには随分と真面目な友人がいるようだ。それとも、前に言っていた師匠の忍田さんだろうか。
「つうわけで今日は送ってく。バスだよな?」
「うん。あの、バス停まででいいよ」
「おう。元からそのつもりだ」
 たぶん、二言目は黙っていたほうが格好よかった。胡乱な目になってしまったのか、太刀川くんは怪訝そうな顔で私を見た。勘が鋭そうなのに、こういうときは鈍いらしい。

 ピピーッ、と、甲高い笛の音がひときわ長く鳴り響いた。百メートル走の計測が終わったようで、運動部のひとたちが三角コーンを片付けに走り出す。走り終えた様子の友人もこちらに向かって歩いてきている。
「次のまでどんくらいだ?」
「八分ぐらい」
 腕時計を見ながら答えた。先に休憩に入った生徒から次の種目の測定だ。
「サンキュ。みょうじっていつも腕時計つけてるよな」
「うん、」
「鬱陶しくねえ?」
「慣れたらそうでもないよ」
 ぐっ、と袖を引き延ばす。太刀川くんは「そんなもんか」とだけ呟いた。見られたわけでもないのにうなじのあたりが粟立つ。
「そんじゃ、また昼にな」
「……うん」
 追求されなかったことにそっと息を吐いた。離れていく背中はやはり振り返らない。昨日もそうだった。あの日と同じに。それがほんのすこし――さみしいと思ってしまった。
 どうしてそんなことを思うのだろう。くちびるをやわく噛む。深く立ち入られなかったことに、確かに安堵したはずなのに。私と彼がちがういきものなのはそうで、ただの背景みたいなもので、お互いにそうで、だから何もおかしなことはない、当たり前のことなのに。
 ちょうど入れ違いにやってきた友人が、同じようにその背中を眺める。それから首をこてりと傾げて、不思議そうな顔になった。
「今の、太刀川だよね? ボーダーの。仲良いの?」
「仲良く……は、べつに」
 同じ中学校だっただけ。疑問の消えない顔に付け足せば、それで納得したようだった。

   *

 三門市立図書館は市内でも有数の蔵書数を誇る。東三門にあった図書館から被害を免れた本を譲り受けたらしい。専門書の数でいえば大学に劣るが、市立図書館としてはずいぶん規模が大きいのだ、と顔見知りの司書さんが言っていた。最近では膨大な本を収めるためにカフェを併設した別館が建って、元からあった公園と合わせて憩いの場となっている。日曜日の今日は家族連れが目立った。
 新しくできた別館に比べれば、本館の利用者は少ない。たいていが私よりも年上で、そのせいか静謐と呼ぶにふさわしい空気が満ちていた。通い慣れると、この古ぼけた紙とカーペットのにおいが心地いい。なるべく静かに書架を渡り歩いた。表紙や帯、解説から気の合いそうな本を数冊選んで、貸し出しの手続きを済ませる。
 図書館から一歩出れば、幼い子どもの高い声が蒼穹を駆け抜けた。
 緑が多いせいか蝉の音色も豊かだ。深い海の底から急に水面に引き上げられたように、頭がくらりと揺れた。背後で自動ドアが閉じる。効きすぎるエアコンに冷やされた肌が、じわりと暑熱に侵される。
 ――つめたいものが、食べたい。
 思い浮かんだのは太刀川くんと食べたかき氷――それから、金曜日のお礼。いつものカフェオレではなく、いちごオレだった。

 ぱちり、と瞳を瞬かせて紙パックを見る。
 ピンクと白の、あざといくらいにかわいいパッケージ。筋張った手が持つとますます小さく見える。昨日までの炭酸飲料とは明らかに一線を画していた。太刀川くんといちごオレ。かわいいものとかわいくないもの。不思議と馴染んでいる。
「ほら」
「あ、りがとう」
 目の前に置かれて、そこでようやくいつものお礼なのだと気付いた。それもそうか、と頭の片隅で独り言ちる。太刀川くんは鞄から飲みかけのペットボトルを出した。透明な液体のなかで細かな泡が踊り、ふたを回せば気の抜けた音が響く。
「今日はカフェオレじゃないんだね」
「ん? 外したか?」
「なにを?」
「いや、昨日食ってたから。いちごのやつ。そういうのが好きなんじゃねえの?」
 きょとん、とした顔が私を見つめていた。木陰のような瞳は相変わらず静かで、どこか柔らかだ。優しい目、ではない。かといって冷たくもない、彼だけが持つ凪いだ瞳。
 好きなんじゃないのか。そういうの。なぜだか頬が熱くなって、すこし落ち着かない。思わず視線を下げた先にはあまいパステルカラーがある。
「すき、だとおもう」
 くちびるからこぼれた声は半分つぶれていたけれど、太刀川くんには聞こえていたらしい。
「思うってなんだよ」
 呆れているのか面白がっているのか。おそらく後者だ。だんだんわかるようになってきた。
 やっと筆記用具を持参するようになった太刀川くんが、筆箱とノート、教科書を机の上に出していく。いちごオレはよく冷えていた。ストローを押し出して、つぷりと刺す。
 くちづければ、ふわりと甘みが鼻を抜ける。かき氷のシロップとおんなじで、イチゴを食べたときのような甘酸っぱさはどこにもなかった。まったりとしたミルクと混じりあった、どこまでもやさしい甘さが喉を滑り落ちる。それはたぶんカフェオレよりもよっぽどわざとらしいのに、どうしてかすきな味だった。

 こくり、と喉が鳴る。太刀川くんがくれたいちごオレを思い出したら、渇きがいっそうひどくなった。せっかくカフェがあるのだから、家まで我慢することもない。
 本館と別館は遊歩道で結ばれている。街路樹のつくる影を踏んで歩いた。広間の中央で噴水が高く伸びる。水滴がきらきらと輝いて、楽しげな声が空に吸いこまれていく。ひりひりと火照るような暑さだった。肌の外側も内側も同じくらいあつくて、そこになんの違いも、隔たりもないのだと信じてしまいそうなほど。
 別館の一階にあるカフェは街中にいくつかあるチェーン店だ。入り口のある面はガラス張りで、けれど直射日光は入らないようになっている。おやつ時には早いせいか、店内はそれほど混んでいないようだった。
「……あ」
 ガラス越しに店内をぐるりと見渡し――彼を、見つけた。
 太刀川くん。
 声は掠れて音に成り損ねる。グレーのTシャツは制服のとき以上にくだけた雰囲気で、あんまり意外性はなかった。こんなに離れていても一瞬でわかってしまうなんて。自分にびっくりしつつ、話しかけようと右手をあげかけて、ぴたりと止まる。
 言葉がガラスに遮られることを思い出したから、ではなくて。太刀川くんはテーブルの上にノートと教科書らしきものを広げていて、たぶん私が金曜日に出した宿題で、だけれど彼は、ひとりではなかった。
 ゆっくり降ろした手のひらが、そっとスカートを握る。形をなくしたくちびるがゆるやかに閉じた。胸のあたりがぽっかりと軽く、浮つくような心臓はきりきりと軋む。
 ――きれいなひと、だ。
 すらりとした輪郭に、切れ長の瞳と整った鼻梁が美しく配されていた。たおやかな微笑みを浮かべたくちびるは淡く色づいて、透き通るような肌に艶やかな黒髪が映える。遠目にも美しいひとが、彼の隣に座っている。
 彼女は太刀川くんのノートを覗き込みながら何かを話しているようだった。つい、と伸びた指先が紙面を滑る。彼と彼女は触れてしまえそうなほどに近い。その距離が、どうしようもないくらい自然だった。
 くるりとペンを回しながら聞いていた太刀川くんが、ぱっと表情を明るくする。見覚えのある顔だ。躓いていた問題の解法がわかったときの。でも、私の知っているものとは少し違っていた。もっとあどけなくて、気取らなくて――たのしそうな。私の知らない、彼だった。
 あぁ。彼は。太刀川くんは。
 彼女のために言葉を遺したいと、思ったのだろうか。

   *

「おーい、みょうじ。辞書貸してくれ。英語のやつ」
 よく通る声は、私に向けてまっすぐと放たれた。一瞬だけ静かになった教室はすぐに騒めきを取り戻す。四限目が始まる数分前、後ろの戸口に太刀川くんが立っていた。いくつかの瞳はまだ彼を窺っている。
「なんか俺のやつどっかいったんだよ」
 私はノートと教科書を出そうとした中途半端な姿勢のまま、彼がつかつかと近づいてくるのを待っていた。そろりと彷徨わせた視線の先には、やっぱり不思議そうな友人と、ずっとこちらを見ている同級生。視線がかちりと合った瞬間に顔を背けられた。
「いいか? 借りても」
「い、いよ」
 すぐとなりで囁く声にぎこちなく動き始め、ひとまずノートと教科書を机上に置く。横にかけてある鞄から電子辞書を出せば、太刀川くんはぱちりと目を瞬かせた。
「紙じゃねえんだ」
「紙のほうがよかった?」
「いや、こっちでいい。電源はここ押しゃいいんだろ?」
「うん。起動したら、どの辞書にするか選ぶ画面が出てくるから……」
「了解。サンキュ」
 気楽に呟いて太刀川くんは引き返す。そのまま出て行くかと思えば、珍しく戸口のあたりで振り返った。
 あとで。
 たぶん、そのくちびるは、そう言っていたと思う。あとで――昼休みに返すから、と。
 ぴょんと跳ねた寝癖が見えなくなってから、ほっと息を吐く。びっくりした。人前で話しかけられるのは二度目だが、体育のときとはわけが違う。グラウンドに比べてずっと小さな教室のなかは、ときどき息がつまるくらいに狭いのだ。チャイムが鳴るまで、誰かに見られているような気がして落ち着かなかった。

 昼休みに入り、けれどいつものように早々と教室を出ることはできなかった。パート練習に行くはずの友人が私の席までやってきて、「やっぱり仲いいよね」と声を潜めて笑う。
「そういうわけじゃないよ」
 やんわりと否定すると、彼女はますます笑みを深める。「うんうん」と頷きながらもこちらの話を聞いていないのは明白だ。
「で、いつから?」
「そういうのじゃ、ないの。本当に」
「……そうなの?」
 ほんとに? と言いたげな顔にぎゅっと眉を寄せる。
「そうだよ」
 なんにもない。彼と私は。彼にとっての私は。ほんとうに、なんでも、ないのだ。
「そうなんだぁ。やっと春が来たかと思ったのに」
「これから夏だよ」
「そうだけどそうじゃないじゃん」
 つまらなさそうに唇を尖らせた友人にどう返せばいいのかわからなくて、肯定も否定も覆うような曖昧な笑みを返す。でも、やっぱり、そんなことは有り得ないのだ。彼にはあの美しいひとがいるから。

 ようやく益体のない話から解放されて、お弁当の入った鞄を持って空き教室に向かう。時間が空いたせいか、いつもは混雑する廊下もがらんとしていた。
 少し待たせてしまったけれど、太刀川くんは勉強を始めているだろうか。それとも――
「太刀川君ってみょうじさんと仲いいの?」
 ぷつん、と思考が途切れる。その名前が耳に滑り込んできた。咄嗟に息を呑み、そっと立ち止まる。声は、ちょうど曲がろうとしていた先から聞こえていた。
「まあ、いーんじゃね。たぶん」
 のらりくらりとした声は彼のものだ。もう一人の声も知っている。同じクラスの――さっき目が合ったひと。話したことは片手で数えるくらいだ。
「やめたほうがいいよ」
 棘を孕んだ声だった。表情の削ぎ落とされた、ひどく冷たい声が心臓に食い込む。
「太刀川君、悪いこと言わないから、あの人とは関わんない方がいいよ」
「なんで?」
「だって、ほら……知らないの?」

「――自殺しようとしたんだよ、あの人」

 いちだん低められた声は、それでも案外、おおきく響いた。しばらく、太刀川くんは無言のままだった。
「そんで?」
 彼は、そのうわさのことを知っていた。『そういやそんなのもあったな』と呑気に紡がれた言葉を覚えている。だからか、同級生に応じる声に驚きはない。けれど声音だけでは彼が何を思っているのかはわからない。軽蔑されただろうか。心臓がますます痛んだ。じわりと毒がしみるように、指先がじんと痺れる。
「信じられないよね。無神経だよ。生きたくても生きられなかった人もいて、別にいじめられてるわけでもないのに。せっかく太刀川君があたしたち守ってくれてるのに、それをムダにするようなことしてさ。ホントなに考えてるんだろうね。頭良いからって、いつも、あたしたちとは違うって顔してさ」
 ちがう。そう言えるくらい強くありたかった。だけど、間違っているのは私で、正しいのは彼女だと知っている。
「ね、だから。やめた方がいいよ。あの人に構うの」
 生きたくても生きられなかったひとがいた。一年前の三門には、そうやって死んでしまったひとたちが、いたのだ。そして太刀川くんは、もうあんなことを起こさないために自ら矢面に立って戦っている。――遺書を必要とする覚悟で。
 たまらなく情けなかった。
 なにもかもが、正しかった。
 言葉も侮蔑も向けられて当然のものだと思う。逃げてはいけないことだ。けれど私のからだはじりじりと後退していく。音も立てずに、息を潜めて、心臓を震わせながら。ちがう。そんなつもりじゃなかった。頭のなかで巡る言葉は音を失っている。
 自殺のうわさをされるのはいい。心地よくはないけれどそう思われるのは仕方がない。けれど、私はほんとうに――だれかの想いを、踏みにじりたかったわけではないのだ。ボーダーに入ると言った太刀川くんの、あの燦然とした言葉を、汚したかったわけじゃない。そんなつもりじゃなかったのに。なのに、私は、だから。
「……あは、は」
 じゅうぶんに距離をとって、それから、笑い声がこぼれた。どうしようもない。他人事のような声が頭のなかで反響する。誰にも会わず、ただひとりになりたかった。思いつくのはあの空き教室だけなことに、また笑った。


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