チーズオムレツ

 まだ朝も早い時間、月久はキッチンに立っていた。サラダ用のレタスを氷水にひたす。サラダはシャッキリとした食感が命だ。
 カフェ・ユーリカの二階にある居住スペースのキッチンは、大きさはカフェほどではないが、こちらもよく手入れして使い込んだ、慣れた空間だ。ところどころに貼られた白地に青で図案が描かれたモロッカンタイルは、年月を経てもなおつやりと輝いている。
 キッチンのタイルは、月久が妻に言われて一枚ずつ貼ったものだ。それはこっちでしょ、そうじゃない、もうどうしてそのふたつを並べるのかしら、なんて。妻は月久の隣で好き勝手に言っていた。この場所のあらゆるところに、彼女との記憶が眠っている。
 カフェと家は月子へ受け継いだわけだが、どちらも譲る以前と何も変わっていなかった。月子がそうしてくれているのだろうと思うと笑みが浮かぶ。
 大切な人が、自分の大切なものを同じように大切にしてくれている――それ以上のよろこびは、月久の長い人生にも少ない。だからこそ月久は、血を分けた家族であることを抜きにしても、月子のことを愛おしく思うのだろう。
 まあ、もうちょっとぐらい好き勝手にやってもいいだろうに、とも思うのだけど。

 時刻は六時ぴったり。月子の寝室からアラームの音が聞こえてくる。それはすぐに止まって、 がちゃりと扉が開かれた。この家はリビンングダイニングが中心としてあり、そこから各部屋や玄関、浴室へ繋がる構造になっている。
「お早う、月子」
「……、おはよう……?」
 寝起きにぼんやりとする癖はまだなおっていないらしい。寝間着にぼさぼさの髪。目元をごしごしとこすっているが、月久のことを本当に認識しているかは危うい。ぺたぺたと裸足で洗面所に向かう足取りもふらふらと頼りない。顔を洗って髪を整えて、戻ってくるのは二十分ほどかかるだろう。身支度だけならもう少し早いが、鏡の前でぼんやりと立ち尽くす時間も計算に入れている。
 フライパンの中に長めのソーセージを四本と水を入れ、蓋をして火にかける。ソーセージは多少手間でもボイルしたほうが美味しいのだ。ケチャップと粒マスタードを添えれば立派な朝食になる。
 しかし、寝惚け癖は相変わらずとはいえ、月子も大きくなった。月久はレタスを手で小さく千切りながら考える。あの幼く、ちいさかった月子がもう二十五歳になる。自分も歳を取るはずだ。まだまだ若いものに負ける気はない――などと、そんな気持ちが既に月久が若くないことを示している。
 月久の妻が儚くなってから多くの時間が過ぎた。月子が生まれる前に消えてしまった彼女は三門市の霊園に眠っている。一昨日帰ってきたのは、盆に合わせて彼女の墓参りをするためだった。
 店が休みだった昨日、月子とともに赴いたその場所はよく整えられていた。月子が定期的に掃除しているのだろう。月子の父――自分と彼女の息子は仕事の都合がつかず帰って来れなかったが、妻はそういうことを気にする女でもない。穏やかな気持ちで彼女の前に立てることを、それだけの時間が流れたことを、月久は寂しくも思う。
 フライパンの中でお湯が沸き立った。中のソーセージを軽く転がせて、もうしばらく茹でる。レタスと同じように氷水にひたした水菜をキッチンハサミで一口大に切る。氷水をシンクにあけてから、キャベツと軽く混ぜ合わせてキッチンペーパーで水気を取る。
 木のプレートを二枚取り出して、サラダを盛る。その上に細切りにした人参と赤パプリカを乗せる。これで彩りは完璧だ。オリーブオイルベースのドレッシングをかけておく。フライパンのお湯は蓋を使って湯切りして、ソーセージに焼き目をつけていく。じゅうじゅうと音を立てる脂とともに、美味しそうなにおいが広がった。
 冷蔵庫から先につくっておいたポタージュを取り出す。暑い夏には冷製が飲みやすいだろうと、スープカップに注いで冷やしておいたのだ。そのまま木のプレートの上に置く。ソーセージをひっくり返してもう片面にも焼き目をつける。パチッと弾けるような音がすれば完了だ。木のプレートの空いている場所に盛って、ケチャップと粒マスタードも添える。
「ふむ……あと数分といったところだな」
 ――月子が戻ってくるまで。
 月久は楽しげに囁き、卵をふたつ、銀のボウルに割り落とす。卵同士をぶつけるか、平らな部分で叩いてひびをいれればカラは入りにくい。
 ボウルの中で卵がぐるぐる回る。菜箸を間隔をあけて持って、一定のスピード保ち混ぜるのがコツだ。泡立たせるのではなく、卵白のコシを切っていく。牛乳をちょろりと加えて、続けて混ぜる。塩と胡椒で下味もつけてしまう。
 ある程度混ざったら、一旦菜箸をあげてボウルの上に渡す。壁にかけてある、使い込んだ鉄製の小さめのフライパンを手に取る。ソーセージに使ったフライパンを流用することもできるが、オムレツを上手くつくるにはフライパンのサイズがすべてだ。洗い物が増えることを惜しんではならない。
 チッチッチッと点火する音が鳴って、炎が安定したら火力を調整する。弱中火。その間にお皿をお湯につけ、温めておく。
 フライパンが十分に温まったらバターを落とす。じゅわじゅわと泡立って溶けていき、豊かな香りが広がる。オリーブオイルでもいいが、やはりバターで仕上げるのが好きだった。
 菜箸に卵液を軽く付けて、一滴落とす。ジュッといい音がして白っぽく固まってくる。いい頃合いだ。ボウルの中の卵液をフライパンに注ぎ込む。
 数秒、触らずに少しだけ固まるのを待つ。ふちの色が変わってきたら、フライパンを手早くゆすりながら、菜箸でぐるぐるとかき混ぜる。ふわふわオムレツはこの工程でつくられるのだ。ある程度混ぜれば再び放置。卵の表面が半熟の状態で、ピザ用のチーズをひとつかみ中心に散らし菜箸でならす。小さくカットされたチーズは溶けやすい。
 ここまでくれば、後は巻くだけだ。コンロの火を止める。フライパンを軽く揺らして、柄をトントンッと叩く。少しずつひっくり返ってくるので、閉じ目が下になったら完了だ。
 お湯につけていたお皿を取り出し、水気を拭う。温められた皿は熱いはずなのだが、年相応に使い込まれ、厚くなった手の皮膚は熱に鈍い。フライパンからお皿にオムレツを移して完成だ。
 オムレツを二人掛けのダイニングテーブル――月久と妻しかいなかった頃に買ったものだが、息子が産まれてからも月久はあまり家に帰れなかったので、そのままで事足りてしまったもの――に運ぶ。オムレツは月子の分だけだ。月久にはカロリーが高すぎる。
「おっと、ケチャップを忘れていたな。わしとしたことが」
 ぴゃっと冷蔵庫へ手を伸ばした。ケチャップをオムレツにかける。悪戯心が湧いたので、一昨日に引き続き、リリエンタールと呼ばれる犬の絵を描いておいた。月子はまだまだ子どもっぽいところがある。きっとよろこぶだろう。
「おはよう、おじいちゃん」
「お早う」
 ここで月子が戻ってきた。梳かした髪を緩く結び、顔にはうっすらと化粧を施している。寝間着のままだったが、部屋に引っ込んで一分後には着替えて出てきた。黄色のストライプシャツに黒のスキニー。あとはエプロンさえつければ店に出れる真面目な格好だ。
 月子のために椅子を引いてやって、グラスにオレンジジュースを注いでやる。ともに席につき「いただきます」と手を合わせた。
「オムレツ、美味しそう」
「チーズ入りだよ。好きだろう?」
「うん」
 目を輝かせる姿に、月久のまなざしも緩む。月子は亡くなった妻によく似ていた。その色彩は妻よりも幾分か落ち着いているが、美味しそうなご飯を前に浮かべる表情などそっくりだ。顔を合わせたことはないはずなのに不思議なものである。
「何時に出るの?」
「食後の珈琲を飲んだら、かなぁ」
「次はどこまで?」
「ギリシャだ。お土産のリクエストがあれば言いなさい、送ろう」
「……また、しばらく帰ってこない?」
「ああ。寂しいかい?」
「子どもじゃないよ」
「そうかそうか」
 確かに子どもではなくなったのだろう。十三年前、月久の元に預けられた一人ぼっちの少女の姿はそこにない。見えないだけ、かもしれないが。しかしこれ以上は月久にはどうしようもない。
「常連さんたちに、よろしく頼んだよ」
「うん」
「あと迅くんにも」
「おじいちゃんが一目で気にいるなんて、めずらしいね」
「将来有望そうな青年だったからの」
 どうやら孫に恋をしたらしい、不憫な青年の姿を思い浮かべる。界境防衛機関ボーダーの古株、ということは知っていた。名前だけは訊いたことが――正しくは存在を調べたことはある。
「あんまり変なことしないでね」
 月子にしてはめずらしい、咎めるような物言いだ。身内故の親しみ、甘えだろう。合鍵の場所を教えたのは、当然、黙っておく。彼にとって良くないことではない。おそらく、月子にとっても。
 彼女はやさしく人を受け入れるが、気は許さない。我が孫ながら厄介な性格をしている。原因のひとつが自分であることは理解しているので何も言えた義理ではないが。
「変なことをした覚えはないのう」
「わかってて言ってるでしょ」
「おぉ、こわいこわい」
「もう……」
 怒ったような顔を家族以外のどれだけの人に向けているのだろうか。外の世界と関わるとき、月子はいつもどこか緊張している。一線を引き、気を抜かず、やわらかな物腰の裏でぴんと意識を張りつめている。寝ぼけているところなんて、月久以外には見せないだろう。
 家族として甘えられているのだと思えば、なんだこのかわいい孫め、なんて思うけれど、そんなかわいい孫にはもっとのびのびと暮らして欲しいとも思う。老婆心、いや翁心とでも言えばいいのか。
「さあさ、おじいちゃんのことは気にせずどんどん食べなさい」
 露骨に話を逸らす。月子は素直に従い、ぱくぱくと食べ進めて、すぐに笑顔に変わる。美味しいものを前にすればひどく単純になる性格も、やはり月久の妻譲りだった。息子を飛び越えて孫に遺伝したことにはクスリと笑ってしまう。

「食後の珈琲はネルドリップにしようか」
 ネルドリップは珈琲の淹れ方のひとつだ。基本はハンドドリップと同じ、異なるのはペーパーフィルターではなく、フランネルと呼ばれる布でできたフィルターを用いること。フランネルはドリッパーを必要としない、茶こしのような形で、手でもっておくタイプが多い。ドリッパーという壁がないので、珈琲がお湯でふくらむのを阻害せず、やわらかで優しい味になる。難点は管理が面倒なことだ。使うたびに煮沸し、保存は容器に水と一緒に入れ、毎日の取り替えも必要となる。フィルターに付着した珈琲の脂肪分が酸化しないようにするためだ。いくら客が少ないとはいえ、店ではやりにくい。
「管理はしてるかい?」
「うん、あんまり使ってないから、冷凍庫に入れてるけれど」
「じゃあなおのこと、片付けはわしがやるから安心なさい」
「ありがとう」
 月子よりも先に食べ終わったので、珈琲を淹れる準備をする。豆はペーパードリップのときよりも粗めに挽く。せっかくなので手動のミルだ。昔からある重いミルで、上に豆を入れて横についているハンドルを回すと、下の引き出しに挽かれた粉が溜まっていく。ごりごりという音も、ハンドルを回す手応えも心地よく、お湯が沸くまでの時間つぶしに丁度いい。
 お湯が沸いたら、まずは凍っているネルフィルターをお湯にくぐらせる。あっという間に解凍されて、布がやわらかく緩む。しっかり温めてから水気を絞ってきれいなタオルで乾拭きする。サーバーとカップも温め、フィルターの形を整えてから、珈琲豆を平らになるように淹れる。左手で持ってサーバーの上に合わせ、右手でお湯を注ぐ。
 最初の二十秒は蒸らしだ。ネルドリップはお湯を注いだときの泡がことのほかきれいに出る。そろり、と月子が立ち、月久の手元を覗いた。一昨日迅に言ったとおり『お湯を吸ってふくらむ珈琲豆』が好きなのだ。やれやれと笑って、朝食の続きを食べるように促す。
 三回ほどにわけてお湯を注ぐ。ペーパーフィルターのときよりも少し遅めに。珈琲のためにもネルフィルターを持った左手は極力動かさない。頃合いを見計らってネルフィルターをサーバーから外す。中の珈琲豆をある程度ゴミ箱に捨てて、流水で洗い落とす。余ったお湯を小さな鍋に入れ、そこにフィルターも浸けておく。煮沸は後でやればいい。
 サーバーとカップを持ってダイニングテーブルに戻れば、月子の皿も空になっていた。
 カップに珈琲を注いで前に出し、皿はシンクへ持っていく。
「いい香り」
「うんうん、やっぱり朝は珈琲だなぁ」
「……おじいちゃんって、いつから珈琲が好きだった?」
「どうした、突然」
「なんとなく」
「そうさなぁ、成人する前には飲んでいたなぁ……十六、いや、十四ぐらいにはもう飲んでいた気がするな。その頃はインスタントばかりだったがの。自分で淹れるようになったのはおまえのおばあちゃんと結婚してからだ」
「〝ユーリカ〟な珈琲?」
「ああ、そうだな。案外、好きになったのはそのときかもしれん」
「それまでも飲んでいたのに?」
「誰かのために淹れて、誰かと一緒に飲む珈琲以上にうまい珈琲など、ないのだよ」
 月久は頬がゆるゆると緩んでいくのを自覚する。うまい珈琲のおかげだけではないことは分かっている。妻との思い出は今も色褪せることはない。
「それは、最近、ちょっとだけ分かるよ」
 相手はきっと迅だろうな、と思った。あの不憫な青年は、けれど結構いい位置まで来ている。さて、どうなることやら――芝居の観客のような心地だけれど、それは彼が月子を手酷く傷つける男ではないと分かっているからだ。妙に鋭い勘があるようだしの、と脳裏に彼の所業、功績を思い浮かべる。
「さあ、珈琲を飲んだらオープンの準備だろう。今日もがんばっておいで」
「……うん、ありがとう」
 がんばる。囁いたその声が愛しい。他の男の手に渡るのは、やはり何だか少し面白くないとも思って、苦笑する。自分がこうなら父親はどうなのだろうか。月子の父は月久にとってかわいくない息子だが……かわいくない息子でよかったのかもしれない。

   *

「月久さん、本当にもう行っちゃったんだ」
「ええ。お店が開く少し前に」
「見送り、いかなくて良かったの?」
「行かせないようにお店が開く直前に出るんです」
「なるほど……」
 月子の表情がどことなくさみしそうに見えて、迅はじっと窺い見る。不在に慣れているとはいえ、やはり離れたてはさみしさが生まれるものなのだろう。喪失の恐れを迅はよく知っている。例え一時でも、直後には誰しもそうなる。
 そうでなくとも、今はお盆だった。死を意識し、三門においては痛みや恐れがぶり返す時期だ。四年という時間は、短くはないけれど長くはない。
 もう何十年も前に妻を亡くしたという月久はどうなのだろうか。お墓参りに行ったということを訊いて、ぼんやり考える。
 月子の学生時代の友人も、誰か、亡くなった人がいても、不思議ではない。第一近界民侵攻とされるあの日から四年。たったの四年と言うか、もう四年と言うかは、人によってあまりにも異なる。時間の流れは同じだったはずなのに。
「……、」
「迅くん、ラテアートの練習、付き合ってくれますか?」
「もちろんいいけど、思ったよりもやる気だね」
 少し沈んだ表情が出ていたのかも知れない。月子が気遣うように話しかけてくれたのがわかって、気持ちを切り替える。そういうのは得意だ。
「はい。迅くんと珈琲を飲みたいなぁと思ったので」
 照れたような、はにかんだ笑みに、やさしいまなざし。迅を穏やかに包んでくれる月子がそこにいる。いてくれている。救われたような気分になっていいものか、時々迷うけれど、これでいい。迅は確かに、月子に救われたのだから。今の言葉にさえも。
「おれも、月子さんとコーヒーが飲みたいよ」
 同じ時を過ごしたい、きっとそれだけを思っている。


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