カフェ・ラッテ

「マジか……」
「どうしました? 迅くん」
 いつものように人のいないタイミングを狙って訪れたカフェ・ユーリカ、カウンターの中で作業している月子の姿を眺めていた迅は、急に現れた未来に目を瞬かせる。月子が不思議そうなまなざしで迅を見つめていた。呆けた顔を晒したのに気付いて取り繕う。
「いや、何でもないよ」
「そうですか?」
「ところで月子さんのおじいさんってどんな人?」
「どんな……うーん、自由な人、ですかね。気ままで、人を驚かせることが好きです」
 突然の話題変更にも月子は素直に応じてくれる。
「それでか……」
「急にどうしたんですか?」
「予習しておこうかと」
「なるほど……?」
 それは本当に唐突に見えた未来で、一瞬のうちに確定された未来だった。会ったことのない人の未来は見えないはずなのに、目の前の月子の未来に不意に現れた可能性。迅が読み逃すほどの自由因子といったところか。
 帰ることも考えたが、注文をした直後にやっぱりなしで、なんて言えるわけがない。だからどうやら迅は、その未来の訪れを受け入れて待つしかないらしい。
「……不意打ちは緊張するな」
 なんて、月子には聞こえない声量で呟いたのと同時。
 ――からんっ
 カフェ・ユーリカのドアベルが来客を告げた。
 未来が見えてから実際に起こるまで、ほとんどラグがない。つまりこの未来が生まれたのは本当についさっき、ということだ。カウンターの中で月子がびっくりしているのが視界に入った。迅の来店中に、他の客が入ってきたのは初めてだから――だけではないだろう。
「ただいま、月子。元気にしてたかい?」
 カツンッと、瀟洒なステッキが木のフローリングを叩いた。
 長袖のシャツに黒のベスト、グレーのスラックス。かっちりとした服装とは裏腹に、纏う空気は適度にゆるくくだけている。渋い色のハットを持ち上げ、ぱちりとウインクするさまはまるで海外の映画俳優のようだ。白い髪をふんわりと撫で付けたオールバックに、白い口髭を指が撫でる。ステンドグラスのあざやかな影が落ちる扉の手前――そこには物語の中に出てきそうな老紳士が立っていた。
「おじいちゃん⁉」
「元気そうで何より何より。――お客様のお名前は? そこに座ってるということは月子とは親しいんだろう? わしが店主の頃には見なかった顔だが、さて?」
 挨拶もそこそこに、老紳士のまなざしと関心は迅へと向けられた。ご機嫌な様子で近寄ってくる老紳士は意外と背が高い。ぴんっと真っ直ぐ伸びた背筋がそう思わせるのかもしれない。彼は迅の隣に座って、ぽかんとしている月子をよそに楽しげだ。見えていたぶん、月子よりも早く気を取り直せた迅は、ぺこりとお辞儀をする。
「迅悠一と言います」
 名乗れば、表情がより柔和になった。刻まれた笑い皺は深く、肌はよく日に焼けている。仕草の端々に快活な雰囲気が滲んでいた。矍鑠、というのはこういう人に使う言葉だろう。
「ふむ、迅くんか。覚えたよ。わしは仰木月久つきひさ、月子の祖父でここの先代マスターだ」
「初めまして……月久さん」
 なんと呼んだものか悩んだが、仰木姓がふたりいるならば名前でいいだろう。月久は人懐こく笑い、煌めくような黒い瞳で迅を楽しげに見つめている。
「うんうん、なかなかよい青年じゃあないか。よかったのう、月子」
「お……おじいちゃん!」
「ん? どうした?」
「なんで突然……しかもお店の方に!」
「抜き打ちテストというやつよ」
 ほっほっほっ、わざとらしく笑う老爺に、月子は「なに、それ」とがっくりと項垂れる。いつも自分を振り回してくる――その自覚は当人にはないが――月子が振り回されているのはめずらしい。月久の来店に驚いたのは迅も同じだが、自分よりも慌てた人を見るとかえって冷静になる。
「そろそろ帰る頃とは分かっていたろうに」
「……お盆ですからね……唐沢さんからも訊いてましたし……」
 だからってあんまりにも突然でしょう、ちょっと怒ったように聞こえるのはびっくりした反動だろう。月子が怒る姿はめずらしく、つい笑ってしまった。いつにもまして子どもっぽく拗ねた月子の横顔が、何か変なツボに入りかけていた。
「……いつもは店の方にはいらっしゃらない、ですよね」
 笑みを飲みこみ訊ねる。カフェ・ユーリカに通いはじめて一年にもなるが、老紳士と顔を合わせるのは初めてだった。
「たまにしか帰ってこんし、裏口から上に行けるからなぁ。部屋でこっそりディナーをこしらえて、あがってくる月子を待つのがいつものパターンさな」
「じゃあどうして今回に限って店に来るんですか!」
「疾く月子の顔が見とうて見とうて」
「……本音は?」
「最近おまえの驚き方がマンネリだったものだから」
 はぁ、と月子が溜息をつく。なるほどこういう人か、と迅は笑みを浮かべた。――これは読みにくい。
「夕飯の材料はパントリーの冷蔵庫に入れてある、安心しなさい」
 別に月子はそんな心配していないだろうけれど、月久はにこやかに笑みながら告げた。月子は諦めたように「それはどうもありがとう」と溜息を重ねる。
「パントリー?」
「倉庫のことです。あの扉の向こう」
 耳慣れない単語に首を傾げた迅に、月子が教えてくれる。指差しているのは『staff only』と札がかけられた扉だ。あの向こうに裏口と二階へ上がる階段があるという。
 あれ? と違和感を覚えた。扉一枚向こうの空間に月久は夕飯の食材を置いたと言っている。そのわりにはおかしい。
「……荷物を置いたのっていつですか?」
「ついさっき、だ」
「さっき……」
「気付けないんですよ、私も。どうやって足音を殺しているのか……」
「昔取った杵柄というやつよ」
「どんな杵柄なの……」
 呆れ果てている月子だけれど、気付けなかったことに驚いているのは迅もそうだ。いくらこの店にいるときは気を緩めていると言っても、流石に扉一枚向こうの動きくらいは追える。実際、月子が上に行くときはわかるのだ。
 なのに月久に関しては物音一つ拾えず、直前まで異変に気付かなかった。月子が語るエピソードから薄々察してはいたけれど、侮れない好々爺だ。
「それで、何か飲まれますか? お客様……なんですよね? 今日は」
 月子はじとりと祖父を見つめて言う。月久は気にした様子もなく、そうさなぁ、と白い口髭を整えるように撫でる。
「迅くんは何を頼んだのかね?」
 月久から問われて、迅は「カフェラテです」と正直に答える。「冷たいのかい?」と続けて訊ねられたので頷いた。
「あったかいのにせんか?」
「おじいちゃん……!」
「おれは別にいいよ、月子さん。あったかいカフェラテにしてもらっていい?」
「迅くんが言うならいいですけど……」
「よい子、よい子。月子や、カフェ・ラッテは三つおいれ。サービスしてやろう。珈琲とミルクが用意できたらわしに任せなさい」
「……めずらしいね?」
「おや。わしのカフェ・ラッテを独り占めしたかったか? 月子はいつまで経ってもかわいい孫よな」
 にこにこ笑う月久に「珈琲から淹れてくれていいんですよ?」と月子がちょっとだけ棘を生やした声でいう。しかし「パス」と端的に答える老爺が相手では、為す術がないらしい。月子は大人しく電動ミルに珈琲豆を追加した。静かな稼働音とともに豆が挽かれていく。
「サービスって何をするんですか?」
 おごる、という意味以上に見えるやりとりに問いかける。月久が得意気な顔で笑った。月子もたまに浮かべる、誇らし気で茶目っ気のある表情だ。
「おいしくなる魔法をかけるんだよ」
 月子に視線を向ければ、ちょっと苦笑していた。魔法ではないだろうけれど、否定しないということは美味しくはなるらしい。
「それと迅くん、敬語でなくとも構わんよ。月子に対してと同じ喋り方をしておくれ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「うんうん、それがいい」
 笑うと目尻の皺が深くなる。生きてきた年月をそのまま滲ませるような、濃くやわらかな笑みだ。穏やかな雰囲気と人好きするところといい、月子によく似ている。いや、月子が彼によく似ている、が正しいけれど、迅が最初に会ったのは月子だから仕方ない。
「仲良くなるの早いですね」
「月子さんの尊敬してる人って知ってるから」
「おまえ、そんなにわしのことを言いふらしているのかい?」
「言いふらしてるわけじゃ……ない、と思う」
 少し照れたような月子は、電動ミルで細かく細かく、さらさらになるまで挽いた珈琲豆を機械に充填している。「エスプレッソマシンだよ」と隣で月久が教えてくれた。
「エスプレッソは手動でも淹れることはできるが、わしとしては機械の方が断然うまいと感じる。つまり、なんでも手ずからやればいいわけではないのだな」
「月子さんがよくドリップで淹れてるのは何で?」
「ドリップだと豆の味が素直にわかる、というのもありますが、お湯を吸ってふくらむ珈琲豆を見るのが好きなんです」
「変わった子だろう?」
 月久の茶々入れに月子は立つ瀬がない様子だった。ちょっと拗ねたような顔を見て苦笑する。――こういう月子を見るのは新鮮で、だから読み逃したのも悪くないなんて思った。
「でもおれはそういう月子さんが好きだよ」
「ありがとう、迅くん」
 さすがに肉親の前で言われる『好き』にはその程度の反応か。心のなかで溜息をつきつつも、このことはサイドエフェクトを使わずとも分かっていたので、どういたしましてとだけ笑いかける。
「その子の扱いにも慣れたかい?」
「いつの話をしてるんですか」
 その子、というのはエスプレッソマシンのことらしい。ステンレス製の銀のマシンはシンプルに見えるが、扱いは楽ではない、そう月久は語る。
 珈琲豆を敷き詰め、月子の指先がその表面をならす。半球型のフィルターに偏りが出ないように、優しく。それから先端が半円形の器具をあてがい、粉を均等に押し固める。器具を外せば、平坦にならされて、どこか艶めいた粉があった。
 カップを三つ取り出し、お湯であたためる。ステンレス製のミルクピッチャーに冷たいミルクを注いで、エスプレッソマシンを操作する。本体から伸びたノズルから霧のようなものが出た。
「迅くん、カフェオレとカフェラテとカプチーノの違いは知っているかな?」
「カフェオレとカフェラテなら、前に月子さんに。コーヒーが普通のかエスプレッソのかって教えてもらったけど」
「そのとおり。カフェラテとカプチーノもエスプレッソを使うが、入れるミルクの種類が違う。カフェラテがスチームミルク、カプチーノがスチームミルクとフォームミルク、といった感じでな」
「今からつくるのがスチームミルク?」
「うむ。スチームミルクは泡とミルクが混ざったもの、フォームミルクが泡とミルクが離れたもの、だ」
「おじいちゃんがいると私が喋る隙がない……」
「悪いのう。若者と喋りたいお年頃ゆえに」
 微妙な顔をした月子だが、溜息ひとつにすべてを込めて何も言わなかった。
 けれど迅は知っている。月久が入ってきてから、月子の顔はずっと明るい。隠しきれない笑みが時々漏れている。
 霧が出てきたノズルをミルクの中に沈める。あまり深すぎてはいけない。なるべく表面のすぐ下。けれど飛び出ないように。スイッチを入れる。ミルクピッチャーの中でミルクが回転する。独特の音、熱を持ち始める。ぐるぐると横に渦を描くミルクどことなく幻想的だ。慌ててはいけないけれど、やりすぎてもいけない。手に伝わる温度と、音。ふたつを道しるべに頃合いを見計らう。
 スイッチを切る。ミルクのかさは少し増えたように見える。ピッチャーの底を軽く机で叩いて、上の方の大きな泡を散らす。それから、コーヒーカップのお湯を捨てて、エスプレッソマシンにセットする。抽出だ。機械がやってくれるとはいえ手は抜けない。
「エスプレッソは一杯三〇ミリリットルが一般的でな。量は少ないが、味が濃いから、それだけでも十分に珈琲を味わうことができる。ちなみにイタリアではほとんどブラックでは飲まん。彼らにとってエスプレッソとは砂糖をたっぷり入れるものなんだ。カフェ・ラッテもミルクたっぷりだしの」
 エスプレッソの抽出口を見つめる月子を眺めながら、月久の説明に耳を傾ける。抽出口からはぽたぽたと濃褐色の液体が落ちてきた。しばらくすればキャラメルのような色合いになり、カップの中には泡立ったような珈琲が波打つ。
「このエスプレッソの泡をクレマ、という。カフェ・ラッテの茶色い部分の泡は、ミルクの泡ではなくエスプレッソの泡だ。誤解されやすい」
「――はい、おじいちゃん。あとはよろしく」
 エスプレッソが入ったカップと、スチームミルクが入ったピッチャーが月久の前に置かれた。月子は二杯目の準備に取り掛かる。
「さて、では魔法をかけようか」
 ぱちり、と月久が指を鳴らす。別にそれで何が変わるということはなく、彼は笑いながら両方の手にそれぞれカップを持つ。
「おまえさんにはこれがよかろうて」
 右手でピッチャーを持ち上げ、カップの中心に向かって注いでいく。案外勢いがいい。半分ほど注いだら、ペースをゆっくりに。ピッチャーの角度も変わる。やわらかい色合いのミルクコーヒー色の中に生まれる、乳白色。ピッチャーを押し出すようにゆっくりと線を描けば、そこにはハートが浮かび上がった。
「ラテアート……ってやつ?」
「おいしくなる魔法、だ」
「なるほど」
 茶目っ気たっぷりな笑み。けれど、その茶目っ気は嫌いじゃない。むしろ好きな部類だと思った。そう感じるのは、祖父、という存在にあまり親しみがないのも理由の一つかもしれない。自分にこんな祖父がいたら楽しいだろうなと思ってしまうのだ。
「おじいちゃん、得意なの。私は苦手」
「月子なら練習すればすぐできるわい」
 ほら、飲みなさい、と迅の前にカップが置かれる。膨らんだハート。すごいことにはすごいのだが、それの贈り主が月子ではなく月久なのは少し残念だった。
「はい、次」
「これはわしのにしよう」
 追加で現れたエスプレッソとスチームミルクで次は何を作るのかと見つめれば、ピッチャーが小刻みで動いて左右対称な白い筋が生まれる。
「オジギソウみたい」
「リーフという模様だな。このように注ぎ方だけで作る手法をフリーポアという」
 講釈してくれる月久の顔は、やっぱりその得意げな様子が月子に似ている。まだ見ぬ月子の父親も同じ表情をするのだろうかと何となく思った。
「オジギソウ、懐かしいですね。さわったら閉じていく葉が楽しかった思い出があります」
「うむ。小学生のころ、月子が枯らした植物だな」
「……ごめんなさい」
 迅くんの前で言わなくても、とその口がもにょもにょと動いた。ハッとする。幼い頃の月子の様子を訊くチャンスなのだと、迅はようやく気付いた。ただ本人の様子を見る限り、直接訊くと止められる。慎重にいく必要がある。
「さて、おまえの分も作ろう。孫だけの特別サービス、爪楊枝も貸しておくれ」
「何を描いてくれるの?」
「リリエンタールを覚えているかい?」
「うん、喋って動く犬のぬいぐるみ」
「アニメの?」
「そうかそうか、確か今はアニメ展開もしてるんだったな。まぁ、それよ」
 月子からエスプレッソとスチームミルク、それから爪楊枝を受け取って、まずはハートをつくったときのように注ぎ方で輪郭を作る。それから爪楊枝で白い部分を刺して、穴をあけるようにし、そこにエスプレッソを滲ませて点と線を描く。
 慣れた手つきで月久が描きあげたのは『リリエンタール』という名前の犬のキャラクターだ。玉狛支部のお子様、陽太郎が見ているテレビ番組に出てくるので迅も知ってる。ブサカワ系の犬がカップの中で笑っていた。
「懐かしいなぁ」
「片付いたらこっちでお飲み」
「うん、ありがとう」
「さ、迅くんも泡が潰れないうちに飲みなさい」
 勧められるままカップを持ち上げる。崩してしまうのは少しもったいないけれど、『おいしくなる魔法』をかけてもらったのだから飲まなければ損だろう。
 苦みのあるエスプレッソをあたたかいミルクの甘みがほんのりと包んでいる。カフェ・ユーリカのカフェ・ラッテを飲むのは初めてではないけれど、いつもよりもおいしく感じるのを気のせいというのは情緒がない気がする。
「……おいしい」
「月子は『魔法だ!』とそれはそれははしゃいでくれたよ」
「小学生に向かって魔法って言ったら信じるものなの」
「純粋な子どもだったのぉ」
 エスプレッソマシンの片付けを終えたらしい月子がカウンターから出てきて迅の隣に座る。月久がそっちの方にリリエンタールのカフェ・ラッテを置いたせいだとは分かっているけれど、ちょっとだけ、どきりとした。
「……ああ、月子。飲み終わったらでいいんだが、パントリーの冷蔵庫からチョコレートを持ってきておくれ。ウィーンのショコラティエの一品、せっかくだし迅くんにプレゼントしよう」
「いや、お気遣いなく」
「もらってくれるとうれしいです、迅くん。おじいちゃん、量を考えずにお土産を買ってくるので」
 もてなし好きは遺伝なのだろうか。二人に挟まれながら考える。月子は「いつもいつも、みなさんに配るのも一苦労なんですよ」と言って、月久は「みながよろこんでくれておるなら、よいの」としれっと答える。両脇の二人は、迅を会話に交えつつも祖父と孫のやり取りを続けていて、家族の前の月子はなんとなく微笑ましかった。

「茨の道を行くよのう、月子に惚れるなぞ」
「ん、⁉」
 月子がパントリーにチョコレートを取りに行ったタイミングで月久が爆弾を落とした。
 ごほっ、とむせる経験はつい最近もした気がして、このじじ孫……! とちょっとだけ悔しくなる。
「そ、そんなに分かりやすかったですか」
 思わず敬語になったけれど、月久に気にする様子はない。ニマニマと笑う様は月子というよりも、どこか唐沢に似ている。迅のやりにくい相手を混ぜた相手がやりにくくないはずがなかった。
「一目で分かったわ。じいさんをあまり舐めるでないぞ」
「っ……一目って、いつから」
「入店する前からかのう」
「いやそれは嘘でしょ」
「ほんとよ、ほんと」
 月子にはあまりにも伝わらないので、ちょっと大胆に動いてきた自覚はある。月久の前で『好きだ』とも言った。かといって、入店する前にちらりと見るだけで分かるものなのか。
 だが本当に、目の前の老紳士は迅の胸中もお見通しらしい。彼が月子の祖父であって父親ではないだけ、ましなのかもしれない。
「そんなうら若き青年にわしからひとつだけアドバイスしよう」
「……何ですか」
「裏口には鉢植えが三つあるがな、その真ん中の鉢植えの下に合鍵がある」
「それ教えていいやつ⁉ ほんとに⁉」
「サービス、サービス」
「くっ……」
 ほっほっほ、芝居がかった笑い方が内面を読めなくする。ラテアートに浮かべたハートもそういうことだった、らしい。けれど仮にも祖父が、どこの馬の骨とも分からない男に合鍵の場所なんて教えていいのだろうか。それも下心のある。
「これでも大事なお孫さんに言い寄ってるんだけど」
「あの子は男っ気が――というか、他人と距離をとりがちでな。これくらいで丁度いい」
 東や唐沢、それから常連客たちの姿を思い浮かべて、いやそんなことはないのでは、と言葉が喉を突いて出そうになる。けれど同時に、月久の言葉も間違いではないのだろうな、と思った。月子が誰にも恋愛感情を向けていないのはそうだし、常連客にしても、客と店主の垣根を無闇に取り払うようなことはしない。
「そして迅くんには、わしが案ずるような暴力性はないと見た」
「……信用するの早すぎない?」
「人を見る目はあるつもりだよ」
 月久の真っ黒い瞳が迅を見つめている。星が散る夜のように深く穏やかな、月子とは似ていない瞳。いつだったか、飴色の髪と蒼みがかった瞳は祖母譲りだと言っていた。月久の瞳は、色を抜きにしても月子のそれよりも数段暗く、だからこそ光を映して煌めき、目が離せない魅力がある。
「それに、茨の道をゆく青年への手向けぐらいなくてはな」
「……祖父自ら言っちゃうくらいなんだ」
「まぁ……あの子も、色々、あるからの」
 もしかして唐沢からの励ましの言葉は、そういうことだったのだろうか。いや、月子が恋愛事に鈍いことは知っていたけど。それにも何か、事情があるらしい。
 寂しげに沈んだ横顔に迅が何かを言う前に、月久は表情を戻してカフェ・ラッテを飲み干す。残ったカップには一回り小さくなったリーフ。彼はラテアートを崩さず飲めるらしい。対して迅のハートはすっかり萎んでいた。
「命短し恋せよ人よ、ということで、まあ、頼んだ」
「頼んだ、って」
「迅くんが月子に振られればそれはそれで一興」
「それが本音でしょ」
 くっくっく、悪役じみて喉で笑う、その笑い方が月久の本来の笑い方なのかもしれない。いい性格をしている。やりにくい相手には違いないが、そのやりにくさが何だか楽しいのは月子と同じだ。
 かちゃり、と扉が開いた。月子がひょっこり顔を覗かせる。
「おじいちゃん、チョコレートなんてないけど、どこ?」
「ちょっと分かりにくかったか。わしが探して来よう」
「ありがとう」
 月久と入れ違いに月子が戻ってきて、迅にごめんねと微笑みかける。
「時間、とらせてしまって」
「いいよ。月久さんに会えるってレアなんでしょ、唐沢さんに自慢しておく」
 きらんっ、と瞳を輝かせて言えば、月子はくすくすと笑った。
「おじいちゃんは身内なのでセーフにします」
「セーフって?」
「ジンクスです。お客さんがいないときに迅くんが来て、迅くんがいるときはお客さんが来ない」
「……それさ、やっぱり月子さん的には嫌なジンクスじゃないの?」
「どうしてですか? 迅くんと話すの、好きって言ったでしょう?」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
 扉の向こうで月久が笑っている気がする。
「でも、タイミングばっちりだったからびっくりしました。ああいうのフラグ回収って言うんでしょう」
 月子が言っているのは、迅が祖父のことを口にした途端に月久がやってきたことだろう。迅は回収されると分かってからフラグを立てたので、多少ずるいけれど、楽しそうな月子を見ているとまあいいやと思えてくる。
「……月子さんもラテアートやればいいのに」
「あれ、簡単そうに見えて意外と難しいんですよ。スチームミルクをつくるのだって、最初は失敗してたぐらいですし」
「そうなんだ」
「あと、一人だとそんなに練習できないので……いくら好きでも何杯も飲めませんから」
 ひとり、と心のなかでその言葉を繰り返す。月子だってとっくに成人した大人の女性なのだから、その言葉にさして感慨は抱いていないのかもしれないけれど。祖父とふたりで話す彼女は楽しそうで……ほんとうは、ひとりはすこし、さみしいのではないかと、思った。
「付き合おうか? 練習」
「そんなわけには……」
「気に入ったからさ。というか、おれが月子さんのラテアート見たいだけ……ダメ?」
「ダメ、ではないですけれど……いいんですか?」
「もちろん」
 ――もう開き直ってしまえ。扉一枚向こうに月久がいるのは分かっているけれど、変に遠慮などしない。もうばれていて、しかも応援のようなことまでされている。いや、さすがに合鍵を使うつもりはないけど。
「それでは今度、お願いします」
「任せて。何からやる?」
「簡単なのはハートですかね」
「じゃあ、それで」
 なんでもないように言うけれど、心臓は跳ねるように浮き足立っている。単純な自分を自覚して、呆れと一緒に笑みがこぼれた。何が嬉しいのかといえば、きっと月子との約束が増えていくのが嬉しいのだ。
 少しでも多く、彼女とそういうものをつくりたい。そう思う迅を知れば、月子は自分をどのように思うのだろう。少しだけ恐くて、訊けはしなかった。

   *

「……月久さんって何してる、ていうかしてた人なの?」
 目の前に積まれた各国の土産物を前に、迅が引き気味に訊ねる。あれもこれもと月久が置いて行ったが、その本人は夕飯の準備をすると言って二階に上がっていってしまった。ニヤニヤとしていたので、今日の献立は月子をあっと驚かせるものなのかもしれない。月久は人を驚かせるのが――何か新しい発見をさせるのが、好きだから。
「若い時分は海外を飛び回っていたと訊いていますよ。たぶん、貿易関係の仕事です。同じ仕事の父も唐沢さんも海外を飛び回っていますし」
「唐沢さんと、同じ仕事?」
「はい」
「それって……」
「……?」
 何か言いづらそうな顔をしている迅だが、月子が首を傾げれば「なんでもない、思い過ごし」と首を横に振る。
「今は仕事に復帰した、わけじゃないよね?」
「若い頃お世話になった方々に会いに行ってるんですよ。だから、世界中を飛び回ってるみたいです」
「なるほど……」
「はい。あ、お土産、いらないものは置いていっていいですからね」
「いや、こういうの好きなやついるから、迷惑じゃなければ貰ってくつもりだったけど」
「では、ぜひ。このプラリネ、イタリア限定なんですよ。美味しいです」
「ふむふむ」
 月久が買ってきたお土産は、かつて彼の同僚がカフェ・ユーリカを訪れる際に持ってきた土産を踏襲している。それも、月子が気に入っていたものばかり、だ。明言していないものまで含まれている観察眼に驚くが、いかんせん量が多い。迅に持ち帰ってもらえるのは月子としても嬉しいことだ。
 お土産をひとつひとつ解説すれば、迅もこれはどんなのと訊いてきてくれて、二人で宝の山を前にしているようだった。


close
横書き 縦書き