ラタトゥイユ・カレー

 くつくつと、大きな琺瑯の両手鍋の中が煮えている。赤く、とろりとした液体は、ふつりと泡が膨らんで、ぱっと弾ける。木べらでかき回せば、大きめに切った具材がごろりと動いた。
 カフェ・ユーリカに備え付けられた優秀な換気扇は、鍋から立ち上るトマトの香りも客席に届く前に吸い込んでくれるだろう。午後二時、店内に月子以外のひとはいないから、届いてしまっても構わないけれど。
 先代である祖父は、あまり気にしていなかったようにも思う。注文が途切れたときになんとはなしに自分の食べる料理を作りはじめて、気になって訊いてきたひとには手料理を振舞っていた。その姿も何度か見たことがあるが、月子はそこまで積極的に開き直ることもできない。
 鍋のなかで煮えているのはラタトゥイユだ。ズッキーニや玉ねぎをはじめとした夏野菜をトマトで煮る料理だけれど、別に具材はなんでもいいと思う。秋茄子にかぼちゃと蓮根、ズッキーニもまだスーパーに並んでいたので入れて、玉ねぎは外せない。黄色いパプリカも、甘みを引き出してくれる。野菜をトマトとオレガノ、バジルで煮込めば、だいたいラタトゥイユになる。
 とはいえ、このラタトゥイユは昨夜の夕飯だったものだ。トマト缶とトマトピューレで作るから、どうしても量が多くなってしまう。少なく作れないわけではないのだが、こういう料理は基本的にたくさんつくったほうが美味しいのだ。
 かくして大鍋いっぱいにラタトゥイユが出来上がったわけだ。別に連続で同じものを食べてもいいのだけれど、食への楽しみを妥協するのは、カフェの店主としては思うところがある。
 そんなわけで、このラタトゥイユはカレーにすると昨夜から決めていた。
 カレー粉を何匙かすくって、鍋のなかに放り込む。木べらでかき混ぜれば、赤色に茶色の帯がまったりと伸びて、やがて色を分かちあう。作ったラタトゥイユのうち、三分の一ほどは小分けにして冷凍庫にいれてあるが、それでも四人前はありそうだ。明日はカレードリアにしよう、と考える。
 からんっ、とドアベルが鳴ったのは、鍋の火を止めたときだった。鍋と同じ琺瑯でできた蓋を被せれば、かちんと音が響く。
 ちょうどいいタイミングだった。月子は笑顔を浮かべて、入ってきた二人の青年に声をかけた。
「いらっしゃいませ」
 一人は見知った常連で、もう一人は初めて見る顔だ。金に染めた髪を流行りのツーブロックにしている諏訪はいつも一人で訪れるから、連れがいるのはめずらしい。諏訪は強面気味の顔立ちや目つきの悪さ、カジュアルな服装があいまってそこはかとなくヤンキーっぽさがあるが、中身はそれなりに真面目に大学へ通う学生だ。
 どちらに座るだろう、と履き潰された靴の先を見れば、つま先はカウンターの方へ向かっている。
「久しぶりっすね」
 ひらり、と手を挙げた諏訪が、ニッと笑った。その横で、黒い短髪の小柄な青年が特等席に腰掛ける。
「これ、借りてたやつです。遅くなっちまったけど」
 諏訪がどこかの洋服店の袋を差し出す。中に入っているのはハードカバーの本だと、月子は知っていた。
「いいえ」
 受け取って、汚れないよう扉付きの棚の中へ避難させる。それから、二人のためにグラスにお冷を注いだ。
 とん、とカウンターの上に置けば、黒髪の青年から「ありがとうございます」と律儀な返事が返ってくる。諏訪の後輩か何かだろうか。ちらりとその顔を窺えば、向こうも月子を見ていた。じっと視線が絡む。
「どうした、風間」
「いや、どこかで会った気がした」
「んだそりゃ。新手のナンパか?」
「そんなわけないだろう」
 そのやりとりに笑みを浮かべて間をとりつつ、この気安い口調からして二人は同年代の友人なのだろうと認識を改める。
 風間と呼ばれた青年に見覚えはなかった。鋭利な印象を抱かせる顔立ちは、城戸、それから月子の父をどことなく思い出させるが、それだけだ。
「どこでお会いしたんでしょうか?」
 その顔を見つめながら記憶を探った。短い黒髪と、つり目気味の瞳。月子の方には、やはり覚えがない。
「話をしていれば覚えているので、気のせいか、見かけた程度だと思います」
 紡がれた言葉は真っ直ぐと響き、硬質的でさえある。気安い敬語、にもなりきっていない口調で話しかけてくる諏訪とは対照的だ。凸凹でも仲が良さそうなのは太刀川と二宮を思い出した。仲が良さそうというと、二宮のほうは嫌がりそうなものだけれど。
「諏訪と仲がいいんですね」
 続けられた言葉に、「どういう意味だよ」と隣で諏訪がぶっきらぼうに言う。ぱちり、と蒼みがかった瞳を瞬かせ、月子は苦笑した。
「趣味が合うんです、本の。先代の頃から、時々通ってくださってたみたいで。本を貸し借りするようになったのは最近のことですが」
「ああ、さっきの」
「はい。私のおすすめの一冊です。まだ文庫になっていなくて……ですが、ぜひ読んでいただきたかったので」
「面白かったぜ。借りた日に読みきったんだけどよ、最近、イロイロ立て込んでたもんで。仕方ねぇからお前を引っ張りつつ返しにきたってわけだ。あんま長く借りっぱなしのわけにもいかねぇし」
「お気になさらず。お疲れさまです」
 ども、と諏訪が答える。受け答えひとつとってもそうだが、この気安くも無遠慮ではない絶妙な距離感が、諏訪と接していて楽しいところのひとつだった。月子さん、と人懐こい猫のように慕ってくれる迅とは違って、距離は保ちつつも垣根はなく、親しみやすい空気を纏っている。そういう人柄なのだろう。粗野なようでいて、相手のことをよく見ている。
 こうして本を貸し借りする関係も、その人柄によるものだった。ある日訪れた諏訪がテーブル席で読んでいた本。自分も好きな小説だ、とそわりと心が動いたのを気付かれて、それがきっかけだった。諏訪から『この小説好きなんすか?』と声をかけられなければ、話すこともなかったと思う。
 諏訪はおよそ読書好きには見えない見た目をしている――失礼な表現だが、これは諏訪も自分で言っていた――のだが、その深度はかなりのものだ。小説について話しているときの諏訪はとても生き生きとしている。好きな作家の名作について少年のように顔を輝かせて、久方ぶりの新刊については喜びを噛み締めるようにして、その様子を見ているだけで本当に好きなのだと伝わってくる。
 その知識と読書量は凄まじく、どんなジャンルでも語り合える諏訪に月子はいつも驚かされていた。訊けば、大学も文学部らしい。話も合おうというものだ。
「さて、ご注文はいかがいたしますか? 新しく出した季節限定のメニューもあります」
 メニューを見るように促す。急かしたいわけではないが、メニューを変えたばかりなので反応が気になる。クラッシュコーヒーゼリーミルクは、わかりやすいが名前が長いと一部からは不評だった。そういう意見も大事だ。
「カレー」
「ねえよ」
「……ありますよ?」
 ぽつり、とメニューも見ずに風間が呟いて。諏訪が呆れ気味に返し。月子は両手鍋の蓋をあけて答えた。お客様に振る舞う予定のものではなかったが、まさかピンポイントでリクエストされるとは思わず、びっくりしてつい答えてしまった。
「あんの?」
 諏訪がぽかんと口を開け、風間がこくりと頷く。
「匂いがしていたんだ」
「犬かオメーは。つうか、それ、仰木さんの晩メシかなんかじゃねえの?」
「たくさんありますので。フランスパンか、一度冷凍したものでもよければごはんもありますよ」
 冷凍ごはんは、まとめて炊いて小分けにしてあるものだ。二階の冷凍庫にしまってあるが、取りに行くのはさほど手間でもない。それから二本あるフランスパンは、軽食のサンドイッチの一部に使う分と、新しくメニューに加えようかと考えているおかず系フレンチトーストの試作をする用。どちらもいずれ月子の胃袋に収まるものだから、彼らが食べても店に損害はない。
 お代は結構ですし、と言い添えると、いやそれは駄目だろ、駄目です、と諏訪と風間の声が重なる。真面目だ。
「美味しそうなカレーですね」
 表情は変えないままに風間が言った。そう言われると嬉しい。
「ラタトゥイユをカレーにリメイクしたものです。トマトカレーみたいな感じですね」
「……諏訪」
 風間が短く名前を呼ぶ。たったふたつの音なのに、諏訪は彼の言いたいことを全て心得たらしい。ぽりぽりと頬をかいて、月子を見上げる。
「……仰木さんがいいって言うんなら、ちゃんと金は払うから、食わせてくれると助かる。昼、食いっぱぐれてて。あとで食堂行って食えばいんだけどよ……くそっ、ほんとにうまそうだな」
「食堂、って、大学のですか?」
 また戻るのか、と問いを含んで訊ねれば、二人が顔を見合わせる。それからどちらともなく頷いて、月子のほうへ顔を向けた。
「あー……いや、ボーダーの。言ってなかったか?」
 ぱちり、と視界が瞬いた。カフェ・ユーリカの常連にはボーダー隊員も多いが、数年通ってくれている諏訪がそうだとは、知らなかった。ということは、と隣へ視線を移せば、風間がコクリと頷く。二人ともそうらしい。
 今明かされる驚愕の事実! と安いテロップが脳内を流れていく。かといって、そう驚くようなことでもない気がするのは、知り合いにボーダー隊員が多いからだろうか。
「知りませんでした……ボーダー隊員の方、何人かご来店されてますけれど、諏訪さんがいらしてるときは誰ともタイミングが被らなかったんですね」
「あァ、そうなのか。例えば誰が来てんだ?」
 二人がわかる人とは誰だろう。ボーダーの内情には詳しくない。
「……東さん、とか、ご存知ですか?」
 ボーダーにファンがいると言われていた人の名前を思い出した。あぁ〜、と声をあげたのは諏訪だ。やはり有名人らしい。思えば、今まで会ったことのあるボーダー隊員は、全員、東を知っている。何か重要な役職にでも付いているのだろうか。
 院生なのに? という疑問はさて置く。たんに、普通の隊員でも隊員同士の交流が多くなるように組織の仕組みが整えられているのかもしれない。
「他には……よく通ってくれているのは迅くんですね。迅悠一くん」
 いちばんの常連である彼の名前は、もちろん外せないだろう。迅は諏訪たちより年下だが、ちゃんと知っているようだった。ボーダーでは古株だと、いつか訊いた気がする。
 他にも思いつくまま名前をあげれば、「めちゃくちゃ来てんじゃねえか」と諏訪が呟いた。指折り数えてみると全くもってその通りで、少し笑ってしまう。
「つうか城戸司令まで来てんのかよ」
「たまに外に出られているのは知っていましたが、行き先はこちらだったんですね」
「毎回ではないと思いますが……」
 答えつつ、いや、そうかもしれない、などと思ってしまう。以前、響子から訊いたところによると、本部内には個人の私室もあり、忍田本部長をはじめ上層部は本部に住んでいるのだとか……一応、外部に家を持っている人もいるらしいが。
「ああ、思い出した」
 唐突に、風間が呟く。じっと無機質な瞳が月子を見上げていた。なにを、と問い返す前に、風間は淡々と言葉を発した。
「昨日、迅とデートしていませんでしたか?」
「はぁ!?」
「でっ、デートじゃありませんってば!」
 反射で返して、それからこちらを見上げる二対の瞳に冷静になる。こほん、と咳払いをした。
「普通に買い物をご一緒しただけですよ」
「出かけたのはマジかよ」
「ま、まじですけど。お友達、なので」
「眼鏡かけてましたよね、確か」
「あぁ……強い光に弱くて、色付きレンズの眼鏡をつけるときがあるんです」
「すぐに思い出せなかったのはそのせいか」
 風間がひとり納得したように頷いた。諏訪は、なるほどなぁと楽しげに笑っている。
 なんとなくその視線に気まずくなる。まさか見られていたとは、と昨日のことを思い出した。駅前で待ち合わせて、ショッピングモールを見て回り、お茶をして別れた。ほんの数時間ほどのことで、特に誰かに会うこともなかったのだけれど。壁に耳あり障子に目あり、というやつだろうか。
「あの迅がデートねぇ」
「あまりからかってやるなよ。拗ねると面倒だ」
「なめんな。分別はある……つうかアイツにそういうイジリできねえだろ、なかなか」
「まあ、そうだな。東さんあたりならうまくやりそうだが」
「あー……そのへんには絶対ェバレたくねえわ、俺だったら」
 うへぇ、と呻くさまに笑う。東には、そう言われていることは秘密にしておこうと思った。カフェの店主をやっていると何気無い情報が耳に滑り込む。ただ、諏訪と風間ならば、東に直接言っていそうな気もした。
「むしろお前だったら厄介なやつはもっと増えるぞ」
「やめろ。……ただまあ、確かに迅は絡みづらいところあるしな」
「そう、なんですか?」
 絡みづらい。迅のイメージとはあまり合わない言葉に、思わず口が出る。きょとん、と諏訪たちを見れば、諏訪の方も不思議そうな顔をしていた。
「いや、ま、愛想もノリもいいけどよ。単純に捕まらねえってか。なぁ?」
「用があるときしか寄ってこない、あいつは。こっちからの用事は上手く躱す」
「あ〜想像できる。ま、いーんだけどな。あいつの立場ってもんもあるだろうし」
 足繁くここに通う迅の姿とは重ならないが、そういうこともあるだろう。月子の知っている迅と、諏訪や風間の知っている迅が違うのは当たり前だ。誰にでも同じ対応をする人というのもいない。
「そうなんですね」
 と、頷くに留めて。月子は二人に向かって「カレー、ご飯で食べますか?」と訊ねる。風間が頷いて、それにつられるように諏訪もお願いしますと軽く頭をさげた。
「かしこまりました」
 笑みを浮かべて、一言断ってからカウンターの奥にあるパントリーへの扉をあける。廊下とも部屋とも言えない幅広の空間を早足で歩いて、二階へ続く階段をパタパタと駆け上った。
 いくら同じ建物といえど営業時間中に私室に戻るのはあまり褒められたものではないが、迅を迎えているときに何度かしたせいもあって、つい気が緩む。ボーダーという組織に向ける信用以上に、個人として接している彼らを信頼しているのもある。
 小分けに冷凍したごはんは、四膳分を出した。月子は一膳分で十分だが、諏訪と風間はよく食べるだろうと思って。ひやりと冷たいそれを両手に抱えて、また店に戻る。人に何かを食べてもらうときの浮き立つような気持ちが、足を早めさせた。

「お待たせしました」
 ほわりとのぼる湯気とともに、カレーの香気が立ち込める。問答無用で食欲を刺激する香りだ。混ざり合うすっとした香りはラタトゥイユに入っていたバジルだろうか。月子はひとまず、諏訪と風間の分だけを皿に盛って、二人の前に置く。
「カフェ・ユーリカ特製〝ラタトゥイユカレー〟です」
 おお、と感嘆の声がもれる。「いただきます」と両手を合わせてから、風間はカトラリーケースに手を伸ばし、大きめのスプーンを手に取る。諏訪もそれに続いた。
 風間はまず白米をすくい、さらにラタトゥイユカレーをすくってスプーンにのせる。混ぜない派らしい。諏訪は、白米とカレーの間を軽くスプーンでざくざくと崩して、ほどよく絡んだ部分をスプーンでとる。
 食べ方ひとつにも個性が出るんだなぁ、と思いながらそれを見守った。食べてもらう瞬間は、少し緊張する。はじめて食べてもらうものは特に。
 ぱくり、と大きな口がスプーンを飲み込んだ。もぐもぐと動いて、ごくりと飲み込む。
「うわ、うめぇ!」
 そう言ってくれたのは諏訪で、風間は早々と二口目をすくっていた。
 月子はにこりと笑って、「ごゆっくりどうぞ」と声をかける。手持ち無沙汰をごまかすように、ごはんを冷凍保存していた容器を洗いにかかった。
 ラタトゥイユにたっぷり入れたトマトが、カレーに甘みをつくる。味を引き締めるのはバジルの強い香りだ。それがあるから、スパイスを付け足さなくてもカレー粉だけで風味がいい。大きめに切られた野菜たちがたっぷり旨味をもって、いろんな食感も楽しいと思う。肉類は入っていないけれど、満腹感は大きいはずだ。
「ナスがうめえな、とろとろで」
「ああ」
「秋茄子です。一度油通しをしてから煮込んであります。ズッキーニとパプリカも、一度炒めておきました」
「あ〜、油で炒めるとナスってめちゃくちゃうまくなるよな。なんなんだろうなあれ」
「別物になりますよね」
 洗い物をしながらもつい答えてしまうのは、いつもの癖だ。作り方や内容を訊かれることが多いから色々と話してしまう。
「それとかぼちゃは蒸して、蓮根は下茹でしてあります」
「……筑前煮みたいですね。大変だったんじゃないですか」
 気がつけば半分ほど食べ終えていた風間が言う。詳しいな、と思った。筑前煮はよくある煮物、と見せかけて、材料すべてに異なる下準備が必要だ。自分でも料理をするのかもしれない。それか、詳しい人が周囲にいるとか。
「いちばん美味しい状態で食べたいですから。それに、筑前煮と違って下準備さえ終わればあとは順番にトマトと煮込んでいくだけですし、楽ですよ」
 なるほど、と風間が頷いて、もう一口頬張る。早い。カレーの匂いにもすぐ気付いたことだし、好きなのだろう。
「……正直、」
 諏訪が低く落とした声でぼそりと呟く。月子は容器についた泡を洗い流すのに忙しい。かすかな声は水音が覆ってしまう。それを確認してから、諏訪はさらに小声で囁いた。
「迅が惚れんのもわかる。メシがうまいは強い」
「その論でいくと俺たちは木崎に惚れていることになる」
「やめろっ!」
 月子は荒げられた声にぱちりと目を瞬かせて諏訪を見る。なんでもねえっス、と顔を歪めた諏訪が答えた。首を傾げつつも深くは訊かない。
「お口にあったようでしたら、嬉しいです」
 目があって無言というのも気まずい。ひとまず、にこりと笑ってそう告げれば、風間が「とても美味しいです」とわずかに頰を緩ませて答えた。

   *

「そういえば諏訪さんと風間さんもここに来たって訊いたけど」
 できそこなったハートの浮かんだカフェ・ラッテを覗き込みながら迅が言う。月子はエスプレッソにミルクを注ぐ手を止めて、頷いた。
「はい。諏訪さんは前からお越し下さっていたのですが、ボーダー隊員とは存じてあげていなかったので驚きました……本部から近いというのもあるのでしょうが、ボーダーの方々にはご贔屓いただけて嬉しい限りです」
「もしかしたら、月子さんもおれも気付いてないだけでまだ通ってる隊員もいるかも」
「それはそれでなんだか面白いですね」
 月子も、迅と同じように手元のカップに視線を落とす。迅に付き合ってもらって練習しているラテアートはなかなか難しい。数回に一回はちゃんとハートが作れるようになったが、祖父のように綺麗に左右対称な、完璧なハートはまだ作れない。
 もらうよ、と迅が手を伸ばしたので、ソーサーの上に置いてから前へ出した。口をつけた迅が、おいしい、と微笑む。
「……諏訪さんと風間さんはいいんだけどさ」
「はい?」
「太刀川さんは甘やかさないでいいから。大学のこととかも」
 にへら、と笑った迅が言う。清々しいほど太刀川に厳しい。
「みなさんそれを仰います」
 苦笑しつつ、迅ほどではないにしろちょこちょこと通ってくれる太刀川の顔を思い浮かべる。掴み所のない雰囲気や、どこか読めない表情は迅と似ている気もしたけれど、迅の方が親しみやすい。接してきた年月の長さも関係あるのだろう。
「迅くんは、太刀川さんと仲が良いんですね」
「どうして?」
「太刀川さんもよく迅くんのことを話すので」
「んー……、まあ、けっこう長い付き合いだし。最近はちょっと逃げてるけど」
「……逃げてるんですか?」
 絡みづらい、捕まえられない、用があるときしか寄ってこない。諏訪と風間の言葉がよぎる。けれど、太刀川が迅のことを語るときはいつも厭味ではない笑みが添えられていて、それは迅も同じだ。
 迅は、つ、とカップのふちに指を沿わせる。うーん、と唸って、それから手元を見つめながら小さく笑った。
「別に仲が悪いわけでも喧嘩してるわけでもなんでもないんだけど、ちょっと……色々、タイミング逃しちゃったんだよね。まあ、それも、別にいいんだけどさ。そのうち、タイミングは来るだろうし」
「ちょうどいいタイミングが来るまで、待ってる?」
「そんな感じ」
 へらりと笑った迅が、どこか遠くを見ている。最近はそうすることが多いなと思いつつ、迅と太刀川の間に月子の知らないものがあることはわかった。それも、当然だけれど。月子は迅と太刀川が二人で話しているのを見たことはないし、二人がどんな風に過ごしてきたのかも知らない。
「来るといいですね、タイミング」
「どうだろ。ちょっと面倒臭いとこもあるし、あの人。……太刀川さんと遊ぶのは好きだけど、もうちょっとこの距離感でもいいかな〜とか」
 気楽な物言いにそっと安堵する。月子が直接関係ないにしても、知っている二人が仲違いをしているというのは、心が少し重くなるものだ。
「それより。太刀川さんの話じゃなくてさ、月子さんの話をしてよ」
 やはり扱いがひどい。思いつつも、月子は「それよりもこのあいだ選んだプレゼントはどんな反応でしたか? よろこんでもらえましたか?」と訊ねる。
「おれの話?」
 ぱち、と瞬きをした迅に、にこりと笑って頷く。
「私の話より、迅くんの話がききたいです」
 すこし黙った後、迅はゆっくりと口角をあげて、「いいよ」と囁いた。


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