クラッシュコーヒーゼリーミルク

「こんにちは、いらっしゃいませ」
 ドアベルの音を合図に、カフェ・ユーリカに訪れたひとを出迎える。
 月子の声に律儀にもぺこりと頭を下げて応えたのは二宮だ。相変わらず眉目秀麗という言葉がよく似合う。整った顔立ちと、すらりとしたシルエットはモデル顔負けだ。東に連れられて以来、二宮は何度か来店してくれている。いつもは一人だが、今日は連れがいるようだった。
 二宮よりも少しだけ背が低い、ぴょんぴょんとあちこちに跳ねた癖っ毛が特徴的な青年。背が低いとはいってもそれは二宮に比べたらの話で、男性の平均身長よりも高い。
 青年のやわらかそうな黒髪は少しアッシュがかっても見えた。瞳も同じく黒く、気だるげに瞼が重い。なんだかやる気がなさそうなのに、不思議と他人を圧倒する雰囲気を纏っている。二宮の冷ややかな容貌とはまた違うけれど、なんとなく人を寄せ付けないようにみえた。結んだ口元と、顎に髭を生やしたさまは歳上のように感じるものの、年齢はいまいち読めない。
 ぐるり、と青年が店内を見渡す。月子とふたりの他には、新聞を読んでいる男性客が一人、テーブル席にいるだけだ。顔のすぐ前に新聞を持ってきているので顔は見えない。最近老眼がひどいのだと笑っていた常連客だった。
 店をしげしげと眺めた青年は最後に月子を見て、口元に小さな笑みを浮かべた。
 いつものように大股で、けれど粗野に見えない足さばきでテーブル席に向かう二宮に反し――癖っ毛の青年はカウンターの方へつかつかと歩み寄る。
 へらりとした笑みが浮かんだ顔は、笑っているのだけど、やはりどこか感情が読めない。月子を捉える視線やゆらりと歩く姿に隙はなく、おそらく彼もボーダーの人間なのだろうと思った。
「……おい、太刀川」
「こっち座ろうぜ」
 咎めるような声に軽薄な声が応える。ぎゅっと眉を寄せた二宮はいかにも不満を伝える顔だった。それを確かに見たはずなのに、太刀川と呼ばれた青年は気にした風もなくカウンターの真ん中の席、すなわちカフェ・ユーリカの特等席に座った。
 月子は苦笑しつつ、ふたりぶんのグラスに冷水を注ぐ。二宮はひとつため息をこぼして、特等席の隣に座った。
「水くさいな。今まで行きつけの店を教えてくれなかったとは」
「おまえが勝手について来たんだろう。帰れ」
 青年と来るのが本意でなかったのなら、隣の席に座らなくてもよいのでは。月子はそう思ったけれど、どうやら二宮本人が気付いていなさそうなので黙っていた。二宮がカウンター席に座るのは東と来たとき以来だし、せっかくの機会だ。
「ひでえこと言うな〜、暇そうにしてたから構ってやってんだろ」
「頼んでいない」
「じゃあちょっとバトろうぜ」
「誰がするか」
「おー、ご機嫌ナナメ」
「おまえが目の前にいるせいでな」
 二宮は目に見えて苛々とした声をあげているが、太刀川に気にした様子はない。喧嘩中というよりは、おそらく普段からこんな感じなのだろう。それなりに仲が良い、ような? 本当に仲が悪ければ男ふたりでは来店しないし、いくら生真面目でやや天然の気配を感じさせる二宮でも離席するはずだ。女子校育ちの月子に男性のことはよくわからないが。
 声を聞きつけてか、奥のテーブル席に座っていた男性が顔をあげてこちらを見た。カウンターに座った二人からは見えないその人に、そっと微笑みを返す。彼は祖父の代からの常連だ。それこそ中学生の頃から月子を見知っている人なので、意図はすぐに伝わる。彼は苦笑を浮かべて新聞へと視線を戻した。
 昔に比べると、カフェ・ユーリカに訪れる人の平均年齢は低い。なにせ以前は唐沢の歳が飛び抜けて若かったのだから推して然るべし、というやつだ。店主にしたってずいぶん若くなり、それに合わせるように少し賑やかになった。それでも訪れ続けてくれる彼のような人たちは、月子に少々甘いところがある。
「……お騒がせしてすみません」
 月子が奥のテーブルを見ていたことに気付いたらしい。謝罪を紡いだ二宮に「お気になさらないでください」と返す。
「ここはゆっくりとご歓談いただく場所でもありますから」
 居心地のよい店であってほしい、というのは先代から続くポリシーだ。静かな場所はほっと息がつけてよいけれど、きっと静かすぎるというのもいけない。人の楽しそうな声がさざ波のように穏やかに店内に満ちる、営業中だけのその空間も好きだから。
「だってよ二宮、やったな」
「おまえは帰れ」
「それしか言わねえな」
「……」
「無視すんなよ、傷つくだろ」
「……」
 無視である。二宮が誰かと会話している姿は、東か自分へのものしか見たことがない。敬語を使わない彼の言葉は思ったよりも直球的に悪く、すこしだけ子どもっぽい態度だ。つい微笑ましい気持ちになる。
「マスター、おすすめってなに?」
 太刀川と呼ばれた青年が月子へと問いかける。思っていたよりも切り替えがしっかりしているというか、さっぱりしているらしい。それに最初からマスターと呼んでくるあたり、順応性が高い。
 こうして正面から顔を合わせてみると、近寄り難いと思ったのが嘘みたいだ。どこか人懐こいまなざしに、天性の人たらし――月久に似た気配を感じる。
「今の季節だけ出しているものからなら、あたたかいものはシナモンコーヒー、冷たいものですとクラッシュコーヒーゼリーミルク、でしょうか。珈琲が苦手でしたら、紅茶や他のソフトドリンクもご用意しております」
 写真の載ったメニュー表を差し出しつつ言えば、「じゃあクラッシュ」と即決である。
「二宮さんはいかがなされますか?」
「……ホットコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
「仲いいじゃん、二宮」
「煩せえぞ」
 暴言にもめげた様子はない。へらり、と感情の読めない笑みと瞳が月子をとらえる。
「マスター、おれは太刀川慶、よろしく」
「はじめまして、太刀川さん。店主の仰木月子と申します」
 にこりと微笑みかければ、太刀川は少しだけ目を細めた。二宮との気安そうなやりとりから考えると、ふたりは同期だろう。
「ところでさ、おれが頼んだのってどんなの?」
「写真を見ていなかったのか」
「東さんがなんでもうまいって言ってたし」
 出てきた名前に、やはり太刀川はボーダーの一員なのだろうとあたりをつける。
 月子はメニュー表のなかから一枚の写真を指差して、太刀川に示した。名前の通り、大きめのグラスにコーヒーゼリーとミルクを注いだだけのものではある。もちろん、こだわりはあるけれど。
「こちらの写真ですね。柔らかめに仕上げたコーヒーゼリーをクラッシュ……小さめに崩して、牛乳を注いだものになります。スプーンでも、太めのストローでも、お好きなほうでお召し上がりになれますよ」
「じゃあストローで」
「はい、かしこまりました」
 承って、ひとまず、二宮の注文分の珈琲を淹れるお湯を沸かす。豆はなんでもいいと言われているので、先日焙煎したばかりのものを選んだ。酸味が強いものが苦手なのは察している。じっくり深炒りした、旨味の強い豆をミルにセットし、スイッチを入れる。
 続いて、冷蔵庫から深めのアルミトレイに作っておいたコーヒーゼリーを取り出した。アイスコーヒー用の、しゃっきりとした味の豆を強めに抽出して、ゼラチンと少しの砂糖を合わせたものだ。大きめのフォークで十字を描く。スッ、とやわらかく作られたゼリーに切れ目が浮かんだ。ふるりと揺れせば境が曖昧になるのがおもしろくて、つい揺らしてしまう。
 切り込みを入れた部分をこそぎ取れば、クラッシュゼリーができる。持ち上げると黒が透けて、不揃いな断面はきらきらと光を反射させる。それを飲み口の広いグラスの底に入れた。とろみとぷるぷる感が共存した、緩めのゼリーだ。
 これを一度、冷凍庫にしまう。ゆるいゼリーなので、とけやすい。少しでも冷やしておきたいが氷を入れると飲みづらくなるので、グラスごと表面を軽く凍らせるのだ。
「……おまえ、何しに来たんだ」
 月子が作業をしていれば、二宮が太刀川へと問いかける。先程まで無視をしていたのに、無言が訪れれば話しかけてしまうあたり、やはり仲が悪いわけではない――かどうかはやっぱりわからないけれど、一応話せる仲ではあるのだろう。
「だから、暇そうだから構ってやってんだよ」
「くだらない冗談はやめろ」
「えー、ひでえなぁ。マジで暇なくせに」
「……ああ、おまえの部隊と違ってな」
「すねんなよ。……てか、今日の二限のレジュメ持ってる?」
「……それが用件だろ」
「ばれたか」
「チッ……んなことだろうと思っていた。馬鹿にやるレジュメはない」
「前期思ったより単位とれなくてやべえんだって」
「おまえが単位をとれないのはいつものことだ。……来馬あたりに頼め。あいつも出てる」
「おれのことが嫌いだからってすぐ他人売るのどうなの?」
「俺はあいつと違っておまえの単位をどうにかしてやろうとは微塵も思っていないからな」
「同期のよしみだろぉ」
「うぜえ。そもそもあの授業は出席点がある。レジュメがあっても単位はとれねえぞ」
「え、うそ、マジ?」
「馬鹿なのか?」
 辛辣な物言いだが、どうやらこのふたりはこれで通常運転らしく、淡々とした表情で会話を重ねている。月子にはあまり馴染みのない関係だが、まあきっと、男同士というのはこんなものなのだろう。
 挽き終わった豆を珈琲フィルターにセットして、いつものようにハンドドリップで抽出する。珈琲のにおいは店内に染み付いているけれど、それでも新しい一杯を淹れるときの香りは格別だ。濃褐色の液体がサーバーに落ちていくのを眺めていると、気分が上向く。
 サーバーから温めておいたカップに注ぎ、ミルクピッチャーと角砂糖を添えて出す。角砂糖はきび砂糖でできた、薄いブラウンだ。
「こちらの砂糖、普通のものよりも味わい深くなりますのでぜひお試しください。ゼリーミルク、すぐにお出ししますね」
 後半は太刀川に向けて告げ、冷凍庫から凍らせておいたグラスを取り出す。フォークで軽くつついてやれば、ふるりと鈍く動く。冷蔵庫から出した牛乳を加えれば、つめたいままの温度差で溶けだして、先程の食感が戻ってくるだろう。
 注ぐ牛乳は脂肪分が多めのものだ。ゼリーには珈琲の味をぎゅっとこめているので、普通の牛乳だとさらりとしすぎて負けてしまう。よく冷えた、とろりと濃厚な牛乳が合うのだ。グラスの八分目まで満たし、白い布製のコースター、太めのストローとともに太刀川の前に出す。一応、柄の長いスプーンも添えておいた。
「お待たせいたしました。クラッシュコーヒーゼリーミルクになります」
「どうも」
 にへり、と太刀川が笑う。二宮はすでにきび砂糖とミルクを混ぜ終えて、珈琲に口をつけていた。
 太刀川がストローを噛む。ずず、と吸うなり「お、ぷるぷるしてる」と淡白な感想が呟かれる。ちょうどいい食感になるようゼラチンを調整した日々を思い出しつつ、月子は太刀川を窺う。ずずずっ、と一気に下がった水面はさすがの肺活量というべきなのだろうか。
「とろっとしててうまい。こういうコーヒーゼリーもいいな。アイスコーヒーとは全然違うし」
「嬉しいお言葉です」
 店に出すメニューは必ず試飲しているが、勧めただけあってこれは自信作である。とろりとミルクと絡むゼリーの絶妙な固さ、固形と液体のちょうど間を縫うような食感に、じわりと溶け出した珈琲の味が広がり、しっかりと主張する。すこしぬるくなればゼリーがさらに溶け出して、それこそミルクコーヒーのような味わいになる。ゼリーといえば夏だけれど、移ろいを楽しめるという意味では秋のようだと思ってメニューに加えた。
 二宮はいつも珈琲を頼む。珈琲を売りにだす店としては嬉しい限りだが、もう少し色々試してもらいたいという欲もあって、今の季節の限定は珈琲のアレンジドリンクで揃えてある。そのあたりの裁量を自分で決められるのは、個人経営の店だからこそだ。
「……そういえば先程のお話、太刀川さんが受けているのはどの授業ですか?」
「ん? マスターも大学、三門?」
「いえ、違いますけれど……」
 言った方がいいのか悪いのかわからないが、どうやら困っているようだから手は貸してやりたい。あまり他のお客さんのことを言うのは主義ではないが――月子はちらりと奥のテーブル席に座る男性を見る。目が合って、にっこりと微笑まれた。言っていいということだろう。
「ふーん? 授業は般教、なんだっけ、なんかヨーロッパの歴史みたいな」
「近代ヨーロッパにおける産業の変遷だ」
「おう、それそれ」
「もしかして、先生のお名前は……」
 少しだけ声を潜めて確かめると「なんで知ってんだ?」と返ってくる。ビンゴだ。
「……あのですね、奥のテーブルに座っていらっしゃるの、その先生ですよ」
「は!?」
 びくっと太刀川の肩が跳ねる。二宮はぱちりと瞬きをして、そっと背後を窺っていた。残念ながら、会話は筒抜けだったと思う。
「なんでこの時間に……、サボりか……?」
 先程の月子のように潜められた声に苦笑する。さっき堂々と自主休講を宣言した身としては肩身が狭いのだろう。
「この時間は助手さんが自分の研究に専念できるよう、研究室を空けたいそうなんです。お昼休み代わりに、と」
「……太刀川、おまえ何回休んでんだ」
「……一回も出てねえ」
「三分の二以上出席じゃねぇと単位でねえぞ」
「ヤバくね?」
 一応、太刀川のことを気遣ってか、二宮も声を潜めて応じている。ちらちらと背後を気にしているようだが、当のその人は新聞を畳み、帰り支度を始めていた。
 祖父の友人でもある教授は悪戯っぽい笑みを浮かべている。ふたりが席に座っているときにちらりと寄越してきた視線からして、最初から察していたのだろう。ボーダーの学生はどうしても公欠が増えるから、だいたい見知っていると訊いたことがある。
「マスター、お勘定を」
「はい、かしこまりました」
 太刀川がいかにもやべえと言いたげな顔をするなか、声をかけられて、レジの方へ向かう。
 彼が注文したのは野菜中心のサンドイッチと珈琲だ。手早くレジに打ち込んで、差し出された一万円札を受け取る。お釣りを返せば、千円札一枚と小銭全てを返された。太刀川と二宮のほうに目配せしているから、これは彼らの会計に、ということらしい。それでも少し多かったので、差額の分を返すと苦笑された。
「太刀川くん」
「……うっす」
「君が飲んでいるドリンクの感想文、来週の授業開始前までに提出したまえ。一回分ちゃらにしてやろう」
「マジで!? あざっす」
「次はないからね。マスターに感謝するように。それとボーダー、頑張って」
 からんっ、とドアベルが鳴って、教授が出て行く。大学に戻るのだろう。
 太刀川は大きく息を吐き出して、カウンターの中に上半身を投げ出した。うへえ、と呻き声をあげて、心なしか顔色が悪い。
「いやー……心臓止まるかと思ったな」
「……仰木さん、こいつは懲りないやつです。次、甘えようとしたら切り捨ててください」
「はい、心得ました」
「ええっ……マスターはおれの味方じゃないのか……」
「最近、ボーダーは忙しいと耳に挟みましたので、少しばかりの市民からのお礼です。優しい方ですし、授業はぜひ出てくださいね」
「……っす」
 最初の印象はどこへやら、なかなかどうしてちゃんと大学生だ。見た目も中身もあれな東とは違う――と考えて、心の中でごめんねと謝った。たぶん、おそらく、歳上に見られがちなのを若干気にしているらしいと、響子と話したことがある。
「……あのさ、もしかして他にも、教授とか来てたりする?」
「さあ、なんとも。けれど前店主がそういう方々とは親しかったので、常連さんのなかには、あるいは?」
 にこり、と営業スマイルを浮かべて首を傾げて見せれば、太刀川は少しだけびっくりした顔をしたあと、ニヤリと笑う。
「成る程な、商売上手だ」
「もちろん、ここに来たって単位は出ませんよ。おいしいものは出せるよう努めますが」
「……うまいもん食いながらだったら、研究室で泣き落とすより効果ありそうだな」
「おまえは馬鹿なのか?」
 辛辣なツッコミはやはりスルーらしい。それでいいのか、と思ったけれど、それでいいのだろう。太刀川はきらんと目を輝かせる。
「また来るぜ、マスター」
 と、機嫌よく宣言し、ストローを噛んだ。

   *

 華奢な硝子の器にコーヒーゼリーが盛られている。しっかりと形を保っているけれど、スプーンの先でつつくとふるりと揺れた。端のほうは少し透けて見えるが、黒いゼリーは迅の顔が映るほどつやつやとしていた。
 ピッチャーに入った生クリームを注げば、白と黒のマーブルが現れる。月子曰く、期間限定のドリンクに合わせて単品で出すことにしたらしい。
 ひとくち切り分けて、生クリームと一緒に口に放り込めば、ひやりと冷たく、なめらかにふれる。濃厚な珈琲の味を生クリームがやさしくまろやかに包み、溶けあう。ドリンクに使っているものはもっとゆるく固めているが、コーヒーゼリーは単品で食べるものとしてしっかり固めてあると月子が言っていた。
 その彼女は、カウンターのなかで洗い物をしている。美しい柄のコーヒーカップは高級感が漂うが、別に高価なものでなくても彼女は大切にするのだろうなと思う。
「いかがですか、コーヒーゼリー」
「もちろん、おいしい」
 にやりと笑って告げれば、月子ははにかむように微笑んだ。


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