ハニーロイヤルミルクティー

 からんっ、とドアベルがいつもの音を響かせた。カウンターの中から「いらっしゃいませ」と声をかけると、月見蓮が微笑んで応える。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花、なんていうけれど、ステンドグラスを透かしたあざやかな光を背に微笑む彼女は今日も美しい。
 一人で来店したらしい月見はカウンターの方へと歩き出す。加古とは予定が合わなかったのだろう。彼女たちがそれぞれ一人で来店する日もある。
 月子は先に来ていた男性客の注文分の珈琲を淹れながら、視線で特等席を促した。まだ誰も座っていないカウンター席の真ん中に、月見がそっと座る。
「こんにちは、月子さん。それからごめんなさい。このあいだは、慶くんが迷惑をかけたみたいで……」
「けいくん……太刀川さん、ですか? 大丈夫ですよ。迷惑なんて、なにも」
 申し訳なさそうな顔をする月見に、ぱちりと目を瞬かせつつも、手元の作業は怠らない。ケトルを置き、ドリッパーの中、膨らんだ珈琲の粉がしぼみきらないうちに外す。熱を持ったドリッパーはそのままシンクの中において、真鍮の蛇口をひねって新しいグラスに井戸水を注いだ。
 冷たい水を月見に出してから、カップに注いだ珈琲をテーブル席の男性客へと運ぶ。男性客はなんとなく月見のほうを気にしているようで、テーブルを去る月子に視線を向けながらも、それはこちらを飛び越えて彼女に向かっているようだった。そういうものがわかってしまったときは、少し気まずいような気持ちになる。
 カウンターに戻ってくると、月見は困ったように頰に手をあてる。
「今度、慶くんが泣きついて来てもあしらってしまってくださいね。頑丈なので痛い目を見るくらいがちょうどいいんです」
 ほんとうに困った、という顔で太刀川にとっては手痛いであろうことを言うので笑ってしまう。
「そうさせていただきます。太刀川さんと仲がいいんですね」
「幼馴染みなんです」
 なるほどと頷く。月子にはあまり馴染みのない関係だが、そういう人たちもいるだろう。月見は女子校育ちだし、ボーダー以外の繋がりが見えなかったのだけれど、幼馴染みというのなら彼女の物言いも納得だった。ボーダーができる前から、ちょうど先日の月子のように太刀川を助けてきたのだろう。
「それじゃあ、蓮ちゃんはその縁でボーダーに?」
「理由のひとつではあるかもしれません。私が勉強をみることもあった人ですけれど、でも、ボーダー隊員としての慶くんは、ちゃんと優秀なんですよ」
 にこりと笑った顔に嘘はない。勉強を教えた、というのは月見のほうが年下なのだから嘘であってほしいことだが、そういうわけにもいかないようだ。
「優秀、というと?」
「具体的には、個人、部隊のランクともにトップなんです」
「それはすごいですね……!」
 ボーダー隊員が戦う姿を、月子もかつて遠目では見たことがある。現実離れした動きに別世界の人たちだと思ったけれど、そのなかで最も優秀といっていい人が目の前で単位を失いかけていたというのは、不思議でおもしろい。
「普段はそうは見えませんけれど。とっても、ダメなひとでしょう?」
 さらりと辛辣な言葉が付け足された。二宮といい、太刀川の扱いが粗雑な気がするが、脳裏に思い浮かべた彼はそういうことをあまり気にしなさそうである。
「ギャップがあって素敵じゃないですか」
「月子さん、慶くんみたいな人がタイプですか?」
 笑いながら言えば、月見は心底驚いたように目を丸くする。ゆるく首を横に振った。
「そういうのではないですよ」
 好きなタイプ、というのはあまり考えたことがない。最近、唐沢ともそんな話をしたような気がする。恋話が流行っているのだろうか。
「よかった。月子さんの隣に並ぶなら、もっと素敵な人がいいです」
「太刀川さんは素敵ではないんですか?」
「んん……、極限られた条件下なら、少しだけ」
 手厳しい評価だ。柔らかな物腰が多い月見の意外な一面を見た気がして微笑む。
 会話の切れ目を察して「今日のご注文は、いつものでよろしかったですか?」と声をかければ、月見もふんわりと微笑んで頷いた。背に牡丹の花を背負う美女の微笑みはとてつもない。同性ながらきゅんとしつつ、月子はコンロの上に小鍋を置いた。
 月見はいつも、曜日限定のケーキと、それからロイヤルミルクティーを注文する。ケーキの種類に合わせて変更を勧めることもあるが、今日のケーキはさつまいものシフォンケーキだから、気にしなくていいだろう。
「あ、でも、ミルクティーは甘めにしてくれるとうれしいです。蜂蜜をいれるのも、ありましたよね」
「はい、ありますよ。お疲れですか?」
「少し……さっきまでずっとディスプレイを見ていて」
 苦笑する月見は、相変わらず美しい顔立ちをしている。疲れを見せない強さを感じつつ、労わりをこめて「おつかれさまです」と笑みを返す。
 小鍋のなかに水をいれて、火をつけた。ロイヤルミルクティーの淹れ方も色々あるが、カフェ・ユーリカではまず少なめのお湯で煮出して、そこにミルクを加えることにしている。
 まだお湯は湧いていないが、ミルクティー用の茶葉を取り出しておく。月見に視線を戻せば、彼女はたおやかな仕草で月子を見上げた。
「月子さんって、オペレーターが似合いそう」
 彼女は人と話すのが好きなようで、色々と話しかけてくれる。いや、彼女は『月子さんと話すのが好きなんです』と言っていただろうか。
「蓮ちゃんがしているお仕事ですか?」
「はい。きれいな声をしていますし、判断が早いでしょう?」
「ありがとうございます。でも、とてもとても務まりませんよ」
 月見のいうオペレーターを自分が想像している姿はあまり思い浮かばない。東が月見を紹介してくれたときに『オペレーターっていうのはすごく難しい仕事でな』と言っていたのが耳に残っているせいもあるだろう。謙遜をよそに、月見は楽しそうに「そうですか?」と微笑むばかりだ。
 会話をしながらも、作業の手は止めない。冷蔵庫からシフォンケーキを取り出して、糸を使って切る。ふわふわの生地だから、包丁をあてると重みで潰れてしまう。逆にいえば、それくらいしゅわりと溶けていくような食感に仕上がって大成功、ということである。たまにとんでもなくぺしゃんこに焼き上げてしまうときがあるので、作り慣れた今でもシフォンケーキをオーブンから出すときは緊張する。
「すごく、優秀なオペレーターになると思ったんですけれど」
「どうしたんです、突然」
「同じオペレーターだったら楽しそうだなって、すこし」
「嬉しいお言葉です」
 もしも、の話をするのは月子も楽しい。それがありえないことだとわかっているから、好きに想像を巡らせることができる。月見や加古と一緒に働くのも、月子の仕事ぶりはともかくとして楽しそうだ。東や響子に、城戸と唐沢。それに迅もいる。
「でも、月子さんの天職はここのマスターですね」
「……そうだといいなぁと思います」
 まっすぐな言葉に顔に熱が集まりそうなる。照れを取り繕わずに笑みを浮かべれば、月見もご機嫌な様子で頷いた。
 そうしている間に小鍋のお湯が沸いたので、火を止め、茶葉を入れて蒸らす。手元にあった砂時計をひっくり返した。秋の色づいた葉が描かれた薄手のティーカップを棚からだして、ケトルに残っていたお湯であたためる。
 シフォンケーキは深い紅色の皿を選んで盛り付け、黒ゴマ風味のホイップクリームを隣に飾り付けた。クリームの上に甘く煮たさつまいもの角切りを乗せれば見た目にもかわいい。
「あ、でも、もしボーダーに月子さんが入ったら、加古さんみたいに戦闘員もできそうな気が……なにか、スポーツってされてます? 意外と力持ちですよね」
「よく言われます。カフェの仕込みって、けっこう重労働なんですよ。それで自然と……。スポーツは、小さい頃に剣道をかじった程度ですね」
「剣道をされていたのは初耳です」
 まぁ、というように月見が口元に手を当てた。たいしたものではないですよ、と付け足しておく。
「本当に小さいころに、父に少し稽古をつけてもらった程度なんです。剣道とも言えないかも……護身術を学ばせたかったのかもしれません」
 数少ない父との交流を思い出して笑みが浮かぶ。まだ小学校も低学年の頃だったと思う。たしか、学校から不審者に注意してくださいとお知らせが出たのだったか。曖昧にしか覚えていないが、父が『自分の身は自分で守りなさい』と言ったことは覚えている。
 幼い子どもに言うことではないのかもしれないが、父らしいとは思う。相手に立ち向かうのではなく、逃げることを目的にしたものだったので、月子もどうにか教えられたことを形にすることができた。
「娘さん想いのお父様なんですね」
「わりと放任主義ではあったんですけどね。さて、お待たせいたしました。お先に本日のケーキ〝さつまいものシフォンケーキ〟になります」
 月見の前に紅色のお皿を出せば、ぱぁっと顔が華やぐ。カトラリーも出し、ちらりと砂時計を確認した。もう少し。ミルクティーはしっかりと紅茶を煮出さなければおいしくならない。
「さつまいも! 美味しそうです。シフォンケーキって、作るの難しくありませんか?」
「メレンゲのコツさえ掴めれば簡単ですよ。材料も扱いやすいものばかりですしね。……なんて、今でも失敗することはあるんですけれど」
「ふふ、言わなければ気付きませんでしたよ?」
「うそはいけませんからね」
 言いながら、棚から蜂蜜の瓶を取り出した。色はごく薄い黄色だ。店内の光に透かせば、瓶のなかでとろりとゆらめく。
「色の薄い蜂蜜なんですね」
「クローバーの蜂蜜です。蜜を集めた花によって、色も味わいも変わるみたいですよ。種類がたくさんあって、私も詳しくはないのですが……。カフェ・ユーリカではこれと、アカシア、それからいわゆる普通の蜂蜜である百花蜜を使いわけてお出ししています」
 蜂蜜を柄の長いスプーンでひとすくいし、たらりと小鍋に注ぐ。そのままスプーンで中身をくるりとまわし、蜂蜜を溶かす。沸騰する前に火を止めれば完成だ。
「知れば知るほどカフェ・ユーリカのことが好きになりますね」
「ありがとうございます……凝り性の先代に感謝しないと」
 テーカップのなかのお湯を捨て、空布巾で水滴を拭う。茶こしをあてがって小鍋からカップへ注げば、やさしい色のミルクティーが満ちていく。揃いのソーサーに乗せて月見の前に出した。
「〝ハニーロイヤルミルクティー〟お待たせいたしました」
「ありがとうございます。いただきますね」
 そっとティーカップを持ち上げた月見が、ふぅ、と湯気を吹き散らす。牛乳の膜ができてしまうので温めすぎないようにはしているが、熱いものは熱い。
 こくり、と一口飲んだ月見が微笑んだ。いつものミルクティーと違って、はちみつが加わったものはこっくりとした甘味があって、癒される味わいになっている。ティーカップが置かれたタイミングを見計らって、月見に話しかけた。
「それから、今日も、ケーキの感想をいただければ嬉しいです」
 ノートとペンを取り出して微笑めば、「よろこんで」と月見が麗しく応えた。

   *

「迅くんは、私がボーダーに入っていたらどうします?」
「えっ、なにそれ、入るの?」
 ぱちくり、と大きく瞬きをした迅に苦笑しながら首を振る。「もしもの話ですよ」というと、迅はすこしほっとしたように肩を下ろした。
 その様子に、自分と一緒に働きたくはないのだろうかと考えたが、どうも違うらしい。ううん、と唸った迅はどちらも捨て難いと口早に囁いた。
「月子さんがボーダーにいたら、楽しいだろうし、色々教えたいけど、ここも好きだから悩むね」
「私がボーダーだったら、色々教えてくれるんですか?」
 いつもとは逆だと笑えば、迅も笑う。
「そう。おれが教えるのってレアだけど、月子さんは特別」
 実力派エリートと言っていたことを思い出しつつ、かつて父から剣道を教えてもらったときのように、素振りをじっと見て姿勢を直してくれる迅を想像してみる。なかなか、楽しいかもしれない。
「それはありがたいです。強くなれそうですね」
「もちろん、おれが保証する」
 力強い言葉は、やっぱりお世辞だとは思うのだけれど、嘘にも見えない。迅は嘘はつかないと、月子が知っているからかもしれない。ボーダーに所属し、そうでなくても言えないことはあるはずの迅は、話をそらして誤魔化すことはあっても、しらを切るような嘘はつかない。
 強くなると言いきってくれたのは、仮の弟子として信頼してもらえたかのような気もしてうれしかった。それこそ父が剣道を教えてくれたとき、月子はなんでこんなことをと思いつつも、少し笑んで『筋がいい』と褒めてくれたあとは張り切ったものだ。迅や父がその気にさせるのが上手いというより、月子が単純なのだろうが。
「……でもやっぱり、月子さんがそうして珈琲を淹れてるところが、いちばん好きかな」
「それも、とてもありがたいお言葉です」
 じんわりと胸があつくなる。
 ここにいていいのだと、自分だけでは思えないから――誰かがそう言ってくれることはほんとうにうれしいのだ。
 ありがとうございます、と礼を言えば、迅は「ほんとうだよ」とやわらかく目を細めた。


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