カフェ・コレット

 閉店も近い時刻、カフェ・ユーリカの扉がからんっと音を立てて開く。ふんわりと外に向けて広がった光は、初秋のほの暗い夜を控えめに照らした。クローズの準備を進めていた月子にもその扉の音色は届き、入ってきた人影にやわらかく笑む。
「今日は早かったね」
「ごめん、まだやってる?」
 ほとんど同時に紡いだ声は重なって、けれどお互いの耳にちゃんと届いた。扉の前で息を切らした彼女のために、月子はグラスに水を注ぐ。
「うん、まだ大丈夫。お仕事お疲れさま」
「ありがとう」
 カウンターの特等席に座り、ふう、と一息ついたのは沢村響子だ。
 ある日、東とともにカフェ・ユーリカにやってきた彼女は、東と同じく月子の友人になった。真っ直ぐの、見るからに手触りの良さそうな黒髪に密かに憧れている。それから、意志の強い目元。薄手のコートを脱いだ下は仕事帰りなのを窺わせる、きりりとしたスーツ。着崩れのないところが響子らしい。月子の袖元は洗い物のときの水飛沫で少し濡れている。
「定時?」
「ほぼ定時。どうにか本部長に早く帰っていただいたの……持ち出し大丈夫な書類を持って帰ってたけど」
「まだやってるんだね、その攻防」
 響子はボーダー本部の本部長補佐という役職についているらしい。補佐、というからには本部長直属の部下であり、秘書のような仕事も兼ねるようだ。響子はよく、その本部長を定時上がりさせようと画策し、そしてほぼほぼ失敗している。本部長は話に訊く限り相当な仕事人間だ。というか、ボーダー上層部は仕事人間ばかりな気もする。唐沢も城戸も。満足に休憩をとっていないのは窺えて、だからここで過ごす時間くらいは安らいでもらいたいと強く思うのである。
 定時上がりの日々が続くと仕事を処理しきれないのは響子も分かってはいるが、それでも毎日残業続きだと、早めに切り上げて欲しいと思う日もある。気持ちはよくわかるが、月子としては響子もその対象である。
「『沢村くんは先に帰っていてくれ』って言われても、帰れるわけないでしょ?」
「今日はそれで説得成功したんだ」
 くすりと笑う。響子から訊く話にいつも登場する『忍田本部長』は生真面目というか、根を詰めるタイプというか、とにかく簡単に言うことを訊いてくれる様子ではない。最近では本部長の良心を刺激する作戦に出ていたようだが、先に帰らされるのが続いていたらしい。
「なんとかね。本部長のお気持ちもわかるんだけど、そろそろ倒れちゃいそうだったから」
「そういう響子も、倒れちゃいそうになってない?」
「平気。頑丈だから」
 快活に笑う響子は防衛隊員の経験もあるらしい。加古といい、華奢な身体に見合わず力強い性格なのはそのせいもあるのだろうか。それでも、目の前の彼女はなかなかお疲れに見えた。月子は自分が一般企業に勤めていたときのことを思い出す。振り返ってみれば、プライベートの時間はほとんどなく、いわゆる社畜というやつだったかもしれない。
「何か飲む?」
「コーヒー、淹れてくれないの?」
「珈琲のカクテルとか、どうかなって思って」
「それって飲みのお誘い? ここで? はじめてじゃない?」
「うん、はじめて。だめかな? 今なら夕飯付きなんだけど」
「飲む!」
 きらっ、と響子の目が輝いた。月子は「よろしい」と微笑む。
 東がいるときは彼のリードがしっかりしていることもあり外に出ることがほとんどだが、響子と二人のときは、カフェ・ユーリカで夜ごはんに招待することも多い。お疲れのところ移動させるのも悪いし、これもおいしいあれもおいしい、なんてにこにこ笑いながらたくさん食べてくれるので、ついご馳走したくなる。
 とはいえ、アルコールを出すのは初めてだ。ちょっとだけ緊張したけれど、なんだか飲みたい気分だった。平気、と彼女はいうけれど、少しでも楽しい時間を、ここでは過ごしてほしい。
「特別に、営業延長貸切です」
 愛してる! と、いい笑顔の響子に苦笑する。本部長さんと一緒にご飯を食べてくればよかったのに、というのは言わない方がよいのだろう。
 だって月子は、響子とごはんが食べられてうれしいのだから。『忍田本部長』に恋をしている響子はかわいいし応援しているのだけど、たまにはひとりじめだってしたい。

 表の看板を仕舞ったり、営業中に届いた荷物を運んだり、ごはんを食べる前に済ませなければならない簡単な閉店作業は「早く夜ごはん食べたいから」の一言で響子に手伝われてしまい、一人のときよりも早く終わる。誰かと一緒にカフェ・ユーリカで作業するのは、祖父以外では彼女ぐらいだ。他の人だったらちゃんと店主として断れるのに、彼女にはつい頼んでしまう。響子の明朗とした振る舞いがそうさせるのもあるが、月子も夜ごはんを楽しみにしているせいだろう。早くこの腹ペコさんのおなかをいっぱいにしてやりたい、と。
 落ち着いたら、夕飯の用意に移る。店のキッチンの方が広く、器具も揃っているので、響子と夕飯を食べるときはいつも二階にはあがらない。扉には内側から鍵もかけてあるから、いくら中が明るいとはいえ勝手に入って来る人はいないだろう。
 夕飯は簡単にパスタを作り、ひとまずお腹を満たしたら、お待ちかねのカクテルだ。

「コーヒーのカクテルって、カルーアミルクとか?」
「それもいいけど、今日はカフェ・コレットを淹れようかなって」
「なにそれ、はじめて聞いた名前だわ」
「お酒というより珈琲が主体のカクテルなんだけどね、エスプレッソにブランデーを淹れて飲むの。食後の一杯目だし、ちょうどいいかなって」
「へぇ……ブランデーって飲んだことないなぁ」
「私も。どう? 飲んでみる」
「お任せします、マスター……って言うと、バーみたい」
「たしかに」
 祖父が時々、今日の月子と同じように営業時間を延長して、常連たちとゆっくりお酒を飲んでいたことを思い出す。マスター、という呼び掛けが、夜とアルコールに包まれるといつもと違ったものに聴こえて、まだ学生だった月子は大人の世界を垣間見てしまったような気分になって妙にどきどきした。それを今、自分がやっているのだと思うと、こんな自分でも大人になったのだと笑みがこぼれる。
「では、少々お待ちください、お客様」
「ゆっくりでいいよ。時間はたっぷりあるから」
 なんたって定時帰りだからね! と胸を張った響子に笑い声をあげて、月子はミルに珈琲豆をセットした。

 棚から出しておいたブランデーの瓶の蓋を開ける。カフェ・コレットはブランデーの中でもグラッパと呼ばれる、ワインづくりの際に出るぶどうの搾りかすを発酵させてつくる酒を使うのが正道のレシピらしい。けれど好みのお酒でつくるのも間違ったレシピではない。
 選んだブランデーはワインからつくられたもので、月久のお気に入りだ。月子が店を継いだとき、棚に収められた洋酒やリキュールは好きに飲んでいいと言われている――どうも、本当のとっておきはどこかに隠されているようだが。月子はあまりお酒の銘柄には詳しくないけれど、あの祖父が選んだものであるならよいものなんだろうと思っている。
 琥珀色のブランデーをカップに注ぐ。白磁に鮮やかな染料で絵付けが施された、エレガントなデザインのカップだ。食後の一杯の意味合いが強いので、ブランデーの量は少なめにしておいたほうがよいだろう。
 エスプレッソマシンを操作して、ブランデーの入ったカップに直接エスプレッソを注ぐ。後からブランデーを注がないのは、アーモンド色の泡、クレマを消さないためだ。そして、たっぷりとホイップクリーム――夕食のついでに泡立てておいた――を乗せる。それが正式らしい。
「お待たせしました。こちらが〝カフェ・コレット〟になります」
「けっこう甘そうね」
「イタリアだと、エスプレッソって砂糖をたっぷり淹れて飲むものらしいから」
「ブラックで飲んでるイメージ」
「そういう楽しみ方ももちろんあるんだろうけれど……結局、好きなように飲むのがいちばんだしね。でも私はエスプレッソにはミルクか砂糖がほしいなぁって思っちゃう」
「なるほど……月子、早くこっち座りなさいよ。飲みましょ。コーヒーカップで乾杯はできないけど」
 響子の言葉に頷いて、月子はカウンターを出る。さっきまでパスタを食べていた席に座れば、響子がすすっとカップとソーサーを目の前にずらしてくれた。
「乾杯かぁ……」
「ん? どうしたの?」
「ちょっと前のこと思い出して」
 まだ夏の盛りの頃だった。迅にご馳走したローズヒップとハイビスカス、それからオレンジジュースのドリンク。彼は『月子さんに』と笑って乾杯をした。
「……日々をがんばる響子に」
 そう言って軽くカップを持ち上げて、響子に向かって掲げる。ぱちぱちと目を瞬かせた響子が、一拍遅れて微笑んだ。
「いつもおいしいものを作ってくれる月子に」
 かんぱーい、とにこやかな声があがる。カップを合わせない乾杯も悪くないねと笑い、月子はふちに口をつける。
 まず初めに、ホイップクリームのやわらかな感触がくちびるに触れる。少し冷たく、体温で甘くとろける。さらにカップを傾ければクリームの層を突き破って、熱いエスプレッソがやってくる。クリームを溶かし、まざりあい、舌に届いたそれは珈琲豆の香り高さを保ちつつも、ほのかに甘く飲みやすい。こくりと飲み干したあとの喉に残る甘みとかすかに焼きつくような感覚はブランデーによるものだろう。
「カクテルっていうより本当にコーヒーなのね」
「ブランデー控えめにしすぎちゃったかも」
「でもこれ、けっこう好き。生クリームが甘くておいしいし。……コーヒーとデザートとお酒って感じでよくばりな気がする」
 むむ、とカフェ・コレットを見つめる横顔に苦笑する。東曰く、職場ではしっかりしていて、隙もほとんど見せないらしい。月子の前では気を抜いているのか、隙だらけもいいとこだが。
「でも、コレットってイタリア語なんだけど、英語にすると〝correct〟……正式な、って意味だから、イタリアの人はよくばりなのが正式なのかも」
「これにそんな名前つけちゃうなら、確かにエスプレッソをブラックでは飲まなさそう」
「ね。イタリアもいつか行ってみたいなって思ってるんだけど」
「本場の味を……みたいな?」
「うん。でも、おじいちゃんが本場で飲んだ味を家で再現してくれるから、あんまり出かけようってならなくて」
「じゃあ、家にいる間に、月子も本場の味を再現できるようにしてみない? 私もイタリアのコーヒー飲んでみたい」
 予想外の言葉にぱちりと目を瞬かせて、それから「それもいいね」と頷いた。こっそり練習しておこう。と、そのためにはまず、祖父の淹れてくれるものをたくさん飲まなければならないが。
「まだ飲めそう?」
 お酒、と付け足して響子を見れば、もちろん、と返ってくる。夜はまだ長い。
「じゃあ、次は軽めのにしようか。炭酸のさっぱり系……フルーツ、ミント、ソルト、いろいろあるけどどうする?」
「んー……月子のおまかせで!」
「ふふ、かしこまりました」
 口元が緩んでしまうから、月子も彼女の前では気が抜けている。それを自覚しながらも、もうひとくち、とカフェ・コレットを味わう。
「でも、そんなに色々つくれるんだ。カクテルってどこで作り方覚えたの? おじいちゃんから?」
「珈琲関連のはおじいちゃんにもアドバイスもらってるけど、ほとんどは自分で、かな」
「やっぱり、そういうのつくるの好き?」
「うん。一人だとバーに入るのも気遅れしちゃって……飲みたいものは自分でつくってた」
 バーという空間に、憧れはあったのだ。ただ酒の知識も薄い自分がふらっとひとりで入るには敷居が高く感じた。そう怖がるようなことではない、と頭では理解しつつも。月久がいるうちに付き添いを頼んでもよかったのだろうけれど、バーに行くより彼のつくる珈琲やカクテルを飲んでいたかった。
「そういう理由なんだ。……今は私や東くんがいるから平気ね。やつは行きつけのバー持ってそうだし、今度教えてもらう?」
「行きつけは秘密にされないかな?」
「む、そうかも……ここだってなっかなか教えてくれなかったし!」
「そうだったの?」
 ぱちり、と目を瞬く。たしか東は、初めて響子を連れてくる前に『今度、同期も連れてきていいか?』と訊ねてきたはずだ。月子は『もちろん、お待ちしております』と答えて、そのときの東は『たぶん気が合うと思うよ』と笑っていた。とても紹介を渋っているようには見えなかったけれど……と首を傾げる。
 そのときはまだ、月子にとって東は『気に入ってもらったっぽい常連さんになるかもしれないお客さん』という立ち位置で、会話はしてもそれは友人としてのものではなかった。自分と東が友人と呼べる関係になったのは、響子が店を訪れてからだと認識している。
 だから、東がなかなか教えなかったのはこの店を――月子を、見極めていたのでは、と思い至った。響子も月子もこういう性格だから、同い年という共通点で親しくしただろう。だからこそ、大事な同期と引き合わせてもいい人間か、と面接されていたのでは。
「そうだったのよ」
 当時のことを思い出していたのか、響子はふくれっ面で呟いた。これは、月子が思い浮かべた憶測をそのまま話したら各方面から怒られそうだ、と口をつぐむ。それに、真相は東のみぞ知ることだ。
 カフェ・コレットを飲みこみ、舌の上で転がしたブランデーの風味に口を滑らせないようにしなければと笑う。響子もひとくち飲んで、それからぱっと笑みを浮かべた。
「バーはそのうち行くとして、ちょっと遠出とかもしてみたくない?」
「してみたいけど、休みが合うかな?」
「月子の休みに合わせて私たちが取るわ。東くんも、毎日授業があるわけじゃないって言ってたし。それにやつにはまだなっがーい冬休みとか春休みがあるから」
「学生なんだもんね……」
 見えない、と言ったらまた怒られるだろうか。同じことを考えていたらしい響子と視線を交えて、それからどちらともなく声をあげて笑い出す。ひとしきり笑い声をおさめてから、いまのはないしょね、と囁き合った。
「どこに行こうか。車で行ける範囲がいいかな」
「そうだね、お店があるから、日帰りだとうれしいな」
「うんうん。日帰りでも行けるところは結構あるしね」
 これはたぶんそう遠くないうちに企画を持ってくるなと思って、月子はいよいよ緩む頰を抑えきれない。友達と旅行。初めての経験だった。友人がいないわけではないけれど、そう頻繁に連絡を取り合うわけでもないし、ともに遊ぶことも少ない。一緒にお酒を飲むのだってそうだ。目の前の響子と、東くらい。
「――うれしいなぁ」
 つい口からその言葉が溢れたのは、ブランデーのせいだろうか。響子がきょとりと月子を見つめる。そのどこかあどけない表情に、まあいいや、と言葉を続けた。
「こんな友達、できないかと思ってたから」
 友人の数は、たぶん関係ない。休みが合わないからとか、距離が離れているからとか、そんな理由はきっと後付けで。それをどうにかしようとするほど、自分は友人たちとの付き合いに積極的ではない――そういう、冷淡さのせいだ。自分が冷たい人間であることを月子は知っている。
 けれど、響子や東と遊ぶのは、楽しい。月子の譲れないもの、つまりカフェ・ユーリカの店主であることを二人が尊重してくれるからだろう。やさしい、いいひとだ。そんな二人と友達でいられるのが、うれしい。
「……今の顔、写真に撮っておけばよかった……そしたら対迅くんの……」
「迅、くん? が、どうかした?」
「んー……なんでもない、ってことにしておいてあげましょ。それより、月子がそんなに喜んでくれるなら、気合い入れて計画立てて仕事を終わらせて、休みをとるわ」
「ふふ、うん、がんばって」
「そのためには忍田本部長にも休んでもらわないと」
 よし、と拳をつくった響子にころころと笑みがこぼれ落ちる。それから、甘みが増したように感じるカフェ・コレットを飲んだ。冷たいクリームが、あたたかいエスプレッソに溶けて、馴染んで、苦味をよりまろやかにしてくれている。その奥のブランデーが美味しいと思えるのも、月子が大人になったからだろう。甘くて、深い。そして、やっぱり少しだけ、灼きつく。
 まだ自分には分不相応な気がしたけれど、いつかはその感覚がなくなる日も来るのだろうか。楽しみなような、こわい、ような。未知の自分に対して、ちょっとだけ色々と思いつつも、月子は次につくるカクテルを考えることにした。

   *

「迅くんはまだお酒飲めませんもんね……」
 いつものように人がいないタイミングでやってきた迅を見つめて、月子は残念そうに呟いた。迅はちいさく首を傾けつつ、少しだけ胸が高鳴るのを自覚していた。自分が酒も飲めない年齢であることも、そのために月子に子ども扱いされていることもよくわかっているから――それを残念がられたことに、期待してしまうのだ。
「あともうちょっとだよ」
「そうですね。楽しみです」
 にこにこと、やけに機嫌がいいのはなぜだろうか。考えてみるも、過去は見えない。
「もしも迅くんが二十歳になって、そのときもこのお店を好きでいてくれるなら、一度閉店間際に来てくださいね」
「いいけど、なんで?」
「ちょっとした、私のわがままです。祖父がたまにやっていたのですが、夜、特別に時間を延長して、常連さんとカクテルを飲むんです」
「……おれと?」
「はい。あっ、無理にとは言いませんよ。お酒の好き嫌いとか、弱い強いとか、あると思いますし」
「絶対行く」
 少し食い気味に重ねた言葉に月子が驚いたような顔をした。その表情はすぐにやわらかくとけて、心から嬉しそうに笑みを浮かべる。
「早く大人になりたくなってきた」
 いつも感じる、自分が子どもであることへの焦燥が理由ではない。ただ純粋に、未来に月子との時間を獲得できることに期待して、迅は笑みを浮かべた。
「うれしいお言葉ですが、時間の流れはどうにもなりませんから。ゆっくりと、大人になってくださいね」
 焦らないでいい、と。そう告げる姿はちょっとだけ憎らしくも思うほど大人だ。それを突きつけられる、けれど。そう言ってくれる月子に、子どもをやめたいと叫ぶ心を、すこしだけ慰めてやることができそうだった。


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