ティラミス

「あー……、太刀川さんが飲んでたのって、なに?」
 迅に問われて、月子はシンクのなかに置いたロングタンブラーにちらりと視線をやった。つい先ほど、太刀川が落としていった爆弾の衝撃は未だ思考を鈍らせていた。どういうわけか狙ったように現れた迅は、扉を開いたときに浮かんでいた焦燥などなかったように、いつものように笑っている。
 ――そうか。ようやく気付く。扉を開けたとき、迅は焦っていたのか、
 と。窓の外から月子が太刀川に手を握られているのを見て、というのは、走ってきたのだから違うか。じゃあどうして走ってきたのだろう。どうして、走って来れたのだろう。この店の中で何が起きたかなんて、外にいた迅にわかるはずがないのに。
 月子は頭の片隅で思考を続けながら、迅と同じようにいつもと同じ笑みを浮かべて答える。
「アイスモカ・ジャバですよ。メニューに出したばかりのとき、迅くんがホットで飲んだものです」
「あぁ……あの、世界で最初のブレンドとかいうやつ」
「そうです。よく覚えていらっしゃいますね」
「まあね。それ訊いてから、ここってブレンドコーヒーないなぁって思ってたから。ないのって珍しいよね?」
 いつも通り、だ。うまくできている。
 ざわついた心が少しずつ穏やかさを取り戻していくことを感じた。毛羽立った布地を優しく、手のひらで撫でるように。
 「そうですね」と頷きながら、カフェ・ユーリカで出している珈琲豆の種類を思い浮かべる。多くは祖父が独自に珈琲農家や焙煎所と契約して仕入れてきたもので、焙煎をすることはあっても基本的に珈琲豆に手を加えることはない。
「ブレンドコーヒーというのはお店の顔となる、マスターやバリスタの個性が最も色濃くでるものですから……。珈琲を売りにしているお店には、たいていオリジナルブレンドがあるはずです」
 迅がそっと首を傾ける。通い詰める彼でも、メニューにオリジナルブレンドの文字が並んでいるのは見たことがないはずだ。メニューには、一番最初に〝オーダーコーヒー〟が、それから、常に取り揃えている豆としていくつかの定番のブランドコーヒーと、各焙煎所の特徴が出たブレンドが数種、と並んでいる。
「メニューには載っていないのですが、一応〝ユーリカ・ブレンド〟という名前の、お店の顔となるべきブレンドはあります」
「一応?」
「祖父がこだわりにこだわり抜いた結果、ブレンドに使う豆を揃って仕入れできることがごく稀でして……」
 店としてどうなのだ、それは。と自覚して萎んだ声に、迅の笑みが重なった。「月久さんらしい」と水が入ったグラスを持ち上げ、唇を湿らせるようにほんの少しだけ傾ける。
「ほんとうに。そんなわけで、当店の顔、看板メニューは〝オーダーコーヒー〟になってしまいました。〝ユーリカ・ブレンド〟は裏の顔ですね」
「いつか飲める?」
「豆が揃ったらいちばんに連絡しますよ」
 〝ユーリカ・ブレンド〟は月子も数えるほどしか飲んだことがない。それでも、おいしいという記憶ははっきりと残っている。祖父と同じ味に淹れられるかはわからないけれど、もしも豆が揃ったそのときは、迅と一緒に飲みたいなと思った。
「楽しみにしてる。それじゃ、今日のところは月子さんのおまかせでコーヒーと……他におすすめある?」
 やわらかい声にそっと息をついた。店内に流れる音楽が耳に戻ってくる。静かなジャズにつられるように笑みを浮かべて、昨日の夜に作ったものを思い描く。
「ティラミス、苦手でなければいかがですか?」
「そっか、今日、火曜日」
 定休日明けに出しているケーキは、迅もときどき注文していた。甘いものは嫌いではないらしい。
「自信作なので、よろしければぜひ」
 声が弾む。エスプレッソコーヒーがよく染み込んだビスコッティはしゅわりとほどける。イタリア風カスタードクリームであるザバイオーネと、癖のないフレッシュチーズのマスカルポーネを合わせたクリームは、舌ざわりは軽いがコクがあり、コーヒーの風味をやさしく包む。基本的な作り方にならった、スタンダードなティラミスだ。
「じゃあ、ティラミスも」
「かしこまりました」
 注文を受けたからにはさっそく珈琲を淹れたいところだが、どの豆で淹れるかは悩ましい。迅には色んなものを飲んでもらっているため、かえって普通の珈琲を飲んでもらったことが少ない。いつもおまかせを頼む城戸や唐沢の好みは把握しているが、やっぱり、まだ知らないことが多いのだ。
 ああでも、一年前はブラックで飲めなかったのに、いつの間にか飲めるようになっていたことは知っている。シンプルな味わいのティラミスと合わせるのなら、癖や味の強さは控えめの方がいいだろうか。
「――月子さん」
 迅の声が思考をすくいあげる。月子はいつもと同じように笑みを浮かべて視線を合わせた。
「なんでしょう?」
 反射で答えると、困ったような顔をしていた。誰がといえば、この場に鏡がない以上、月子の視界に映るのは迅だけだ。
 口元に笑みをのせたまま少し眉を下げていて、困っているように見える。どうかしましたか――訊くべきかもしれない。そう思うのに、喉の奥が張り付いて声が出なかった。
「あのさ、月子さん」
 はい、と返事をすることはできなくて。けれど迅の言葉を無視したいわけではないのだと、小さく頷いて示す。迅が笑みを深めた。やっぱりそれは、どこか、困っていると形容したくなるものだったけれど。
「そんなに身構えなくても、月子さんが話したくないことは訊かないから」
「みっ……、」
 喋り方を忘れてしまったみたいに裏返った声が出て、ぱっとくちびるを閉じる。
 ゆっくり言葉を飲み込んで迅を窺えば、真摯な青い瞳とかち合う。澄んだ色のそれは、よくどこか遠い場所を眺めているけれど、今は月子だけに注がれている。
「……身構えて、」
 いませんよ。
 いましたか。
 どちらを言おうか悩んだ一瞬で、迅は言葉を重ねた。
「そう見えた、ってだけだけど。太刀川さんの悪ふざけのせいだし、月子さんがそのことを気に病まなくていいと思うよ」
 気を遣われている。そのことがわかってぐらりと心が傾いだ。面と向かって言葉にされるほど、自分はきっと身構えていたのだろう。迅が思わず口にしてしまうほど、動揺していたのだろう。
 太刀川さんの悪ふざけ。冗談でしかない告白のことだとわかる。すぐに嘘だとわかるような嘘を、どうして彼は吐いたのだろう。
 どうして――ずるいひと、と言ったのだろう。
「……太刀川さんに、何か別のこと言われた?」
 彼はどうしてこうも察しがよいのか。
 わずかに険しさを増した表情に、ちいさく笑みを返す。強がりという意味も、たぶん、あったけれど。どちらかといえば、その察しのよさに笑みが――それから言葉がこぼれた。
 ひとまず、何かをまともに受け答えしたくて。ずるいと言われたことに、何か、釈明をしたくて。
「迅くん。私って、その……ずるい、ですか?」
 訊いてから思う。以前、月子は迅から『ずるい人だ』と言われたことがある。だから肯定しか返ってこないはずなのに、訊いてしまった。
 ああ、訊かなければよかった。
 ――そう思った時点で、否定して欲しかったという自分の気持ちが透けて見えた。ずるくなんてない、と、言って欲しいのだと気付いてしまった。
 それに気付いてしまった以上、例え迅がずるくないと言ってくれても素直に受け止められない。そしてずるいと言われたら、それはそれで心が痛むのだ。だって月子は、ずるくない自分でいたい。そう、わかってしまったから。
「すみません、突然、へんなことを」
 迅の顔が見れない。しゃがみこんで、珈琲豆を保存している冷蔵庫の扉を開けた。彼のための豆をそろそろ決めなければいけないと、そう言い訳するのに指も視線も動かせない。
「……太刀川さんに言われた?」
「前に、迅くんにも言われたなぁって、思って」
「おれと太刀川さんだと、たぶん、意味が違うよ」
 頭上から降り注ぐ声が笑った。そうなんですね、と返したような気がする。のろのろと瞳を動かして、瓶のラベルを頭のなかで読み上げた。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ、グァテマラ、コロンビア、コスタリカ。呪文のように繰り返すと、少し落ち着く。
「……おれはさ、月子さん」
「はい」
 カフェ・ラッテに使うブレンドの瓶に手を伸ばしながら答える。もういっそ、飲み慣れているカフェ・ラッテにしてしまおうと思ったのだ。ハートはだいたい作れるようになったから、次はリーフの練習に付き合ってもらおう、なんて考える。
「月子さんがずるくてもいいよ」
 ぴたり、と瓶にかけた指先が止まった。カウンターの向こうに座っている迅がどんな表情をしているのか、見れないことが惜しい。けれど、すぐに立ち上がる勇気もない。
「他の人や、月子さんが、月子さんのことをずるいと思っていても、おれはきっとそこも含めて、」
 ちょうど音楽の切れ間だった。すとん、と迅の声が耳におちる。
「月子さんが……好きだよ」
 やさしい声だった。
 顔が見えないから、余計にそう思う。大人びた青年の声。いつになくひそめられた声に心臓が跳ねて顔に熱が集まる。
 そんな心と反対の部分で、薄氷にはいったひびから、じわじわとつめたい水が染み出していくような気がした。
 嬉しい言葉だ。すごくすごく、うれしくて、やさしくて、あたたまる言葉だ。そのはずなのに、胸の奥がぐっと重くなって、凍えている。
「……私の、どこがずるいのか、少しわかりました。うん。ずるい、のかもしれません」
 ちいさな、本当にかすかな声で囁いた。
 ――こういうところだ。
 ずるくない自分でいたいと思ったこと。迅の言葉を受けて、こんな気持ちになってしまうこと。それが何よりも月子のずるさを知らしめさせる。
 これだけの言葉を向けられるだけの思いを、自分は、ちゃんと、彼に返しているのだろうか。
 そんなことを言ってもらえる人間なのだろうか。
 優しい言葉に対して思ったのはそんなことだった。そのひたむきな優しさに、きっと自分は応えられないと、わかってしまう。
 でも、そう思うのなら。
 自分は彼の言葉を否定すればいい。もっと強い言葉で、そんなことはないのだと謝罪すればいい。あなたがそんなふうに言ってくれるだけの価値はないんですと、正直に。
 なのに、それはできない。
 うれしいから。
 ふさわしくないと思いつつも突っぱねられないのは――そうするとさみしいからだ。
 ひとつ吐息を漏らした。呼吸を止めて笑みを浮かべて。それから、瓶を持って立ち上がる。
「ありがとうございます、迅くん。そんなふうに言っていただけて、嬉しいです」
 こうして笑みを浮かべられるくらい、それが自分にとって自然な行為であることに感謝した。小さな頃から店の手伝いをしていた成果だろうか。愛想よく、お行儀よく、振る舞える。
 コーヒーミルに豆をセットして、電源をパチリと入れる。迅が月子を見つめていた。浮かぶ笑みは少し力ないように見える。それでもその瞳は真摯で、慎重に月子を窺い、慮ろうとするやさしさがある。
「カフェ・ラッテでもいいですか?」
「大丈夫」
「ティラミスも、すぐにご用意しますね」
 もうこの会話をやめたいのだと、伝わってしまっただろうか。いや、月子は彼ならこれで伝わると思って、わざとそう振る舞っているのだ。きっと会話をとめてくれると、わかっていて。その優しさのうえに自分はあぐらをかいているのだと、自覚を新たにしながら。
「ゆっくりでもいいけど。今日は時間あるから」
「よかったです。最近はお忙しそうだったので」
 言いながら、再びしゃがんだ。並んだ背の低い冷蔵庫から、琺瑯の深いバットを取り出す。中にティラミスが敷き込んであるのだ。これをヘラで四角に切り分けてプレートに盛り付ける。そのときにココアで表面を飾るから、今は真っ白いクリームが雪のように積もっている。
「……なにかないの?」
「何がですか?」
「ティラミスに関する豆知識とか?」
 やっぱり、彼はやさしい。
 ずるくてごめんなさい、と口にできたら、そもそも月子はずるい人ではないのだろう。
 ティラミスは作業台の上に置いて、棚から盛り付ける皿を選ぶ。
「ティラミスはイタリアのお菓子で、棒状のビスケット、イタリア語でビスコッティ・サヴォイアルディと呼ばれる生地を、エスプレッソと砂糖とマルサラというワインを合わせたものに浸します。それに、カスタードクリームとマスカルポーネチーズを合わせたクリームで層を作っているんですね」
「普通のスポンジ生地じゃないんだ」
「もちろん、それでもいいと思います。今回は基本の作り方にのっとって、本場の味を意識してみましたが」
 ヘラで正方形に切り分けて、慎重に盛り付ける。まだ注文が出ていなかったから、最初の一切れを分けるのはなかなかに難しい。皿の上に乗せたら、ココアの粉を茶こしにかけて降らせる。多めにかけるのがイタリア流らしい。
「そういえばティラミスってどういう意味?」
「……神々の食べ物、だとか、言ったりするみたいですよ。映画で、そういうシーンがあって」
 エスプレッソマシンに珈琲粉を詰めながら答える。本当は違う。ティラミスは〝Tira mi su〟――直訳すると私を引き上げて、元気付けて、となる。
 いつか祖父が教えてくれた豆知識を言うのはためらわれた。その言葉は、あまりにも今の月子に似合いすぎる。ただの偶然ではあるのだけれど。
「月子さんも食べない?」
 不意に迅が言った。明るい声が、少しだけ沈んだ空気を払ってくれる。一瞬、あのどこか遠くを見る瞳をしていたような気がする。
 カフェ・ラッテ用のミルクを用意して、エスプレッソの抽出を始めようとしていた手を止めて窺う。浮かぶ笑みはいつもと同じかたちをしていた。
「太刀川さんの奢りってことで」
 ぴらりと、いつのまにか指の間に挟んでいた紙幣を揺らして、迅がいたずらめいて笑う。
「でも、それは迅くんのお会計に」
「おれが月子さんとティラミスを食べたい。おれに奢られるのと太刀川さんに迷惑料として奢られるのとだったら、太刀川さんの方が乗ってくれるかなって思っただけ」
 確かに、気分的には後者の方がいい。迅から――大事な弟のような彼から奢られるのは、気が引ける。迅はよくよく月子を理解している。しかし、それにしても。
「……迅くんって、誰かとごはん食べるの、好きなんですね」
 笑みは、ほんとうに自然と浮かんだ。ふわりと肩の力が抜ける。迅が瞳を細ませて、ゆるく笑った。
「元気が出るから」
 実は知っていたのだろうか、ティラミスの由来を。いいや、でも、知っていたら訊かないはずだ。
「そうですね」
 偶然の符合を不思議には思いつつも、月子は笑みを深めてそう応えた。

   *

 『さっきは大変だったね』そう笑いかけると、月子は『冗談だとわかっていてもびっくりしますね』と苦笑を浮かべた。それがあんまりほっとしたような顔だったから、迅はつい『冗談じゃなかったら?』と訊いてしまうのだ。
『冗談じゃなく、月子さんが好きで、口説いてくるひとがいたら、月子さんはどう思うの?』
 困らせるからそんなの訊かなければいいのに、と思いながらも言葉は止まらなかった。けれどすぐに後悔することになる。
『まさか、そんな。……そんなこと、ありえませんよ』
 ありえて欲しくない、という顔だった。困ったような笑みの奥に、絶望にも似た何かが潜んでいる。その表情はきっと無自覚なのだろうけれど――明確な拒絶で、牽制だった。

 選ばなかった方の未来を思い出しながら、迅はカフェ・ラッテに口づける。ティラミスの風味があらわれていく。ふわふわのスチームミルクの甘さと、エスプレッソの苦味が舌に残った。
「おいしかった」
「よかったです。自信作、だったので」
 隣に座る月子の視線を感じてそう答えれば、いつもの得意げな笑みが返ってくる。動揺はすっかり鳴りを潜めているようだ。
 太刀川の算段に乗って、想いをぶつける道もあった。でも、それが月子にとって良いことではないなら、そうしたくはなかった。そして、そのことにどこか、ほっとしている。
 ずるい、という言葉に動揺していた月子は、いつも見せる無邪気さとはまた違った幼さがあって、迷子の子どもみたいだった。あまり言われたくなさそうだったけれど、迅も、月子のことをずるいひとだとは思ってる。
 でも、そんなずるさも好きで、愛しいのだと言った言葉は本心だった。それをさらりと流されて、ちょっと傷ついた心も本当だ。
 今日、ひとつだけ、わかったことがあった。
 月子が奥底に沈めているらしい冷たい何かは、そうそうたやすくは浮かんでこなくて――それを見るには彼女を傷つける必要があること。取り繕えないくらいに、心を砕いてしまわないといけないこと。
 だから、迅は訊かないことにした。だって迅は、月子が自分にそうしてくれたように、彼女にやさしくしたい。大事に、したい。氷がとけるように、雪が春になるようにやさしく、それにふれられる日を待つことにした。そういう待ちの姿勢は得意なほうだ。
 でも、とりあえず。太刀川さんは、一回ちょっと、シメとこう。
 対峙すべき未来があることはなんとなく見えているけれど、それは抜きとして、とりあえず一回、シメよう。近いうちに。引っ掻き回すだけ引っ掻き回してしたり顔をされるのは、むかつく。
 うっすらと笑った迅に、月子が怪訝そうな視線を向ける。思い出し笑い、と誤魔化しの言葉を挟んで、「最近寒くなってきたから体調には気をつけてね」と口にする。
「もう風邪は引きませんとも」
 夏の終わりの記憶はまだ尾を引いているのか、意地になったような声が答えた。そんな無茶な、とは思うものの、元気でいてくれるならそれはいいことだと、笑いながら頷いた。


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