きみを花嫁に(上)

 小さな、けれど古く瀟洒な教会、礼拝堂のベンチに白い髪の少年が座っていた。ぼんやりと十字架を見上げる横顔は天窓から降り注ぐ光に照らされて、きらきらと輝いている。
 少年はこの教会が好きだった。通うようになってどれだけ経つだろうか。冬も近い今の季節はすこし肌寒いけれど、その冷えた空気も神聖なもののような気がして、嫌いにはならない。日本人離れした容姿の彼を子どもたちはこっそりと天使さまと呼んでいるらしい。いつもなら、そんなことはないぞと言ってやるのだけれど、今はただぼんやりと空間に身を任せていた。
 日曜のミサが終わって、人影はまばらだ。老年の司祭が小さな子どもにお菓子をあげている。一口サイズのキャラメル。彼は、それを子どもにやることが好きだった。もちろん『少年』にも「遊真くんもどうぞ」と微笑んで渡してくれる。遊真は彼から貰うキャラメルが好きだった。

 この教会を遊真に教えたのは小南桐絵という少女――もう成人しているから不適切な表現だけど、当時は高校生だったからまるっきり間違いでもない――だった。幼いころミッション系のスクールに通っていた彼女は、学校に勤めている司祭に紹介されてここを訪れたらしい。遊真が知らない時代の小南は、どうしてここを紹介されて、大人しく訪れたのだろう。今の、あるいは出会った頃の小南からは、あまり想像できない。
 自分がここに来ることを勧められた意味は分からないけれど、小南が気遣っているものはわかる。遊真の心の底にある、不安、あるいは覚悟だ。
 玄界ミデンに渡って三年。
 空閑遊真は十八歳になった。
 けれどその見目は、十一歳からすこしも変わらない。ここまで生きられたことを喜ぶべきか、変わらない自分を憂うべきか。そんなことはこの七年間で考え飽きていて、おれはこれでいいのだと言える。だって、こんな身体でも、遊真はじゅうぶんに幸せだ。幸せだと言える――心の底から。
 けれどすこしだけ。今もゆっくりと死に向かっているこの身体を。分かっていながら選択したことを。後悔してはないけれど、燻るものがひとつ。

 空閑遊真がこの世でただひとり、恋人と呼ぶひとについて。

 彼女は、みょうじなまえは、遊真よりひとつ年上の十九歳だ。はじめて会ったときは十六歳。化粧も知らなかった彼女は、今はりっぱに女子大生をやっていて、きらきらとまぶしい。なまえはすっかりおとなになって、けれど遊真はこどものままで。
 いいのか、なんてやり取りは付き合う前から何度もして。この未来もすべて、含んでいたことで。わかっていたことで。いつか必ず訪れる別離でさえ、覚悟していて。けれど、心の奥で、何かがある。切々した、想いが、なにか。

「遊真くん」
「司祭サマ」
「神父ですよ」
「そうだ、神父サマ」
「今日はキャラメル、いりませんか?」
 見れば子ども達はもういなくなっていて、礼拝堂には神父と遊真だけがいた。差し出された手の平にころんと置かれたキャラメルをひとつ、つまみあげて、「ありがとう」と礼を言う。神父の笑い皺が深くなった。
「何かお困り事ですか?」
「いや、なんにも。おかまいなく」
「おや、そうですか」
「……神父サマ、なんでとなりに座るんだ?」
「お年寄りは何かにつけて座りたいものですよ」
「ほうほう、覚えておく」
 神父は、変わらない遊真に気付いているはずなのに、そのことに微塵も気にした様子を見せない。なまえもそうだ。気にしないでいてくれる人は、たくさんいて。いや、きっと気にしてくれているのだろうけれど、無遠慮に触れようとしない、優しさに包まれていて。
「……なぁ、神父サマ」
「何でしょう?」
「この教会でも、ケッコンシキ、するのか?」
「結婚式ですか……どうでしょうね。最近では結婚式用のチャペルもありますし、本当の教会では、案外やりませんね」
「ふぅん」
 そんなものなのか、と、なんとなくがっかりした。言われてみれば確かに、この教会で結婚式を挙げているのは見たことがない。陽の光が降り注ぐ天窓も、色鮮やかなステンドグラスも、使い込まれていい色のベンチも、それから神父の良い声も、使われないのはもったいないなと思った。
「もちろん、遊真くんがここで結婚式を挙げたいと言えば、全力でサポートしますけれど」
 しん、と。笑おうとして、奇妙な沈黙が舞い降りた。結婚式を、挙げたい。ああ、結局それだったのだ。遊真が、ずっと、燻っていたのは。
 優しいあの子と。
 幸せをくれるあの子を。
 幸せにしたい。
 十一歳の少年の身体。けれど生きてきた年月は十八年。戸籍もそうだ。だけれど、この身体で、彼女の隣に並び立つのは。そう遠くない未来に一人にするとわかっていて、縛り付けることはできない。子どものままの自分は、彼女と一緒に大人にはなれないから。
 いつだったか、彼女と恋人になる前に街で見かけた結婚式。花嫁のブーケトス。次に結婚できると聞いて、今思えば遠慮も常識と呼ばれるものも、それから憂いもなく、ただ羨ましそうに見ていたなまえを喜ばせたくて、駆け出してブーケを掴みにいった。これで次、ケッコンできるな、と。花嫁が『お幸せにね』と言って、呆気にとられていた参列者たちも微笑んで。恐縮そうにブーケを受け取ったなまえが、ふにゃりと浮かべた笑みを、覚えている。
 綺麗な花嫁さんだったね。素敵だね。ブーケを大事そうに抱えてそんなことをしきりに囁いていた。なんだか胸の内がほわほわとあたたかくて、きっと遊真はあのころにはなまえのことが好きだった。あの頃から、なまえの花嫁姿を、見てみたいと思っていた。
「……神父サマはウソをつかないんだな」
 本気で言っていることは分かっていた。父から受け継いだサイドエフェクトは、今なお遊真に嘘を教える。本当だとわかってしまうことが、辛いこともあったけれど、すっかり慣れてしまった力だった。
「神にお仕えする身ですから」
「カミサマって、えらい?」
「さては私のお話は聞き流していますね」
「聞いてるよ。神父サマの声は、低くて、ゆっくりしてて、あったかい水みたいだ」
「それはありがとうございます」
「……おれ、もう行くよ。今日の昼当番、こなみ先輩なんだ。なにかな」
「もうそんな時間ですか。ああ、桐絵ちゃんにも、またよろしくお願いします」
「ん」
 立ち上がれば、木のベンチがきしりと音を立てる。静かな礼拝堂にそれはよく響いた。窓から差し込む日の背が低い。もう太陽は真上に近いのだろう。
 神父が見送ろうとしてくれたのを留めて、遊真は教会を出た。

   *

「おかえり、遊真くん」
「、ただいま」
 玉狛で遊真を出迎えたのはなまえだった。足首まで届くような丈のワンピースの上からエプロンをしている。初めて会ったときよりも、髪が伸びたなと思う。艶やかな黒髪、昔は遊真も黒い髪だった。なまえは出会った頃より手足がすらりと伸びて、身長は遊真よりも高い。
「こなみ先輩の手伝い?」
「そう。腕によりをかけるからね」
「楽しみだな」
 そうだ、今日は日曜日。なまえの大学だって休みだ。びっくりしたことをそっと秘めつつ、リビングに向かう。キッチンからはなまえと小南の楽しそうな声が響いている。

「よっ、おかえり、ゆーま」
「ただいま、迅さん。めずらしいね。こんな時間にいるの」
 リビングのソファーでぐでーっと伸びていた迅がひらりと手を振った。中々にお疲れの様子だ。
「さっき帰ってきたとこ。おまえはまた教会?」
「うん。神父サマの話を聞くのは楽しいぞ」
「今日はどんな話だった?」
「……神父サマはいい声なんだ」
「くっ、なるほど。……あ、修呼んできなよ。他はみんな出払っててな」
「ボスも?」
「ボスも陽太郎も、ここにいるのと修以外は、みーんな」
「さびしいですな」
「まぁ、日曜だしね。夜には揃うよ」
 迅がそう言うのであれば、きっとそうなのだろう。目の下のクマに寝ろと言いたかったが、キッチンからは美味しそうな匂いがする。食べるなというのも酷で、ひとまず遊真は迅の言葉に従って、修の部屋に向かう。
 階段を上がって、『三雲』のネームプレートがつけられた扉をノックする。
「オサム、もうすぐ飯だぞ」
 がちゃりと扉が開き、部屋着を着た修が現れる。その背もまた伸びていて、見上げなければ顔が見えない。
「空閑、おかえり」
「……ん、ただいま」
「中、入らないか? ご飯までもうちょっとあるだろう?」
「下に迅さんがいるが、いいのか?」
「さっき、一日いるって言ってたから大丈夫」
「おれも一日いるぞ?」
「今日は夜勤入ってるだろ?」
「……そうでしたな」
 任務のシフトを自分から志願しておきながら忘れるなど、遊真らしくない。ここ最近、胸の中で燻っていた気持ちはそんなにも遊真を惑わしているのだ。十八歳になったことは、きっと関係しているだろう。法律の上では、結婚は認められている。
 修の部屋はいつもあたたかい。勉強机の上に開かれたノート、受験勉強でもしているのかと思えば、戦術についてだった。中身は変わらない。回転椅子に修が座ったので、遊真はベッドに座る。
「どうしたんだ、相棒。なにか悩みごとか?」
 なにか、思い詰めたような顔をしている気がした。それが正しくても間違いであっても、それを聞くことが許されている関係である以上、気負いはない。
「僕はないよ」
「……ふむ」
「……空閑、進学、しないのか?」
「ん、んー……そのことかぁ」
 痛いところをつかれた、と身じろぎする。頭の出来はそれほど良くないが、ボーダーに所属していると推薦で進学できる。なまえが通う大学にだって、行ける。けれど遊真は進学を表明していない。
「楽しそうに勉強してるなって思ったから、大学、向いてると思う。今までより自由に、自分の学びたいことを学べる」
「おれは、いいよ」
「空閑、」
「おれはおれのやりたいこと、ちゃんとべつに、あるんだ。だから大学に行こうと思ってない」
「やりたいこと?」
「うん。……まだちょっと、言えないけどな」
 ウソを見破る能力が自分にあって良かったと思った。他の人に、この能力がなくて良かったと。
「そうか……。でも、空閑。やりたいこと、僕にも手伝わせて欲しい。だから、言えるようになったら、言ってくれ」
「出たな、オサムのおひとよしだ」
「お人好しじゃない」
「そうするべきだと思っているから?」
「僕が、空閑にそうしたいから、だ」
「……ふふ、そうか。オサムはあれだな、なんぎなやつだ」
「なんだそれ」
「神父サマがむかし言っていた」
「教会の……」
「うん。オサムも今度、いっしょに行くか?」
「……そうだな、行きたいな。来週、一緒に行こう」
「わかった」
 学校とボーダー以外で出掛けるのも珍しくない。それでもなんだか久しぶりのことに思えた。玄界に来たばかりのころとは違って、遊真がひとりで出歩いても問題ないから、かもしれない。

「遊真ー! 修ー! ご飯できたわよー!」

 階下から響いたのは小南の声だ。二人で顔を見合わせて、それからくすりと笑う。「行こうか」と修が言って、遊真は立ち上がって応えた。

 なまえが手伝ったこともあってか、献立は小南らしからずオムライスだった。遊真のオムライスには『YUMA』とケチャップで描いてある。修のは眼鏡で、迅のは普通。小南のは『こなみちゃん』、なまえは顔文字、『(≡3≡)』さんのかお。
「待って、なんでおれの何も描いてないの」
「思いつかなかったのよ」
「ひどい」
 よよよ、と泣き真似をする迅になまえがくすくすと笑っている。普段、本部の居住区で寝泊まりし、食事も外食が多いというなまえに玉狛の食卓は楽しいものらしい。
「これ、なまえが描いたのか?」
「そうだよ。遊真くんと小南ちゃんのは私」
「よく書けておりますな」
「ありがとう。漢字は諦めちゃったんだけどね」
「食べるのがもったいない」
「言ってくれたらいつでも作るよ?」
「ふむ……ではえんりょなく」
「うん」
「あんたたちのいちゃいちゃ、終わった?」
「いちゃいちゃしてないです」
「こなみ先輩も迅さんといちゃいちゃしていたのでは?」
「してないわよ」
「どちらかというと漫才のような……」
「とにかく!  あたしとなまえが作ったんだから、心して食べなさい! ――いただきます」
 いただきます、小南に倣って全員が復唱する。
 遊真はスプーンを手にとって、オムライスの端っこを一口分スプーンに乗せる。ケチャップがかかっていない部分。作ってくれるとなまえは言ったけれど、そうだとしてももったいないなと思って。あーん、と大きく口を開けて、ぱくりと頬張る。まだあたたかいオムレツとご飯、ふわふわで美味しい。
 視線を感じた。窺うような、なまえからの視線。
「うまい」
「よかった」
 こういうとき、ドラマでは『良いお嫁さんになるな』と決まって同じ台詞を言う。けれど遊真は、遊真だけは、その言葉は言えない。
「……本当に、うまい」
 言えるのはただそれだけだ。
「言っておくけど、あたしも一緒に作ってるのよ」
「うまいよ、小南」
「美味しいです」
 褒める声に便乗して、遊真となまえも美味しい、と伝える。「なによ!」と照れて怒り出す小南に迅が苦笑しているのが見えた。


「遊真」
「おはよう、迅さん」
「おまえはお疲れ」
 任務明けの早朝、冬が近いことを差し引いても日はまだ登らない。支部に戻った遊真を出迎えたのは迅だった。寝起きなのか髪はボサボサで、マグカップにいれたコーヒーをすすっている。夕飯の前に疲れが出たのか部屋に引っ込んで眠っていたはずだから、迅にしては珍しくぐっすりと寝ていたらしい。
「なにか飲む?」
「うん」
「ホットミルク? コーヒー?」
「……じゃあ、コーヒー」
 ぱちり、と迅が瞬きする。遊真が夜に飲むものといえば、いつもホットミルクだった。蜂蜜を溶かした、甘いミルク。苦いものは嫌いだったはず。
 迅はしばらく遊真を見つめて、それからふっと微笑んだ。キッチンに向かって、すぐに遊真のマグカップに黒々としたコーヒーをいれて持ってくる。
「今日は誰と一緒だった?」
「ソロだったからな、人とはあんまり会わなかった。でも向こうの方でハデな音が聞こえたから、出水さんかも」
「相変わらずだなぁ」
「迅さんの次の任務は?」
「おれはしばらくお休み」
「なんで? なにか視た?」
「有休消化」
「ゆーきゅーしょーか」
「それしないとやばいんだ、下手すればボーダーが終わる」
 ウソでは、ない。近界民との幾度の戦闘でも立ち上がり戦い続けるボーダーの歩みを止めるもの。遊真にその正体はわからない。
「なんと……おそろしいな、ゆーきゅう」
「おまえも来年からはそうだよ。進学はやっぱりしないんだって?」
「……オサムといつ話したんだ?」
「さっき、ちょっとね」
「……でも、迅さんだって大学に行かなかった」
「うん」
「大学に行かないことは、べつに悪いことじゃないだろ?」
「ああ。別に責めちゃいないよ。そういうのもアリだと、おれは思う」
「でも、行ってほしいんだな」
「年長者はな、自分ができなかったことをやって欲しいと思うもんなんだよ」
「そうか……」
 こくり、と飲み込んだコーヒーはやっぱり苦い。大人になれば味覚は変わるとテレビで言っていたが、遊真の味覚はひとつも変わらない。そんなことでも、この体の幼さを突き付けられる。
「やりたいことがある?」
「それもオサムから?」
「カンだよ」
「じぶんの経験じゃなくて?」
「そうとも言うかな」
 さて、迅を誤魔化すにはどうすればいいだろうか。遊真だって、まったく望みがないわけではない。現状維持。今がずっとずっと続けばいいと思っている。けれどそれは、進学しない理由にはならない。
 そもそもどうして進学しないのか。考えてみて、思い浮かぶのはやはり自分の小さな身体だった。黒い指輪に閉じ込められた、死に向かう身体だった。遊真は大人になれない。大学に行って大人になる準備をして、いったい何がどうなると言うのだろう。それならばいっそ、いつまでも少年兵として戦い続けた方が、良い気がする。
 他にやりたいことといったら、彼女の花嫁姿を見ること。彼女と結婚式を挙げること。けれどやはり、それは難しい願いだろう。
「大丈夫だよ」
「……なにが?」
「おまえも知っての通り、なまえは強い子だから」
「なに、視たの?」
「それはおまえが一番分かってるんじゃない?」
「……」
 なまえは両親を亡くしている。近界民がこの世に送り込んだトリオン兵によって。
 遊真が近界民だと知って、それでも彼女は自分の気持ちを曲げようとしなかった。両親の仇に通じるかもしれない人間に、大好きよと微笑んだ。
 そう遠くない未来に、必ず死別すると分かっている遊真に怯むこともなく。今、同じ時間を過ごすことの方がよっぽど大事だと。大切な人との別れがどんなものか、知っているはずなのに。その苦しみを知ってなお、共に生きる時間を選んだ。共に生きて、死に別れる覚悟を決めた。
 だから、なまえはきっと強いひとなのだ。泣き虫で、遊真の前ではよく涙を零したりもするけれど、それでも必ず前を向いて、進み続ける。それを知ったから、遊真はなまえの恋人になった。
 自分がいなくなった後も、彼女はきっと生きてくれるだろうと思って。
「……迅さんは、いないの?  そういうひと」
「どういうひと?」
「ずっと、いっしょにいたいひと」
「たくさんいるけど、遊真にとってのなまえみたいなひとは、いないなぁ」
「ほんとに?」
「ウソついてどうすんの」
「……たしかに」
 遊真に嘘をついても無意味だ。それをわかって言っている迅の言葉は、何故か心に易い。すとんと落ちて来て、収まりがよすぎてすこし笑えた。
「じゃあ、どんなひとがいいんだ?」
「まぁ、そうだな。コーヒーを美味しく淹れてくれるひととか、いいかもな」
 そう言って遊真のマグカップの横に、コーヒーフレッシュと砂糖を置く。減っていないコーヒーをすこし見つめてから、遊真はミルクをふたつと砂糖をひとつ、注いで息を吹きかけ混ぜる。真っ黒に真っ白が落ちて、混ざれば淡いブラウン。不思議だ。
 ず、と口にしたコーヒーはまろやかで甘く、ごくごくと飲む遊真を迅が目を細めて見ている。
「……きれいだったよ」
「なに、が」
「多分、遊真の想像通りに、むしろそれ以上に。なまえは、きれいな花嫁さんだったよ」
「……まだ、なまえは花嫁さんになってないぞ」
「確かに。でも、まだ、だ」
「そうかな」
「ああ」
「サイドエフェクトが、言ってる?」
「サイドエフェクトに言わせるのは、おまえの行動次第だよ、遊真」
「迅さんには敵わないな」
「若者にはまだまだ負けたくないからね」
 得意げな顔の迅は、もう二十二歳だ。十分若者の範疇だけれど、けれど彼はようやく、子どもではない自分を手に入れて、誰にも心配かけずに大人の顔をすることを許された。
「……なぁ、迅さん」
「訊かないでくれよ、遊真。訊かれたって訊かれなくたって、答えてやれないんだから」
「……ん、ごめんな」
 おれはいつ死ぬんだ?
 未来を視る彼に、一緒に生きていきたい人がたくさんいるという彼に、それを訊くのは間違いなく残酷なことだろう。迅と遊真が望もうと望ままいと、いつか否応無しに知ってしまうことでも、だからこそ。
「こなみ先輩に教えてもらった教会、いいふいんきなんだ」
「うん」
「神父サマも、やさしくて」
「……うん」
「あそこだったら、なまえは……、」
「なまえは?」
「……きれいな花嫁さんに、なると思うんだ」
「……遊真が言うなら、きっとそれ以上の場所は、ないよ」
「そうだといいな」
 ささやくような言葉に、迅は頷いて微笑んだ。

   *

「お友達ですか?」
「うん、オサムだ。オサム、こちらは神父サマ」
「こんにちは。いつも空閑がお世話になってます」
「はい、こんにちは。礼儀正しい方ですね。どうぞ、ゆっくりしていってください」
 何もない場所ですが。明るく、冗談めかして言う神父は聖書台へと向かう。礼拝堂には少しずつ人が集まってきて、小さな子どもは物珍しそうに修をちらちらと見ている。
「綺麗なところだな」
「こなみ先輩のヒミツの場所だからな」
「それ、僕が来てよかったのか?」
「オサムなら大丈夫だ」
「そうか……あと、神父さん、確かに良い声だ」
「うん」
 天窓から斜めに日が差し込み、空気がきらきらと澄んでいる。両側の壁には一定の間隔でステンドグラスの窓が嵌められている。東から差し込む日が地面に長く鮮やかな影を落として、光の中で小さな男の子と女の子が遊んでいた。
「オサムはさ、見たことあるか?」
「何を?」
「ケッコンシキ」
 はっと息を呑む音が聴こえた。子どもたちの声に融けるような、それは静かなものだったけど、隣にいる遊真には分かる。
「……見たこと、あるよ。小さい頃、可愛がってくれてた親戚のお姉さんの結婚式に呼ばれたことがある」
「ほほう。おれもな、前に見たことあるんだ、ケッコンシキ」
「そうなのか」
「あれは、いいな。みんな笑顔だし、花嫁さんがきれいだ」
「そう、だろうな」
「ケッコンシキって、どうやったらできるんだ?」
 修は顎に手を添えて、考えるような仕草をする。そうしている間に、神父がミサの始まりを告げて、二人は慌てて近くのベンチに腰を下ろした。

 パイプオルガンの音色、聖歌隊の歌声。まったく知らない土地のような、けれどどこか親しみのある空間。遊真は時々、修の横顔を見た。神父の言葉に感銘を受けているのか、静かに話を聞いている。
 なまえと修は、すこし似ている。だから、きっとなまえもこんな顔で神父サマの話を聞くのだろうなと思った。頰が緩む。はやく、彼女にここを見せたいと、そう思う。

 神父の締めくくりの挨拶。さわりと空気が揺れてミサが終わり、子どもたちはいつものキャラメルを貰いに神父の元へ駆け出す。礼拝堂で走ってはいけませんよ、柔らかい声が響く。
 遊真はベンチに座ったまま、ぼんやりと礼拝堂を眺めながら、修の声を待つことにした。きしり、と修が身動いだ音。彼の視線は遊真と同じように、漠然と礼拝堂に向けられている。
「結婚するには、婚姻届が必要なんだ」
「うん」
「でも、結婚式には、そんなものは必要ないと僕は思う。お互いのことを支えると、神様や、大切な人たちの前で誓うことが、結婚式の本質だと思うから」
「じゃあ、ケッコンしなくても、ケッコンシキはできるんだな?」
「多分……。結婚、しないのか?」
「ああ。ケッコンって、人生の墓場なんだろ。そんなところになまえは連れていけないな」
「いや、それは」
「連れていけない、じゃ、ないな。連れていけないんだ、おれは。オトナにならないから」
「……空閑、」
「でもな、オサム」
 そこでようやく、遊真は修を見た。案の定、納得のいってない、辛そうな顔をしている。でもそれも、その顔も、心地いいとまでは言わないけれど、遊真の心を搔き乱しはしない。自分のことをこんなにも案じる相棒の存在に、喜ばずにはいられないから。
「おれ、わがままなんだろうな。ケッコンシキは、……ケッコンはしなくていいけど、ケッコンシキは、したいんだ」
 言い切って、ふう、と息が漏れた。肩の力がゆっくりと抜けていく。いつの間に肩を張っていたのか、そんなことも思い出せないくらい、その言葉は遊真にとって重要なものだった。けれど、これで終わりじゃない。迅の言葉を思い出す。なまえを綺麗な花嫁にするには、きっと遊真だけでは足りない。
「オサム、手伝って、くれないか」
「……まったく」
「ダメか?」
「もう忘れたのか? 僕は、空閑のやりたいこと、いつだって助けたいと思っているんだ」
「……うん、知ってる」
「挙げよう。空閑と、なまえさんの、結婚式」
 毅然という、その姿が遊真は好きだ。あの日、彼と部隊を組んだのは、きっとこの強さをもう知っていたから。
「ほら、オサムはやっぱり、おひとよしなんだ」
「そんなことないぞ」
「そういうことにしておこう」
 修がふっと微笑む。その陽だまりの中に自分がいることが、なんだか夢のようで。遊真は目を細めて笑った。


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