クラブハウスサンド

 カフェ・ユーリカの扉の横、道に面した窓から店内を窺っている人がいる。
 その視線には気付いたものの、月子はそっと横目で確認する程度にとどめて目の前の洗い物に視線を集中させた。とはいえ、頭の中からその人を消したわけではない。視線を向けないだけで、意識は向けている。
 窓の向こうに立っていたのは男性だ。様子を窺っているくらいだから当たり前だけれど、初めて訪れた人のようだった。めずらしいな、と思う。
 カフェ・ユーリカは住宅街の中にあり、目立つ看板も、それからインターネットやSNSでの宣伝もないので、ふらりと初見のお客さんがやってくることは滅多にない。だいたいがすでに何度か訪れたことのある人と連れ立って、あるいは紹介されてやってくる。ちらりと営業しているのかと確認するように入り口でためらう姿は見るものの、吟味するような視線はあまりないものだった。
 もちろん、窓の向こうの男性も誰かからの紹介である可能性は捨てきれない。東も最初は一人でふらりと来店して、去り際に迅がここを教えてくれたと告げたものだ。けれど、中をじっと窺っている視線からは、あまり事前情報を得ている様子はなかった。めずらしいが、全くないわけではない。ふらり、と店の前を歩いていて。そこでふと、どうやらこの建物はカフェらしいぞと気付いた人が、店先で来店を迷う姿を見つけることもある。
 そういうとき、月子はカウンターの中でじっと待つことにしていた。前店主である月久なら、気さくに話しかけに行くかもしれない。窓の向こうにいるのが女性だったら、ガラス越しにやわらかく笑んで、ウィンクのひとつでもしているだろう。キザな真似が似合ってしまう人だから。あいにく、その血を引いているはずの父も、月子も、そういうのは似合わないのだが。
 だから、カウンターの中でいつもの作業を続けたまま、ドアベルが鳴るのを静かに待つことにしていた。

 からんっ、と、いつもの音が響く。月子はにこりと笑みを浮かべ「いらっしゃいませ」と出迎える。
 入ってきたのは、迅と同じくらいの年頃の青年だ。短めの黒髪と、前髪を後ろに流してひたいを出す髪型が精悍な顔つきによく似合っている。どことなく恐くも見える顔つきは、キリッとした眉と目力のある瞳のせいだろう。
 月子と目が合うなり、彼は一直線にカウンターの方へ向かってくる。初めて来店した人が自発的にカウンターに座る場合、月子に何か用があるか、それかとてつもなくおしゃべり好きかのどちらかだ。月子がグラスに水を注ぎ終えたのと、青年がカフェ・ユーリカの特等席――の、手前で止まったのは同時だった。
「生駒じゃないか」
「ども、東さん」
 すでに特等席に座っていた東が半身で振り返って、視線を合わせる。生駒、と呼ばれた男性はぺこりと頭をさげた。お辞儀の角度が深い。座れよ、と東が隣の椅子を引き、生駒がそこに腰をおろしたのを見計らって、水で満たしたグラスを置いた。
 どうやら知り合いらしい二人の様子に、生駒が店の中を覗いていたのは東が理由かもしれない、とあたりをつける。
「こんなとこで会うのも珍しいな。本部帰りか?」
「や、すすめてもろたんで下見に」
 と、言葉と同時に生駒の視線が月子を捉える。独特の言い回しとイントネーションは関西のものだ。東の後輩のようだから、ボーダーの隊員なのかもしれない。全国各地からスカウトされた隊員も少なくないと訊いたことがある。
「下見って、何のだ?」
「そらもうデートの下見です」
「おまえそれ言っていいのか?」
 呆れたように東は言うが、生駒は真顔で首を傾げた。言っていいらしい。月子はさらりと放たれた『デートの下見』という言葉に妙な感動――子どもの頃、たまに『あちらのお客様はデート中だから邪魔をしないように』と祖父に耳打ちされたものだ――を覚えつつ「お眼鏡にかなうとよいのですが」と笑う。生駒は「いろいろかかってるんで厳しく見させてもらいます」と改まったように告げた。その物言いにまた笑みがこぼれる。
 生駒は、二宮とはまた違った意味で表情の変化が乏しいのだが、なんとなく人懐こさを感じるから不思議だ。
「ちなみに、どなたにお勧めされたんですか?」
 迅だろうか、と思いつつ訊ねれば「大学の子です」と返事がある。迅は大学には通っていないから、別の人だろう。カフェ・ユーリカは三門市立大学の新しいキャンパスからは少し遠いが、バスや電車などの交通の連絡がよいためか、学生のみならず教授も時おりやってくる。教授の場合は、住んでいる場所が近いというのもあるだろう。旧キャンパスはここからそう離れていない。
「美味しい言うてたの、なんやったかな。なんやすっきりする、葉っぱの紅茶……」
「それでしたら、ミントブレンドのティーでしょうか」
「ああそれや、それ」
「申し訳有りません。そちら、夏季限定のお飲物となっておりまして……」
「そうなんか」
 ご所望のものを用意できないことを告げるも、生駒に落胆の色は薄い。
「ほな、どうしようかな」
 生駒はあまり気にした様子もなく呟き、顎に手を添える。視線の先はメニューではなく月子だ。一貫して逸らされない視線になんとなく緊張する。
 夏の間、期間限定メニューをめまぐるしく変えたことを今さながら後悔していた。迅はよく通うが、普通の人はそう頻繁には訪れない。夏の後半からペースは落としたけれど、秋もあのぐらいの頻度にしたほうがよいのだろう。
「お前、コーヒーは飲めるんだったか?」
 それとなく出された東の助け船に感謝しつつ「当店は珈琲が看板メニューでして」と笑みを浮かべる。生駒は月子から東へ視線を移し、顎に手を添えたまま、むむむっと唸った。
「飲めんこともないって感じですね。今はちょっと腹ん中が空っぽなんで」
「昼食ってないのか? もう大分過ぎてるぞ」
 ちらり、と腕時計を見た東が心配と呆れの混ざった顔を生駒に向ける。時刻は午後二時を半分ほど過ぎたところだ。空きっ腹に珈琲とアルコールをいれたときの辛さは月子も覚えがある。
「何かお作りしましょうか?」
 ランチメニューはないが、軽食ならある。ほとんどサンドイッチだが。月子の言葉に生駒が目をきらりと輝かせた。
「ええの?」
「はい。あまり注文はされませんが、メニューには載っていますし」
 メニューを裏返し、隅の方を示す。東も一緒になって覗き込んでいる。このあいだの響子といい、お腹をすかせたボーダー隊員は妙な愛くるしさがあるなと思いながら、月子は生駒が選ぶのを待った。
「店長さんのおすすめは?」
 屈託なく問いかけられて「そうですね……」と頭の中でメニューと生駒を見比べる。何がちょうどよいだろうか。東より年下なことはわかっている。食べ盛りの高校生ということもなさそうだが、食が細そうにも見えない。それと、昼ごはんを食べ損ねている。
「メニューの中でしたら、クラブハウスサンドがおすすめです。お好きな具を挟みますよ」
「ふつうのサンドイッチとなにがちゃうん?」
「トーストしたパンを三枚使ってるのが大きな特徴ですね。食べ応えはあるかと思います」
「ほほう。じゃあそれをひとつ……あっ、東さんも食べはります?」
「いや、俺はいいよ。見てただけだ」
 苦笑してメニューから視線を外し、月子に向かって「お代わりをお願いしてもいいか?」とコーヒーカップを持ち上げた。彼の前にはノートパソコンが置いてある。先ほどまでしていた話によると、なにやら大学院の研究費申請のための書類を作っているらしい。画面を覗き込んだ生駒が口をへの字に曲げて、うわー、と呻いた。
「なんや小難しそうなことやってはりますね」
「ああ。頭が痛くなる」
「東さんでもそういうこというんや」
「おまえなぁ、俺をなんだと思ってるんだ」
「めっちゃモテそう思うてます」
 以前、東が連れてきた二宮とはまた違った関係の後輩なのだろうか。どことなく会話の間合いが違う気がする。実際のところどうなのかまではわからないが。ボーダー隊員のお客さんが多いとはいえど、カフェ・ユーリカを知っているのはほんの一握りには違いなく、ゆえに月子が知っている隊員も一握りだ。
「仰木、勘付いているかもしれないが、生駒はボーダーの後輩でな」
「あぁ、やっぱり」
「迅と同い年だぞ」
「なんや、店長さん迅のこと知っとるん?」
「ええ、ありがたいことにご贔屓にしていただいています」
「ほぉん」
 なにやらしたり顔で頷いた生駒と会話を続けつつ、月子は冷蔵庫からレタスとトマトを取り出す。「食べられないものはありますか?」と訊ねると「なんでもよく食べる子や言われて育ちました」と返ってきた。
「では、お好きなものは?」
「……ナスカレー?」
 これは関西的なボケだろうか。そっと東に視線を送れば曖昧に視線を逸らされる。どうも素らしい。深く突っ込んではいけない気がした。
「ご用意がなく申し訳ないです。レタスにトマト、それからベーコン、チーズ、目玉焼きを挟むのもいいですね。どれを挟みましょうか?」
「全部とかアリ?」
「はい、もちろん」
「ほな全部」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
 くすくすと笑って冷蔵庫から引き続き食材を取り出す。燻製ベーコンにとろけるチーズ、卵をひとつ。それから調味料、マヨネーズと粒マスタード。食パンは近くのパン屋から卸してもらっているものだ。余ったときは月子の朝食に回されていたが、久しぶりに朝にパン以外のものを食べられそうである。
 カットされていない一斤から三枚切り出す。同時にトースターをあたためはじめて、火をつけたコンロの上には小さなフライパンを二つ置いた。一つはベーコン、もう一つは目玉焼き用だ。
 色の濃いフリルレタスを数枚ちぎって、冷水にさらす。これは水気をよく拭ってから、パンに収まるサイズにちぎるだけでいい。トマトは薄く輪切りにして、ベーコンはやや厚めに。熱したフライパンにベーコンを投入すれば、じゅうっといい音がする。
「……あー、あれだな」
 カウンターの向こうで作業を続けていた東がぽつりと漏らす。それを拾って首を傾げれば、東は少し困ったような苦笑を浮かべた。
「ベーコンの焼ける匂いってお腹空くな」
「食べる?」
「うーん……」
 悩んでいるらしい。隣の生駒は月子の手元を覗き込んで、へぇ、とか、ほぉーん、とか言いながらしきりに頷いていた。厳しく見られているのだろうか。
「あとで貰うことにする」
 あとで、というのがどれくらい後なのかはわからないが、今日も東は長居してくれるようである。月子はかしこまりましたと頷いて、手元に視線を戻す。
 あたたまったもう一つのフライパンに卵を割り入れて、塩胡椒を軽く振る。大きなトースターは準備万端とばかりに赤々と熱が灯っていた。網の上に食パンを三枚並べて、そのうちの一枚、電熱線からいちばん遠いものにはチーズを乗せておく。あっためたほうがチーズは美味しいと思うのだ。
 白身が固まり始めた目玉焼きは、黄身を軽く潰してから、濡らした蓋を被せる。半熟にしたいが、パンに挟むのでしっかりめに熱を入れたい。この加減がいちばん難しい。
「……話には訊いとったけど、ほんまに一人でやってはるんやなぁ」
 ベーコンの焼き色を見ていると、生駒に話しかけられる。東がキーボードを叩く手を止めないままに、「驚くだろ」と呟いた。
「小さなお店ですし、それほど大変ではありませんよ」
「ほんまに?」
「はい」
「アルバイトの一人くらい雇えば、と思うんだがなぁ」
「今のところ必要を感じていませんから。ランチ営業をしてないのも大きいと思いますが」
「ああ、確かにランチやってたらもっと通ってたな」
「ありがたい限りです」
「……店長さん、生活できてるん? 収入的に」
「言われてるぞ、仰木」
 そんなに心配されるほどだろうか。確かに、あまり人が多く訪れる店ではないが。
「ご心配なく。ここだけの話、収入源はカフェだけじゃないんです。先代が海外で買い付けてきた豆を他のところに紹介したり、外でバリスタをやったり、実は色々してるんですよ」
 得意げに言ってしまったが、そのあたりはすべて前店主である月久が整えた環境だった。店主として日々を過ごせば過ごすほど自分の至らなさを感じている。とはいえ、せっかく祖父が残してくれたものなのだから活用し、維持しないほうが祖父不孝な行いに思える。
「ばりすた」
「イタリア語で珈琲をいれる人のことです。もっといえば、エスプレッソを、ですけれど」
「なんかシャレオツなあれやな」
「ふふ、そうですね」
 笑みがついついこぼれ落ちてしまうのは、生駒の表情が至極真面目なせいもある。精悍な顔つきから軽やかに紡がれる言葉は妙な癖があるのだ。東は慣れているのか、適度に聞き流しているが。
「じゃあ、どっかで店長さんと会うこともあるわけやな」
「そうですね……。最近だと、美術館で学芸員さん向けのセミナーをするのでドリンクサービスを、と頼まれて行ってきました。お店の定休日にしかやらないので、遭遇率は低いかもしれません」
「平日やもんなぁ。おれも大学あるわ」
「あ、でも、大学主催のものにもたまに呼ばれますよ。その際はぜひ、お声がけください」
「任しとき」
 生駒の言葉はテンポがよく、すっと馴染む。迅もそうだが、おそらく相手の話をきちんと訊いてくれているからだろう。生駒との会話は、軽妙という言葉が似合うかもしれない。
 ベーコンをひっくり返し、目玉焼きのフライパンをあけて様子を見た。いい感じだ、とコンロの火を落とす。あとは余熱で仕上がる。
 チーン、と軽い音がしてトースターの中が暗くなった。扉を開けて引き出せばパンはきれいなきつね色に仕上がっている。チーズを乗せたものは焼き目が薄いが、チーズが焦げると固くなるのでこのくらいでいい。
 マヨネーズと粒マスタードを合わせたものをトーストの表面に塗っていく。トーストの上に、まずレタス、次にトマト、その上にベーコンを重ねて、マヨネーズを塗った面を下にしてもう一枚のトーストを。上にマヨネーズを塗って、もう一度レタス、それから目玉焼き。最後にチーズの面を下にしてトーストを乗せれば完成だ。上から軽く押さえて、具材を馴染ませる。本当は一時間くらい置いた方が美味しいのだけど、流石にそれはできない。
 竹串を刺してばらばらにならないようにしてから、三角形が四つできるようにブレッドナイフで切り分ける。
 断面の層は、緑、赤、黄、白と色とりどりで、食欲をそそる出来だ。皿の上に盛り付けて出せば、生駒の目がきらっと輝いたように見えた。おしぼりと、使わないかもしれないとは思ったが、一応ナイフとフォークの入った細長い籠も添えておく。
「お待たせしました、〝クラブハウスサンド〟になります」
「いや、全然待ってへん。ほんまあっという間にできたなぁ!」
「お腹がすいていらっしゃるなら早く、と思いまして」
「店長さんのそういうとこ好きやわ」
「えっ、あ、ありがとうございます」
 おそらく他意はないのだろうが、出会って数十分での気安い言葉に少しだけびっくりしてしまう。例によって東の様子を窺えば、そういうやつだと頷かれた。そういうひとらしい。
「いただきます」
 ぱちん、と生駒が手を合わせる。おしぼりで手を拭いてから、クラブハウスサンドを掴んだ。あぐ、と一口が大きい。やはりボーダー隊員はいい食べっぷりをする。
「……!」
 もっもっと咀嚼しながらのサムズアップが月子に向けられる。どうやら気に入っていただけたようだ。突然のボディランゲージはまだ噛んでいるからだろうか。行儀が良いのか悪いのか……たぶん良いのだろう。豪快な所作の端々にもどことなく落ち着きと品がある。
「お口にあったのでしたらよかったです」
 フライパンやブレッドナイフを流し台に入れながら応えると、サムズアップしたまま手が上下に振られた。表情の変化は乏しいが、感情はわかりやすい。おもしろいひとだなと思いながら月子は笑みを返した。
 ごくん、と飲み込んだ生駒が、月子を見つめて口を開く。
「めちゃうまいで。店長さん、やばいな。すごいな、マジでうまいわ」
「語彙力どうした」
 東がぽそりと呟く。直球の褒め言葉に少しこそばゆい気持ちになりながらも、東に口に出してるよ、と教えておく。無意識だったのか、おっと、と口を押さえていた。幸いなことにクラブハウスサンドにはしゃいでいるらしい生駒には訊こえていなかったようである。
「店長さんと結婚するひとは幸せやろなぁ……よしっ、おれも料理がんばるわ」
 何かを決意した生駒が二口目を頬張る。
「……結婚生活を思い描く前にデートの下見をしたほうがいいんじゃないか?」
 東の声が響く。それにハッとしてしまったから、月子は自分が別のことに意識を傾けていたことに気付いた。にこり、と表情をつくり「お褒めいただきありがとうございます」と告げる。
 一瞬、東が月子を見た。そこに、どこか案ずるような感情を見つけた。だからたぶん、今の自分は様子がおかしかったのだろう――『結婚』という言葉を、耳にしただけなのに。
 けれどそれは、月子が思い描けないものだったから。
 恋人同士のデートはカフェ・ユーリカで幾度も見てきたし、人の恋の話も訊いてきた。
 ただ、その先にあるのであろう『それ』のことが、月子には、わからない。
「……カフェ・ユーリカのマスターとして、これからも精進していく所存ですので、ぜひご贔屓に」
 生駒と東に向けて告げれば、サムズアップと「こちらこそ」という言葉が返ってきて、月子はほっと胸を撫で下ろし、笑みをつくった。

   *

「それで結局、生駒さんはおかわりして、東くんと半分こしてたんですよ」
 カウンターの中で月子がにこにこと笑いながら、つい先日のことを話してくれる。
 生駒っちにデートの予定があるとか訊いてないんだけど、と考えつつ、迅はそうなんだ、と頷いた。残念ながら木崎手製の昼食を食べたばかりで、クラブハウスサンドは食べられそうにない。
「おれは『迅くん』なのに、生駒っちは『生駒さん』なのはなんで?」
「なんで、と言われると……、嫌でしたか?」
「んーん、いやじゃないよ。ちょっと訊いてみたかっただけ」
「本当に? 馴れ馴れしくて嫌とか、思ってませんか?」
「大丈夫。月子さんは変なとこで心配症だよね」
「迅くんは私にとって大切なお客様ですから。心配症にもなりますよ」
 カウンターに肘をつきつつ、月子が淹れてくれた今日の珈琲を飲む。ブラックがおすすめだと言われたので、砂糖もミルクもいれていない。初めてこの店に来たときは飲めなかったが、通ううちにいつのまにか飲めるようになっていた。
「月子さんってそういうことはさらっと言ってくるよね」
「事実ですので」
 にこにこと、月子が笑いながら応える。その笑みに、一瞬だけ違和感を覚えた。月子の表情が柔らかいのはいつものことだけれど、それにしても今日は、笑みが深い。
「……なにかあった?」
 何か、嫌なことが。
 声を少し落として訊ねればば、月子はさらに笑みを深めて、いいえ、と囁いた。
「あ、でも。いいことはたくさんありましたよ。今日も迅くんをはじめとして、お客様がいらしてくださり、嬉しい限りです」
「そっか。おれも月子さんに会えて嬉しいよ」
 きっとまだ、許されてはいないのだろう。月子が今、心の奥底に沈めている真っ只中である何かに――迅はまだ、ふれられないのだ。


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