ほうれん草のポタージュ

 からんっ、と〝カフェ・ユーリカ〟のドアベルが鳴る。同時に、外の音がするりと店内へ入り込んだ。今日の三門市はざあざあと降る雨に包まれている。朝、店を開けたばかりよりも雨足は強くなっていた。近づいているという台風の影響だろうか。
「こんにちは、城戸さん。ひどい雨ですね」
「ああ。風も出てきたようだ」
 もう一度ドアベルが鳴って、扉が閉じられる。雨の音はたちまち遠くなって、世界が切り分けられたようだ。店に誰かが入ってくる瞬間の、一瞬だけ外と繋がって、またすぐ離れていく感覚が月子は好きだった。
 こつこつと歩いてくる城戸の革靴は濡れている。スーツの袖からも雨が一滴、ぽたりと落ちた。この大雨で、傘を差していても濡れてしまったらしい。棚に置いておいた小さめのタオルを渡す。こんなこともあろうかと用意しておいたのだ。
 城戸は短い礼とともにそれを受け取り、軽く抑えるようにしてスーツの水気を拭った。こんな雨の日でもオールバックはしっかりと固まっているのが、なんだか城戸らしい。
 こういう雨の日はどうしても客足が遠のく。城戸が今日初めてのお客さんだった。晴耕雨読と言わんばかりに読んでいた本には栞を挟んで閉じる。店の仕込みはもちろん夕飯の下拵えすらも終わり、すっかり暇を持て余していたのだ。一人で音楽を聴いて本を読むのも好きだけれど、城戸が来てくれてようやくカフェ・ユーリカの店主としてこの場に立てる。
「雨のせいか、少し肌寒いですね」
「台風が接近している……店は休みにしないのかね?」
「こんな雨でもやってきてくださるお客様のためにも、なるべく休みにしたくないんです」
 それはすまない、と城戸が囁くように謝罪する。しまった、嫌味のように聞こえただろうか。「城戸さんにご来店いただき嬉しいです」と、誤解されないように一言添えれば、わずかに緩んだ雰囲気とともに頷かれた。
 わかっている、と告げるようなまなざしにほっと息をつく。それにしても、やはり笑みはなかなか見られない。
「でも、この時間にいらっしゃるのは珍しいですね」
 猫も微睡むような昼下がり、常ならば人の多い時間帯だ。城戸はいつも開店直後か閉店直前に訪れるから、この時間に顔を合わせるのはめずらしい。人目を避けているのか、それとも仕事の都合がつかないのか、おそらくどっちもだろうと密かに思っていた。
「少し、街に出ていてね。唐沢くんもいたんだが、彼から言づてを頼まれている」
「言づて、ですか?」
「風邪を引いたと訊いた。無理はしないようにと……私からも言わせてもらおう」
「そ、それは……ご心配をおかけしてすみません」
「今日はこの後に別の用事があると言っていたが、また近いうちに来るそうだ。元気な姿を見せてあげなさい」
「ありがとうございます」
 風邪ということはどこから漏れたのだろうか。答えは迅しかない。迅にはいつも、情けない姿を見られている気がする。今度会ったときに買収という名の口止めをしよう。手遅れかも知れないけれど。
 ただ、心配の気持ちはすこしくすぐったくて、うれしい。兄を自認する唐沢はともかく、城戸までもが体調を慮ってくれるとは。
「今までお仕事ということは、もしかしてお食事はまだですか?」
「……ああ。本部に戻れば何かあるだろうが」
「言づてのせいですね、ごめんなさい」
「構わない。私がここのコーヒーを飲みたかったのもある」
 今日の城戸は珍しく饒舌だ。いつもと何が違うのだろうかと考えて、思い当たるのは時間と雨。それから、月子が少し前に体調を崩したこと。それが理由だというのなら、きっと城戸は本当に優しい人なのだろう。知っていたけれど、分かりやすい形で見せられたのは初めてのような気がする。
「珈琲を飲む前に、何かお腹に入れたほうがいいと思うのですが……」
 出過ぎた真似だろうかとは思いつつも、一夏の間グリーンスムージーを飲んでくれた城戸に、月子だって優しさを返したい。
「スムージー、今日はやめておいたほうがよいかもしれませんね」
 冷凍バナナと桃で作るスムージーは冷たい。こんな雨の日、濡れて体温を奪われた人にはあまりおすすめできない。つい先日の月子の風邪も元々は雨のせいだった。こんなときは何かあたたかいものがいい。
「……そうだ、ポータジュ、飲まれませんか。ちょうど作り置きをしていたんです」
 ポタージュなら食事の邪魔にもならないはずだ。じゃがいもがベースだから普通のスープよりは重いけれど、城戸の食事のタイミングを考えれば逆にいいかも知れない。ひとまずおなかを満たせるし、食事を妨げるほどには残らない。
「じゃがいもとほうれん草でスープのベースをつくってあるんです。水と牛乳と、それからコンソメで味をつければすぐに食べられますよ」
「それはきみの夕飯ではないかね」
「秋の新メニュー、予定です」
「そうか……」
 なんて、そんな予定はないのだけど。カフェ・ユーリカでは基本的にモーニングセットもランチサービスもない。軽食はいつでも注文できるケーキとサンドイッチくらいだ。それは祖父の代から常連だった城戸も承知しているだろう。けれど些細な嘘を、彼は見逃した。
「では、お願いしよう」
 さらりと告げられたひとことに、安堵とうれしさからにっこりと微笑んで、月子はポタージュの準備に取りかかった。

 さっき作ったばかりのスープベースは冷蔵庫にしまってある。一度にたくさんできるから、いつもは小分けで冷凍するのだけれど、その作業を後に回していてよかったと思った。冷凍をするとどうしても香りや風味が薄れてしまう。
 タッパーに入ったスープベースは、薄い緑色でどろっとしている。蒸したじゃがいもと茹でたほうれん草、飴色になるまでじっくり炒めた玉ねぎ。それらをフードプロセッサーで滑らかになるまですり潰したものだ。
 おたまでひとすくい、小さめの雪平鍋に入れる。水を少し入れて火にかけて、泡立て器でだまにならないように混ぜる。次は牛乳の量を測る。水と牛乳、それから最後に加える生クリームを合わせて、スープベースの倍よりちょっと少なくなるくらいが丁度いい。
 量が少ないから、鍋の中身が沸くのはすぐだ。コンソメとドライパセリ、それから塩胡椒を少々。薄緑のベースにわっとパセリが広がる。何となく見てて楽しい。牛乳も注いで、泡立て器でひと混ぜする。
 次は生クリーム。これは少しだけでいい。コクを深めてくれる役割だ。冷たい牛乳で温度が下がった鍋が、もう一度沸騰直前になるのを待つ。その間にスープの器を出して、お湯でかるくゆすいでから水気を拭う。
 ふつ、と鍋の端に泡が立った。生クリームを加えて火を止める。お玉で小皿にすくい、一口味見。とろりとした口あたりに、少しざらついた、じゃがいものほっくりした感じと、ほうれん草の甘み。コンソメと塩の加減も問題ない。
 スープの器に盛りつけて、中心に飾りのドライパセリ、その周りを囲うようにパウダー状の白胡椒をトッピングして、完成だ。
 木製の受け皿にスプーンも乗せて、城戸の前に出す。あっという間にできるのがこのスープのいいところだ。
「……ほうれん草のポタージュ、だったか」
「はい。旬は冬ですけれど、一年中出回っていますし、美味しいですし、お気に入りです」
 もう少し秋めいてきたら、かぼちゃやきのこで作るのもいい。にんじんもいいなぁ、とぼんやり考える。秋の野菜は色鮮やかなものも多いから、このポタージュがあると食卓が華やいでいい。
 城戸がスプーンを手に取り、そっとポタージュの中に潜らせる。すいっと軽く滑って浮き上がったスプーンに、城戸はそっと息を吹きかけた。熱いからお気をつけ下さい、念のために声をかけておく。
 ひとくち飲み込んだ城戸が、ゆっくりとまばたきをこぼした。あたたかいものを食べるときの、じわじわと染み込んでいくようなあの感覚を思う。雨で冷えた身体を、じわじわぽかぽか、ゆっくりとあたためてもらえたら。
「いい風味だ」
 そっと紡がれた言葉は月子のための言葉だ。律儀に感想をくれる城戸に、月子のほうがぽかぽかとあたたかくなる。
「お口に合ってよかったです。食後の珈琲も、ご用意いたしますね」
「ああ、頼もう」
 城戸はどちらかといえば、香ばしく苦みのある珈琲が好みのようだ。焙煎は深め、ハンドドリップで淹れるから、豆は粗めに挽くのがいい。保存してある豆の種類を思い浮かべる。ケニアやコロンビアあたりの豆がいいだろう。
 お湯を沸かし、選んだ珈琲豆をミルにかける。使うフィルターはもちろん、ドリッパーの形でさえ味に影響するから珈琲という飲み物は不思議だ。今日は台形のフィルターと同じ形のドリッパー、その中でも抽出口がひとつのものを使う。穴が少なければそれだけゆっくりと落ちて、濃い珈琲になる――飲み比べてみないと分からない違いであったとしても、月子なりのこだわりだ。
 ちなみにドリッパーの内側に刻まれている美しい溝も、ただの飾りではなくお湯の流れを調節する役割がある。珈琲周りの器材は機能も美しさも持ち合わせたものが多く、ついその二つの側面からコレクションを増やしてしまう。
「……先日、マスターが帰国していたと訊いたが」
「はい。例によってまた旅に出てしまいましたが……」
 フィルターの中に珈琲豆を詰めながら応える。平らにならすときの、指先に触れるざらりとした感触がたまらない。
「何か、言っていなかったかね」
「常連さんによろしくとは言われておりますが、他には特に……」
「そうか……」
「祖父と、なにか約束でもありましたか?」
「いや、」
 城戸にしては珍しく、歯切れの悪い言葉が返ってきた。何かを思案しているのか、その視線はどこか遠いところを見ている。月子は珈琲の準備を続けながら、そっと様子を窺う。目が合うと、城戸はゆっくりと口を開いた。
「……土産話のようなものを、頼んでいてね」
「城戸さんが、ですか?」
「何かあれば伺いたい、程度のことだ。空振りだったのなら喜ばしいことでもある」
「お土産話がないことがうれしい……ですか?」
「……きみは、我々が所持している門誘導装置の存在は知っているかね?」
「はい。それがあるから、近界民は警戒区域の外に出ないんですよね。以前フォーラムでお話しされているのを拝聴しました」
 三門市では度々、ボーダーによる地域住民への説明会などが行われている。それは理解を求め助力を得ることだけではなく――ボーダーにしか持ち得ない技術が安全をもたらしていると知らしめることを目的にしている、と教えてくれたのは唐沢だったろうか。あるいは祖父だったかもしれない。祖父はそういう事情にとても詳しい。この街でボーダーはヒーローと認識され、おおむね好意的に受け入れられているけれど、すべての市民がそう思っているわけではないということは、月子も知っている。
「その効果は実証されているが、万が一がないとも言えない。きみのおじいさんは世界中を旅している……万が一、に関する噂も拾えるだろう。私がマスターに訊きたいことはそういうことだ」
「……それは、私がお訊きしてもよかったことですか?」
「あの人には既に知られていることだ。肉親であるきみにもいずれ伝わると思ったまで」
「誰にも言いませんのでご安心ください」
「……きみならそう言うだろうとも思っていた」
 それは、信用しているということなのだろうか。フィルターにお湯を注ぎながら、月子はむずむずと緩む口元を抑える。うれしい、とても。ことさら丁寧に、細く、慈しむようにお湯を注ぐ。ふんわりとお湯を吸ってふくらんだ珈琲豆は、月子にとって幸せの形だ。
「けれど、祖父から本当にそのような話は訊いていませんから、ご安心ください」
「……ああ、それは良かった」
 この街を守ることだけが、ボーダーの使命ではない。
 そのことをぼんやりと思った。月子の淹れた珈琲を飲み始めた目の前の人は、間違いなく世界の平和を担っている。その現場がこの三門市だというだけで、一番守られているのが自分たちだというだけで、ひどく多くのものを彼らは守っているし――守っているのに、背後から怒声を浴びせられることも、ある。それでも、確かに。彼らは生命を守っていてくれているのだ。
 近界民と戦う人たちは自分より若い人がほとんどだけれど、だからといって大人たちが戦っていないわけじゃない、守っていないわけじゃない。そのことがうれしくて、同時につらいと思う。そんなにも大きなものを背負っている人たちが、自分と同じ一人の人間だということを知っているから。
 月子にとって、城戸はボーダーの最高司令官ではなく祖父の代からの常連さんで。あるいは唐沢は、ボーダーの外交官ではなく昔からカフェ・ユーリカに通っていた気さくなお兄さんで。そして迅は、ボーダーの防衛隊員ではなく、月子の大切な、弟のようにも思っているお客様だ。
「……、」
 かといって、かける言葉も見つからない。お疲れさまです、なんて守ってもらっているだけの月子が言えるわけがないし、大変ですねなんてしたり顔で頷くのも相手を軽んじているようで嫌だ。
 それでも、何か言いたいと思った。城戸にとっては大したことではないのかもしれないけれど、三門市に住まうひとりの市民として、彼らを出迎える店主として、言いたいと。
「いつも、ありがとうございます」
 結局、代わり映えのしないその言葉しか言えない。それでもいっとう気持ちを込めて、城戸の目を見てゆっくりと言った。
「……こちらこそ、いつもコーヒーをありがとう」
 城戸もまた、ゆっくりと言葉を紡いだ。その言葉に胸がじぃんと痺れる。
 これだから、月子は城戸が好きだ。街を、世界を守る英雄なんてことは抜きにして、穏やかに、静かに、心地のよい間合いで会話をしてくれる城戸という常連のことが、彼らのために珈琲を淹れることが好きだ。
 空っぽになっていたポタージュの器を下げて、月子はにっこりと微笑んだ。


 雨が降っている。ざあざあばちばちと、激しく。アスファルトに落ちた雨粒が弾けて、いびつな王冠が生み出されては消える。
 雨が地面に当たるときの音は様々だ。耳が痛くなる様な激しい音から、思わず微睡んでしまうような穏やかな音まで。ぽつぽつ、ととと、とんとんとん。受け止める素材によって如何様にも音色を変える。屋根や植物を伝った水滴はリズムも独特で、混ざり合う雨音はひとつの音楽でもある。
 城戸がボーダー本部に戻ったあと。月子はますます強くなった雨を窓ガラスの内側から見つめる。カウンターの中にいるよりも、外の音がよく聴こえる位置だった。雨のせいか、いつもより視界が悪い。
 外に植えられたクチナシの低木が、濃い緑の葉でぽつぽつと雨粒を受け止めていた。よく水を弾く葉に、雨は丸い水滴となって滑っていく。その様子は力強くて、楽しそうだ。
(さすがに今日は、迅くんも来ないかな)
 というよりも、こんな雨の日に出歩いて欲しくないな、と思う。いつもお客さんのいないときに訪れる迅だけれど、お客さんがいなければいつも迅が来るというわけでもない。今日は家で大人しくしていて欲しい――大人しい迅というものを、あまり想像できないけれど。かといってスポーツなんかをしている姿も想像できなくて、月子は首を傾げた。
(似合うスポーツ……サッカー、は、似合わないかな? ラグビーもそう。テニス、バスケ……しっくり来ないな……野球……、とか……?)
 かといって静かに読書をしている姿も想像できない。でも、迅がカフェ・ユーリカの特等席に座って、頬杖をつきながらこっちを見ておしゃべりしているのは簡単に想像できる。見たことがあるからだけれど、頭の中のそれは本当にしっくりと来て、店によく馴染んでいる。店の中に漂う珈琲の香りや、音楽、壁にかけられた絵のように、すっかり風景に融け込んでいるのだ。そのことがなんだかおかしくなって、一人でふふふと笑った。
(あ、)
 通りの角を曲がって、人影が現れた。紺色の傘を差している。雨風をやり過ごすためか、少し斜めに傘を構えているから顔はわからない。けれど月子は、「まったくもう」と溜息をついた。口の端がすこし笑んでいる。
 棚に置いた小さなタオルでは間に合わない。パントリーから大きなバスタオルをとってきて、フロアに戻るとちょうど扉が開いた。からんっと音が鳴って、外の世界が滑り込む。外と繋がるその一瞬に、声を重ねる。
「風邪を引いてしまいますよ」
 返事を待たずバスタオルを頭から被せれば、くぐもった声で「おれは風邪引かないってわかってるからいいの」と返事が返ってくる。傘を差しているのに髪も濡れてしまうような雨の中、それでもやってくるなんて。まるで雨宿りしにきた猫のようだなと思った。
「でも、できたら何かあったかいのが飲みたい」
「ちょうどいいのがありますよ」
 髪の水気が拭えたのか、顔に被っていたタオルを取る。濡れたせいで髪がすこしぺたんとしているが、いつもの迅の顔がそこにある。にへら、と笑みを落としたあと、迅はズボンの足元、濡れて色が変わった部分にタオルをあてがう。
「うへえ、靴の中までびしょびしょ」
「乾かしていきますか?」
「いいの?」
「新聞紙をつめてしばらく置いておきましょう。上着も椅子にかけてください。今、ブランケットでも持ってきますね」
「……ありがとう」
 迅が本当にうれしそうににへらと笑うから、こんな日に出掛けるなんて、という小言を言うのは憚れた。まったく、と微笑む。彼の話はゆっくり訊こう。月子は何か暖をとれるものを求めて二階に上がる。外では雨が強く打ちつけているけれど、カフェ・ユーリカにはいつも通りの穏やかな時間が流れていた。


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