きのこ雑炊
耳障りなアラームが脳を揺らす。ずきずきと痛むこめかみ、重い瞼をゆっくりと開けば、カーテンの隙間から入り込んだ陽光が目に突き刺さる。ベッドの上で身悶えながら、腕を精一杯伸ばしてアラームを止める。細目で見た時刻は八時過ぎ、完全に寝坊だ。
月子は身体の気怠さを自覚して溜息をついた。その息も熱い。
(……風邪、引いちゃったか)
けほっ、と喉の奥のささくれが呼吸に引っかかって咳き込む。その振動にまた頭がずきりと痛む。夏の終わりの風邪、原因は分かっていた。店の定休日だからと裏庭の整備をしているときに降った大雨。濡れたままでいた時間が長かったせいだろう、夜から寒気は出ていたが、早く寝れば大丈夫と思っていた。
今日は営業日だけれど、この体たらくでは店を開くわけにもいかない。不甲斐なさを噛み締めて、ずり落ちるようにベッドを降りる。くらくら揺れる頭を抑えながら階下のカフェに向かう。臨時休業の札を出さなくてはならない。
店と住居が同じでよかった、と階段をゆっくり降りながら思った。
小さな黒板に臨時休業の旨と謝罪の言葉を書き、扉の前に置いておく。しんとした店内が何となくさみしい。月子が知る限り、祖父が体調を理由に店を休んだことはなくて、一緒に暮らしていた頃も月子が学校に行く時間には店でオープンの準備をしていた。その記憶が色濃く残っているから、余計にさみしいと思うのだろう。
ずきっ、と頭痛がはしる。溜息を重ねて、すこし億劫になりながらも階段をのぼる。備え付けられた手すりの存在が有り難かった。とにかく眠たくて仕方がない。
自室のベッドに倒れこんで、夏用の薄い布団を手探りで引き寄せる。そろそろこの布団も分厚くしなければならない季節だろうか。いやでも、最近は九月も十分に暑い。
横になって落ち着いてくると、かえってずきずきとした痛みを鮮明に感じる。痛みにまとまらない思考が、不意に幼い頃の記憶を掴んだ。
小学生のころは、そういえば夏休みが嫌いだった。カフェ・ユーリカに行けるのはうれしかったけれど、それも毎日というわけにはいかなくて。
家に、ずっと一人でいるのは、さみしくて。
――ピンポーン。チャイムの音に誘われて玄関に向かう。扉を開ける前にビデオインターフォンの受信機を見る。そこに立っているのは宅配便の人、あるいは通いのお手伝いさん。どちらも待ち望んだ姿ではない。
それでも月子を笑み浮かべ、こんにちは、と扉を開けて応対する。
ピンポーン、とチャイムが鳴ればまた玄関へ。何度でも。
ほんとうはわかっていた。
月子が待っている人は、チャイムなんて鳴らさない。父も母も家の鍵は持っているはずだから。だから、チャイムが鳴ったからといって期待するのは馬鹿のすることだ。そんなこと解っていた、解っていたけれど、玄関の前で膝を抱えるように蹲った。
両手で抱きしめた膝は小さかった。それが幼い自分の膝だとわかる。
――これは夢だ。わるい、ゆめ。
扉は開かない。月子が言いつけ通り内側からかけた鍵を、開ける音も聞こえない。かちゃり、と外で鍵穴が回る音を、月子は内側から聞いたことがない。
父は仕事で、帰ってくるのは良くて月に一度。帰ってこないことの方が多い。
母は、帰ってきたり、こなかったり。
扉の向こうから自動車のエンジン音が聞こえる。それが家の前で止まってくれないかなと思うけれど、いつも過ぎ去っていく。部屋の中はしんと静まり返っている。
(…………さみしい、)
誰もいない。声をあげても無意味だと知れば、言葉は喉の奥へ押し込めて。それでもどうしようもなくなったら、カフェ・ユーリカの扉をくぐった。使い切れないお小遣いを交通費にあてて、一人で。祖父のいる、楽しいお客さんのいる、あたたかい場所へ。そこで過ごせば笑い方を思い出せるから。心は静かで寂しい家に残したまま。
ピンポーンと、チャイムが鳴る。
鳴る。
鳴る。
鳴る。
嫌いな音だなと思った。月子が出なければ鳴り止まない音は、月子が一人であることを知らしめる。
扉の前に座り込んでいた自分がどんな顔をしていたのか、月子は知らない。くちびるを噛んでいた記憶はある。目が熱くて、鼻をすすっていた。ぎゅっと身を縮こめて、固くして、床に直接座ったせいで底冷えして、骨が痛かった。冷たくて静かな記憶。
ああ、でも今は、全身が熱い。
風邪を引いたときに、自分の手を握ってくれる母を、どれだけ夢に見ただろう。発熱にともなうあたたかさを、抱きしめられた温もりだと錯覚して目覚めたときの、あの虚しさを。心にぽっかりと空いた穴を、思い出す。どうして誰もいないのだろう。どうして自分は独りきりで眠るのだろう。
――どうして。
額に触れる冷ややかな指先を夢見ていた。
汗でぺたりと張り付いた髪をそっと整えられ、やさしいやさしい手付きで汗が拭われる。耳元でからりと氷が崩れる音が響く。水面がぴちゃりとゆれている。額にはよく冷えて絞られたタオル。すっと痛みが引いていく。そんな夢を見ている。
薄い瞼の向こうで光を遮って動く人を感じる。けれどそれは幻想なのだと分かっている。子どもの頃からずっとそうだった。起きても、月子の望む人はそこにいてくれない。目尻から滲んだ涙を拭う指先さえも感じて、きっとそれは枕が吸い取ってしまっただけだろうに。
(……今、何時だろ……)
少しだけ冴えてきた頭、ゆるゆると夢と現実を切り離す。大丈夫だ、月子はもうあのときほど幼い子どもではないから。
お腹が空っぽだ。何か入れて、薬を飲まなければ。
そっと目を開ける。寝ている間に泣いたのだろうか、目が霞んで、焦点を合わせるのに少し苦労する。
「おはよう、月子さん」
ぱちり、と目を瞬いた。ベッドに横たわったまま、首だけを動かした先。ベッド近くの壁に背を預けて、降り注ぐ光に照らされた髪は陽だまりの色。その声はまるで夢のように心地よい。心配そうだった視線は月子を撫でるように見つめ、やがてゆるゆるとやわらぎ、甘やかに蕩ける。
迅が月子を見ていた。側には氷水が張られたボウル。彼の手元には何かの端末。
彼はくぅ、と伸びをして、「よかった」なんて微笑む。
「何か食べる? 一応、色々買ってきたけど。食欲は?」
「……、ある、」
じゃあ何か用意する、そう言いながら、迅はペットボトルの蓋を開ける。ぱきり、と固い音がした。風邪引きがよく飲むものだ。ぼんやりと見ていれば、迅はペットボトルの蓋を一周だけ回して閉めて、枕元のチェストに置く。
「……⁉」
ばっ、とベッドの上で身を起こす「なんで迅くんがいるんですかっ」最初に訊くべきことがようやく思いついた。
「あー……、虫の知らせ、というか……」
ぽりぽりと頬をかく迅は少しだけ視線をずらしている。じっと見つめていればますますその視線が逃げた。看病をしてくれていたのだろうとは思う。夢で見た冷えたタオルの感覚も本当のことだったらしい。起き上がった拍子に膝に落ちたそれはまだ冷たい。こまめに変えてくれていたのだろうか。
「…………おじいちゃんでしょう?」
「それは、」
「大丈夫です、深く訊かないことにします。看病、してくれたんですよね?」
どう説明しようか迷っているらしい迅に助け舟を出す余裕も出てきた。不法侵入で訴えることもできる状況だが、どうせあの祖父が一枚噛んでいるに違いない。そう思うと、目の前の迅を責めるのは罪悪感が募った。
自分の格好を見下ろすと恥ずかしさが込み上がるけれど。気の抜けた寝間着、頭の感じからして寝癖も酷いだろう。部屋をきれいに整えてあることだけは救いだけれど、恥ずかしいことには変わりない。同じカフェ・ユーリカのお客さんでも、弟のように思っている迅でなければ怒っていた。
だから、そう思っている時点で、そんなに怒っていない。恐怖もない。ただ驚いているだけだ。自分でも不思議だけれど、丁寧に絞られたタオルに絆されたのかもしれない。
「……無理しないでいいよ」
「本当に怒ってはいませんよ」
「そっちもだけど、体調」
「寝たら少し楽になりました。……看病ありがとう、迅くん」
「……怒らないの?」
「怒っていないのに怒れませんよ」
「やっぱり、月子さんってお人好しだね」
「虫の知らせでここまで来て看病する迅くんに言われたくはないですね」
ぐっ、と黙った迅を見て、久しぶりに勝てた、と笑みを浮かべる。いつもは散々年下の迅に振り回されている気がするので、たまに勝てると楽しい。
眠る前よりも少し頭がすっきりしている気がするのは、ただ眠ったからではなくて、迅のおかげだろうか。よく冷えたタオルが気怠さを吸い取ってくれたのかもしれないと思う。
迅が開けてくれたペットボトルに口づけ、こくりと飲み込む。常温より少し冷たいそれはすっと身体に馴染んでいく。
「薬も買ってきたけど飲む? 食後のやつだから何か食べなきゃなんないけど」
差し出されたパッケージは月子が常備しているものと同じだ。薬を取りに行く手間が省けた。後で迅に薬代を渡さなければと頭にメモをする。
「飲みます。食事は……、」
「おれがつくるから、月子さんは寝てて」
「え、いや、そこまでは……」
「月子さんが薬飲んだら帰るから」
「でも、」
「恩返し、させて。たまには」
「……恩、返し?」
「そう。恩返し。喉が渇いてカラカラだったおれを潤してくれた、恩返し」
「……初めて、会ったときの?」
熱が引いていないせいか、思考はまだすこしぼんやりとしている。どうやら迅に譲る気がないらしいというのは判断できたが、恩返しという言葉には、首を傾げた。それを語る迅のふわりとした笑みにも。
初めて会った日、月子はただ水をあげて、パスタをつくって、それから一緒にカフェオレを飲んだだけだ。それの恩というならば、そのあと迅が店に通ってくれたことで返されたと思っている。
「寝てて、月子さん。早く元気になって欲しいからさ」
ぽんぽん、と迅がしゃがみ込んでベッドの端を叩く。その声がやさしくて、思わずすごすごと横たわり、布団を被った。その上から迅が毛布をかける。リビングのソファにかけておいたものだ。わざわざ持ってきてくれたらしい。
「きのこ好き?」
「嫌いなものは、特には」
下から迅を見上げる。身長が高いことは知っていたけれど、しっかりと大きくて、男の子というよりは、男性なのだなとぼんやりと思った。中身は人懐っこい少年のようだけれど。今も、張り切るさまがなんだか幼いように思えてしまう。月子が歳を取ったせいだろうか。
「じゃあちょっと待ってて。キッチン借りるよ」
迅が離れて行き、部屋の扉をくぐって消える。ぱたん、と閉じた扉。その向こうから小さな足音。キッチンに辿り着いたのか、水音も聞こえてくる。てっきりレトルトのおかゆか何かだと思ったけれど、手作りしてくれるらしい。
キッチンから響いてくる物音に耳を傾ける。今のは備え付けの収納の扉を開いた音だろうか。大きめの鍋やフライパンを仕舞っている場所だ。不慣れな場所で一人で調理する迅のことは心配だけれど、布団の温もりと、耳に残るやさしい声音が月子をベッドに引き止める。
「……、寝てて、か」
そういうことを言われたのはいつぶりだろう。風邪で寝込んだとき、目覚めたときに、そこに誰かがいるのは。起き上がらなくても飲み物が、薬が、食事が得られる。ここで祖父と住んでいたときは風邪なんてほとんど引かなかったから、本当に久しぶりだ。
じわじわと目に熱が溜まる。ぽろりと零れ落ちた涙は、きっと熱のせいだろう。そっと瞼を閉じる。食事が済むまでは迅もいてくれるらしい。それなら、眠ることが何も恐くない。眠って、また目覚めることが、恐ろしくない。ひとりにはならないのなら。
熱も手伝って、月子はすぐに意識を手放した。
ぱかり、とシメジを半分に割って、石づきとの境に包丁を入れる。まだ繋がっている部分は手でほぐす。長ネギは薄く斜め切り。だしの素と水を鍋に入れて煮立たせ、シメジとネギも投入した。蓋をしてしばらくしたら弱火に落とし、玉狛から持ってきた冷や飯を入れる。雑炊をつくるのは得意だ。というか鍋料理しかつくれないから必然的に。いや、つくれないこともないけれど。
初めて訪れる月子の部屋で、迅は月子のために料理をしている。恋人でもない、ただの店主と客という関係のはずなのに。それを可能にしたのは前店主の翁だけれど、まんまと乗っかったのは迅だ。罪悪感はある。
けれど、だって。
――死んでしまうかと思ったんだ。
呆気なく、誰にも知られず、消えてしまいそうな。そんな予感が、確かに迅の胸に浮かんだ。それが本当に可能性のある未来だったのか、それともただ迅がそう思ったのか、その境は曖昧だ。
ひとつだけ言えるのは、ここに来たのは間違いじゃなかったということ。眠る月子の眦に滲んだ涙を、まだこの目と指が覚えている。
くつくつと揺れる鍋の音を聞きながら考える。
どうしてあの人は、仰木月子というひとはああも優しいのだろうと。普通だったら悲鳴の一つでもあげて、警戒するはずで。いくら破天荒な祖父の存在が浮かんだからといって、何の怒りも向けてこないのはどういうことだろう。
弟のように思われているのは察していた。他の人間よりも近しい位置にいることは。
それでも怒りを向けられない。向けてくれない。
確実に線を引かれている。けれど突き放されているわけでもない。
ずるい、とは思わない。まして優しいとも思わない。強いて言うならば、淡白だった。月子は怒りに対して、人との負の繋がりに対して、とても淡白なのだ。冷淡と言ってもいいのかもしれない。
反面、気さくでお人好しの部分があって、だから騙されそうになる。怒らないのは優しさの延長なのだと。いや、そういう面も、おそらくはあるのだろうが。けれど、何一つ怒られないというのも――それはそれで、辛いものがある。
もっとこっちを向いてほしいと、心臓が引き絞られたみたいに、痛むのだ。
お米とシメジがくったりとしたら火を止めて、塩と醤油で薄く味をつける。味見を一口、悪くない。深めの皿に盛って、見つけ出したレンゲと一緒にお盆に載せる。
それを持って月子の寝ている部屋に戻れば、彼女はベッドに伏せていた。扉の方に身体を向けて眠る月子の目尻に涙が溜まっていないのを見て安堵の息を漏らす。悪い夢はもう見ていないらしい。
「……月子さん、起きれそう?」
そのまま寝ていて欲しい気もしたけれど、何か食べないことには薬も飲めない。声をかけると、まだ眠りが浅かったのかそっと瞼が開かれる。
「……じんくん、」
「ん? なに?」
「ふふ、いる……」
すやぁ、と効果音がつきそうな顔で目を閉じた月子に慌てる。
「月子さん?」
もう一度、大きめに声をかけると、肩が跳ねてぱちりと目が開く。
「起きれた?」
「……、起きました」
のろのろと身を起こそうとする月子に無理はしなくていいと声をかける。大丈夫です、と笑顔を浮かべた月子は壁に背を預けて起き上がった。寝込んでいたときに比べると、顔色もいい。
「いい匂いですね」
「きのこ雑炊、食べれそう?」
お盆に載せたそれを低い位置に下げる。覗き込んだ月子の顔がふにゃりと和らいだ。おいしそう、ぽつりと呟かれた言葉がうれしい。
「食べさせてあげようか?」
「?」
「あーん?」
「だ、大丈夫です、一人で」
差し出された手は迅からお盆を受け取ろうとしている。風邪のときの定番、おかゆをあーんはできないらしい。そもそも雑炊だけれど。意地悪をしてみたい気もしているが、困らせたくはない。大人しく月子に渡せば、彼女はお盆を膝の上に置いた。
「いただきます」
「めしあがれ」
レンゲで一口分すくって、ふーっと息を吹きかけて冷ましている。その横顔をベッド脇に座って見ていればちらりと月子からの視線。見すぎたか。かといって。
「お気になさらず」
笑いながら言えば、月子は視線を雑炊に戻す。一口、ぱくりと食べてもぐもぐと口を動かす。こくん、と飲み込んでから、そっと微笑んだ。
「美味しいです」
「……よかった」
「……見られていると食べにくいのですが」
「おれの気持ちわかった?」
来店したとき、月子はいつも迅を見つめている。飲み物が口にあったのか気になっているだけとは分かっているけれど、この気持ちを自覚してすぐの頃は変に緊張したものだ。
「そ、それはすみません……」
「いーよ。月子さんに見られるの好きだから」
「どういう心境ですか?」
くすくす笑う月子には言えないけれど、好きな人の視線が自分に向いていることがうれしくて、役得だと思っている。
ぱくぱくと食べ進める月子を見ながら、自分の顔がゆるゆると緩んでいくのを自覚する。月子に自分のつくったものを食べてもらえる。この穏やかで少しそわそわするような気持ちを、たぶん幸せというのだろう。
「……元気になったらさ、また店開けてよ」
「もちろんです。サービスさせていただきます」
「うん」
「何かリクエストはありますか?」
「月子さんのつくるものなら何でも」
「何でも、ですか」
「困る?」
「いいえ。何を食べてもらおうか、わくわくしています」
穏やかに笑ってくれる月子が優しい人だと知っている。けれど、そんな月子でも、涙は流すのだということを、迅はさっき初めて知った。
たった一人で、眠っているときに、泣く。それが悲しいことのように思える。――静かに崩れていきそうだ。触れたら壊れてしまいそうな儚さが、奥底に沈んでいる。
「おれも楽しみだよ」
怒りを向けられることはない、そのことが少しだけ恐い。月子がくれるあたたかさは、どうしようもない悲しみを底に沈めたからではないと、そう言えないことが恐い。この人が水の底で、たったひとりで泣いているかもしれないことが――さみしい。
「腕によりをかけなきゃいけませんね」
今はまだ、そこに手を伸ばすことはできない。陽だまりのような場所の先にある、冷たい感情に触れることを、いつか許してもらえるだろうか。その冷たささえもあたためる栄誉をもらえるだろうか。
サイドエフェクトを使っても、その未来は見えないけれど。
「だから早く、風邪なんて治してよ」
「かしこまりました――私のお客様」
微笑んだ月子に、迅は今日も恋をしている。
*
風邪なんてまるで幻だったようだ。オープンの準備を終え、月子はいつもと同じように、カウンターの内側でレシピノートを開く。聞き慣れた音楽に、店に染み付いた珈琲の香り。深く呼吸をすればするだけ、心が凪いで落ち着く。
昨日食べたきのこ雑炊のことを思い出した。祖父以外がつくった料理を食べるのは久しぶりだったかもしれない。迅には迷惑をかけたけれど、ごめんなさいと謝るよりもありがとうと告げる方があの青年は喜んでくれるだろう。お礼に何をつくろうか、とレシピに目を滑らせる。
――からんっ、とドアベルの音。店内にお客さんはいない。顔を上げれば、扉の前で手を挙げたのはやはり迅だ。
「いらっしゃいませ、迅くん」
月子の声に、少し大人びた笑みが返ってくる。
「元気だね」
「迅くんのおかげですよ」
「お気になさらず」
こつこつと足音を響かせながら特等席に向かう迅。それに何だかほっとして、心が安らぐから、月子にとって彼がやってくることは当たり前のことになっているのだろう。
――それに恋という名前を、つけることはないとしても。