とけていく

 コーヒーのにおいが鼻先をかすめ、次の瞬間にはミルクと砂糖の喉に引っかかるような甘さが満ちた。すべりおちる冷たさはじわじわと浸み込んで、空白との境を曖昧にする。くわえたストローをくちびるでやわく圧した。
 彼に勉強を教えはじめて三日目。昼間はボーダーの哨戒任務が入っていたらしく、顔を合わせるのは一日ぶりだ。テスト直しは初日に終わり、昨日からは数学を教えている。
 彼は思いのほか飲み込みが早かった。もっと難航すると覚悟していたが、拍子抜けするほどあっさりと理解した――数Ⅰの範囲を。『なんでもっかいやるんだよ』と彼はとてもいやそうに言ったけれど、私だってそう思う。基礎が理解できていなければ解けないのだから、遡って教えるしかなかった。それでもこの調子で進めば、応用はともかく基礎で点数は取れそうだ。
『三十点は赤点じゃない』
 彼が生物のテストを見せながら言ったことである。
 再試のために勉強を教える。私は確かに彼とそう約束を交わして、だから、それを放棄することはできなかった。なによりも彼がそれを望んでいる。私がどれだけ迷ったところで、それは彼の迷いではない。私と彼はどうしようもなく、ただ、ちがういきものだった。
 空き教室は静かだった。廊下に人が来ることもない。音の出所は開けた窓の向こう側で、蝉と野球部と吹奏楽の音色がほとんどすべてを覆っていた。そこにときどき、彼の呻くような声が重なり、消しゴムをかけたときは机がガタガタと鳴る。
 晴れた空はひたすらに青い。はてしなく高く、明るく、一層この教室が暗く見える。けれどそれは日陰のやわらかさであって、風がそよげば涼しさを感じた。
 温くなる前にカフェオレを飲みきる。初日以来、彼は必ず『おまえのぶん』とこれを買ってきてくれた。お礼を断るのも性格が悪いように思えて、だから、自販機のカフェオレはあまり得意でないことも言えないでいる。
 ストローをくわえたまま紙パックをたたみ、机の端に置く。まじめだな。彼がぽつりと呟くので、「いいから集中して」と返す。参考書を開いて、自分の勉強に取り掛かった。

 神妙な顔をした彼が私を見つめている。のたくった字で書かれた数式を目で追い、赤ペンで大きくマルをつければ「よっしゃ!」と歓声があがった。
「解くのも早くなってきたね」
「まあな。みょうじの教え方がいいんだ」
 にっ、とほんとうにうれしそうに笑うので頬がむずりとする。
「……ありがとう。でも問い三はもう一回やってみて」
 マルもバツもつけずに返せば、彼はぐたりと机の上に身を投げた。どうやら集中の糸が切れたようだ。腕時計を見れば、昨日と一昨日に解散した時間が近い。
「休憩だ、休憩しよう」
「時間はまだいいの?」
「あ? あー、もうそんな時間か。……いや、いい。確か今日は迅と風間さんがシフト入ってたから、行っても大して戦れなくてヒマだしな」
 知らない名前を紡ぎながら、彼は伏せたまま私を見上げる。ぴょんと跳ねた髪は寝癖のようにも見えたが、そういう髪質らしい。湿気のせいで髪がうっとうしいと言っていた。
「みょうじこそ大丈夫か? 用事あるなら帰っていいぞ」
「私は……別に。帰っても勉強するだけだから」
「マジかよ。そんなに勉強してどうすんだ?」
「どう、って……」
 勉強していい高校に入って、いい大学に入って、いい企業に入社するか公務員になって。
 染みついた言葉を口にすることはできなかった。そうなるのだと憂いなく信じた日は随分と遠く、帰り方がわからない。それだけが人生ではないのだと思おうとしても、それ以外の人生を知らない。惰性のような義務感で勉強を続け、正しさもわからないのにしがみついている。
「……どう、するんだろうね」
 ぽとりとおちた声はばかみたいによわかった。
 どこに行きたいのか、それすらも見失ってしまった。どうしようもないのだ。ただただ情けなくて、見えないようにほぞを噛む。瞳に集いかけた熱を痛みで散らした。
「……よし」
 ぐっ、と猫のように腕を伸ばした彼が、軽い動きで体を起こす。なにかを企んでいるように悪どく笑い、ノートをぱたりと閉じた。
「やっぱ今日は帰るか。そんで遊ぶ」
 勉強してどうするのか。上手く答えられなかったせいか、関心をすっかり失ってしまったらしい。時間はいくらあっても足りないが、彼が目指しているのは満点ではなく三十点だ。明日もあるし、土日に暗記を進めてもらって、来週も勉強できると考えれば余裕はある。算段をつけてから頷いた。
「それじゃあ、また明日の昼休みに」
「ん? みょうじも来るんだろうが」
「えっ、」
「腹へったな。何か食いに行こうぜ」
「……寄り道は校則違反だよ」
「硬いこと言うなよ」
 でも、と囁いた言葉は椅子を引く音に覆われる。立ち上がった彼は、意図の読めない笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「デートしようぜ、みょうじ」
 デート。
 ぱちりと視界が瞬いた。ここには彼と私しかいない。だから彼の言葉は私に向けられた、
「ぅ、っえ?」
 かっと頬が熱くなって、言葉になりきれない音がくちびるからこぼれる。はくはくと酸素を無意味に消費して、茹るような暑さに汗が滲む。
 今までの人生を振り返ってもおおよそ無縁だった単語が急に飛び込んできて、鼓膜を震わせたばかりか脳までゆらす。デート? デート。ぐるぐるちかちかと単語が巡っていた。
「……いや、冗談だからそんなマジに考えんなよ。礼だ、勉強の礼」
「え、あ……はい。お礼……いや、そんな、お気遣いなく」
「まーまー。付き合えよ。ヒマなんだ。な?」
 どこまでも気軽な言葉が返事を促す。気がつけば、どうやら私は頷いたらしかった。視界が上下に動いて、彼は笑みを深める。
「よし」
 またじわりと顔が熱くなり、こほんと小さな咳払いを挟む。
「と、問い三を、解いてからなら」
「……仕方ねえな」
 がたりと再び座った彼が、渋々とペンを握る。
「途中式がちょっと間違ってる、よ」ヒントを囁きながら、じっと黒鉛が刻む数字を追った。

   *

 人気のない生徒玄関を出た。湿度を含んだ熱が肌をなぶる。蝉がいっそう騒々しく鳴り、太陽はまだ屋根より高くを漂っている。目を灼く西日から視線を逃せば、隣の彼が「ん?」と首を傾げた。どうかしたか。問いかける瞳はこの暑さのなかでもどこか涼やかで、けれどこめかみには汗が伝う。
「……どこに行くの?」
「何が食いたい?」
「……軽い、もの? たぶんもう、夕飯も用意されてるから……」
「あぁ、だよな。そんじゃいーとこ連れてってやるよ」
 へらりと笑って、行き先を告げないまま彼は歩き出す。生温い空気を揺らすように、伸びた影にそっと寄り添った。

 ざかっ、とローファーの底とアスファルトが擦れて削れる。赤信号に立ち止まり、ぶわりと滲む汗をタオルハンカチで拭った。真新しい様子の白線は光をちかりと反射して、直視すると瞳の奥が痺れる。陽炎がゆらめいていた。
 じりじりと焦がすような陽射しがそのまま身体の内側で埋もれ火となるようだ。てのひらで頬を包み、燻った熱を移せばすっと冷えた。
「そういや、なんでイチコウ入ったんだ?」
 たったいま思い至ったと告げるような枕詞に、おそらく嘘はない。平淡な声には興味の色も薄かった。本当のことを答えても答えなくても、彼の反応に大して変わりはないだろう。車の排気音と蝉だけに繕わせた沈黙も終わるときが来た、きっとそれだけのことだ。鞄の肩紐をかけ直しながら答えた。努めて何でもないように。
「……滑り止めで受けてて」
「あー、落ちたのか。本命」
 くっ、と一度だけ心臓が軋む。けれど自分の口から言わずに済んだと思いもして、それがまた情けなかった。
「六頴か?」
「……うん」
 六頴館高等学校はこの辺りでは有名な進学校だ。もう少し通学に時間をかければ他にも選択肢はあるが、三門の進学校といえば六頴だった。少なくとも私にとっては。
「ふぅん」
 ぱっと青に変じた信号に、彼は大きく足を踏み出す。歩くのが早いというか、次の動作を選ぶことに躊躇いがない。続いて歩き出せばやわく風がうまれて、髪をほんのすこしさらった。
「わかんねえもんだな。俺の知ってる六頴のやつよりみょうじのが頭よさそうだぞ」
 彼はすべてのことを当たり前のように喋る。あるがままの事実だけを述べるような、淡々とした物言いはどこか乾いている。だからか、思っていたよりもすんなりとその言葉を受け入れられた。彼にはそう見えているのだ、という事実だけがある。
「……ありがとう」
「受験はあれか、遅刻したとか」
「……風邪、引いていて」
「そりゃ災難だったな」
「言い訳にもならないけれど」
「いや……いや、まあ、そんなもんか?」
 跳ねた髪をさらに乱しながら「にしても暑ィな」とぼやく。汗の粒が煌めいていた。シャツを摘んでばたばたと空気を送る。
「早くボーダー行きてえ」
「……えっと、じゃあ、私は帰った方がいいよね」
「いやそういうんじゃなくてだな……まあ、暑くねえんだよ、ボーダーは。涼しいとこに行きてえなって思っただけ。帰んな帰んな」
「そう、なんだ」
「そうそう」
「暑いの、苦手?」
「冬のがぜってえいい。餅も食えるし。ああ、でも夏の方が休みは長いからいいな」
 夏休みはなにをするの?
 訊きたくて、けれどそれを訊いたら取り返しがつかなくなる気がした。
 車が一台、かろうじて通れるくらいの横道に入る。はじめて歩く道だった。傾き始めた陽射しは家に遮られて、ちりりと焦げつくような感覚がすこし遠くなる。彼にとっては馴染みのある道なのだろう、歩みに気負いはない。
「みょうじは苦手そうだな~、暑いの」
 プランターに植えられた向日葵が高く高く天へ伸びていた。背丈を越えた先、蕾はまだ閉じている。石造りの塀には蝉の抜け殻が残されていた。しゃわしゃわと鳴る蝉はまだ当分のあいだ静まりそうにない。
「……苦手だけれど、夏の方がすきだよ」
「へぇ?」
 どこか面白がるように聞こえたのは、ただ空が青かったからかもしれない。盗み見た横顔は前だけを見ていた。
 
 入り組んだ細い路地をいくつか曲がったところで、彼が立ち止まる。木造の家が多い住宅街の一角だ。公園でもあるのか、子どもの歓声が高く響く。
「ここ?」
 近くに店があるようには思えなかった。小さく訊ねると、「ここ」と端的な答えが返ってくる。それから彼はちょうど目の前にあったガラス戸に手をかけた。古ぼけた曇りガラスの引き戸をやっぱり無遠慮にガラガラと開けて、そのなかに立ち入る。
「太刀川くん、」
 勝手に入るのは。言いかけて、口をつぐむ。中を窺えば、どこか懐かしいような木と畳のにおいに混じって甘い香りが漂っていた。入り口の横には小さな笹が飾られている。短冊が静かに揺れていた。
 両側には細々としたお菓子――駄菓子が並べられていて、真ん中が通路になっている。土間にあたる部分なのか足元はくすんだコンクリートが覆っていた。外よりも少しだけ涼しい。
 物語のなか、それこそ昭和を舞台にした映画にでも出てきそうな、昔ながらの駄菓子屋さんだった。正面には縁側のように迫り出した板間があって、その先は障子で仕切られている。
「はぁい」
 と、障子の向こうから優しげにしゃがれた女性の声が響く。すっ、と開いて、ちょこんとしたおばあさんが顔を出した。それと同時にふわりといいにおいが漂う。夕飯の仕度をしていたのかもしれない。着物に割烹着とはいかないが、半袖のブラウスに足首までのスカート、その上から手作りらしい生成りのエプロンを纏っている。
「ばあちゃん、いつものふたつ」
 挨拶のひとつもなくピースサインをつくった彼を見て、おばあさんは皺の刻まれた目元をやわらかく細めた。いつもの、という言葉からして彼は常連なのだろう。
「慶ちゃん、また来たのかい」
「おう。うれしいだろ」
「うれしいけどね、もっとハイカラなところにお行きなさいよ。折角こんなにかわいいおんなのこを連れてるんだから」
「そういうんじゃねえから。な?」
「えっ」
 親しげに交わされる会話を静かに見つめていたところ、急に話を振られて肩が揺れる。それをどう解釈したのか、おばあさんは深々と息を吐いて肩を竦めてみせた。
「昔からこうなの。苦労するでしょう」
「えっと、あの……いえ、」
 どう答えるのが正解かわからなくて、細い糸を手繰り寄せるように笑みを浮かべる。曖昧な表情を気にした様子もなく、おばあさんは「ごめんなさいね」ところころ笑って流し、彼に向き直る。
「ふたつね。お嬢さんはなんにする?」
「なんに……」
「味だ、味。なんだっけ、メロンとイチゴと……」
「レモン、抹茶とみぞれ。練乳と白玉、あとは小豆もあるよ」
 そこまで言われれば彼らがなんの話をしているかもわかる。二対の瞳が私の答えを待っているのに気付いて口を開いた。
「い、いちご?」
「はぁい。ちょっと待っていてね。そこに掛けてていいから」
「あ、待て、俺が回す。ばあちゃん、晩メシの準備してたんだろ」
 彼はそう言いながら板間に膝をつけ、踵を蹴るようにして靴を脱ぎ落とす。おばあさんに続いて奥へ入っていった。ひとり残される。どうすべきか分からないまま、とりあえず彼の脱いだ靴を揃えてみれば、ひょっこりと彼が顔を出した。
「食いたいのあったら選んでいいぞ。奢りだ」
「ありが……とう」
 返事をきちんと返す前に、彼は再び障子の向こうに引っ込んでいた。
 店をぐるりと見渡す。ざり、と足元で靴底が擦れた。食べたことも見たこともないお菓子が多かったけれど、知らないのに懐かしい感じがするので不思議だった。入り口の笹の飾りは折り紙でつくったものらしく、すこしだけいびつだ。表を向いた短冊には拙い文字で『おとうとができますように』と書いてあった。近所の子が書いたのだろうか。
 店主がいないなか勝手にうろつくのは気が引けて、結局、板間に腰を下ろして駄菓子を眺めるに留める。奥からは物音に重なって、彼とおばあさんの声が漏れていた。
 今日はレンちゃん一緒じゃないんだねぇ。アイツ最近付き合いが悪ィんだよ。また慶ちゃんが怒らせたんだろう。怒らせるようなことしてねえんだけどな。どうだろうね、慶ちゃんはほら、デリカシーがないから。それいろんな奴に言われる。でもやさしい子だと思うのよ。それはばあちゃんしか言わないな。
 きぃきぃ軋む音とともに、ガリガリと氷が削れていく。一定のリズムを保ったまま、涼やかな音のかけらと二人の声が耳朶をくすぐった。

 うず高く積もった氷片があざやかな赤に染まっている。とろりとした白い練乳は絹のリボンのように艶めいていた。薄緑のガラスの器からあふれた氷がしたたる。
 絵に描いたようなかき氷には柄の長い銀色のスプーンが添えられ、彼のほうはもう食べ始めていた。蛍光色のような緑はメロン味だ。
 おばあさんは麦茶をコップに注いだあと、『ゆっくりしていってね』とだけ笑って奥の間へ戻った。閉じた障子の向こうでは微かに台所仕事の音がする。
「食べねえの? とけるぞ」
「た、食べます」
 よく冷えたスプーンを手にとり、しゃくりと氷の山を切り出す。ふわふわとした新雪のようなかき氷ではなく、祭りの屋台で食べるようなざくざくとした氷だ。幼い頃に食べたものよりは粒がきめ細やかだろうか。ひと匙を持ち上げれば、滴る雫にほんのりと赤が映る。
 くちびるに氷がふれた一瞬、熱いのか冷たいのかわからなかった。じわじわとつめたさが沁みて、イチゴシロップと練乳のあまさがふわりと広がる。氷の粒は舌先で儚くとけながら熱を奪っていく。こくりと飲み込めばからだのなかにこもった暑さもすっと冷えた。こぼれた吐息さえも涼を纏う。
「……おいしい」
「やっぱ夏はかき氷だよな」
 シロップは色と香りが違うだけで味は一緒らしい。ただ甘いだけのそれが本物とは似ても似つかないと知っているのに、イチゴだと感じるのだから不思議だった。
 しゃくりしゃくりと氷をすくう音だけが響く。キーンとした頭痛を避けたくて、ゆっくりと食べた。彼はざくざくと山を切り崩していたかと思えば、手を止めて、痛みを宥めるようにこめかみを揉んだ。
「大丈夫?」
「急にくるよな、これ」
「ゆっくり食べたらならないよ」
「とけるだろ」
 私はまだ半分も食べていないのに、彼はもうほとんど食べ終わっていた。あざやかな緑の海に氷のかけらが漂っている。銀を数度くぐらせて、彼はからりとスプーンを手放した。ごちそうさん、声が静かに落ちる。
 早く食べなければ。スプーンを突き刺せば、ざかり、と硬い手応えがあった。のんびりしているうちに融けた氷がふたたび固まっている。スプーンで砕くのも億劫で、まるごとすくって口に放りこみ、上顎でじゃくりとつぶすようにしてとかす。
「選択肢が増えるんだと」
 ひとりごとのように彼が言った。それがどうやら私に告げたものらしいと気付いたのは、木陰のような瞳が私を見たからだ。頬張った氷はまだ融けない。視線を絡めた数秒後に、やっと言葉を把握してちいさく頷いて返す。彼は、ふっ、と息を吐くように笑った。
「勉強したら。東さんが言ってたの、さっき思い出した」
 知らない名前を当たり前に紡ぎ、店の入り口に視線を戻す。感情の淡い横顔が、それでもどこか優しげに見えた。曇りガラスの向こうで街が蜂蜜色に染まっている。
「いつかなんかやりたくなったときに、勉強してなかったせいでできねえとか、そういうのがなくなるって」
 そんなに勉強してどうすんだ?
 どう、するんだろうね。
 空き教室で交わした会話が息を吹き返す。彼がそれを気に留めていてくれたなんて、まさか誰が思うのだろう。びっくりして、半ば呆然とその声をきいた。だれかの言葉をなぞっただけとしても、いまこうしてそれを語るのは彼だ。私に向けられた、彼の言葉だ。
「ってことは、みょうじなら何にでもなれんじゃね? 最強だな」
 すごいことに気付いたぞ、と、したり顔で笑む。それを形作るくちびるがメロンシロップのみどりいろに染まっていた。
 引き結んだくちびるのなか、氷がとけていく。熱を鎮めるはずのそれを飲み込んでも、胸の奥があつかった。私は、自分がなににもなれないと、どうしようもないと、おもう。けれど彼は、なんにでもなれる、という。
「……そんなこと言うの、太刀川くんくらいだよ」
「そうか?」
 そうだよ。吐息はかろうじて涼やかなままだった。無意識に遊ばせたスプーンの先で氷の山がしゃかりと崩れる。
「……太刀川くんは、やりたいことが決まってるから、勉強しない?」
「いや、まあ、一番はやりたくないからやらない、だな。必要になったらやる」
「それが今?」
「そうなるな。やりたくねえけど」
 再三に渡って『やりたくない』と宣った彼は、それでもやるのだろう。必要な時だと知っているから。再試に合格して――夏休みに死を臨むのだと決めているから。
「あ、でも勉強はちゃんとやるから安心しろよ。こっちから頼んでるわけだしな」
「……うん」
「そんでこれ」
 スラックスの後ろのポケットから取り出したのは鍵だった。真新しい銀の鍵が二つ、リングに通されている。そのうちの一つを外して、彼は板間の上に置いた。
「あそこの鍵。俺が遅くなる日もあんだろうし」
 いたずらっぽく笑っている。そういう笑みだと、わかる。あそこは彼の秘密基地だと思っていた。きっとボーダーのひとにも教えていない、彼だけの空間なのだと。この数日も他のひとと会うことはなかったし、私物も彼のものしかなかったから。
「いいの?」
 声が、ほんのすこし上擦る。
「チクるなよ」
「……それはしないけれど」
「よし。みょうじは意外と話がわかる奴だって思ったんだよ」
 目論見が当たったとうれしそうな彼に促されるまま、鍵を手に取る。どこにでもありそうな飾り気のない鍵だ。ひかりを受けて天井近くに反射が映る。まだ温もりの残るそれは手のひらにしっくりと馴染んで、どうしてか手離し難かった。
「サボりに使ってもいいぞ、おまえなら。めちゃくちゃ暑いけどな」
「授業は出ようよ」
「でたな、優等生」
「太刀川くんが不真面目なだけ」
「そりゃそうだ。でも楽しいだろ。そんくらいが」
 彼は笑う。それがこの世の真実だと宣言するように。
 ――あぁ、いやだな。
 スプーンから雫がしたたるように、ぽとりと胸におちる。私と彼が、ちがういきものであることに変わりはなく。この夏が終わればもう二度と交わらない関係であったとしても。
 太刀川くんがいなくなるのは、いやだとおもった。


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