キャラメルミルク

 チョコレートブラウンの琺瑯の小鍋は、数ある調理器具のなかでも気に入っているものだ。扱いやすいサイズ感、適度な厚みは丈夫で、重さもさほどない。ふちに注ぎ口もついているから、飲み物をつくるのにちょうどいい。月久が若い頃から使ってきたものだから、さすがに細かい傷はいくつかついているが、それすらもどこか愛おしい。それに大切に手入れをして使っているから汚れはほとんどなく、内側はまだ新品のような白さを保っている。
 月子は、そんな小鍋にバターをひとかけら落とす。さらにグラニュー糖も加えて火にかけた。少量なので、火は弱く、とろ火に。琺瑯は急熱や急冷に弱いが、じんわりと伝わる熱はやさしい味に仕上げてくれる気がする。バターがじわじわと溶け出したら軽く揺すってグラニュー糖に行き渡らせて、そのまま火にあて続ける。
 開店前のカフェ・ユーリカは、しんとしていた。
 オープンの準備は済ませてあるから、あとは音楽をかけて、開店時間とお客さんが来るのを待つだけだ。喉のかわきを覚えたのはそんな時で、それから、今日は寝坊して朝の一杯を飲めていないことを思い出した。
 朝の空気を取り込んだ店内は、まだ暖房も利き始めで少し肌寒い。だから、小鍋でキャラメルミルクを作ることにした。寝坊のせいで慌ただしかったし、おなかの中はからっぽだ。何かを食べるとしても、その前に気持ちを落ち着かせたかった。
 小鍋のなかで熱せられたグラニュー糖が溶けてきた。結晶のかたちが失われて、とろりとしていく。火に近い部分から淡く色づきはじめるが、まだ早い。これがしっかりとした深い茶色になるまで、このまま熱し続ける。
 マグカップに牛乳をすこし注いだ。ラップをかけて電子レンジにいれて軽く温める。このあと牛乳を加えるが、冷たい牛乳だとキャラメルが一気に固まったり、跳ねたりしてしまう。そうなるとキャラメルが溶けにくくもなるので、最初に注ぐぶんは温めることにしていた。
 そうしているうちに小鍋の中身は色もだいぶ変わってきて、あたりに甘いにおいが漂う。
(……迅くんは、)
 ふと、そのひとのことを思い出したのは彼の髪がちょうどこのくらいの色味だからかもしれない。あたたかみのある、やさしいブラウン。思い浮かべると、胸の奥がつきりと痛んだ。
(どうして……あんなにやさしいんだろう)
 そういうひとなのだ――と言えば、きっとそれまでのことなのだろう。けれど、諏訪や風間の言葉がよぎる。彼は『そういうひと』ではないのだ。少なくとも月子の前以外では。どうして月子にだけ『そういうひと』でいられるのか。ほんとうに月子だけに、そうなのか。もしもそうだとしら――まるで、月子のことをすきみたいだ。
 そんなわけない。
 思い浮かんだそれを一蹴する自分の声は噛みつくようだった。でも、だって、六つも歳が離れているし、なにより恋をされる理由がない。もちろん親しい仲ではあるけれど、それは店主とお客さん、友人、姉と弟のような、そういうものであるはずで。それ以上になる理由なんてない、はずだ。

 まばたきをした一瞬――『そうでしょう?』と、問いかけるような声をきいた。
 小さな子どもが、幼い頃の自分が、縋るように音のない声で問いかけていた。
『ちがうよね?』
 ちがうって、いってよ。ちがうよって、そう答えたく思う、けれど。
『やだ。だって、そんなの、』
 ――おなじになっちゃう。

 電子音のメロディーが思考を中断させた。牛乳のあたためが終わったらしい。
 見つめていた小鍋の中身もいい頃合いだった。マグカップを取り出して、柄の長いスプーンに伝わせるようにして牛乳を注ぐ。しゅわわ、と水分を弾く音がして、キャラメルが固まる。けれどそれもスプーンでつついてやれば、ミルクとやわらかく混ざり合った。最初にいれたぶんが十分に混ざってから、少しずつ牛乳を付け足していく。そのたびにかき混ぜて、ゆっくりと待って、キャラメルが冷えて固まらないように気をつける。
 しばらく、その作業に没頭した。余計なことをすべて追い出してしまえるから、調理をしている時間は好きだ。
 どのあたりまで入れればいいのかは感覚でわかっている。最後に全体がちゃんと温まったことを確かめてから、小鍋からマグカップに注ぐ。丁寧に溶かしたつもりでも、鍋の底にはキャラメルがすこし残っていた。
 カウンターに立ったまま、キャラメルミルクに口をつけた。ついさっきまで鍋にあったものだから、火傷してしまいそうなほど熱い。舌先がしびれるような、火傷する感覚すらも味わいながら、ちびりと飲み込んだ。
 じんわりと、熱が身体にしみていく。甘みが舌に残り、火傷した部分をやわらかく刺す。
(……――恋じゃなければ、いいのに)
 迅がやさしい理由を、〝恋〟だと思いたくなかった。迅が、月子に恋をしていると、思いたくない。
 気付く瞬間は、あんがい呆気ない。ふたくちめを飲んで、もう一度考えてみたけれど、結論は同じだった。
「……どうして」
 囁きはかすかに空気を揺らし、月子の心にも波紋をうみだす。どうして、私はそう思うのだろうか。小さな問いかけの答えを探すのは、やはり難しい。はばかられるとか、ためらわれるとか、きっとそういう意味で。
 だからほんとうはわかっている。答えはずっと前から月子のなかにあって、ただそれを見ないようにしてきただけだった。
 瞼をおろすと母の姿が浮かんだ。手に持ったままのマグカップを口元に引き寄せて、くちびるにおしあてる。じわじわと熱が伝わった。傾けはせずに、そのまま湯気が目元をなぶるに任せた。
『気付かないフリしてんのは楽?』
 視界をとざした薄闇に太刀川の声が蘇る。ええ、楽でした。大人になった月子はそう答える。気付かないふりをしているのは楽で――でも気付いてしまうと、もう前のようにはいられない。かつて月子が母に対してそうだったように。
 月子の母は、きれいなひとだった。薄れてしまった記憶は顔立ちを不明瞭にさせるが、いつもきちんと格好を整えていて、にっこりと笑顔を浮かべていて、そういうところがきれいだと思ったのだ。
 幼心にも、そのことが誇らしくさえあったことをまだ覚えている。自分の手をひいてくれる母のことが好きだったし、遠く離れた父のことを想う横顔が好きだった。あまり家にいない父のことを、けれど母は好きだったから、月子も父が好きだった。
 母が父と結ばれたのは今の月子よりも若いときだ。だから記憶のなかの母はどの瞬間を切り取っても若々しい。それが、よくなかったといえば、よくなかったのだろう。それから父の多忙さも。
 不和はいつのまにかそこにあった。不和と呼べるほど、確固たる何かがあったわけではなかったけれど。むしろ何もかもなくなってしまったのだ。月子が十歳になる前には、母は父への愛を失っていた。
 あのときも、気付かないふりをした。
 気付きたくなかった。
 母が父への愛へと一緒に、月子への愛も失ってしまったのだと――気付きたくなくて、必死に目をそらしていた。

「仰木くん」
 声が響いて肩が跳ねる。瞼を持ち上げれば、カウンターの前に城戸が立っていた。慌ててマグカップを置いて時計を見る。オープンの時間はとっくに過ぎていたらしい。ドアベルの音を聴き逃すなんて初めてのことだ。
「すまない、まだ準備中だったかね」
 城戸が踵を返そうとするのを「いえ」と声を出して引き止める。
「申し訳ありません。ぼんやりと……していたようです。いらっしゃいませ」
 棚からグラスをとって、水を注いだ。城戸が特等席に座り、いつものように珈琲を注文する。にこりと笑って承れば、城戸は変わらない表情で月子を見つめていた。
「お久しぶりですね」
 そう、月子から声をかける。城戸は仕事が立て込んでいたのだと教えてくれた。それから、今日は午後からの出勤とするよう『忍田本部長』に言われたことも。部屋にいると仕事をしてしまうのでカフェ・ユーリカに来たらしい。いつものことだった。
 いつもの、という注文を受けて選んだ珈琲豆は契約している焙煎所のブレンドで、城戸も何度か飲んだことのあるものだ。繊細にブレンドされたその珈琲は、わずかに尖った酸味と、後味のかすかな甘みが特徴的だった。選んだ豆をミルで挽き、それからハンドドリップで淹れる。
 その作業をしているときだけは頭が切り替わって、お湯を吸ってふくらむ珈琲の粉に集中することができた。漂う香りが心を落ち着かせてくれた。
 いつもの味に淹れられただろうか。珈琲を味わう城戸を見つめながら思った。そうしていたら視線がかち合う。
「きみは」
 と、城戸がカップをソーサーに置きながら言う。
「……何か、悩み事でも?」
 静かな声と視線が月子に向けられていた。どちらかといえば距離を遠く保ってきた城戸の言葉は、じわじわとしみる。これが東とか、響子とか、そういうもっと近しい関係の人だったら、反射的に否定していたかもしれない。余計な心配をかけたくはないし、それに、羞恥のようなものが口を重たくさせただろう。
「……大したことでは、ないのですが」
 苦笑が浮かぶ。少し距離があって、でも互いに嫌いなわけではなくて、尊敬の念を抱いていて――それから、この人に嘘や誤魔化しは無意味だと思えて。だから、否定はしなかった。できなかった。
 ゆっくりとくちびるを開き、言葉を探す。そのなんてことのない数秒を、城戸は真摯に待っていた。
「味に影響していましたか?」
「いいや。いつも通りに美味しい。ただ、きみが来店に気付かないのは、初めてのことだろう」
 そのことに違和感を持ってくれたことが、嬉しいと思った。もちろん、気付かなかったことは恥じて反省すべきことだけれど。
 ドリッパーに残したままだった珈琲豆とフィルターをゴミ箱へ放り込む。それからシンクへ汚れたものを移動させた。作業台にはぬるくなったキャラメルミルクだけが残っている。
「……悩み事があるのなら、唐沢くんに相談してみてはどうかね」
 悩み事そのものの詳細を訊いてこないのは城戸らしいと思った。訊いてはこないけれど、助言を与えてくれることも。
「唐沢さんもお忙しい方ですから、なかなか」
「きみのためならいくらでも時間を作るだろう。休む口実を与えてやって欲しいくらいでもある。彼も残業を総務の者から叱られている身だ」
「『彼も』というのは、城戸さんも、ということですか?」
「……私だけでもない」
 やや決まり悪そうに言うのが新鮮で、ちいさく笑みがこぼれる。沈んでいた気持ちが少しだけ浮上していくのを感じていた。
 再びカップを手に取った城戸は、無理に会話を進めようともしなかった。月子はそれに甘んじることにして、シンクの洗い物を片付けにかかる。食洗機で洗えるものはセットして、キャラメルミルクに使った琺瑯の小鍋は柔らかいスポンジで手洗いする。底に残っていたキャラメルが固まってしまっていたので、お湯をためてスポンジで撫でるように優しくこすった。琺瑯の表面は傷がつきやすいから、丁寧にする必要がある。
 手を動かしながら、音楽をかけ忘れていることに気付いた。どうりで妙に静かだったわけだ。寝坊といい、来店に気付かなかったことといい、今日の自分は抜けている。城戸が月子をマスターと呼んでくれないのも納得だ。まだ完璧でなくていいと思えるようなそれは、今日もありがたくて、いつもよりすこし、情けない。
 単純な作業と静かな空間は、弾けて消えたはずの思考を蘇らせる。キャラメルがゆったりと溶けていくのを指先で感じながら思う。
(――私は、恋を、したくないんだ……)
 誰かに恋をしたり、誰かに恋をされたり、そういったことを、したくなかった。人のそれを見るのはいくらでもできるし、応援だってしてしまえるのに、それが自分のもとに与えられた瞬間――いやになる。
 自分と誰かの間に恋などというものがあることを、認めたくはなかった。だって――だって、恋ほど不安定なものを、月子は知らない。愛しさが嫌悪に、無関心に、たやすく変わることを知っている。
 そんなものが、迅との間にあるのだと思いたくない。そんなものがなくたって。ないほうが。きっと、ずっと、色んなことが上手くいく。今のままでいいじゃないかと、月子はそう思うのだ。
(……おかあさん、は)
 月子の父に恋をして、月子を愛していたはずのそのひとは。
 それを失って、月子のもとから去ってしまった。あんなに大切だった居場所は、まるではじめからなかったみたいに、なくなってしまった。
 だから、今のままがいい。失われないものがいい。ずっと変わらないものが、月子は好きだった。祖父から受け継いだこの店のように、変わらないでいてくれるものが。
 でも、それが『ずるい』ことだともわかっていた。変わらないでと願うことはできても、それを誰かに強制することや、変わったことを踏み躙るような真似をしてはいけないから。父が母との離婚を選択したように、変わることを受け入れなければならない。
 何も変わって欲しくないと言いながら、変わった部分の好ましいところだけは受け入れて。好ましくないところは見ないふりをして。挙句に、そんなことはしていませんよと、無自覚でいることは許されないのだから。
 そうわかっている。わかっているけれど、それでも、月子は変わりたくなかった。変わってしまうことがこわくてこわくて仕方がなかった。恋なんていう不安定な感情を信じきって身を委ねることだけは、できなかった。
 ――だって、もしもまた、だめだったら?
(……、……おかあさん、みたいに……)

 ――だめにしてしまったら?

「……変わることがこわいのは……きっと、だめなことなんでしょうね」
 宙に投げたような言葉は、それでも城戸に訊いて欲しかった言葉だった。誰かに吐露したい弱音だった。ずるいと言われたときみたいに、否定をしてほしいわけではない。変わることがこわいのだと、誰かに言いたかった。それを誰にも言えなかった幼い自分が、まだ胸の奥に巣食っていた。
 指先をお湯のなかに揺蕩わせて、ぐるりと水面をかき混ぜた。ふれた表面には、固まったキャラメルが引っかかるような感触はない。お湯を流して、洗剤を含ませたスポンジで優しく洗う。
 わずかな沈黙があった。それから、かちゃりと陶器がふれあう音が響く。
「きみが、変わる必要があると思うときが来たなら……そのときは変わるといい」
 城戸の声が少し遠い。言葉を宙に投げた月子と同じように、城戸もただ正面を見つめながら言葉を紡いでいた。
「それに恐れや痛みが伴うとしても――越えた先に得る物はあるだろう」
 失うものばかりではなく。城戸が音にしなかった続きが思い浮かんだ。
 この人は、変わることを恐ろしいと思ったり、痛みを感じたり、失ったり得たりを、月子よりも多く経験してきたのだ。なんとなくそう思った。そもそも目の前のひとが月子よりもずっと様々な経験を積んでいることは明白だ。
 なにか大切なものを、だめにしてしまうかもしれないと思いながら――それでも手を伸ばしたことも、あったのだろうか。
 小鍋に纏わせた泡を流して、水切りの上に置いた。ふと作業台に残したままだったキャラメルミルクを見れば、色の濃い膜が張っている。口をつけるとすっかり冷めて、甘ったるい味がよくわかる。
「……城戸さん。ありがとうございます」
 微笑みながら礼を言う。カウンターに座る城戸は、いつもと同じ表情のまま「コーヒーのお代わりを貰おうか」と――それでも幾分か優しい声で告げた。

   *

 母が今どこでどうしているのか、月子は知らない。父や祖父は知っているのかもしれないが、月子は何も知らなかった。昔のことも、あまり思い出せない。幼い頃の写真はほとんど手元になく、思い描く輪郭や声も曖昧だ。
 でも、母が好んで着ていた服の色や、繋いだ手のひんやりとした温度や、纏っていた香水の香りは、今でも覚えている。覚えているから――夢にも、出てくる。
 月子の夢に出てくる母は、いつだって楽しそうに笑っていた。笑いながら、月子をあの家にひとりおいて、出掛けていた。その背中に手を伸ばすことも行かないでと縋ることもできずに、月子は、いつも扉が閉まるところを見届ける。
 月子の知る恋はそれだった。その終着点、あるいは通過点に、取り残されてしまうものが生まれる。そうでないこともあると頭では理解しているのに――そうだったふたりの間に産まれた自分のことを、忘れることができなかった。


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