くもりぞら

 真昼の喧騒を抜けて校舎の最上階へ向かう。シェルターから最も遠い一角だ。人の出入りも少なく、倉庫代わりになっているという。確かに、入学してから近付いたことはなかった。
 階段を登りきると軽く息切れする。吹き抜けの行き止まりなだけあって、ぶわりと熱された空気が漂っていた。呼吸を整えながら腕時計を見る。昼休みが始まって三分。いつも一緒に昼ごはんを食べる友人は今日からパート練習が始まるらしい。ごめん、と謝られたけれど、彼との約束があったのでむしろちょうどよかった。
 人気のない廊下をひた歩く。照明がついていないのはともかく、蛍光灯でさえ入っているのはまばらだった。立ち止まったのは、突き当たりのひとつ手前。扉の上のネームプレートには真新しい黒で『倉庫D』と印字された紙が挟まっている。待ち合わせ場所の空き教室だ。
 戸に手を伸ばす。鍵はかかっておらず、ゆっくりと力を込めればからからとレールを滑る。
「おっ、来たな」
 へらりとした笑みが目に浮かぶような声が響いた。鍵が開いていたからそうだろうと思ったけれど、やっぱり彼の方が早かった。後ろ手で戸を閉めながら、きょろりと辺りを見渡す。
 普通の教室と同じ広さのはずだ。それがこんなにも狭く感じるのは、たぶん壁際に積まれた机のせいだろう。教室からいなくなった机と椅子は、この部屋に収められていたらしい。
 冷房は動いていなかった。蛍光灯もすべて外されている。教室の半分はぎゅうぎゅうに物が詰まっていたが、もう半分には余白があった。机と椅子が四組、ひとつのテーブルになるように並べられている。窓際には本来なら体育倉庫にあるようなマットレスが敷いてあった。枕とタオルケットまである。それから懐中電灯と、漫画の雑誌らしきものも。
「……太刀川くん、あれは」
「ああ、持ってきた。ウチから」
 もしかしなくてもここは彼のサボり場なのだろうか。昼休みのチャイムが鳴ってすぐここに来た私よりも早いのだから、それよりも前からここにいたのかもしれない。全く悪びれたところのない様子に指摘するのはやめた。
「ここがみょうじの席な」
 こん、と彼が中指の第二関節で机を叩く。大人しくその席に着けば、彼もがたがたと椅子を引いて正面に座った。持ってきた鞄を机の横にかける。木製の天板を撫でた。彫刻刀で削ったらしい文字が刻まれている。重ねられた椅子の背もたれにはまだネームタグが残っていた。
「誰にも見られなかったよな?」
 真剣な顔をして彼が言う。この学校には彼の他にもボーダー隊員の生徒がいるが、そのひとたちには知られたくないようだった。『チキってると思われんだろ』と、彼はくちびるを尖らせた。近しいひとだからこそ見せたくないものもあるだろう。彼が遺書を書く背景にはやはりボーダーがあるらしく、だから彼は私に声を掛けたのだと思う。私と彼は正しく他人だった。
「大丈夫」
「よし」満足げに頷き、彼は腕を組んだ。
「で、遺書ってなに書きゃいいんだ?」
 そこからなんだ。
 なんとなくそんな気はしていた。鞄の中からお弁当箱とルーズリーフを取り出して、昨日の夜に書いた文字をなぞる。
「遺書、死後のために書き残した手紙、文書……だから、自分が死んだあと、周りの人にどうしてほしいかとか、そういうことを書けばいいんだと思う」
「それ、調べたのか?」
「え……うん」
「ははーん……さてはみょうじ、マジメだな」
 顎に手を添えた彼が、きらりと目を瞬かせて笑った。嫌味な言い方ではなく、『どうだ』と言わんばかりでかえって戸惑う。褒められているらしいとは判断できても、真面目であることを誇れはしない。私という人間の面白みのなさは自覚していた。
「……まず思いつくことを書いてみたら。持ち物はこうして欲しいとか、言っておきたかったこととか、そういうの」
 取り繕うように言葉を重ねる。彼のほうはさほど沈黙も気にならなかったらしい。
「なるほど」とあっさり頷いた。
「箇条書きでもいいから書き出して、それから文章にまとめるといいと思う」
「確かに。ぶっつけ本番よかいいな」
 本番、と書くつもりがあった口ぶりのわりに筆記用具を持っていない様子だったので、白紙のルーズリーフとシャープペンシルを渡す。大きな手の中でペンが弾かれ、くるりと回った。
「あ、食べてていいぞ、メシ」
 机に視線を落として数秒後。思い出したように顔を上げた彼は、笑っているのかそうでもないのか、判然としない表情で言った。
「太刀川くんは?」
「もう食った」
 やっぱり昼休み前から居たらしい。

 窓の向こうは中庭だった。だれかの歓声が高く昇る。
 地上から離れているおかげか、窓から吹き込む風はいくらか涼しげだ。それほど日が強くない薄曇りなのも幸いだった。けれど、ここにずっといると熱中症が心配になる。自然光だけに補われた部屋は目も悪くなりそうだけれど。
 正面はなるべく見ないようにしながら、お弁当をつまんだ。昨日の晩ごはんを詰めなおしただけの食事に集中するのは難しかったが、雲間のゆらめきを目で追ってどうにか頭を埋める。
 紙面をペンで引っかく音にさえ、彼のプライバシーが詰まっている。友達でもなく、他人でしかない私が、かけらでもそれを知ってしまうのはいけない気がした。
 夕方に一雨ありそうだ。折りたたみ傘は持って来ているけれど、ふくらはぎまで跳ねる雨水とぐっしょり濡れるローファーを思って憂鬱になった。最近の夕立は、夕立よりもゲリラ豪雨と言った方が正しい。ばちばちと世界を叩く音は建物のなかにいても激しく響いた。
 ――そんな雨の日も、彼らは街を守ってくれている。
 意識しないようにと思えば思うほど考えてしまう。まばたきで気を散らした。
 箸でつまみあげたブロッコリーを咀嚼する。ひんやりと冷たい出汁が溢れて、喉の渇きを慰める。夏の間はまとめて調理したものを半分凍ったまま詰めてある。そうすると昼休みにはほどよく解凍されて、ついでにとなりの卵焼きも傷みにくくなる。隙間埋めに重宝した。そろそろ新しいストックも仕込まなければならない。
「なあ、ブロッコリーの白いやつってなんだったか」
「カリフラワー?」
 反射的に顔を向けて、しまった、と思った。案の定、彼の手元には無防備にルーズリーフが置かれ、その内容を否が応でも認識する。
 思わず眉が寄った。
「それだ。あれってよくわかんねえよな」
 ルーズリーフにはブロッコリー、あるいはカリフラワーの絵が描いてあった。その隣には犬らしき耳の立った動物が描かれていて、口から何かを出しているにょろりとしたものは『DORAGONN』とあるからにはドラゴンなんだろう。綴りは違う。
「……太刀川くん。遊ばないで」
「いやぱっとは思いつかねえって」
 からりとシャープペンシルを手放し、ぐっと伸びをする。くわあ、とあくびまで漏らした。
「まあ、夏休みまでに書けりゃいいんだ」
 呑気に呟きながら、彼は窓の外へ目を向けた。笑う声と蝉の音が混ざりあって弾ける。
「……そうなんだ」
 終業式まで残すところ二週間。夏休みまでにと彼は言うが、校舎にはもう浮かれた雰囲気が漂い始めている。彼と同じ時間を過ごせるのは、昼休みと放課後だけだった。夜と休日、それから日によっては早退してボーダーに行かなければならないらしい。
「あと二週間あるなら、」
 次はどれを食べようかと、行儀悪くも箸先を惑わせながら呟く。
「先に再試対策の勉強を教えたほうがいいのかな」
 ぱちん、と手を叩くような音がする。見れば、彼は両の手で顔を覆っていた。あー、と低く掠れた声が指の間からもれる。
「やりたくねえ……ヤダ……」
 しおしおとした声が囁いた。そんなことを言われても赤点をとったのは彼だ。
「再試がだめだったら夏休みのあいだずっと補習なんでしょう?」
「……おう」
「いいの?」
「めちゃくちゃよくない」
「勉強、ちゃんと教えるから……遺書よりは役立てると思う」
 そろり、と動いた指から静かな瞳が覗く。
「言ったな?」
 いやに神妙に告げられた言葉に小首を傾げる。意味を理解したのは放課後のことだった。

   *

 ほとんど白紙のテスト用紙に赤い数字が映える。マルしかつけない教師のテストはこんなにも真っさらになれるのか、と慄く気持ちさえ芽生えた。
 七教科十一科目。生物と日本史と地理、保健と情報を除いた六科目が赤点だった。免れたのはすべて見事に選択問題が多かった科目だ。彼と私の総合点は文字通り桁が違う。
「……」
 赤点の六教科の点数は、すべて足しても百に届かなかった。現代文の二十二点が輝いて見えるような数字に、はくはくと口が開いて閉じる。言葉になる前に声が掠れて消え、彼は笑いながらそれを見ていた。
「びびったか」
 にやりとした笑みはいっそ自信ありげでさえあった。それが諦念であることはわかる。医者も匙を投げる、ではなく、患者が治療を諦めていた。笑っている場合ではない。
「……しよう、太刀川くん」
「ん?」
「勉強、しよう」
 くしゃり、手にとったテスト用紙にしわが寄った。顔をあげれば彼の表情が歪む。きらいな食べ物を目の前に出された子どもの顔によく似ていた。

 まだテスト直しも終えていない彼に自分の答案を貸し、問題文と解答を覚えてもらう。彼はいやそうにくちびるを尖らせたが、「夏休み」と呟けば大人しく机に向かった。
 現代文と古典、それから英語の二科目は再試もほとんど同じ問題が出るらしい。英語は特に悲惨だが、暗記さえできれば光明はあった。記憶力ではどうにもできないのが数学。そっくり同じ問題は出ないから、解き方を理解しなければ再試も見込みがない。
 全体を見渡せば、マイナス記号のつけ忘れのケアレスミスがあるものの、普通の計算問題は解けている。時間が足りなかったのか後半はほとんど手つかずだった。おそらく文章問題から計算式を導き出せていない。現代文の点数を思えば当然かもしれない。問題文から式を立てられるようにさえなれば。それが難しいから彼はこんな点数をとっているのだけれど。
「みょうじ」
 名前を呼ぶ声に顔をあげる。くるり、と彼の手のうちでシャープペンシルが回った。
「わからないところ?」
「いや、ちょっと休憩しねえ?」
「……五分だけなら」
 腕時計を見ながら答えた。そろそろ勉強を始めてから一時間が経つ。集中が切れたなら頭を休めることも必要だ。彼はがたりと椅子を浮かせて立ち上がった。
「飲みモン買ってくる」
「うん」
 教室を出て行く背中を見送る。ぴしゃんと戸が閉じられるのを待って溜息を吐いた。
 机の上に置かれたテスト用紙を見る。考えられないような成績も、彼に言わせれば中間よりよかったらしい。これが『よかった』ということになる点数は想像もできなかった。
 中間テスト後、彼は『師匠』と慕うボーダーの偉いひとにこっぴどく叱られたそうだ。それもあって、彼なりに頑張ってみたのが今回のこれだという。全く良い結果ではないのに、平然としているから不思議だった。
 もし自分が、頑張ったうえでこの点数をとったら、と想像してみる。
 受け取った瞬間に頭が真っ白になって、それこそ殴られたような衝撃を受けるだろう。怒られたり呆れられたりしたら、世界の終わりとさえ思うかもしれない。
 ――思うだけで、やっぱり終われないだろう、けれど。
 無意識に握りこんでいた拳が痛む。ゆっくりとほどいて、息を吐いた。
 時間がない。短期間でやれることは限られている。ペンをとり、ルーズリーフに問題の点数配分を書き留める。とにかく再試でも赤点をとらないように。求められているのは、そういう対策だ。そうすれば彼にも補習のない夏休みが――夏休み、は。
「……まって」
 どうしてすぐに気付けなかったんだろう。
『まあ、夏休みまでに書けりゃいいんだ』
 彼はそう言っていた。呑気に笑いながら。それまでは必要ないと。だから、夏休みなんだ。
 夏休みに――彼が死を覚悟するようなことが起こる。それを、彼はきっと知っている。
 遺書。
 死を予期した人間が言葉を遺すために書くもの。自分が死ぬと分かっているから、伝えられなくなると知っているから、書く。
 心臓がいやなおとを立てながら軋んでいた。終わりの見えない迷路を歩くような、爪先からひやりとかけのぼる怖気。いまさら、あたりまえのことを理解した。遺書の前提は死だ。机がかたりと揺れる。
 死なない、はずだった。
 ボーダーで戦うひとは、死なないはずなのに。
 でも、彼は、遺書を書くと言う。
 とつ、と雨粒が窓ガラスを叩いた。ととと、と強まる勢いに教室はいちだん暗くなる。大粒の雫が透明なガラスをすべりおちた。夜までには晴れる、ひとときの夕立だろう。
 もしも再試で赤点をとったら。
 赤い数字を辿る。指のはらと紙が擦れて掠れた音を奏でた。二十二点。十五点。十八点。十二点。九点。五点。笑ってしまうような点数に、けれど頬は引き攣って仕方ない。じとりとした湿気が肌をなぶる。
 例えば、夏休みが補習で潰れてしまったら。そうしたら、彼は。
「すげー降ってきたな」
 がらりと戸が開く。肩が跳ねた。雨音に紛れていたのか、彼が近付いていることに気が付かなかった。ばちばちと弾けるような雨が響く。
「……そうだね」
 囁くような声で応えた。彼が再び席に着くのを眺める。あんなにいやそうだったのに、彼は気負いなく座った。ペットボトルの炭酸飲料と紙パックのカフェオレが机の上に置かれる。奇妙な組み合わせにそっと視線を向ければ、「やるよ」と彼は紙パックを放った。
「えっ、わ、」
 きれいな放物線を描いて手元に落ちてきたそれをどうにか受け止める。表面に浮いた結露が指先を濡らした。手首まで伝った一滴が腕時計の下に滲む。
「いや、あの、欲しかったわけじゃ、」
「礼。遺書と勉強、教えてくれんだろ?」
 炭酸飲料の蓋を開けながら、彼はやっぱり何でもないことのように言った。遺書の書き方と勉強を教える約束をした、それだけが私がここにいる理由だった。
「……うん」
 頷きながら、胸のうちを探る。薄っすらとつめたいものが潜んでいる。これでいいのか、と問いかける声が頭蓋に響いていた。
「太刀川くんは、」
 時計の長針が、かちりと動く。約束の五分はとうに過ぎていた。ペットボトルからくちびるを離した彼がちいさく首を傾ける。
「再試に受かりたい?」
「そりゃな。だから勉強しろって言ったんだろ、みょうじは」
 少しだけ眉を寄せ、「しなくていいならしないけどな」と心底いやそうに言う。勉強が嫌いだということは言われなくてもわかった。理由なく授業を欠席することもあるのだろう。彼の人生において、テストの点数とか学校の成績だとかは大した意味を持っていないに違いない。
 それなのに、筋張った手はだれに促されるでもなくペンを握った。あわい影のような瞳は少しだけ伏せられて文字を追う。
「あー……やりたくねえなぁ」
 呟きながら、彼は一つひとつの間違いを直していく。私の解答を写しているだけでも、確かに前へ進んで行く。
 しなくていいよ、と言えなかった。
 それを、私が言っていいのかわからなかった。
 喉の奥がきゅうと締まって声が潰れる。呼吸が塞がれる前に細く息を吐き、言葉を探しながらくちびるを震わせる。
「……太刀川くんはどうしてボーダーに入ったの?」
「んなもん、決まってるだろ」
 きっと雨にもその声は遮れない。明瞭な響きはつま先からつむじまで一本の芯が通っているようで、ほんのわずかも揺らぎそうになかった。
「おもしろそうだったからだ」
 憂いのひとつも、迷いさえもなく、彼は言い切る。暗く沈んだ教室のなかで、彼だけが燦然とあった。手元に残った紙パックのカフェオレを見つめる。胸の奥底でなにかがぐるりと渦巻いていた。


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