レモンメレンゲタルト

 新雪が積もったように真っ白いメレンゲが広がっている。でこぼこがあるので雪原のようとまではいかないけれど。一番近いのは雪が積もった枯山水、だろうか。
 今朝、熱いシロップと一緒にていねいに泡立てたおかげで肌理が細かく、しっかり自立しながらもふんわりと優しいくちどけのメレンゲに仕上がった。その表面にガスバーナーの青い炎を近付ける。
「溶けないのかしら?」
 歌うような声に問いかけられ、月子は微笑んで答える。
「砂糖も入っていますが、元は卵ですから」
 青い炎がメレンゲを撫でる。あまい匂いが立ち込めて、すうっと焦げ目が浮かび上がる。ぎざぎざの口金でメレンゲをしぼり出したのは、この焦げ目を綺麗に浮かび上がらせるためだ。
「マシュマロみたいないい香りですね」
「このイタリアンメレンゲにゼラチンを加えたものがマシュマロなんですよ」
「へぇ、そうなの。マシュマロってしばらく食べてないわ」
「単体だとあまり食べないですよね」
 女性が三人寄れば姦しいとは言うけれど、この二人のお客さんに限ってはそういうことにもならない。月子はやわらかい声を聴きながら微笑んだ。
 かちり、とガスバーナーのスイッチを切る。先に八等分に切り分けていたので、あとはお皿に乗せて、彩りのミントを飾って出すだけだ。
「あ、でもバーベキューのときとか、串に刺して炙ったりすると訊きます」
「あるわね。今度東さんを誘って行くのも有りだわ」
「東さんに主催を任せて、の間違いでしょう?」
「大丈夫よ、東さんそういうの好きだもの。――もちろん月子さんも来るでしょ?」
 月子は苦笑で応える。常連客と友人の垣根が曖昧な同い年の東、それからもうひとりの友人である沢村響子とは食事や飲みに出かけるが、バーベキューはまた別な気がする。
「東くんが主催だとファンの子が集まって、私なんてお邪魔になっちゃいますよ」
「……否定できないわね」
「でも皆、気にしないと思いますよ。自由ですから」
「確かに、言えてるわ」
 ボーダーの人々が集まるバーベキューはどんな様相なのだろう。知っている人を脳内に登場させてみるけれど、城戸や唐沢も来るものなのだろうか。来ないかもしれない。慰安会とかはあるのかな、とふと考えた。城戸が乾杯の音頭をとってる姿は想像できない。
 バーベキューともなれば、集まるのはやはり食べ盛りの、高校生ぐらいの男の子たちだろうか。話には訊くが、来店されたことはないので完全に想像だ。それでも何となく東を慕いながらも振り回す様が目に浮かぶ。
「――さて、お待たせしました。〝本日のケーキ〟――レモンメレンゲタルトです」
 会話を楽しむ間も準備はしていた。ふちに色とりどりの花が描かれたお皿にタルトを乗せて、カウンターに座っている二人の前に出す。
 加古望と月見蓮、これまた東に紹介されて通うようになった、カフェ・ユーリカの常連だ。タイプの違う美女二人が並ぶ光景は眼福ものである。
 彼女たちのお目当ては、定休日明けの火曜日と金曜日だけに出している数量限定の〝本日のケーキ〟だ。本音を言えば営業日は毎日出したいのだけれど、前店主の祖父ならいざ知らず、月子にはまだ無理だった。それでも、最初は月一でやっていたのが週二になったので、成長はしている。
「レモン! いいわね、夏らしくて」
「苦手じゃないですか?」
「平気ですよ」
 加古は『どんなケーキなのかも楽しみの一つだから』と言って、注文の前にケーキの種類を訊かない。苦手な食材を使わないとも限らないので、ちょっとだけひやひやする。
「メレンゲとタルトの間の黄色い層がレモンカード――食感や作り方はカスタードクリームに近いものですね。砂糖を控えめに、きりっとした酸味を持たせてます。それだけだと酸っぱいですが、メレンゲの層を厚めにしたので食べやすいと思いますよ」
 ケーキの説明をして、反応を窺う。
 銀のフォークは躊躇わず、三角形の頂点にすっ、と刺さる。ふにゃりとした雲のようなメレンゲの層、やわらかく仕上げたレモンカードの層を通って、さっくりとしたタルト生地にあたる。ざくり、と景気のいい音がして切り離される。
 切り取られた小さな三角形が持ち上げられた。銀のフォークがくちびるにふれるその一瞬すら目の前の二人は美しいのだから、それを見つめることができる月子は幸せ者である。
 ひとくち放り込んだ加古が「んー……!」と悶絶したような声をあげて笑む。頬を手に添える姿は恥じらっているようにも見えるけれど、にまにまと緩みつつも閉じたままのくちびると、もぐもぐ動く頬を見るに味わってもらえているらしい。
 対して月見のほうは「あら、おいしい」と清らかに微笑む。きらきらと、ちょっと驚いたように見開かれた瞳は、今は綺麗というよりはかわいいという言葉が似合うだろう。
「……いかがですか?」
「おいしいわ。レモンがさっぱりしてていい感じ。メレンゲの甘さもあって食べやすいし」
「ええ、とても。でも、もう少しレモンが強くてもいいですね。ちょっとだけ、甘さが後を引いている気もします」
「そう? 私はこのくらいでもいいと思うけど……でも、そうね、せっかくだからもっと甘酸っぱさがあってもいいかもしれないわ」
 月子は用意していたメモに二人の言葉を書き込む。祖父母のレシピを元にしているが、月子の技術不足で再現しきれないところや、食べる側の嗜好の変化もある。だったら、新しく補完していこうと思っているのだ。加古と月見の二人ははっきりと告げてくれるので参考になる。
「なるほど……いっそレモンソースを添えるのもよさそうですね」
「あら、いいわね。ソースだと量も調節できるし」
「別添えだとうれしいですね」
「助かります。自分ひとりだとよくわからなくて」
 月子さんでもできないことがあるのね、加古が呟いた。月子は苦笑をして、そりゃあありますよ、と応える。前店主の祖父に比べると月子はまだまだだ。
「月子さんって何でも一人でこなしちゃうんだと思っていたわ」
「そんなことは……」
「アルバイトの一人も雇わないのに?」
 うっ、と痛いところを突かれて呻く。祖父の分まで仕事ができないのなら人を多く雇えばいいのだが、カフェ・ユーリカには月子以外の従業員はいない。
「東さんが心配してたわよ、『仰木は一人で頑張りすぎる』って」
「……いろんな方から遠回しに言われました」
「モテモテね」
「人を雇ったほうがいいのはわかっているのですが……」
 理由は色々あるのだけれど、一番は月子が自分でやりたいと思うからだ。一人でも、自分の力でやりたいと。頑張りすぎるとは言われるものの、月子としては店のために頑張るのは当然のことだ。だって祖父から店を受け継いだのは、他の誰でもなく月子なのだから。
 心配をかけているのは申し訳ないが、それでも微笑んで「ご心配ありがとうございます」とぺこりと頭を下げる。
「月子さんったら意外と強情」
「でも、一人で何かをするのは学生時代からそうでしたよね」
「あれ……私のこと、ご存知でしたか? 一年しか重なっていないのに」
「はい。何となく、言いそびれてしまって……お店のことも当時は知らなかったので」
 静かに微笑む月見の姿に学生時代を思い出す。中高一貫の女子校――俗にお嬢様学校と呼ばれる星輪女学院。知り合いが一人もいない状態で入学した月子は、そこまで交友関係を広げることもできず、どちらかといえば目立たない生徒だったと思う。部活にも入っていなかった自分を、どうして月見が知っているのだろう。
 疑問のままに訊ねると、「月子さんに憧れを抱いている後輩はいましたよ。私の他にも、何人か」と返ってくる。憧れ。それこそわからない。女子校で憧れを向けられるのは、月見のようなお嬢様タイプか、加古のようなお姉様タイプ、そして友人である沢村響子のようなキリッとした男前タイプだ。
「学生時代の月子さんってどんな人だったの?」
「別に普通ですよ。我ながら友達も少なくて、目立たないタイプでした」
 教室の片隅や、図書館の本棚の影。自分のことは、そういう場所でひっそりと静かに呼吸しているのが似合うタイプだと思っている。あまり騒がしい世界は好きではない。
 以前二宮に言ったように、月子はとても狭い世界で生きてきて、それに甘んじている。息苦しさを感じないのは、カフェ・ユーリカを通して外の世界にふれているおかげだけれど。
「で、実際はどうなの? 月見ちゃん」
「目立たない、というよりは静かな……静謐さ、のような雰囲気でした。協調性はあるけれど、何から何まで他人に合わせて行動しないところが密かに人気でしたよ」
 静かというのは、単純に元から騒がしい性格ではなかっただけだと思う。他の人とずっと一緒にいないのはただそれにあまり意味を見出さなかっただけだし、放課後は祖父の手伝いをしたかったのもある。
 それに月子が一人でいたのは、それで平気だったのは――裏を返せばそうできる冷淡さがあったということだ。一緒に、という言葉を退けさせる空気の読めなさというか、そういう空気に対する冷たさが。
 月子は曖昧に微笑む。月見から慕われていたというのは嬉しいが、それが自分の欠点でもあるということは知っていて、だから、少し気まずい。罪悪感にも似ている。
「……でも、そんな私のことを、嫌いな人もいたかもしれませんね」
「言わせておけばいいのよ。良さがわからない人なんてね」
 加古の強気な言葉にぱちくりと目をしばたかせる。別に、人に嫌われることに対して思うことはそうない――そういう冷たさを月子は持っているけれど、かといって加古ほど強くあれるわけでもない。自信にあふれた姿を見て、なんだか笑みがこぼれた。
「そうかもしれません」
 このくらい強くありたいと思う。そういうことが言える加古にこそ月子は憧れるのだけれど、世の中は不思議だ。
「でも、お嬢様学校って大変そうよねぇ。確か小南ちゃんも通ってるって聞いたけど」
「ええ。彼女も学校の中では色々と大変そうですよ」
 その大変さを月子があまり覚えていないのも、一人でいたからだろうか。苦い思いをそっと胸の内に封じ込めつつ、二人の手元のタルトを見る。話をしていたせいかまだほとんど手がつけられていない。
 ゆっくり食べて下さい、と二人で会話をするように促して、月子は食後のドリンクの準備に取りかかることにする。月見はロイヤルミルクティー、加古はチャイティーがお気に入りだ。どちらも鍋を使うので、小さめの雪平鍋をふたつ、コンロに置き、中に水、チャイにはスパイスも加えていく。
「――ねぇ、月子さん」
「はい?」
「バーベキューは無理かもしれないけれど、食事には行きましょうね。東さんばっかりずるいわ」
「私もぜひ」
「ええ、よろこんで」
 加古と月見は不思議と月子に懐いてくれている。まさか食事に誘ってくれるほどとは思っていなかったけれど、彼女たちと美味しいご飯を食べるのもきっと楽しいだろう。青春時代はほとんど甘酸っぱさがない日々だったけれど、カフェ・ユーリカでの日々はこういうことがあるから嬉しくて、頑張ることも楽しい。月子は微笑んで頷いた。

   *

 ふんわりと泡立っていく卵白を見つめる。
 月子は右手でハンドミキサーを扱いながら、左手で小鍋を持って熱いシロップを注いでいく。細く、長く、少しずつ。糸のように。卵白がもこもこと泡立ち、白く艶めく。砂糖は卵白の泡立ちを安定させる作用があるが、泡立つ前に加えるとふくらみを殺してしまうので、タイミングと加減が大切だ。こうして、普通の砂糖ではなく熱いシロップで泡立てることでさらに安定したメレンゲになる。そうして出来上がるのがイタリアンメレンゲだ。
 普段なら休みのうちにすべて仕上げているけれど、早朝、まだ店が開く前にやっているのは風味を落とさないためだった。人のさわめきも音楽もない静かな空間に、ハンドミキサーの電動音がかすかに響く。
 ――コン、
 自分からでない音が聴こえた。固いものを軽く叩く音。出どころを探せば、道に面した窓に人影があった。
 あ、と声を漏らす。向こうも月子が気付いたことに気付いたらしい。ひらり、とガラス越しに手を振るのは迅だ。まだまだ夏盛りだというのに、青い長袖を羽織っている。迅がゆっくりと口を動かして、それから微笑む。
(……お、は、よ、う……?)
 ちょうどシロップを注ぎ終わったところなので、一度ハンドミキサーを止めて入り口の方へ向かう。迅は月子が出てくるのを止めたいのか、『いいって』と手のひらを向けていたが、月子の動きは止まらない。
 内鍵をかちゃりと回して、扉を開いた。
 ――からんっ、とドアベルが鳴る。早朝にも関わらずすでにじっとりと熱されていた空気が店に入り込んだ。陽の光はひたすらに眩く、くらりとした視界は目を細めてやり過ごす。
「――おはようございます、迅くん」
「おはよう……別に出て来なくてもよかったのに」
「私が挨拶をしたかっただけなので。今日はずいぶんと早いんですね」
「昨日、休みで月子さんに会えなかったからね」
 カフェ・ユーリカはボーダーの本部に近い。たまたま通りがかっただけだろうに、まるで口説かれているようだと思った。月子よりも六歳も年下なのに、そういうところは子どもらしくなくて時々どきりとする。
「それは、どうも。よろしければ、何か飲んでいきますか?」
「おかまいなく。ちょっと顔を見たかっただけだし。――今日も楽しそうで、よかった」
 ふっ、と微笑んだ迅の言葉に、そんなに楽しそうにメレンゲを泡立てていただろうかと首を傾げる。迅は何も答えてくれなかった。彼が浮かべる穏やかな笑みはたまに妙に大人びていて――どこか、さみしい。
「迅くんのおかげですよ」
「そうなんだ?」
「はい。迅くんに朝から会えてうれしいですから」
 気がつけばそう言っていた。なんだか恥ずかしいことを言ってしまった気がするけれど、自分で言ったことに照れてしまっては月子の負けだ。
「そう……毎日でも会いたいくらいです」
 いっそいつもの仕返し――口説き返しにしてしまえ、と言葉を重ねてみる。反応を期待して緩む口元をそのままに、月子は目の前の迅を見つめた。
 けれど、やはり手強い。そう簡単に口説かれてはくれなさそうだ。
 迅はへらりと笑って「おれも」とあっさり答える。少しだけつまらない。そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか、「拗ねないでよ」と笑われた。
「拗ねていません」
「ほんとに?」
「……唐沢さんに話術を習うことにします」
「うわ、それは手強いからやめてほしい……」
 どことなく顔を青くして言う、その顔が年相応なのを見て、クスクスと笑う。迅はうむー、と渋い顔をしたが、細くなった瞳がひなたぼっこをしている猫のようにも見えて、笑いを止めるほどではない。
「笑い過ぎじゃない?」
「つい……拗ねないでくださいね?」
「……月子さんに言われると弱いんだよなあ……」
「ごめんね。……あ、時間は大丈夫?」
「あー、そろそろ行かないとやばいかも」
「引き止めてしまってごめんなさい」
 つい楽しくなっちゃって。眉を下げて申し訳なさそうな顔をしつつも、どこかいたずらっぽく付け足す月子に、迅は笑みを深める。
 ほんとうに、迅は月子に弱いのだ。それはもうじゃんけんの相性みたいなもので、いわゆる惚れた弱み、というやつなのだと迅は自覚していた。今のところ、月子がそれに気付く様子はないけれど。
「今日も一日、頑張って下さいね――いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
 迅が、にへり、と笑う。そういうふうに笑うときの迅は、なんだかいつにも増してかわいい。遠ざかる背中を見送りながら、迅くんに元気をもらったなと笑みをこぼした。


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