いつかのきみに花を贈るとして

 なまえは、夏の空が好きだった。真っ青な空に、いかにも夏の盛りを思わせる入道雲。青と白のはっきりとしたコントラスト、まばゆい光。生きている、という感じがする空だ。
 けれどこの暑さはいただけない。アスファルトに濃い影がうまれて、日光を散々に浴びた頭が熱をもつ。しゃわしゃわと、蝉の音のなかではいくらか涼しげな音色がわずかな救いだった。
 登ってきた坂道を振り返れば、景色が陽炎で揺らめいている。ぎらぎらと輝く太陽のせいで、引かれた白線を視界に入れた途端に目が眩んだ。住宅街を抱きかかえるように広がる空に、高くのぼった入道雲。きっと今日も、夕立が降るのだろう。
 まだじっとりと湿気を含んだ生温い風は慰めにもならない。なまえは蒸し暑さに辟易しながら、誰かの家の庭から道にはみ出た木陰に入った。
 花束を抱えた腕は暑さのせいかじんわりと疲れを訴え始めている。一息ついて、花束を反対の手に持ち替えた。潰れないように丁寧に。重さから解放された手をぶらぶらと振ってやれば、血が通って気力が湧いてくる。空いた手で鞄を探って、首筋を伝う汗を冷汗シートで拭った。ひやりとした感覚はすぐに暑さに混じってしまうけれど、やらないよりはいい。

 ――彼は、こんな暑さでもいつも涼しげに笑っていた。

 ふわふわの、それこそ雲のような白い髪の少年を思い出してそっと笑った。彼は、夏の暑さにこうも苦しめられることはない。それを羨ましいと言ってはいけないと、わかっていた。ほんとうは彼だって、この頭が痛くなるような暑さを感じて、夏に文句だって言ってみたいと、そう思ったはずだった。
 木陰から出て、目的地への歩みを再開させる。いくらボーダーに入って生身も鍛えたとはいえど、夏の坂道は少しきつい。早く登りきってしまいたかった。
 『修行がたりないな』と、言われたのを思い出した。綿菓子のような髪をもつ小柄な体をした彼は、見目に反して少々辛辣なところがあった。シビアというべきだろうか。そういう姿勢のせいか、彼はとても強く、ボーダーでも実力が抜きん出ていた。
 入隊したばかりの彼に負けてしまったこともある。けれど彼はそれに驕るわけでもなく、ただ楽しそうに赤い瞳をきらめかせて、頼めば何度でも対戦してくれた。
 歳はひとつ下なのに、いつもなまえの前を歩いて、いろんなものを軽々と飛び越えていた。ちょうど坂道の上にいるみたいに、こちらを振り返って『はやくこい』なんて笑っていた。
 なまえはその小さな背中を追うことだけを考えた。負けたことが悔しかったというのもあるけれど、こわかった、という気持ちもある。見失ってしまうと、ぱっとガードレールの向こうに消えてしまいそうでこわかった。
 だから、懸命に追いかけた。その背中が消えてしまわないように。立ち止まってしまったら、なまえがその手を引いて進めるように。追いかけて、追いついて、並んで、いつのまにか互いに隣にいる存在になっていた。そんな日々を、なまえは彼と――空閑遊真と過ごしたのだった。
 空閑遊真と出会ったのは、今とは正反対の冬の夜だ。もう何年前になるだろう。頭のなかで数えてみる。いち、に、と数えて、そこでやめた。数えてしまうと、きっとすこしだけかなしくなる。
 あの出会いから季節はいくつか巡って、そのあいだに遊真のことも色々と知った。ボーダーが敵としている近界民だったこと。それでも、なまえたちの敵ではないこと。本当なら生きてはいないこと。彼の父親だった黒トリガーのこと。一緒に過ごしてきた相棒のレプリカのこと。どんな世界で生きてきたかということ。きっと、なまえよりも先に死んでしまうこと。そのどれもが、なまえの想像の外側だった。住む世界が、違う人だった。
 それでも。なまえは、まだ彼に恋をしている。いつから、というのは考えないことにしていた。初めからだったのか、途中からだったのか、自分でもよくわからないからだ。けれどこれだけは言える。
 なまえは、今も、遊真が好きだ。
 この恋心は、ときどきなまえを苦しめる。彼の最期を思って、泣いてしまうこともある。どうして、と神様を恨んだこともある。それでもまだ好きだった。
 「不思議だなぁ」と、思わず声に漏らした。平日の昼間の住宅街だ。それほど騒音は多くはないけれど、通りがかる人も少ない。呟きはなまえの鼓膜をやわく震わせただけで、そのことがなんだかおかしくて笑った。
 今日が遊真の誕生日だと、そう教えてくれたのはレプリカだった。出会ったあの冬の、遊真が席を外していたとき。まだそれほど親しくもなく、話題に窮したなまえがなんとなく訊ねてみれば、トリオン仕掛けの機械は『こちらの暦に換算すれば七月……十八日、といったところだ』と答えてくれた。訊いておいて、よかったと思う。でなければ、しばらく誰も遊真の誕生日を知らなかったのだろうから。
 坂道を登りきった。平坦になった道に、ふぅ、と大きく息をつく。目的地まではあと少し。緑が目立つようになった道には影も多く、少しだけ涼しい。立ち止まれば余計に疲れるとは経験でわかっているので、そのまま足を進める。
 三門霊園、と書かれた看板が見えて、つきりと胸が痛む。いつだって、その死はなまえの胸のなかにある。けれど今は、悲しいばかりでもない。泣いていたばかりのあの頃と違って、なまえは前に進む力を持っている。
 歩調を緩めず近寄れば、看板の影からひょっこりと白色が見えた。そっと目を細める。
「なまえ」
 なまえが近づいてきたことに気づいた遊真が、いつものように軽く笑みをたたえて出迎えた。白い髪に赤い瞳、それから色彩によるものだけではない浮世離れした雰囲気はいつまでたっても薄れない。けれど彼が浮かべる楽しそうな笑みがなまえは好きだ。
「お待たせしてごめんね、遊真くん」
「気にするな。花、買えたんだな」
 遊真の視線がなまえの抱えた花束へ向く。出会った時から身長の変わらない彼の目線は、ちょうどなまえの抱えた花束と同じぐらいの高さだった。開いていくばかりの目線の差に、変われない彼に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 色とりどりの花に顔を近づけて、遊真がいいにおいだと囁いた。
「うん。お母さんの好きな花、ちょうど売っててよかった」
「よかったな」
 誕生日に何が欲しいか、と遊真に訊ねたのは数日前だ。もう何回かこの日をともに過ごしていて、めぼしいプレゼントは数々のイベントにかこつけて渡してしまっていた。言ってしまえばネタ切れというやつだったのだけれど、何年か付き合っている恋人同士にはよくある現象だと思いたい。
 なにか、物か、それともしてほしいことか、ふたりの時間か。そんな答えを想像していたなまえに、遊真は少し悩むような顔をしたあと、『ごあいさつにうかがいたい』と告げたのだ。
 『ごあいさつ』、とおうむ返しをすれば、遊真は左手の薬指にはめた指輪を撫でながら、『それが礼儀だときいた』なんてイタズラめいた笑みを浮かべた。三門霊園に眠るなまえの家族に、会いに行きたいのだと。
 遊真くんの誕生日だよ、本当にいいの? となまえは言ったけれど、遊真の意志は硬かった。おれの誕生日ならわがまま訊いてくれるだろ? と恋人間でのみ通用するふてぶてしさもなんだか愛おしくて、承諾したのだ。
 前々から思っていたことなのだけれど、遊真はあまり自分の誕生日に固執していない。祝われることを嬉しくは思っているようだけれど、それだけだ。多分、彼が成長しない体であることは、無関係ではないのだろう。それから、単純に誕生日を祝うという習慣にまだ不慣れなのかもしれない。
「案内してくれ」
 遊真が促す。なまえは花束をしっかりと片手で抱えて、遊真の手をとる。平熱以上の熱を持たない手は温もっているけれど、なまえのように夏の暑さの影響を受けていない。さらりと乾いた顔に、焼けない肌。
「……どうかしたか?」
 赤い瞳がなまえを見上げる。変わらない面差しに目を細めて、きゅっと握る手の力を強くした。
「夏の陽射しの下で見る遊真くんは、眩しいなぁって思って」
「白は光をよく反射する、だったか?」
 うん、と頷いて、霊園のなかへ進んでいく。ウソを見破ることのできる彼は、なまえが本当のことを言わなかったことも、気づいているだろう。それでもそれを暴かないのは、彼なりの優しさだった。


 家族の墓参りを済ませたあと、一人で登った坂道を、ふたりでくだる。坂道の終わりに、街まで向かうバス停がある。陽射しはちっともやわらがない。相変わらず空は青く、入道雲はもくもくと立ちのぼっている。夕立が降る前に帰れそうでよかった。それに登りに比べれば、下りは楽だ。
 とんとん、とリズミカルに足が進む。玉狛に戻れば、遊真を祝うためのパーティが待っている。そう思えば余計に足が早まった。遊真は一歩先に出て、エスコートするように手を繋いだまま歩いてくれている。
「遊真くん」
「なんだ?」
「誕生日おめでとう」
「昨日の夜も聞いたぞ」
 くすくすと笑う声に、そうだったねと頷いた。ああけれど、何度言ったって足りない。おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。
 それをすべて言おうとすると、きっと涙で濡れてまともに喋れなくなる。だからなまえは、もう一度、心を込めて「誕生日、おめでとう」と囁いた。遊真も、うん、と笑いながら返す。
「……今更なんだけどね、ごあいさつって、プレゼントされなくても行くものじゃないかな」
「うすうす考えてはいた」
「だよね。だから、なにか別のものをプレゼントしたいな」
「気をつかわなくていいんだぞ」
「喜ばせたいだけなの」
 困ったやつだ、と遊真が笑った。本当にね、と返す。
「……なんでもいいのか?」
「私ができる範囲のことなら」
「じゃあ、」
 と、遊真が立ち止まって、なまえの正面に回った。白い髪がいっそうかがやいて眩しいけれど、彼を見つめることは不思議とつらくない。いま、彼が生きているということがあまりにもうれしいから。
「さっきの花を買ったところに案内してくれ」
「花が、欲しいの?」
 予想外の言葉に首をかしげた。なまえの知る限り、遊真は特別花が好きというわけでもない。そんな気持ちを見透かしたのか、遊真は笑って首を横に振った。
「いや? 花の名前はよくわからんが、行けば好きだと思える花も見つかるかもしれないだろ。なまえは、それの名前を、覚えてくれればいい」
 赤い瞳が、またたく。その奥にある深い色をみつけて、ぎゅっと心臓が握りつぶされたように疼く。
「覚えて、どうするの?」
「いつかそれを、おれにくれ」
「……いつか」
「忘れた頃にプレゼントされると、びっくりしてうれしいだろ」
「……サプライズだね?」
「そういうことですな」
 満足そうに頷いた遊真は、なまえの手を引いて歩みを再開する。このままくだっていいんだよな? という問いかけに、大丈夫、と答える。
 遊真が握っているのは、なまえの左手だ。薬指にはめられた指輪がきらきらと輝いている。
 言葉通りに受け取れば、今日ではなく、今日のことを忘れた頃に花をプレゼントしてくれというだけのことだ。けれど、三門霊園という場所からの帰りに。遊真という人が、いつか、忘れた頃に、花を贈ってくれというのは。それは、すこし。
「……遊真くん」
「ん?」
「遊真くんの一年が、素敵なものになりますようにって、誕生日は毎年お祈りしてるの」
「そうなのか」
「うん、でも、そのお祈りは一年しか保たなくて。だから毎年しているわけなんだけど」
 前を歩く白い頭を見つめる。ふわふわの、雲みたいな。いつか空の果てへと消えていってしまいそうな。
「だから、来年も」
 祈らせて、ね? ――違う。
「祈る、からね」
「……ん、そっか」
「うん。ありがとう」
「どう、いたしまして?」
 すこし困ったような声が答えた。なんて答えるのが正解か迷って、けれどありがとうにはどういたしましてでいいんだろう、と戸惑いながら言葉を選んだのがわかる。そういうところが、好きなのだ。
「そうと決まれば、はやく花屋さんに行かなきゃ」
「レイジさんのごはんは出来立てがいちばん、ってこなみ先輩も言ってた」
「そういうことだね」
 とんとん、とふたりで坂道をおりていく。だんだんと早くなるリズムが、駆け足に変わるのはそう遠くない。青い空の下を、ばたばたと駆け抜けて行く。生温くゆるやかな風は、走り出せば少しだけ冷たく、強い風に変わるようだ。
 笑いながら駆け下りて、坂道の終わりに着く頃には、なまえは肩で息をしていた。止まると汗が噴き出して、背中がじっとりと濡れる。それに比べて遊真は涼しい顔をしていた。
 仕方ないことで、かなしいことでもあるのだけれど、「修行が足りませんな」と笑う顔がほんのすこし憎らしい。むにん、と頰をつまむ。この伸び具合は癖になる。遊真が何か言っているが、頰を引っ張っているので何を言っているかわからない。ふたりして笑った。こうして笑い合えることがなによりも嬉しいのだと知っている。
 頰をつまんでいた左手は、遊真の左手にとられる。もうつまむなと言わんばかりに指と指の間を埋め合うように繋いで、薬指にはめられたふたつの指輪が光る。
 いつか、彼に花を贈るとして。その日は避けられないとして。それでも、今、遊真はなまえの隣で笑って、生きている。
「次は、何が欲しいのかなんて訊かないから。サプライズ演出、楽しみにしててね」
「言ったらもう、サプライズではないのでは?」
「細かいことは気にしないの」
「ふむ……たのしみにしている」
 きゅっ、と握った手に力を込めれば、応えるように強く握られる。
 いつか訪れるその日まで、きっとふたりで歩いていこう。互いが生きて、隣にあれることをそっと祈りながら。


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