シナモンコーヒー

 夕焼けの、赤みの強い光が影濃く街を照らしていた。ひとときもしないうちに夜が訪れるだろう。釣瓶落とし、秋の日は暮れやすい。なんとなく物悲しくなる季節なのは、この日の早さのせいもある。
 秋の暮れがもつ、そういう雰囲気が好きだとも思うし、感傷的になりすぎるといやにもなる。ただこの感傷的になる季節が、月子の好む百人一首に多くの秋の歌を残したのだと思えば、嫌いにもならないのだが。

 カフェ・ユーリカの店内を流れる音楽に耳を傾けながら、月子はカウンターのなかで読書に勤しむ。文字を追いながらも、頭のなかに浮かべたのは迅の姿だった。今、店内にお客さんは一人もいない。
(迅くん、今日は来るかな)
 以前にも言っていたように、最近は忙しいらしく訪れる頻度が減っていた。ほんの少し、だけれど。頻度というよりは滞在時間かもしれない。来店して二十分もしないうちに出ていくことが多く、慌ただしい背中をよく見る。忙しいのならば無理に立ち寄らなくても、とは思うものの、ここが彼にとって休まれる場所になっているなら、それは素直にうれしい。
 ――からんっ
 と、ドアベルが鳴って。月子は笑みを浮かべた。なんとなく、顔を上げなくてもそこに誰がいるのかわかる。
「いらっしゃいませ、迅くん」
「こんにち……こんばんは? 月子さん」
「こんばんは」
 ふわりとした笑みを見るとほっとする。迅は、いつもの青い上着を着ていなかった。あれは制服みたいなものだと言っていたから、もしかしたらオフの日だったのかもしれない。今日は世間一般的には休日だ。綺麗なキャメル色々のカジュアルジャケットは、いつものラフな格好のときと印象が違う。どこかへ出掛けていたのだろうか。
 お冷をいつもの特等席に置くと「いま、店の前で拾ったんだけど」と、迅が何かを差し出した。受け取れば、それはパスケースだ。よくある交通系のICカードがちらりと覗き、リングホルダーには鍵が付いている。
「店の前に?」
「そう、ドアの石畳のところに。お客さんのかなって思って拾ってきた。一応」
「そうかもしれません……昼過ぎに掃除をしたときには落ちていませんでしたから」
 パスケースを見つめて記憶を辿る。昼過ぎに枯葉掃除をしたときには落ちていなかった。それから今まで、店を出たのは三組。そのうちの二組は何度か来店している人たちで、もう一組は見慣れない女性と小学生くらいのお子さん。父親は仕事らしく『パパはまだー?』と拗ねた顔でオレンジジュースを飲んでいた。
 簡単に持ち主の候補者を迅に伝えると、「思ってたより少ない」と言われた。カフェ・ユーリカの平均的な来客数の範疇ではある。経営を心配されるのも仕方ないなと思った。
「あ、」
 特等席に座った迅が、ふと呟く。その視線は月子を見ていたが、目が合っているという感じもない。
「どうかされました?」
「いや、なんでも。……それ、すぐに取りに来るよ」
 いつもの笑みを浮かべた迅がそう言って、水の入ったグラスに口付ける。確かに、パスケースには鍵もついているし、失くしたこと自体は今日中に気付いてくれるだろう。
「そうですね……。とりあえず、クローズしないと交番にも届けにいけませんし。それに、迅くんの直感はよく当たりますから」
「まあね」
 得意げな顔をするかと思ったが、迅が浮かべたのは緩やかな微笑みだった。妙に大人びた、達観した笑みだ。ときどき、そういう顔をする。
「あと、もしかしたら、その親子って知り合いの家族かも」
「心当たりが?」
「今日、ボーダーのエンジニアの一人が半休とってて。奥さんと娘さんがこっちに来るんだってさ。ここ、本部から近いし、待ち合わせまでの時間調整でもしてたんじゃないかな」
「なるほど……迅くんは探偵みたいですね?」
「当たってるかはわからないけど」
 やはり大人びた苦笑を浮かべた迅に首を傾げつつも、月子も、それが正解なのではないかと思う。迅の言うことはいつも不思議とよく当たる。
 パスケースをレジの隣に置いて、手頃な紙に『落し物をお預かりしています』という旨の文章を綴る。
「ちょっと貼ってきますね」
「いってらっしゃい」
 クローズしたあとは、近くの交番に届けたと書き換えればいいだろう。扉を開いて、ステンドグラスの下にとめておく。手早く済ませて、お待たせしましたと店内を振り返り、迅に微笑みかけた。
「拾ってくださりありがとうございました、迅くん」
「どういたしまして。今日のおすすめは、何かある?」

 訊ねられて、月子はカウンターの上に置いていたメニューを開きながらいつもの位置に戻る。そうですね、と目を滑らせて、迅の正面に立ち、季節限定メニューを指差した。
「そろそろ、季節のメニューを入れ替えようと思っています。シナモンが苦手でなければ〝シナモンコーヒー〟はいかがですか?」
「平気。じゃあ、それもらっていい?」
「かしこまりました」
 注文を受ければ月子のすることはひとつだ。さっそく準備にとりかかる。
 カフェ・ユーリカのシナモンコーヒーは、ドリップではなくエスプレッソを使う。電動ミルに豆をいれて、細かく挽く。カップを温める用にお湯を沸かして、迅を窺った。
「迅くんも、今日は誰かとお出かけしていたんですか?」
 きょとん、とした顔で月子を見つめる迅がいる。不躾だったかなと思っていれば、迅がにまりと笑った。
「気になる?」
「そうですね。今日は、一段とかっこいいので。綺麗な色のジャケットも迅くんによく似合っていて、思わず惚れ惚れとしてしまいました。だから、デートでもしていたのかなと」
 からかわれそうな気配を察知して先手を打つ。肯定されるのは予想外だったのか、迅が少しだけ照れたように目をそらした。迅が真正面からの褒め言葉にわりと弱いことは経験則で知っている。
 勝った、という久しぶりの手応えに笑みを浮かべれば、恨みがましげな視線が刺さった。大人気なかっただろうか。
「普通に、ちょっと駅前のほう行ってただけ。一人で」
「お買い物ですか?」
「まあそんなとこ。デートじゃなくて安心した?」
 やはりからかわれているというか、にまりとした笑みが添えられる。安心しました、とまた肯定するのも術中にはまっている気がする。「いいえ」と返したのは、ちょっとした反抗心というか、そんなものが芽生えたせいだった。
「デートの際は、カフェ・ユーリカもぜひご利用くださいね。彼女さんともども、サービスいたしますよ」
 挽き終わった珈琲豆をエスプレッソマシンに詰めつつ言う。ちなみに、先日デートの下見に来ていた生駒からは『いや知り合いめっちゃ来るやん』ということで、デートには使わないと言われている。
 お湯が湧き始めたケトルをとって、デミタスカップにお湯を注いだ。エスプレッソに限らず、珈琲の味が強いものはこのカップに注ぐ。普通のカップの半分の容量でちょうどいいのだ。
 迅がすこしだけ視線を下げた。からかいすぎただろうか。十九歳のプライベートに突っ込みすぎたかもしれない。
「……遠慮しとこうかな」
「そう、ですか」
 返しつつも、低めの声色に心が痛む。人を傷つけることは一瞬でなせるのだと思い出した。自責の念が心に渦巻くが、続く迅の言葉は笑みを含んでいる。
「月子さんとのデートには使えないし?」
「……な、なるほど」
 負けた、と思った。にんまりと笑う顔は、勝った、と言っているようである。照れてしまったことを隠すようは、デミタスカップを温めていたお湯をばしゃりとシンクに放る。
「してくれる? デート」
「しません!」
「東さんとはしてるのに?」
「あれは普通のお食事です」
「じゃあおれとも普通の買い物行ってくれる?」
 からかわれている。こほん、と咳払いして頬に差す熱を散らした。
 反応を待っている顔に「いいですよ」と返す。からかい返しの意味も含んではいるけれど、出かけること自体が嫌だとも思わなかったから。
 年下ということもあってか友達という感覚は薄いが、東よりも長い付き合いで、互いに気の許せる仲であることには違いない。
「えっいいの?」
 エスプレッソの抽出をはじめたから、迅の方はみれなかった。けれどびっくりしているような声は聞こえて、笑みをこぼす。二勝目、と心の中で呟いておいた。
「はい。でも、何を買おうとしてるんですか? アドバイスとか、役に立てたら嬉しいんですけど」
 濃褐色の雫がデミタスカップに落ちて、やがてもうミルクを混ぜたあとの珈琲のような、やわらかなキャラメル色に変わる。カップの七分目まで入ったのを見て、抽出を止めた。
「……あー……誕生日プレゼント?」
「お友達に、近い方がいらっしゃるんですか?」
 ソーサーの上にカップを置いて、棚に並んでいる密閉式の瓶からシナモンスティックの入った小ぶりのものを出す。蓋をひらけばシナモン独特の甘いにおいが広がった。一本取り出して、カップの横に添える。
「友達っていうか、まあ、ボーダーでお世話になってる上司なんだけど。玉狛支部のボス」
 それなら、月子も迅から話を訊いたことのある人だ。けれど面識はないから、いまいち想像ができない。
「支部長さんって、私と同じぐらいの歳の方なんですか?」
「……唐沢さんのいっこ上? たしか」
 それ、私はお役に立てますか、と苦笑する。それから、迅の前に、出来上がったシナモンコーヒーを置いた。出来上がったとは言いつつも、これの仕上げをするのは彼だ。
「シナモンコーヒー、お待たせしました。エスプレッソに砂糖をいれて、シナモンスティックでかき混ぜてお召し上がりください」
 ありがとう、と頷いた迅がシナモンスティックを手に取る。薄茶色の枯れ枝にしか見えないが、正しくは樹皮を細長く巻いて乾燥させたものだ。似たようなものだけれど。シナモンスティックにも色々種類はあるが、カフェ・ユーリカで使っているものは浅い色味で、薄い皮が何層も重なっている。
「いただきます」
 砂糖をいれて、ティースプーン代わりのシナモンスティックでくるりとかき混ぜる。別にパウダーでもいいのだが、においが強すぎることがある。スティックのほうが口当たりにも影響せず、香りと風味をつけるのにちょうどいい。
 シナモンの風味は、それ自体も甘みを持ちながらも、スパイスらしく砂糖の甘さを引き締めてくれる。甘い物に少しだけ加える塩と似たような役回りだ。加えて、スパイシーな風味は秋にぴったりだろう。
 濡れて色を変えたシナモンスティックが取り出されて、ソーサーの上に置かれた。迅の手がデミタスカップを持ち上げる。そっと湯気を散らしてから、こくりとその喉が動いた。
「おいしい」
 と、目元を緩ませた迅によかったと笑み返す。シナモンの香りにはリラックス効果もあるんですよ、と豆知識を添えておいた。
「……月子さんはさ、何か贈ったりした? お父さんとか、月久さんの誕生日に」
「そうですね……」
 さっき言っていた、支部長への贈り物のネタ出しだろうか。役立てたらいいな、と思いながら記憶を探ってみる。
「祖父は、持ち物のこだわりが強い人だったので、それを差し置いては贈れなくて……だから花とかお菓子とか、それからハンドクリーム……あ、万年筆のインクとかも贈りましたね。ほとんど消耗品です。
 変わり種なら、美術館で売っているポストカードでしょうか。前にも話したかもしれませんが、おじいちゃんは絵を描くのが趣味なので、いろんなところを巡って集めて贈りました」
 ポストカードを買うだけなら入館料もいらないところもほとんどだが、学生料金で安く入れるし、せっかくだからとついでに見て回った記憶がある。そういえば月久は、どちらかといえば月子が美術館を見て回ったということのほうを喜んでいたかもしれない。わしの誕生日がおまえの糧になってよかった、なんて。そしてもっと色んなところへ行けるようにと、祖父の誕生日なのにお小遣いをもらってしまった記憶まである。今も部屋にあるアルフォンス・ミシャの画集は、そのとき買ったものではなかったか。
「あとは……中学生の頃、家庭科で刺繍をならった年は、タオルにイニシャルを刺繍して渡したり……それから、仕事のときに着れるようなシャツもプレゼントした覚えがあります。一緒に暮らしていていれば、サイズはわかりますしね」
 思い返してみると、色々贈っているものだと過去の自分に感心する。定番なのかもしれない財布や時計は、祖父が使うような品々は昔の月子には手が出せなかったし、今も、祖父が物を長く大切にする性格だと知っているので、愛着のある品を差し置いて贈る気にもならない。
 迅は頷きながら訊いてくれたが、祖父と迅が贈ろうとしている人では年齢に開きがある。参考になるかはわからない。
「あ、唐沢さんにはネクタイピンを贈ったことがありますよ」
「へぇ」
 これはあまり琴線に響かなかったらしい。反応が露骨に薄い。ボーダーに勤めている大人の男性ともなれば、制服もあるのだろう。装飾品は難しいのかもしれない。自前のスーツを着ている唐沢の例もあるのでわからないが。
「まぁ、これと決めて買うのもいいですが、贈る人のことを考えて店を回るのも楽しいと思います」
「店回るの、付き合ってくれる?」
「いいですよ」
 他に適任の方はいると思いますが、という言葉は飲み込んでおいた。迅の笑みに水を差してしまうのはよろしくない。
「次の木曜でもよろしければ、ですけれど」
 次の定休日である月曜日は、博物館で珈琲のワークショップの仕事が入っている。予定を思い出しながら告げれば、大丈夫、と、短い言葉が笑みとともに返ってきた。
 連絡先交換していい? と訊ねられて、それもそうかと邪魔にならない場所に置いていたスマートフォンをとる。
 手早くアドレスを交換して、画面に並ぶ文字を見た。迅悠一。知り合ってから一年以上経つのに、連絡先を知らなかったというのも不思議な感じがする。月子はあまり自分から誰かに連絡をとることはないけれど、アドレス帳に人が増えるのは少し楽しい気分になった。
「お父さんにはどんなの贈ったの?」
 画面を見ていれば不意に訊ねられて、苦笑を浮かべる。答えなかったのだから訊かれるのも当然だろう。どうしようかと考えて、苦い思い出に視界がほんの数秒だけ眩んだ。シナモンのにおいが鼻につく。母は、このにおいが嫌いだと言っていた。
「父には、あまり……というか、一度も、誕生日にプレゼントをしたことがないんです。小さい頃から仕事が忙しくて、お互いの誕生日に会えたこともないですし……中学に上がる前に両親が離婚して、そのせいか、母が父に何か贈っているのも、あまり記憶になくて」
「……ごめん」
 ぱちり、と瞬いた瞳が、気遣わしげに月子を見上げる。
 両親は離婚した、と言うと、たいていの人はそういう顔をする。たぶん、月子も訊く側に――正しくは訊いてしまった側に立てば、そういう顔をしてしまうのだろう。気まずくさせてしまうのは嫌なので、なるべく言わないようにはしていた。けれど、迅に対して嘘で誤魔化したくないとも思ったのだ。
「いいえ。昔のことですし、今時めずらしい話でもないですし。それと別に、父と仲が悪いわけじゃないんですよ。ただ、タイミングを逸していて……最近は向こうも忙しさに磨きがかかってるみたいですから」
 自分と父は、普通の親子よりも距離があるようだ、というのはなんとなく感じていることだ。幼い頃から開いていた物理的な距離が、心の距離にも少なからず影響しているらしい。
 けれど、もう自立した大人ではあるし、修復が必要なほど険悪なわけではない。現状維持でも問題はないのだ。ただ――プレゼントというラッピングはされていなくとも、父が月子に与えてくれたものはたくさんあるのだから、そのお返しぐらいはすべきだろうとは思う。
 考えながら、迅を見つめた。カフェ・ユーリカの特等席に座った青年は、手元のシナモンコーヒーに視線を落としている。
「気にしないでくださいね、迅くん。私にとっては昔のことですし、それに迅くんは、そんなことで付き合い方を変えたりはしないでしょう?」
 両親が揃っていない、祖父と二人で暮らしているというだけで、自分のことを色眼鏡をかけて見てくる人にも出会ったことがある。ことさら心配して、気の毒がる人もいる。どちらも、月子にとってあまり嬉しいことではなかった。
 でも――迅はそうではないと、知っているから。迅のそういうところを月子は疑っていないし、迅にも、余計な気は遣われたくない。
 迅は、ほんの一瞬だけ悲しみと苦さが滲んだ曖昧な表情を浮かべたものの、そっと頷いてくれた。やさしいまなざしが月子を捉える。
「でも、言いたくないことを言わせたのは、謝らせて」
 その言葉に頬がゆるんでいくのを感じる。やっぱり、とそっと安堵の想いが広がって、両親の離婚のことを打ち明けて揺らいだ心を鎮めていく。
「受けとりました。……とまあ、そんな感じなので、お役には立てないかもしれませんが、お買い物に付き合わせてくださいね」
「もちろん。月子さんとのデートだし、チャンスは逃せないから」
「デートじゃないですってば!」
「はいはい、普通のお買い物ね。おれはデートだと思っておくけど」
「……ちょっとやり返そうと思っているでしょう?」
「ばれた?」
 にまり、と笑った言葉は、ついさっき月子へからかうように言葉を投げたときと変わりない。そのことに笑みを深める。
 変わらないでいてくれる。そういうものが、月子は好きだった。

   *

 迅は、玄関灯が淡く周囲を照らす店先に立つ月子を座ったまま見つめていた。ちょうど、パスケースを持ち主に手渡したところだ。
 すっかり暗くなっていたというのに、店の前の人影を見つけた月子はさすが店主ということなのか。迅と会話をしながらも細やかに周囲に気を配っていたらしい。彼らが扉を開ける前に外へと飛び出していってしまった。
 窓の向こうに見える顔見知りのエンジニアはこちらに気付いておらず、しきりに感謝している様子の女性の後ろで、小学生くらいの女の子と手をつないでいる。その顔は幸せそうで、久しぶりの家族の時間を満喫しているのだろうと思えた。迅が見たとおりの光景だ。
 妻子と離れて暮らすのは、彼の上司である鬼怒田に倣ってのことだといつか訊いた。そう強制されたわけではないはずだ。ただ、残業続きのエンジニアたちの労働環境を思えば、家がどこにあろうと帰る時間はない。それなら、トリオン兵が襲ってこない離れた土地に住んでもらうのは、かえって心が安まることなのかもしれない。
 月子は彼らと話し終えたらしい。離れていく親子三人を見送っている。女の子が手を振っていた。それに同じように手を振り返している月子の表情は見えないが、きっと笑っているのだろう。

 ――中学に上がる前に両親が離婚して、そのせいか、母が父に何か贈っているのも、あまり記憶になくて。

 その言葉が耳に残っていた。迅も、家族に関しては一般的なそれと違う自覚があるから、そういう家庭であることに大きな驚きはない。
 気になるのは別のこと。中学に上がる前の離婚だったというなら、忘れていない思い出もあるはずだ。それなのに母が父に物を贈っている姿の記憶がないというのは、冷めた仲を思わせた。
 月子は詳しく語らなかったし、詳しく訊く気も、彼女が話そうとしない限りはないが。
(……でも、)
 彼女が風邪をひいた夏の終わりを思い出す。眠りながら泣いていた月子。目覚めたとき、迅がいることに気付いて安心したように笑った月子。
 もしかしたら、彼女にとって『誰かに家で看病された記憶』はとても遠い過去のものなのかもしれない。
 それはとても、さみしいだろうと思った。
 だって迅が、そうだったのだから。
 やさしく笑う月子のことだから、もうとっくにその傷は乗り越えているのかもしれない。眠るときに眦に涙がたまっていても、浮かべる微笑みは、さみしさなど微塵も感じさせない。
 けれど、迅には、それが無理しているように見える。ただ、そのさみしさを心の奥底に沈めているだけだと思う。
 それは似たようなさみしさを抱えていたからわかることだし――迅が月子に恋をしているから気付くことだった。
 さみしさを抱えていても、迅にはボーダーがあって、そのうえ最近はカフェ・ユーリカまである。そのことにどれだけ救われただろう。彼女に救われたぶんだけの何かを、自分もここに残しているだろうか。残せるだろうか。
 からんっ、とドアベルが鳴って、月子が店内に戻ってくる。こうして外から入ってくる彼女を迎えることも、なかなか珍しい。
「おかえり、月子さん」
「ただいま、迅くん……っていうのも、なんだか不思議な感じですが」
 はにかんだような笑みに「照れてる?」と笑いかけた。「照れてません!」と否定が返ってきたけれど、その顔は怒るどころかよろこびに彩られている。おかえり、ただいま、という言葉が恋しかった時期を思い出した。
 秋は人恋しさをよびさます季節だ。冬になれば、その感覚はもっと強くなる。
 さむいことと、さみしいことは、少し似ているから。
 せめて、このひとが感じるさみしさを、すこしでも違うものに変えたいと思う。
「デート楽しみだね」
「だからデートではないと!」
 律儀に否定してきた彼女にちょっとだけ心が悲鳴をあげる。恋する男はなかなか打たれ弱いが、この気持ちに気付いていないらしい彼女は手心を加えてはくれないだろう。この気持ちを告げても困らせるだけなので、言えはしないけれど。言えないことは、不思議とそれほど辛くなかった。
「楽しみにしてくれない?」
「……それは、まあ、楽しみにはしていますけれど」
 よかった、とだけ返して、迅は笑みを向けた。


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