きみを花嫁に(下)

 扉の向こうが騒がしい。空閑遊真は十字架を見上げた。真昼の光が天窓から降り注ぎ、澄んだ空気を淡く照らす。冬の太陽は強すぎず、けれど寂しさに寄り添う優しさがあった。
 普段の、清貧を誓いとしている教会らしく粛々とした雰囲気の礼拝堂は、今は花々で飾られている。大きな扉から聖書台――十字架、神の御元へと向かう通路には真っ白い絨毯が敷かれ、それを踏みしめるひとを待っている。礼拝堂に並ぶベンチはいくつかが埋まっていた。遊真にとって見慣れた、極々近しいひとたちが座っている。そのベンチもやはり、花とリボンで飾られている。装飾は白を基調として、古い建物を清廉に彩る。
「緊張していますか?」
 聖書台の向こうに立つ神父は微笑んでいた。遊真も笑う。
「あんまり」
「では、その服が窮屈ですか?」
「よくわかったね」
「神父は結婚できませんが、結婚式とは縁深いものです」
「神父サマはすごいな、なんでも知ってる」
「そんなことはありませんよ。タイを緩めるのはもう少しお待ちくださいね。――よく、お似合いです」
 遊真が身を包む真っ白いスーツはタキシードというらしい。遊真にはあまり違いが分からないけれど、特別な服だと聞いていた。神父もいつもより装飾の多い、白い服を着ている。祝いの色なのだという。
 髪型も散々にいじられて、いつもとは違う。嗅ぎ慣れない整髪剤の匂い。嫌な匂いではないけれど、そわそわと落ち着かない。それだけが原因ではないとも、わかっているけれど。
「さて、そろそろいいでしょうか。……音楽を」
 礼拝堂の隅のオルガンの前に座っている女性に合図を送る。日曜のミサで、いつも聖歌隊の伴奏をしている女性だ。いつもよりかしこまった、綺麗なワンピースを着て、鍵盤に指を滑らす。
 遊真が初めて聴くような音色が流れた。一音一音が長く、美しく、荘厳な。「あちらを」神父が扉を掌で示す。ベンチに座っていた人たちも立ち上がり、扉の方へ身体を向けた。
 両開きの扉が、ゆっくりと開かれる。内から外へ。開くのは聖歌隊の少年と少女、いつか陽だまりの中で遊んでいた二人。白い光が溢れたように思えた。ふわり、と視界が染まって、光から歩み寄るひとがいる。
「……きれいだ」
 小さな、小さな声で囁いた。だれにも聞こえないように。神父にだけは聴こえたかもしれないけれど、彼はなにも言わない。
 白い絨毯の上に桃色の花弁が舞う。籠に入ったそれを撒いているのは陽太郎だ。ひらひらと、淡くかわいらしい色が舞う。それは参列者からも舞上げられて。その中を、なまえが歩いていた。
 足元まで覆う白いドレスの裾から、華奢なパンプスの爪先だけが見えている。薄いレースのベール。その向こうに緊張した顔が見えた。戸惑いに揺れていた瞳が遊真をとらえる。なにかを囁いたくちびる。きゅ、と結んで、それからゆるく、けれど何かを耐えるように、微笑む。いつもとはすこし違う化粧だ。髪も、丁寧に複雑に編み込んである。教会の子どもたちは遊真を天使のようだと言っているらしいけれど、それはきっと彼女にこそ相応しい。それか、女神とか。そういう、類の。
 彼女が纏う純白のドレス、遊真と揃いの装飾。この日のために、玉狛のみんなが用意した。ウェディングトリガー、なんて、彼らがそう呼ぶ、今日のための特別なトリガーを起動している。
 今日という日、遊真となまえの結婚式のために、彼らは随分と苦心して、けれど楽しんで、用意してくれた。
 両手で白い花束を持っていた。白い薔薇。それは確か、本物だったはずだ。なまえの歩く道を彩る花弁と同じく。
 陽太郎が花弁を撒いた道を、なまえはひとりで歩いている。ゆっくりと。遊真を見つめながら。
 この道はバージンロードと呼ばれているらしい。遊真だって、すこしは結婚式について勉強した。花嫁の道。これまでの人生を辿る道、本来は、父親とともに歩く道らしい。けれど、なまえの父親はもういない。だから彼女はひとりで歩いている。迅や、林藤の申し出を断って、ひとりで。
 なまえの父が今日のこの日を見ていたら、いったいなんと言っただろうか。新郎のあまりの幼さに異議ぐらい言っただろうか。あるいは、なまえの父親だというぐらいだから、案外あっさりと、娘をよろしくとでも言うだろうか。遊真が知る彼はなまえから伝え聞いた彼でしかないけれど、どっちもありそうだと笑った。
 この姿を、一番見たかったのはもしかしたら遊真ではなかったかもしれない。
 もっと、見たかった人たちはいたかもしれない。もうここにはいない、会ったことのない、会うことはないなまえの家族。その別れがなければ彼女と出会えなかった遊真は、ただ静かに祈る。
 彼女が、遊真の近くに来た。ここで、手を差し伸べるようにと言い含められていた。これからはともに歩もうと、そういう意味らしい。
「……遊真、くん」
 手で触れられる距離で、なまえが立ち止まった。だから遊真も、まだ手は差し出さずに、小さく笑って応える。
「びっくりさせたか?」
「すごく」
「びっくりさせたかったんだ」
 この結婚式のことをなまえに教えたのは今朝だった。前々から準備をしていたけれど、本人には言うつもりがなかった。
「どうして……」
「……断られたらかなしいからな」
 それは本心だった。断られたらというよりは、きっと断るだろうと思ったから。遊真がなまえの重荷になりたくないように、なまえも遊真の重荷になりたがらない。結婚したい――何かふたりだけの結びつきがほしいと、そう言えなかったのは、きっと、なまえもなのに。
「これはな、おれのわがままなわけだ」
「……?」
「おれのわがままに、みんなを付き合わせた。オサムも、チカも、迅さんも、しおりちゃんもこなみ先輩もようたろうも、とりまる先輩もレイジさんもボスもゆりさんも、……きりがないな。あ、あと神父サマも。それから、なまえも」
「私も?」
「なまえの、それが見たかった」
 二人の会話はオルガンの音が優しく覆い隠して、参列者には届かない。立ち止まった花嫁に、けれど焦るものはいなかった。分かっている。彼女がそこで、立ち止まることの意味を――意義を。
「ケッコンシキ、したかったんだ、なまえと」
 遊真は笑った。薄いレースのベールの向こうで、なまえの顔がくしゃりと歪む。笑顔になろうとして、すこし失敗したような。そんな風に。
「おれは、オトナにならないけど」
「遊真、くん……!」
 このバージンロードを。なまえがたった一人で歩いた道を、遊真が終わらせることはできない。遊真がここでなまえの手をとったって、終わることはない。遊真はそういう存在だから。共に老いることもない。これから先にひとりで歩かせる道があることは、分かっていて。それでも。
「しばらく、となりを歩いてもいいか?」
 隣を歩く理由が欲しかった。幼い身体が、大人になり始めた彼女の隣にあれる、その理由が、遊真はただ欲しかった。遊真みたいな曖昧な存在は、理由がなければならなかった。
 なまえは、きゅっと唇を噛んで、それからゆっくりと手を伸ばした。遊真も手を差し出して、そっと重ねる。
「……よろこんで」
 笑おうとしている。上手な笑みではなかった。けれどそれが、遊真はたまらなく愛しい。
「おふたりとも、こちらへ」
 優しい声がふたりを呼んだ。「ああ、手は繋いだままで」その言葉に従って、指を絡めて手を握り、並んで立つ。遊真はちらりとなまえを見上げた。きれいだ、ともう一度、心の中で囁く。
「それでは、結婚式を、始めましょう」
 神父がにこりと微笑んで。なまえの手が、ぎゅっと遊真の手を握って。遊真は静かに、頷いた。

 聖歌が歌われていた。日曜のミサでたまに歌われている。あまり馴染みのないものだけれど、聖歌隊が歌ってくれているから、参列者は気楽だ。美しい歌声に寄り添うように、融け合うように知っている声が聴こえた。遊真はそれを聴きながらすこしだけ笑う。修が生真面目に歌詞を追って、陽太郎はほとんど音がずれたハミング。千佳や小南たちの声は聖歌隊の美しい高音の中に混ざり、そのずっと下に、烏丸や木崎の声が低く響いている。それぞれの特徴が微かに出ていて、それがわかることがなんだか楽しい。
 きゅっと、なまえは遊真の手を握っていた。肘まで覆う長い手袋があるから、いつもと同じ感触ではないけれど、それもかえって特別なことを教えてくれる。
 教会の中で歌声はよく響いた。優しく、淡く、空間を満たす。
「……さて、折角私が預からせていただいているこの教会で、遊真くんとなまえさんの結婚式を行なっているのです。ここは儀礼に則る意味も込めて、いつものように、聖書を朗読させてくださいね、遊真くん」
 聖歌を歌い終わって、神父が微笑んだ。遊真は頰を緩めて笑う。いつもあんまり聴いていないことを、暗にからかわれた。けれどそれは後ろめたさを抱くような、そういうものではなくて。
「愛の讃歌、そう呼ばれる文です。どうか、ご静聴を」
 神父の声が、一段と柔らかく、そして深くなった。聖歌とは違う響きで、その声は教会の中を歩くように巡る。遊真の好きな、神父の声だった。参列者たちがいるベンチのほうから、さわりと囁きが一瞬だけ。確かにいい声だな、と。
「〝愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。〟」
 神父の語る愛は、まるでなまえのようだと思う。あるいは修のようだ、あるいは、あるいは。当てはまるひとが、遊真の周りには、たくさんいる。それはきっと、とんでもない幸運で。遊真は時々、そこに自分がいることが信じられなく――それこそ夢のような心地に、本当に夢ではないだろうかと思いさえする。けれど、遊真の手を握るなまえの手が、夢ではないと教えてくれる。
「〝愛は自慢せず、高ぶらない。
  礼を失せず、自分の利益を求めず、
  いらだたず、恨みを抱かない。〟」
 ふ、と思い出した。戦争。命を刈り取った瞬間。怒号。叫び声。悲しみ。混乱と混濁、土煙で褪せた記憶。それは、決して遠い記憶ではなくて。遊真にとっては、遊真が存在する世界のひとつで。その世界のことを知るから、遊真はいま、この瞬間が、愛しくて。
 命を奪われ損ねた瞬間、遊真が奪い取ってしまった、あのひとの命。本当は彼こそが生きるべきだとさえ思った。自分が生き残っても利益は薄いと。けれど。きっと、そういうことでは、やっぱり、なかったのだろう。遊真は、だからつまり、ただただ、愛されていた。この世界に来る前から、ずっと、ずっと。それをそう呼ぶことを知らずに、生きていただけだった。
「〝不義を喜ばず、真実を喜ぶ。〟」
 たとえその真実が、遊真が存在するもうひとつの世界のような、そんな救われない、報われない世界でも。そこにだって、なにか、尊いものはあって。それを、遊真はもう知っている。悲しい真実も、一緒に見つめてくれるなら、それはきっと喜びだ。
「〝すべてを忍び、すべてを信じ、
  すべてを望み、すべてに耐える。〟」
 ぎゅっと、遊真はなまえの手を握った。握り返される感触がある。
「〝愛は決して滅びない。〟」
 愛した証のようなものが、薄れても、消えても。きっと愛だけは残る。愛だけは残って、遊真が愛したものたちを、いつまでも包んでいてくれたらいい。
「〝それゆえ、信仰と、希望と、愛、
  この三つは、いつまでも残る。
  その中で大いなるものは、愛である。〟」
 神父はふたりを見つめ、微笑んだ。ふたりの間に、ふたりを包む、愛を見たのだろうか。
「コリントの信徒への手紙一、愛の讃歌でした。もっとも大いなるもの、それは愛だと、使徒パウロは仰った。奇跡が授けられるような信仰も、人々を動かす希望も、そこに愛がなければ、あなたの益になることはないと。
 信仰は、信じる道です。あなたが、ゆく道です。信仰とは、信頼です。あなたが進む先への。あなたが歩む限り、決して消えることはない。それは、希望も。あなたは希望を目指して、歩いて行ける。そしてそれを成すために、あなたの進む道を、希望を、それを支えるひとを、支えたいひとを、愛しているはずです。信仰と希望は、愛の中にある。
 ――だから、愛しなさい。神が人を愛するように」
 自分と違うものへと向ける愛を、自分と同じものへ向ける愛のように。そこに信頼と希望をのせて。
「そしてそれを、愛することを、よろこんでくださると、私は嬉しい。人が人を愛することは、よろこびに満ち溢れたものであってほしいと、私はいつも思います。
 そして、遊真くんに関して、私はそのことをちっとも心配していません。だれかを愛しいと想うことは、とても、うれしいでしょう、遊真くん」
 柔らかく問いかけられて、遊真は小さく頷いた。嘘はない。そこに恐れがないとは言わないけれど、それでも。遊真にとってなまえを愛することは、うれしいことだ。
「なまえさんとは、こうしてお会いするのは初めてですね。けれどやっぱり、私はちっとも心配していないのです。彼を愛しいと想うことは、うれしいでしょう?」
 なまえは、すこしだけ神父を見つめて。遊真の手を、優しく握り直して。
「はい」
 と、静かに囁いた。
 ぶわりと、胸の内で何かが脈打つ。心臓も血液もない、トリオンの煙で満たされた身体が、けれど確かに。よろこびに、湧いたのだ。
「さぁ、それでは。おふたりの、大いなる愛を。誓う儀へと、移りましょう」
 オルガンの音色が響いた。十分に声が聴き取れる程度の、優しく小さな音色。
 遊真は神父を見ていた。全て心得ているように頷き、その向こうで淡く照らされた十字架が煌めいている。
 隣に立つなまえの身体に、緊張が走ったのがわかった。神父曰く、とても有名な文言らしいから、これから何を言うのか知っているのかもしれない。遊真が事前にその誓いの言葉を訊いたとき、どきりとしたことを思い出した。
「あなたたちは、よろこびのときも、かなしみのときも、」
 始まった。なまえがどんな顔をしているのか、遊真はあえて見なかった。一生懸命に微笑みを浮かべようとして、失敗しているであろうその顔は見なくてもわかる。
「病めるときも健やかなるときも、」
 参列者たちから、さわりさわりと微かな声が、吐息が漏れる。それはほんの少しだけ湿り気を帯びていた。
「富めるときも貧しいときも、」
 聖歌を歌い終わった少年少女が、期待に胸を膨らませている。きらきらとした無垢な瞳が、ふたりを見つめる。
「互いを愛し、互いを敬い、互いを慰め、互いを助け、」
 ふるり、と胸が震えた。胸が詰まるような感覚。神父が一瞬だけ、目を伏せた。慈愛と悲哀が混ざり合った、複雑な瞳と目が合う。遊真は笑いかけた。どうか、続きを。
「死が、」
 遊真の手を握るなまえの力は、痛いくらいだった。いいや、それは、少しだけ嘘だ。生身だったら痛いだろうなと、そう思うくらいの。ウェディングトリガーの身体能力は生身程度らしいから、この力はなまえの精一杯なのだろう。
 おまえを手放さないと言ったことはなかった。おまえを離さないとも。互いに、必ず手放さなければならないと、覚悟を決めていたから。けれど今、遊真を手放す気のない、手を離す気のないその力が、ただ嬉しい。
「二人を、」
 だいじょぶ、そう囁く代わりに、なまえの手の甲を指でそっとなぞった。とん、とん、と優しく指の腹で叩くけれど、それでもなまえの力は緩まない。
「分かつまで。」
 溜息が漏れた。うつくしい言葉だ。これを初めて訊いたとき、自分たちに似合いの言葉だと、遊真は思った。
 『死が二人を分かつまで』、この命が潰える、その瞬間まで。終わりのある愛だ。けれど、それでいい。この愛は、永遠にしてはいけない。彼女を縛り付けることなど望んではいない。いいや、本音を言えば、すこしは思う。でも、いらない。彼女の道を阻むのはごめんだ。だから、永遠なんていらない。永遠を抱くのは、先に眠る遊真だけでいい。
「その、ときまで。共にあることを、誓いますか?」
 遊真はそっと息を吐いた。あつい吐息だった。
「遊真くん」
 神父が促す。返事を、誓いを。
「誓うよ」
 ただ一言を答えた。教会の中にはっきりと響く、少年の声。揺るぎない声。涙に濡れることもなく、聞き様によってはあっけんからんと、気負いなく。
「なまえさん」
 神父が微笑んで、同じように呼びかける。
「……っ、」
 息を吸い込む音が微かに響いた。遊真は、そっとなまえを見つめる。涙が頰を伝っていた。一筋、きらきらと光を受けて。薄いベールの向こう。きっと、遊真と神父しか知らない涙。
 死が二人を分かつまで。なんて似合いで、そしてかなしい言葉だろう。こんな気持ちで、聴くような言葉ではないのだと思う。本来は遠い遠い先の、現実味のない、聞き流されてしまうような言葉なのだと。
「……はい、誓い、ます」
 その声は震えていた。いつか訪れるそのときを、その覚悟を静かに孕んだ、涙に濡れた声。
 なまえの手をぎゅっと握った。いま、きみと、ここにいられることがうれしい。それは少しだけ悲しくて、苦しいけれど。だけど、遊真は、しあわせだ。
「では、誓いのしるしである、指輪を」
 聖書台の上の、ベルベットの小箱を神父が開く。中には銀の指輪がふたつ。サイズは大して変わらない。小南と買いに行ったそれが軽かったことを覚えている。遊真が左手の人差し指にはめている指輪よりも、随分と、軽かった。
 向き合って、手を、と促す。ベールの向こうの瞳と目があった。なまえはゆっくりと、どこかぎこちなく手袋を外して、そっと左手を差し出す。遊真はその手をすくうように下から支えて、神父が差し出す小箱から指輪を取り出した。
「くすりゆび」
「……うん」
「軽いから、疲れないと思うぞ」
 軽い指輪でよかったと思う。誓いにしては軽々としたそれが、そういうものでよかった。遊真の人差し指の黒い指輪のような重さでなくてよかった。だって、いのちは重いから。重荷に、なりたくはないのだ。遊真のいのちが、別れ路でなまえの手を引いてしまわないように。
 なまえの手に、指輪は煌めいていた。よく似合う。ぴたりと合った大きさが、くすぐったくも思える。神父に促されてなまえが指輪をとり、遊真は左手を差し出す。
「ちゃんとあけておいた」
「うそ、ばっかり」
 その指先が一瞬だけ、黒い指輪に触れた。この指輪をはめたのが薬指でなくてよかったと思う。人差し指に指輪をはめたのは遊真ではないけれど。あるいは、見越していたのだろうか。いつかこんな日が来ることを。まさか、あの極限状態にあってそんなことを、とも思うけれど。真意はわからない。
 銀の指輪が、するりとはめられる。震える手が、まるで壊れ物を扱うように。
 つけてみたそれは、やっぱり軽い。これくらいなら、許されるだろうか。この約束を抱えたまま眠りについても。
「ふたりの行く道に、導きと祝福があらんことを」
 神父がふたりの左手をとり、その指輪に祝福を込める。これで、終わりだという。難しいことなんていらないと、神父も修もそう言っていたけれど、それだけでないことも分かっている。
 本当に夫婦にはならないように。そうしようとしていたことを、遊真よりもきっと分かっていた。二人が夫婦になると、誰も宣言していない。夫婦にならないから、口付けもしない。ただ愛しているとだけ。指輪だけは、誓いのしるしに。
 この結婚式は、結局、ただの真似事なのかもしれない。白い結婚ですらない。結婚式にならない、ただ遊真がなまえと挙げたかったケッコンシキ。子どもの、ごっこ遊び。
 それでも、やっぱり、遊真は幸せだ。なまえの花嫁姿も。その指に輝く銀も。泣き虫顔に笑みを浮かべようとする様も。飾り立てられた教会も。神父も、見守るひとたちも。愛しさが湧き上がるものでしかない。
「いま、ふたりは新たな道を行きます。どうか皆様、ふたりの旅立ちを、拍手とともにお見送りください。……その先に、祝福を」
 これで、終わり。なまえの手を引く。神父に背を向け、扉に向かって中央の道を歩く。ベンチから立ち上がった皆の顔がよく見えた。拍手の音。教会に木霊するその音が、悲壮な覚悟も、不安も、悲しみも、全て覆って、遊真たちに祝福を送る。
 でも、泣いているのには気づかないふりをしておこう。泣き虫ばかりなんだ。寄り添う彼女の頰はもう乾き始めていて、いつもはすぐに泣いてしまうくせに、ずいぶんとがんばっているな、と微笑む。
 繋いだ手は確かにあたたかい。トリオンによって擬似的に再現された熱。それをそう言ってしまうことが、嫌だと思うくらいに、なまえの隣はあたたかい。だからこの手は、きっと離さない。今だけは。
 笑顔の少年と少女が、入ってきた時と同じように扉の側に控えていて、ゆっくりと外側に押す。教会の中を照らすものとはすこし異なる光が差し込む。自分たちの白い衣装が反射して眩しい。光を見つめて瞳を細めたなまえと、遊真は歩く。このときが、少しでも長く続くことを願った。


 結婚披露宴というものがこの世にはあるらしい。修から聞かされた結婚式の仕組みは多岐にわたり、けれど遊真はその全ては行わないことを選んだ。そもそもあのケッコンシキは、本当なら誰かに見てもらうようなものでもないから。所詮は、ごっこ遊びなのだから。
「さぷらいず、大成功だな」
 教会の敷地内にある別棟。礼拝堂を出た遊真となまえは、シスターの案内に従って、別棟の一室に入った。礼拝堂と同じく、質素だけれどよく整えられている。窓からやわらかい陽光が差し込んで、小さな二人掛けのソファーは陽だまりの中にある。そこに並んで座り、遊真はうすく笑った。シスターが淹れた紅茶をゆっくりと飲んでいたなまえがそっと囁く。
「……びっくりした」
「怒られるんじゃないかとひやひやしているところだ」
「怒らないの、知ってるくせに」
「ばれたか」
「わかるよ」
「ウソじゃないから、なまえはすごいんだ」
 白い薔薇のブーケはソファの横のテーブルに置かれていた。形の崩れていない花束に光が当たって、柔らかそうな白い花弁がほのかな燐光を纏っている。もうトリガーを解除してもよいけれど、もう少しだけなまえのこの姿を見ていたくて、遊真は告げないことにした。
「でも、おれだってびっくりしたんだから、お互いサマだな」
「びっくり?」
「……こんなにきれいだと思わなかった」
 想像の中の、ドレスを纏った彼女はいつもきれいだった。目の前の彼女も、もちろんきれいだけれど、思わず手を伸ばしたくなるような、そういう抗い難い魅力があって――あぁ、きれいだなと、思う。きっと、迅が視た姿よりも、遊真が見るこのなまえの方がきれいだ。
「……遊真くんだって、格好いい」
「迅さんとしおりちゃんセレクトだ」
「さすが、外れないね」
「なまえのはもっとすごいぞ。プラスでこなみ先輩とチカとゆりさんと、それから、ようたろうも口を出してた」
「……あとで、お礼、言わなきゃ」
「写真とりたいって言ってたぞ」
「あ、私も欲しいな。遊真くんとの、写真」
「いくらでも」
 眠らない夜にそれを眺めて、夢を見るような感覚に浸ってみるのもいいかもしれない。遊真は夢を見ないから。夢を見れないのは、今、夢を見ているかも知れないと、時々大真面目に考えていることを知ったらどう思うだろう。まだ、誰にも言えていない。
 手に熱が触れる。なまえの手だ。いつの間にか紅茶のカップを置いて、遊真の手をやさしく握っていた。いつか遊真はこの感覚さえも感じなくなる。それは、とても悲しくて寂しいことだった。仕方のないことだとわかっているけど。
「お嫁さんにできなくてごめんな」
 口をついた言葉に、なまえの手がびくりと震えた。あぁ、別に、言うつもりなんてなかったのに。
「……ばか。遊真くんの、ばか」
「すまん」
 遊真の前にいるときのなまえは、泣き虫だ。けれど、遊真はいつまで経っても、その涙をじょうずにとめることができない。そもそも、泣かせないようにすることもできていない。
「わかってるつもりだったんだけどな」
 自分のいのちの儚さは、よく、わかっているつもりだった。
「欲がふかい」
 なまえに、そっと笑いかけた。きれいな瞳から、きれいな雫が零れ落ちる。はらはらと頰を滑っていく涙を、遊真は指先で拭う。こつりと、ひたいを合わせて囁いた。ごめんな。びくりと肩が震える。
「……ブーケはさ、なまえがずっと持っててくれ」
「どう、して」
「……そしたら、いつでも、ケッコンできるだろ?」
 例えば、遊真がいなくなったあとも。
 花嫁のブーケ。受け取ったひとは、次、結婚できる。なまえが教えてくれたことだ。
 これはただの結婚式ごっこだけれど。でも、そのジンクスを、願いを、そっと残していくのもいいか、と思うから。
「ばか、ばか……っ!」
 遊真の手を巻き込んで、なまえが強く手を握る。ばか、ばか、ばか。ぐりぐりとひたいを押し付けてきて、遊真は甘んじてそれを受け入れた。
「遊真っ、くんの、ばか……!」
 ちょっとは、痛いと思える体だったらよかったのに。
「……ばかでもうしわけない」
「私は、ずっと、」
「うん」
「ずっと、遊真くんの、ことが、遊真くんのことをっ、」
「なまえ」
 彼女の唇をやさしく塞いでやれないのが、すこしだけ悲しいことだった。その唇に当てないように、そっと人差し指を一本立てて、唇に沿わせる。どうか、その先は言わないでほしい。
「ごめんな」
 そういう顔をさせたいわけではなかった。やっぱり、うまくいかないものだ。やらないほうがよかった、なんて思いはしないけど。もう少しやりようはあったのかもしれない。深い悲しみが、きれいな彼女を彩って。それでもそのうつくしさは、少しも揺るがなくて。
「……ゆうま、くん」
 静かに囁かれた名前に、遊真は微笑むことしかできない。たぶん、ずるいやつなのだろう。ウソをつかない、けれどずるいやつ。自分はそういうものだと知っている。欠落した何かがあることも。生きてきた場所が違いすぎるのも。何もかも知っている。
 でもすこし、すこしだけ。夢を見たかった。夢を見ているのなら、手を伸ばすのも許される気がした。何かが埋まっていくような感覚が、確かにあった。それはもう存在しない腕に痛みを覚えるような、そういう幻想なのかもしれないけれど。
「……、……なまえ」
 遊真はゆっくりとひたいを離した。なくなよ、と言おうとして、声が掠れて言えなかった。
 窓から差し込んだ光が、なまえの片頬を照らしていた。涙がきらきらと反射して、朝露に濡れた花のようだ。それを美しいと思うことは、いじわるなことなのかも知れない。
 二人しかいない空間に、あたたかくて、だからこそ切ない空気が満ちている。いつか、手放さなければならないものが。
 悲しいことだ。こんなにもきれいななまえの姿が、ずっと見ていたいと思うのに、なのに、ひどく苦しくて。そっと目を逸らそうとした遊真の手を、なまえが強く握った。いかないで、と言われた気がした。
 一度、なまえがゆっくりと瞬きする。睫毛にかろうじてひっかかっていた涙がほろりと落ちて。そして――再び開いたその瞳に、はっと意識を奪われた。意志の光が、宿った瞳。遊真が弱い、負けたと思わせた、あの瞳が、そこにある。
「……こういう、ときは」
 遊真が添えた人差し指になまえの唇が触れそうになって、わからないように距離をとる。彼女が紡ぐ言葉を、聞かなければと思った。
「っ、こういうときは、ね、遊真くん。未来とか、嘘とか本当とか、いいの。いいから――――〝しあわせになろう〟ってぐらい、言ったって、いいの……!」
「……そう、なのか」
 くしゃりと顔を歪ませて、それでも笑おうとしてくれる。そんな彼女に自分は命をかけることすらできず、小さな軽い約束しか、あるいは期限のついた契約しかあげられない。もっとあげたいものはあった。もっと返したいものはあった。なのに足りないのだ、何もかもが。
 ああ、でも、それでも。そんな遊真に。
 不恰好でも不器用でも、笑って、幸せになろうと、そう言うのなら。
「……しあわせになろう」
 こぼれ落ちた言葉に、胸がきゅうっと締め付けられた。
 これは、ウソじゃ、ない。
 自分が嘘をついていないことは分かって、だから遊真は、そう言えることが嬉しくて、けれど苦しい。しあわせになろう。しあわせだ。心からの言葉、それは間違いない。けれどもうひとつ、心から言えてしまう言葉を、遊真は無視している。しあわせになろう。しあわせだ。それだけじゃない。

 ――おれは。

 たぶん、おまえと歳をとりたかった。

「……約束だ、なまえ。幸せになるんだ、するからな」
「遊真くんこそ。約束だよ。……幸せにさせて。私も、遊真くんも」
 この約束が終わるのは、明日かもしれないし、もしかしたらずっとずっと遠いのかもしれない。それは誰にもわからない。分かるかも知れない人は、それを胸に秘め続けるだろう。遊真にもわからないように、嘘も本当も言わずに。ずっと一緒にいられたらいいのに、そう囁いた彼は、そういうのが不幸なほどに上手だ。
 約束が終わる日は、必ずやってくる。
 けれど、構わない。
 遊真はただ、結婚式をしたかった。花嫁に憧れた彼女を、花嫁にしたかった。愛していると誓いたかった。死が二人を分かつまで、共にいると、そう叫びたかった。それが叶って、だからそれ以上も、というのは、やっぱり欲が深いと思うから。
 それに、今、同じ時間を過ごすことの方が大事だと、なまえだって言っていた。遊真も、そう思っている。
「……でも、こまったな」
「遊真くん?」
「今より幸せになりようがないくらい、おれはしあわせなんだ」
 きょとんとしたなまえの顔に、笑みが広がる。ふふっ、と息が漏れるような笑い声。やっと、いつものように笑ってくれた。嘘じゃないことが伝わっている。なまえには遊真のような力はないのに、分かってしまう。信じれてしまう。それをきっと、愛だとか、信頼だとか、言うのだろう。
 なまえがブーケをとり、花束から一輪、白い薔薇を抜き取った。それをタキシードのポケットに差して、そっと囁く。
「……預かっていて。遊真くんが、いるうちは、誰とも結婚できないように。……持って、いっても、怒らないけどね」
 目元があつくなったけれど、それをぐっと押し込めて、遊真はニヤリと笑う。
「こころえた」
 陽だまりの中で、空閑遊真は笑っている。それだけが、今のふたりにとって大事なことで、すべてだった。


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