モンブラン

「……どうしたものかな……」
 囁かれた言葉に、月子はぱちりと蒼みがかった黒い瞳を瞬かせた。
 そろそろ樹木の葉が黄みがかる頃だ。夏の花よりも一段深く、それでいてあざやかな花たちがほころび始めた秋。どことなく時間がゆるやかに感じられるのは、夏の急くような息吹がどこかへ行ってしまったからだろう。
 カフェ・ユーリカの特等席に座った唐沢が、いつも仕事に使っている端末を見つめて顎に手を当てている。笑っているようだったが、少し引きつったような、無理やり作られた表情だ。日頃から余裕をたたえた態度を崩さない唐沢にしては隙の大きい表情に首を傾げる。
「どうかしましたか?」
 問いかけると、唐沢がそろりと視線を逸らした。さっと手に持っていた端末をスーツの内側にしまう。常にない様子にますます疑問符を浮かべれば、それを察したのか「気にしないで」と声がかかる。
「ちょっと厄介な依頼が来てね。まあ、大したことじゃないよ」
 あの唐沢が思わず口に出してしまうような依頼が、大したことでないとは到底思えない。けれど追求するのは、カフェ・ユーリカでリラックスしてくれている唐沢の信頼を裏切ることにもなるだろう。
 月子は詳しく訊かないことにして、唐沢の前に珈琲を置いた。ふわりと珈琲のアロマが漂い、唐沢はありがとうとカップを持ち上げる。
 今日のオーダーコーヒーは、フランスのマルティニークで栽培されたブルーマウンテンを選んだ。
 ただし、ブルーマウンテンという名前はジャマイカにあるブルーマウンテン山脈の特定の地域で栽培された豆を示す言葉であって、マルティニークで栽培された豆は厳密にはブルーマウンテンではない。しかし、木としてはティピカ種という同じ木だ。
 ジャマイカで栽培されている珈琲の木は、元はマルティニークにあった木だった。現在、マルティニークではロブスタという別品種の珈琲豆が主に栽培されており、ジャマイカに伝わったティピカ種の木は遠い昔に刈り取られてしまったらしい。
 けれど近年、奇特な珈琲愛好家が、マルティニークでブルーマウンテンを――つまりはティピカ種の栽培し始めた。言ってしまえば逆輸入、というやつである。
 そんなことをかいつまんで説明すると、唐沢は珈琲を味わいながら苦笑を浮かべた。
「珈琲も色々と複雑だね」
「昔から飲まれていたものですから、ひとつの木から生まれた豆があっちにいったりこっちにいったり……なかなか忙しそうです。マルティニークにあった木も、元はどこか別の場所から伝わったようですよ」
 今このときも、新しい珈琲は世界各地で作られている。それに複数の品種の豆を合わせるブレンドが加われば、珈琲というのは本当に多岐に渡る。そのすべて知り得ないこそ、ひとつずつ知っていくのは楽しいのだ。そして誰も知らないような未知のものと出会えれば、それこそ駆け回りたくなるようなよろこびだろう。
「世界中を駆け巡る、か。少し昔のことを思い出すよ」
「今もわりと世界中を駆け巡っていらっしゃいませんか?」
「そうでもないよ。最近は仕事も安定してきて、ほとんど国内だから」
 うん、美味しい。と、唐沢が珈琲の感想を告げる。相変わらず律儀というかスマートというか、欠かさない人だ。
 しかし、どこか気もそぞろというか、心ここに在らずという様子だった。何かを考えているような……それでいて月子のことを視界に収めているらしいのは流石だ。慣れた相手だからこそ見つけた違和感に、先ほどの連絡はそれほど厄介なのだろうかと密かに案じる。
「……今日って、ケーキがある日だっけ?」
 ぽつりと唐沢が呟く。昨日は定休日だったから、曜日限定のケーキはもちろん用意してある。けれどまさか、唐沢が訊ねてくるとは。驚きを胸の奥に押し込みながら応える。
「はい、今日は渋皮煮のモンブランをご用意しています」
「モンブラン、もうそんな時期か」
 秋は深まり、肌寒いと感じる日も多くなっていた。特に顕著に感じるのは日没の時間だ。少し前までは閉店時間でもほんのりと明るかったが、今は少し見逃すととっぷりと深い夜が訪れている。
「食べられますか?」
「貰おうかな。たまにはね」
 カウンターに頬杖をついた唐沢が窺うように月子を見上げる。相変わらず絵になるひとだと思いながら、月子はかしこまりましたと頷いた。
 甘いものを求めるぐらい疲れているのかもしれないと思うと、できることはぜんぶして、労りたいと思ってしまう。今日も手土産だとジャムを持って現れた唐沢は月子のことをかなり気にかけてくれているが、月子とて、唐沢のことは気にかけているのだ。
 少しでも気分が晴れるような、華やかな皿を取り出して、その上に冷蔵庫から出したモンブランを乗せる。
 クリームは渋皮の色がほんのりと褪せたようなベージュ。それを専用の口金で細く絞り出し、幾重にも重ねた。薄く被った粉糖、頂点には艶めく栗の渋皮煮がちょこんと座り、抑えられた彩りは侘び寂びを連想させる。フランス生まれのお菓子なのに不思議だ。栗というと和の食べ物というイメージが強いけれど、西洋にも広く分布している。
 甘露煮を使った黄色いモンブランも嫌いではないが、月子はこの控えめな様子の渋皮煮のモンブランが好きだった。栗の風味もよく感じれる。
「一から作ったの?」
「いえ、流石に時間がなくて、栗はペーストになってるものを使いました。でも、上に乗ってる渋皮煮は手作りですよ」
「月子ちゃんは何でも作れるね」
「レシピを見ながらですから。おじいちゃんのレシピなので、味は保証します」
「心配してないよ。きみが作るものは何でも美味しいから」
 謙遜というものはあまり唐沢に通用しない。こちらの言葉を否定せずに褒め言葉を重ねるさまは流石だ。そういうところは迅とも似ていた。月子さんの作るものなら何でも、と、同じようなことを言われたことがある。月子も人と接する商いの人間として、見習いたいところだ。
 モンブランを唐沢の前に出すと、ゆるやかな笑みが浮かべられる。
「今日はなんだか山に縁があるものばかりだな」
「……ああ、そういえば確かに。気付きませんでした」
「なんだ、狙ってたのかと」
「では、そういうことにします」
「うん、そういうところもきみらしくていいね」
 にやり、と笑われたけれど、いったいどこがどう月子らしかったのだろうか。首を傾げると、唐沢がくくっ、と喉で笑った。
 いただきます、と囁いた唐沢がフォークを手にとって、端から切り崩す。その名のとおり山の形を模した、少しだけまろみを帯びた円錐がくずれる。ふにゃり、とクリームが引っ張られるように沈んだ。
 マロンクリームの下には、真っ白のホイップクリームと、それからマロングラッセ風にブランデーで香りをつけた渋皮煮を刻んだものが入っている。全体的に甘さ控えめな分、中の渋皮煮とホイップクリームは少し甘めに仕上げた。土台はごく軽い食感のタルト生地で、全体的にマロンクリームを引き立てる構成である。
 あん、と口にひとかけら放り込む唐沢はなんとなく見慣れない。いつも珈琲ばかりで、あまり食事はしないせいだろう。しかし何をしても格好良い人というのはいるんだなと思いながら、ちらりと窓の外を窺う。唐沢につられて女性客が入ってこないかなと探したのだ。冗談のような話だが、稀にある。
「甘さ控えめだね、美味しいよ」
「よかったです」
「……月子ちゃんの前でケーキを食べると出会ったときのこと思い出すなぁ」 
「初めて会ったときのことですか?」
「うん。俺が月久さんからサービスで出してもらったケーキを食べようとしたときにきみが来て、ケーキから目を離さないものだから、譲ったんだ。覚えてない?」
 ぱちり、と月子は蒼く反射する瞳を瞬かせる。唐沢はにやにやと笑いながら続けた。
「かわいかったよ。ちょうどこの席で月久さんと話してた俺に向かってきてさ。第一声が『おじさん、だれ?』で、大学生の俺はそこそこ傷ついたけどね。しかもケーキしか見てないときた」
「……唐沢さんのことをおじさんと呼んだことは覚えているんですけれど……ケーキって、あとから注文していませんでしたか?」
「ああ、それはケーキを半分くらい食べたきみが、『おじいちゃんのケーキが食べたくないなんてだめ、ゆるさない』っていうから、月久さんが新しく出してくれたんだよ。あとから注文した記憶っていうのはそれじゃないかな」
 とても楽しそうな様子で語るが、そのあたりはだいぶ月子の記憶と食い違っている。けれど当時小学生だった自分と、大学生だった唐沢では、さすがに正しいのは唐沢だろう。さらに訊くと、月子はお小遣いで唐沢にケーキを奢ろうとしたらしい。差し出された小銭は祖父が手品のように手元を動かして、月子のもとへ返したということだった。残念ながら奢ろうとした記憶はない。
「それは……少し記憶の改ざんが行われていたみたいです」
「まあ、小学生だったしね。でも俺がちょっと訊いただけでおじさん呼びをお兄ちゃん呼びに変えてきたあたり、賢い子だなぁって思ったよ」
「どちらかといえば小賢しい感じがしますけれど」
 声は少し拗ねたような響きになってしまった。だって、幼い自分がしたことがちょっと恥ずかしい。唐沢は何もかもお見通しのように柔く微笑んだ。
「じゃあ、聡い子かな。でもまあ、そのおかげで縁もできたし、こっちに来たときは寄るようになったんだ。だから看板娘としては効果絶大だったろうな。……もちろん、今もだけど」
「なんというかもうすみません……」
「忘れてた?」
「そう、ですね。中学に入る前のことはあまり……唐沢さんは覚えてらっしゃいます?」
「印象的なことはね。記憶が改ざんされてる可能性はあるけど」
 ふ、と穏やかな笑みを浮かべた唐沢の言葉に、そうですねと頷く。
 それにしても、祖父から訊く幼い頃の自分はもう少し礼儀正しい子だったと思うのだが、あれは身内の欲目だったのだろうか。唐沢の思い出のなかの自分は物怖じせず、ちょっと厚かましい。それが子どもの特権にしても、それを許してくれる唐沢は当時からできた大人だったのだろう。
 中学に入る前、三門市に住む前のことはあまり覚えていない。それこそ印象的なことだけ。お小遣いを握りしめて電車を乗り継ぎ、カフェ・ユーリカまで足を運んだのは懐かしい思い出のひとつだ。あの頃は大冒険だったそれも、今は違う。
「昔話ついでに、前の仕事に就いてから仰木さん――月子ちゃんのお父さんと初めて会ったとき、結構びっくりしたな」
「そうなんですか?」
「だって月久さんの息子できみの父親だろ? もっと優しいか、それか自由な人かと思ってたら、どっちにも似てないから」
 その言葉には頷きを返す。月子の父、仰木三月みつきは、月久というよりも城戸に雰囲気が似ている。けれど瞳の色は月子と同じ蒼みがかった黒で、そのせいか目元はよく似ている、とは月久の言葉だった。三月のほうが目つきは悪いが。
「娘がいうのもなんですが、悪い人ではないんですよ」
「あー……うん、そうだね。悪人じゃなかった。悪役顔だけどね」
 なにやら苦い顔の唐沢は、三月に怒られたことでもあるのだろうか。月子は、父親に怒られた記憶がない。とにかく多忙な人だったので、一緒にいた時間が極端に短いせいだ。もしかしなくとも、祖父と過ごした年月の方が長い。
「でも、よかった。月子ちゃんがそう思ってるって知ったら、喜ぶんじゃないかな。あの人、娘から嫌われていると思ってるみたいだし」
「そう……なんですか?」
「俺の予想だけど」
 不在の父に対して色々と思っていたのは高校生までの話で、今はそうでもない。祖父が父と同じように海外を飛び回るようになったのも影響はしているだろう。そういうものだ、と思えるようになったというか。祖父曰く、父が祖父と同じように海外を飛び回っているのだそうだけれど。
 昔から、他の家よりも距離のある家族だとは思ってはいた。でも、嫌いなわけではない。少なくとも今の月子は。けれど、嫌いじゃなければそれでいいというほど、どうやら幼い頃から空いてしまった距離は簡単ではないらしい。月子自身、父を身近な存在とは捉えていない。それは成人したからではなくて、話す機会が少ないせいなのだろうか。
 父が自分に嫌われていると思っているのは、ちょっと心外である。けれど。
「……なんだか恥ずかしいので、秘密にしてくださいね?」
 父を好きだの嫌いだの、そういう年齢はとっくに過ぎている。月子はもう大人なのだから。それを汲んでくれたのか、唐沢は軽く応えた。
「いいよ。その代わりに言うべきときは素直に言ってあげて。特にこじれそうなときはね」
「唐沢さんの見立てだと、こじれそうなんですか?」
「どんな家族もこじれることはあるよ」
「……それもそうですね」
 そっと頷けば、唐沢が片眉をあげる。それから肩をすくめて、笑った。
「俺も最近、家から見合い写真が送られてきててね。どうしようか持て余してる。断りにくい相手だし、放置したらこじれそうだし……周りが苦労してた気持ちがわかるよ」
 困ったものだ、なんて全く困っていなさそうな声でいうので唐沢らしい。
 その年齢を考えれば家族の心配ももっともではあるけれど、そういえば彼については浮いた話ひとつ訊かない。結婚式に呼ばれるような仲でもないが、いい人ができたら一度くらいは一緒に来店してほしいと思う。お世話になった人だから、祝福くらいはさせてほしい。この様子だとその日は遠そうだけれど。
「それは……なんというか……訊くぶんにはわくわくしますが」
「月子ちゃんも他人事じゃないかもよ」
「お見合いなんてお断りですよ」
「恋愛婚がいいんだ?」
「えっ、いや、私は……」
「これだもんなぁ」
「……結婚願望が、そもそもあまり」
 月子が答えると、だろうね、と返ってきた。そんな感じに見える、と続けられた声はやわらかだったので、責めているわけではないのだろう。
「唐沢さんだって別にないでしょう、結婚願望」
「……別に、そういうわけでもないよ。必要ならするさ。それに若いときに立てた人生設計では、今頃入籍でもしてるはずだったんだよ、一応言うと。だからタイミング逃したとは思ってるかな」
「そう、なんですか?」
 意外だ、と驚く。入籍というやけに現実的な響きに、もしや紹介されていないだけで相手がいるのかと勘繰ってしまう。それを見透かしたように、唐沢はにこりと笑う。
「いや、全然」
「嘘じゃないですか!」
「心にもないこと言っただけで嘘じゃないよ」
「それを嘘と呼びませんか?」
 月子がじとりと見つめると、唐沢がくつくつと喉を震わせる。その表情は本当に楽しげで、だからちょっと許してしまった。月子との会話がすこし息抜きになったようだから。
「まあまあ。からかってごめんって。なにか奢ろうか?」
「からかってるんじゃないですか……それにここ、私のお店ですよ」
「別にここ限定じゃなくてもいいよ。今度、どこかへ行く?」
「そんなお時間あるんですか?」
「きみのためなら空けるさ」
「それよりもちゃんと寝てください」
「それじゃあ、きみもちゃんと休憩してくれ。いいね?」
 追加で、きみの飲みたいものを。さらりと告げられた注文に、先日城戸を介して受け取った言葉を思い出した。無理はしないように。そのことについては深く反省しているが、まだまだ唐沢の記憶に新しいらしい。
 ここから御託を並べても、引いてくれないのはわかっていた。昔から月子を手のひらで転がすのが上手なのだ。おとなしく、唐沢と同じブルーマウンテンを飲むことにして、珈琲豆をミルにセットした。

   *

 最近、本部で唐沢と顔を合わせるたびに何故か不憫そうな目でみられる。それどころか、いつもは隙を見せず、こちらの裏をかいてくるような唐沢が、素直に労ってくるのである。前々から労られなかったわけではないが、それにしてもクセがないというか、憐みを感じる。
 対応が優しくなっている理由を考えて、思い当たるのは迅が想いを寄せている人についてだった。また月子が、迅にとってはあまり嬉しくないことを言ったのかもしれない。自分の気持ちが見透かされていることにはもう何も言うまい。面と向かってあげないよと言われるよりはましだ。
 珈琲に生クリームを浮かべたウィンナ・コーヒー――月子はアインシュペンナーと呼んでいた――をちびりと飲みながら、かかってきた電話に応対する月子を見る。漏れ聞こえる声からすると、何かのイベントでドリンクサービスをお願いしたい、ということだった。そういうことをするとは訊いたことはあるが、日取りが悪いのか月子は断るようである。
 丁寧な謝罪と代替え案の提案、それについての相談。それらがすべて終わるまで十分ほどかかっただろうか。失礼します、と電話を切った月子がこちらに向き直った。
「すみません」
「んーん、お疲れ様。忙しそうだね」
「ありがたいことです。迅くんも、最近はなんだか忙しそうですね?」
 見抜かれているらしい。つい先日、正式入隊日を迎えた関係で、防衛任務のシフトが変動した。新入隊員の指導役に現役隊員が何人か付き添うためだ。それに加えて、迅には新入隊員たちをその目で見る仕事がある。出立を予定している遠征部隊との戦闘訓練や、ちりちりと尾を見せ始めた未来のことも考えれば、これからさらに忙しさは増すだろう。それでも時間を見つけてここに通うのだから、己の盲目ぶりには少し呆れる。
「あー、うん。ボーダーに新入隊員が入ったから、色々シフトが変わって」
「無理はしないでくださいね」
「月子さんもね」
 迅が言えば、月子はうぅ、と呻いて、わかっていますと小さな声で返事をした。どうやら秋のはじめに見舞われた風邪の記憶が尾を引いているらしい。ちょっと言いすぎたのかもしれない。気にしてほしくはなかったので「いつでも看病するけど」と続けて、ニヤリと笑う。
「も、もう大丈夫です!」
「それならいいけど」
「私のことより迅くんのほうが心配ですよ。いつもありがとうございます」
「……どういたしまして。でも月子さんが考えてるほど大変なことばっかじゃないよ。新入隊員もさ、おもしろいやつが入ってくれたから、色々楽しみなんだ」
「そうなんですね。それはぜひ、楽しんでください」
 街を守るボーダーに『楽しんでください』と告げる月子は、稀有なひとなのだろう。その優しさが心地いいのだ。
 真夜中に出会った眼鏡の中学生を思い浮かべて、ひそやかに笑った。彼はどんな未来をつくるだろうか。まだ不明瞭なその先を、迅は楽しみにしている。
 穏やかなジャズの音色と、月子の声が混じり合って溶けあう。秋の人恋しさも、ここにいれば遠かった。


close
横書き 縦書き