モカ・ジャバ

「モカ・ジャバ」
 カウンターの特等席に座った太刀川が、期間限定メニューのひとつを読み上げて言う。
 相変わらず表情は読み取りにくいが、きらんと輝いた瞳からして楽しんでいるようだ。顎に添えられた指はフレミングの法則の形をしている。右手だから電磁誘導。月子は笑みを浮かべ「ご存知ですか?」と問いかけた。
 十一月になり、三門市にも冬の足音が近づいている。街路樹もいよいよ紅葉しはじめ、テイカカカズラも色づいてきた。一段と冷え込む季節だが、カフェ・ユーリカの店内はいつもと同じようにほっと息をつけるあたたかさに保たれている。
 ただ、今は太刀川以外にお客さんがいないこともあってか、どことなく寒々しくも感じる。月子がキッチンに立っているせいもあるだろう。
 月子は食洗機から濡れたグラスを取り出し、柔らかい布で水気を拭いながら太刀川と視線を合わせた。
「いや、ぜんぜん知らねえや」
「ちょっとマイナーな名前ですからね」
 先月に初めて訪れてから、太刀川は迅に勝るとも劣らない頻度で来店している。彼の狙いであろう大学の教授たちとはそれほど会えていないが。
 注文は説明を訊いてから決める、と太刀川が言うので、月子はいつものように説明を始める。
「まず、モカ・ジャバというのは――」
 太刀川が会いたがっているであろう教授たちを見倣い、すこしだけ講釈ぶることにした。興味を持ってもらえたらつい語りたくなるのだ。月子は磨いていたグラスを置いて、棚からチョコレートシロップを取り出す。
「大別して、二種類あります。片方はカフェモカと呼ばれることのほうが多いですね」
「あー、なんかチョコレート入ってるやつな」
「それです。珈琲にチョコレートシロップ、あるいはココアを加えたものですね。それともうひとつが、モカとジャバという二つの珈琲豆をブレンドした、ブラックの珈琲」
「ややこしいな」
「前者のモカジャバ――つまりカフェモカは、使う珈琲がドリップかエスプレッソかで味が変わりますし、ココアを加えるのかチョコレートシロップを加えるかでも、別物のような味になります。味にはそれぞれの割合も影響しますね。カフェモカといいつつ、珈琲豆はモカ以外を使うこともあります」
「……モカってチョコレートって意味じゃねえの?」
 話の流れを切る質問だが、その気持ちもわかる。月子が「実は違います」と生真面目な顔で告げると、太刀川は読めない表情のまま「マジかよ……」と囁いた。
「元々、『モカ』というのは珈琲豆の出荷地名なんです。ブルーマウンテンとかキリマンジャロとか、そういうのと同じ感じですね」
「あれも地名なのか? そういう種類なんだと」
「珈琲豆のブランドの多くは土地に根ざしていて、品種改良も日々行われているので、固有種というのも間違いではないですが、純粋な品種の数だけで言えばそれほど数はありません。ブランドは、産地である山や農園、それから出荷地である都市の名前であることが多いですね。モカはそのなかでも世界最古と呼ばれるブランドです。
 ――さて、それがどうしてチョコレートのイメージになったと思いますか?」
「チョコレート味だったからとか、どうだ」
「正解です」
「マジかよ」
 嘘だろ、という顔をするので笑ってしまう。冷蔵庫の中で保管しているモカ産の珈琲豆を出した。保存瓶の蓋を開ければ、豊かな香りが鼻をかすめる。
「もちろん、本当にチョコレートの味がするというわけではないですが、味覚が鋭い人は似たような風味を感じられると思いますよ。そして『モカ・ジャバ』は世界で最初に作られたブレンドコーヒーと言われています。モカ、という豆は香りがよく甘みとコクがありますが、独特の酸味があり少し尖った味わいなんです。対して、ジャバは丸くマイルドな味なので、ブレンドすることで味のバランスがとれて、調和するんですね。
 そして、その『モカ・ジャバ』を、モカを使わずに作ってみたのが『カフェモカ』とされています。つまり、カフェモカは『モカっぽくした珈琲』」
「もかっぽくしたコーヒー」
「はじめはどっちもモカ・ジャバと言われてきましたが、長い歴史の中で、チョコレート入りの方はカフェモカと呼ばれるようになり、よりメジャーな飲み物となりました。元の意味のほうがマイナーになってしまったんですね。
 たぶん、今ではモカ・ジャバという名前でも、出てくるのはブレンドコーヒーではなく、カフェモカのほうが多いと思います。カフェモカ、と書いてあるところがほとんどですが」
「……なるほど?」
「マイナーになったのは、ジャバの出荷数が少なくなったのと、日本ではモカの一部に輸入制限がかかっているので、安価でブレンドのモカ・ジャバを提供するのが難しい、という側面もあります。その代わりに、カフェモカは進化を続けていますね。さっきも言ったように使う珈琲がエスプレッソなのかドリップなのかはたまたサイフォンなのか、もちろん豆の種類も関係しますし、加えるのはチョコレートシロップか、ココアか……チョコレートのリキュールでもいいですね。それにミルクを加えたり生クリームをのせたり、アレンジは多岐に渡ります」
 たくさん話して喉が渇いた。一度口を閉じて、こくりとつばを飲み込むと、太刀川が神妙な顔で月子を見上げている。
「なるほど、だいたいわかった」
「よかったです」
「で、ここのやつはどんなの?」
 待ってました、と胸を張ってその質問に答える。ここまでの話は、全てカフェ・ユーリカのモカ・ジャバを説明するための説明だ。
「当店のモカ・ジャバは、ドリップコーヒー、チョコレートシロップ、ココア、ミルクを合わせたものです。さらに、使っている珈琲豆はモカとジャバのブレンドなので、二つの〝モカ・ジャバ〟の意味を含む、ハイブリッドモカジャバですね!」
「はいぶりっど」
「すごくモカジャバです」
「なるほど」
 にやり、と笑みが浮かんだのを見て、「モカ・ジャバになさいますか?」と声をかける。太刀川は頷いて、それからにやりと笑ったまま頬杖をついて月子を見つめた。
「マスター、コーヒーオタクだろ」
「店主ですから、このくらいは当然ですよ」
「いや、コーヒーオタクだろ」
「……それは、まあ、好きじゃなかったら喫茶店のマスターなんてやりませんから」
「だろうな。あ、冷たいので頼む」
「かしこまりました。……暑いですか?」
「いや、猫舌」
 意外だ、と思ってしまったのは黙っておこう。「冷たい方がすぐ飲めるからな」と呟いたあたり、このあと予定があるのかもしれない。少々モカ・ジャバについて語りすぎてしまっただろうか。ちょっとだけ申し訳なくなりつつも、いつものようにお湯を沸かして、ミルにモカとジャバを合わせた珈琲豆をセットする。
 使うグラスはロングタンブラーだ。くびれのない真っ直ぐとしたガラスの器は、層のある飲み物が映える。空っぽのタンブラーの下側に、チョコレートシロップを垂らして模様をつける。外側から見れば、王冠のように見えなくもない。氷をいっぱいに詰めて、冷凍庫にいれて器を冷やしておく。チョコレートシロップも固まってしまうが、最後に上からもトッピングする予定なので問題はない。
 小鍋にココアパウダーを多めに、それとひとたらしのミルクを入れて、練りながら弱火にかける。手応えが柔らかく、小鍋の中でのびたペーストの端がふつりと沸きたてば、残りのミルクを少しずつ、糸のように垂らしていく。少量なので、すぐに沸騰近くなる。溶かしきれたことを確認できたら火を止めて、ミルからドリッパーに珈琲粉をうつした。ちょうどお湯が湧く。いつもよりも濃いめにドリップコーヒーを淹れれば、あとはロングタンブラーにすべて注ぐだけだ。
 ちらりと太刀川を見れば、何を考えているのか読めない表情で月子を見つめている。何かを見極めるようなまなざしは、ほんの少し緊張するが、作業に手がつかなくなるほどではない。
 冷凍庫からタンブラーを取り出して、まずはそっとミルクを入れる。綺麗に浮かんだチョコレートシロップが溶けないように。次にゆっくりココアをいれて、氷が溶けたぶんは足す。氷があることでココアがゆっくりと落ちていき、比重の関係もあってじんわりと層が分かれるのだ。とはいえ、ちゃんと冷えてほしいので軽くは揺すっておく。それからモカ・ジャバブレンドの珈琲を注いで、少しだけ氷を足してから、チョコレートシロップを網かけにトッピングすれば完成だ。
 ストローを添えて、コルクのコースターをカウンターに置いてから太刀川の前に出す。
「お待たせいたしました。よく混ぜてお召し上がりください……――?」
 紡いだ声が頼りなく震えた。太刀川の気怠げな瞳が月子を射抜いて、タンブラーを置いて引きかけた手を掴んだせいだ。
 大きな手が手首を握る力はそれほど強くないが、するりと抜け出せるほどではない。確かな拘束感があり、反射的な恐怖が薄く背を伝う。
「あ、の?」
 掴まれた手首と、それから掴んだ人を見比べて、戸惑いをそのままに問いかける。太刀川がぐっと身を乗り出して、月子を下から見上げた。
「なぁ、仰木さん」
「……なんでしょう?」
「俺があんたに惚れたって言ったら、どうする?」
 指先が無意識に動いた。震えたのかもしれない。月子は目の前の人を注意深く観察して、同時に言葉を探す。普通に言われたらすぐに返せただろうが、握られた手から伝わる熱が思考を乱す。
 太刀川は口元にちいさく笑みを浮かべていた。相変わらず、油断も隙もなく、心のうちを読み取れない雰囲気が漂っている。
 気怠く、けれどしっかりと月子をとらえている目を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「……どうしてそんなことを言うんですか?」
「んー……、惚れたから、以外にあると思うか?」
 ニヤリと笑われて、そこで思考が晴れた。
 呼吸をひとつ、それから笑みを浮かべる。少しぎこちなくなっているのは自分でもわかった。
「嘘、ですよね」
「どうしてそう思う?」
 驚きも怒りもなく訊ねられて、確信に変わる。さっきの言葉は嘘だ。
「それくらい、わかります。目の前の人が本気か、そうじゃないかぐらいは」
 へぇ、と太刀川が囁いた。緩やかに細められた目は楽しげで、けれど手を離してくれる気配はない。
「太刀川さん」
 意識的に硬い声を出すが、「悪いな」と謝られるだけで状況は変わらなかった。振り払うべきか、悩む間に太刀川が口を開く。
「これがわかんのに、あれがわからねえ、ってのはないだろ、マスター。あんた、やっぱりずるい人だな」
 なんでもないことを言うような声だった。
 月子を特別害そうとしているわけでもなく、ただ思ったことをそのまま口に出したように。
「気付かないフリしてんのは楽?」
「……太刀川さん」
「どうせならもっとずるくなってやりゃあいいのに。その方がまだあいつも救われんじゃねえか? ずるさに気付いていない方が、よっぽど厄介だと思うぜ」
「……あの、」
 何を言うべきだろう。手を離してと、それ以外に。太刀川の言葉に何を返せばいいのか、わからない。いや――考えたく、ない?
 気付かない。何に? あいつとは誰のこと? 自分は――どうしてそれを、知りたいと思わない?
 ――――わたしの、なにが、ずるい?
「……遅いな」
「なに、が?」
「もうちょいなんか言っとくか。あー、どうするか。あれだ、ずるくねえのが一番かもしんねえけどさ、あんたのそれは誰かを出し抜くってのじゃなくて、自分を守るしょ……しょせじゅつ? なんだろ。そういうところ、似てるよな。他のやつを傷つけないように気を遣うのも、自分を傷つかせないのも、うまいとこ」
 太刀川が言っている、もうひとりは誰だろう。月子と誰が、似ているのだと言っているのか。
「…………手を……離して、いただけないでしょうか」
 月子が困り果てた顔で言えば、太刀川は「もうちょい」と返す。いつまでこうしていればいいのか、と視線を店の奥に逸らしたとき。

 ――かららんっ

 と、ドアベルがいつになく大きな音を立てた。けたたましさに肩を揺らせば、太刀川が手の力を強める。
「なんだ」
 先ほどまで月子に向けていた声よりも、僅かに冷淡さをにじませた声だった。悪役じみている、なんて、その横顔に思う。月子の手を握ったまま、太刀川は顔だけを店の入り口へ向けていた。
「思ったより余裕ねえな、おまえ」
 店の入り口に立っていたのは、迅だ。
 ぱちり、と月子は目を瞬かせた。肩で息をしている。走ってきたのだろうか。着ているのはあのキャメル色のジャケットだ。
 ――迅くんが、人のいるときに来たのは初めてだな、とか。あのジャケットは走りにくそうだな、とか。
 そんな考えなくてもいいことを考えていれば、太刀川が楽しげに笑った。闇夜に煌めくような瞳がおもしろいと語るように迅を見つめている。
「換装すりゃあよかったのに」
「っ……なに、やってんの。太刀川さん」
「見てわかんねえ? 口説いてんだよ『月子さん』を」
 嘘だ、と月子は知っている。力が緩んだ隙に太刀川の手から抜け出せば、一瞬だけ視線が向けられた。逃れる隙は、たぶん、わざとつくったのだろう。
「……嘘、でしょ。それ。月子さんが困るから、そういうことしないでよ」
 迅はへらりと笑っていた。怒っているようには見えない。彼も、太刀川が本気ではないことを察したのかもしれない。
「嘘つけ。おまえが困るんだろ。……わかってんのに来るんだから、おまえちょっと変わったよな」
「何してんの、ほんとに」
「いや、おまえが逃げるから」
 そっと緊張が緩んだ気がした。月子にはわからないやり取りのうちに二人の間でなにか符合したのかもしれない。迅が肩の力を抜きながら「いいから月子さんに謝って」と促す。
「ああ、悪かった。手、痛くないか?」
 素直に謝られて、どう返すべきだろうか。悩んで、思ったままのことを口にした。
「……びっくりしました。手は痛くないです」
「だろうな。のわりには冷静だったけど」
「驚いていたから、だと思います」
「なるほど」
 言いつつも、太刀川がモカ・ジャバに手を伸ばして、ストローで中身をかき混ぜる。口をつけて、「あ、うまいなこれ」と呟く姿はついさっきのことなどなかったようだ。
 迅が近づいてきて、扉と特等席のちょうど中間で立ち止まる。太刀川はごくごくと飲み干していって、ほんのひとときのうちにグラスが空いた。からん、と残された氷が音を立てる。
 太刀川はポケットから黒革の折りたたみ財布を出しながら立ち上がった。千円札が一枚、カウンターに置かれる。
「お会計、ですか?」
「あー、釣りはいいや」
「そういうわけには」
「じゃあ、こいつのぶんに回しといて。……おごってやるよ、迅」
「……ありがと」
 二人が納得をしているなら、受け取らないわけにはいかない。
 月子はモカ・ジャバのタンブラーを下げつつ、迅のために新しいグラスを出して冷水を注ぐ。千円札はカウンターに残したままにしておいた。その間に太刀川は迅の横に並ぶ。
「ま、そのうちまた遊ぼうぜ。おまえのサイドエフェクトがなんて言ってるのかは知らんが、個人戦はいつでも受けて立つ」
「……そんな暇ないでしょ、太刀川さんは。任務も単位も」
「なんとかなる」
「言っとくけど、おれも、風間さんも東さんも二宮さんも、手伝わないよ。蓮さんも」
「あっおまえそれはずるいぞ。……じゃ、マスター。またな」
「月子さんもダメだから」
「ケチだな」
 喉で笑いながら、太刀川はちらりと月子へ視線を送る。おいてけぼりをくらっていたところに目があった。我に返って「またのお越しを」といつもの言葉を紡げば、背中越しにひらりと振られた手が応える。
 からんっ、と淑やかにドアベルが鳴って、太刀川が出ていく。迅が、太刀川の座っていた特等席の前まで来ていた。
「えー……その、いらっしゃいませ?」
「うん」
 静かに落ちた声と、すこしだけ力無い笑み。安堵しているようにも見えた。なんとなく気まずくなって、布巾でカウンターを拭ってから、座るよう勧める。大人しく座った迅が、月子をじっと見つめていた。

   *

 ――あの人は性格がわるい、と迅は思う。人のことはあまり言えないけれど。それにしたって、いくら迅が逃げているからとはいえ、彼女にちょっかいをかけるとか――と思わなくもない。いや思う。
 今はまだ、太刀川と正面からやりあうわけにはいかない。それはもう少し先にとっておくべきだ。未来はいつだって移り気だから、その時が本当に来るかどうかはわからないが、それでも備えておくに越したことはない。そのための暗躍だ。
 けれど、目下のところ。迅にとって重要なのは、珍しく戸惑いを素直に顔に出している月子だった。
「月子さん」
 なんでしょうと首を傾げた彼女に何を言うべきか迷う。太刀川が何を言ったのかは、だいたい予想がついている。だからこそ、続く言葉は音になれなかった。


close
横書き 縦書き