まかないパスタ

 せっかちな猛暑が梅雨を前に到来していた。背にたらりと汗が伝い、シャツがぺたりと張り付く。生身の感触は何もかもがままならなくて、ひどく煩わしい。迅悠一は溜息をつきながら、腰のホルダーに差したトリガーを指先で撫でた。
 『風刃』と名付けられたそれは片時も離れることなく迅とともにあり、それを起動してしまえば、ひとまずこの暑さから逃れることができる。
(……やらないけど)
 暑いから、なんて理由でトリオン体に換装するのは流石にお叱りを受けるだろう。太刀川さんあたりはやってそうだけど、と思いつつ。ボーダーの上層部に怒られるのは別に構わないくせに、それでも怒られることを避けようとしている自分に気付いて苦笑する。
 迅が怒られたくないなと思うのは、ただ一人だ。
 ――最上宗一。
 いや、やっぱり、彼になら……怒られたいかもしれない。腰に差しているものはもうただのトリガーなのに。黒トリガーという特別はあっても、それは、それだけの。
 そう、思わないと。
(だる……)
 灼熱の太陽がアスファルトを焦がしている。立ち上った陽炎がゆらゆらと漂う。湿り気を含んだ風が微かに流れる。どこかの家から子どもの笑い声がした。
 民家の庭に植えられた背の高い木、その影に入って、塀に背を預ける。くらりと視界がゆれて、思わず顔を伏せた。ゆがむ世界をぼんやり見つめる。ぽたり、と額から顎へと伝っていた汗が地面に小さな染みをつくる。
 ああ、そういえば何も食べてないし水も飲んでいない。食べとけって言われてたのに。
 ぽたぽたと落ちていく汗を見つめながら、迅は玉狛の――河川の真ん中に建つ、思い出深い『家』にいる面々を思い浮かべる。
 世話好きの木崎とお人好しの小南、まだまだ幼い陽太郎と、食えない林藤。案外しっかり者のクローニンに、影のボスかもしれない林藤ゆり。迅のサイドエフェクトが言うにはそのうち人が増えるらしいが、ひとまず今、玉狛にいるのは彼らだけだ。
 彼らだけに、なった。三年前のことだった。

 三年前に新しく立ち上がったボーダーは、過渡期を迎えた。広報部隊の甲斐もあってか、防衛隊員として入隊する学生も就職する職員も増加傾向だ。近界民と戦うためのトリガーは続々と開発、改良されている。色々なことが変わったと、思う。
 それでも迅のやることは昔から変わらない。
 見て、動いて、動かして――変える。
 十八年間、いや自覚してからだともう少し短いけれど、とにかく、ずっとやってきたことに変わりはない。
 おそらくそれは、高校を卒業しても続くのだろう。十八歳、高校三年生の初夏を迎えたというのに受験勉強には一切手をつけていない。進学するつもりはまったくなかった。卒業後はよりボーダーの、この街のために力を振るう日々が待っている。
 それを選んだのは迅だし、嫌と言うつもりは、ない。ない、けれど。
(…………あつい)
 はぁ、と息をつく。年々ひどくなる蒸し暑さは脳みそを茹でるようだ。それでも、止めいてた足を動かして、住宅街を進む。今日は特に予定がなかったが、街をぶらぶらと歩くのは趣味のような癖のような、とにかく日課だった。
 トリオン兵を閉じ込めている警戒区域も広げる必要がある、と迅のサイドエフェクトは囁いている。どこまで広げるべきか、そろそろ見極めなければならない。
 昼下がりの住宅街、それもこんな猛暑日に出歩いている人はそう多くなかった。日傘とベビーカーを手に歩く親子、元気よく駆けていく学校終わりの小学生たち。ひとつひとつがありふれた、なんでもない光景。
 ――その中でその人に目を留めたのは、ほんとうに、偶然だった。

「――ッ!」
 人目をはばからず駆け出した。巻き起こった風が汗でじっとりした肌を慰めるように冷やす。いや、本当に迅の体温を下げているのは、もっと、最悪な理由だ。
 目的地は飴色の髪が風になびく背中。遠目にも華奢と分かる、女性。ショルダーバッグを掛け、トートバッグを携えたその人の元まで、残り数秒。
 間に合うか?
 いや――――わずかに、足りない。
 ぐっと唇を噛んで、意を決して口を開く。すうっと息を吸い込んで、

「っすいません!」

「はい?」
 ふわりと飴色の髪が舞って、透き通るように白い肌が見えた。振り返ったその人の色付きレンズ越しの瞳が迅の姿を捉え、立ち止まる。
 ――確定。
「う、わっ⁉」
 眼鏡をかけた彼女のすぐ背後、住宅街の切れ目。信号のない交差点を、トラックが凄まじい速度で走り抜ける。歩道がないせいかトラックは道の端ぎりぎりを通っていたらしい。生じた風に背中を押されたのか、女性は驚きの声とともにぐらついた。
「……危ないなぁ」
 心臓のあたりを手のひらで押さえながら、思わず、といったふうに言葉をこぼす姿に、迅は胸を撫で下ろす。
 無意識に見てしまった未来を、迅は今、動かした。
 それは確定された未来ではなく、見た時点では三割といったところだった。だから、迅がいなければ死んでいたとまで言うつもりはない。けれど可能性のあった死を確実に避けるために、迅はなけなしの体力を振り絞って走り出し、大声をあげてまで引き止めたのだった。
「……大丈夫ですか? 汗、酷いですよ」
 心配そうに迅を見る彼女は、女性としては背が高い。迅は一七五センチ近い背丈だが、比べると一六五センチ前後といったところか。大人びた顔立ちと落ち着いた声音から年上らしいということだけは分かる。
「あー……、っだいじょぶ、です」
 急に走ったせいかぶわりと汗が噴き出しているのは自覚していた。生身でも体力はあるほうだが、この暑さの前では誤差だ。それにいよいよ脱水症状が出始めているのか、喉の奥がいやな感じに渇いている。唾を無理やり嚥下して、何とか体裁を整えた。
「そうですか……? あ、それで、何か御用でしょうか?」
「……お姉さん、お美しいですね」
「まさかのナンパ……⁉」
 はっはっはっと笑いながら誤摩化せば、目の前の女性は素直な反応を返してくれる。なんとなく小南を思い出したが、流石にそこまでたやすくはないようだ。不思議そうに迅を見ている。
 けれど、本当のことを言うつもりはなかった。迅のサイドエフェクト――未来視を知らない人に『あなたがトラックに轢かれる未来が見えたので止めました』と言っても信じてはもらえないだろう。
「……ちょっと、後ろ姿が知り合いに似てまして。見間違いでした、すみません」
「ああ、そうなんですね。びっくりしました」
 穏やかなひとなのだろうな、と思った。朗らかに笑う女性から、迅に対する不信感などは微塵も感じられない。優しげな色合いの髪や瞳もあってか、柔和な雰囲気がほわりと漂っている。この人が無事でよかった。ほっとして緊張が緩んだ、その瞬間。
 ――ぐぅううぅ……
「!」
「あ」
 きゅぅ、とお腹がしまる感覚と一緒に鳴り響いた音。腹ぺこを主張するその音を、見ず知らずの女性の前で奏でたことに恥ずかしくなって、そろっと目を逸らす。いまいち、決まらない。
「おなか、すいてるんですか?」
 無垢に問いかけられた。あんな盛大な音を聞かれてしまっては取り繕うのも無意味な気がして「みたいです」と頷く。
「よかったら、なにか召し上がりますか? 汗もすごいですし……うん、少し涼んでいってください。熱中症になる前に」
「え、いや、それは……」
「私の家、カフェをやっておりまして。今日は臨時休業だったんですが……お代は結構ですから、お試しだと思って」
 ぜひ。そう締めくくられた言葉に迅は迷う。ちょっと警戒心がなさすぎるのでは、と思ったものの、話しかけたのも迅のほうだし、それを注意するのは違う気がする。
 迅が悩んでいると――くぅ、という音が響いた。今度の音の出どころは迅ではない。見れば、目の前の女性が顔を赤くしている。
「……私も、おなか、すいてますし」
 尻窄みに言って、恥ずかしいのか視線がさまよう。年上だというのにその様子がなんだかとてもかわいくて、すっかり気が抜けた。
 女性の部屋にあがるならともかく、カフェをやっているというのなら普通に外食をするのと気分は変わらない。休みだというのに店を開けさせてしまうのは申し訳なく思ったが、事実としてお腹は空いて喉は渇いているし、なにより暑さで死にかけている。
「……じゃあ、お邪魔します」
「ぜひ! 店、ここから近いんです」
 にっこりと笑って、女性が歩き出す。軽やかな足取りを、その華奢な背を、思わずじっと眺めてしまった。女性は少し歩いたところで振り返り、手招きをする。迅は不思議な気持ちになりながらもその後を追う。心臓がうるさいのは走ったせいだろうか。気温はひとつも変わっていないはずなのに、何故だか熱かった。

 案内されたのは、白い壁と赤いうろこ屋根が印象的な建物だった。明治風建築とでもいうのか、クラシカルな雰囲気で、実際年季が入っている感じもするのだが、大切に手入れされているのもわかる。
 甘い匂いがふわりと漂ってきて、それは低木に咲く花の香りのようだった。白い壁に這う蔦の緑が力強くて眩しい。違う時代か国かに紛れ込んでしまったかのような外観は少しだけわくわくする。
 ステンドグラスがはめられた扉には『Close』の看板が下がっていた。迅をここまで連れてきた女性は鞄から鍵の束を取り出し、銀の鍵を慣れた手付きで鍵穴へ差し込む。
「どうぞ」
 からんっ、とドアベルが鳴った。その音と開かれた扉に促されるまま中へ入れば、珈琲の香りとひんやりとした空気が迅を出迎えた。
 向かって右側にキッチンと対面式のカウンター、左側にはテーブル席がいくつか。席同士の間隔が広々と取られていて、窮屈な感じはない。壁にかけられた絵画はどこか外国の街の風景のようだ。道に面した窓側の隅、直射日光の当たらない場所に小さなアップライトピアノが鎮座していた。
 街の喧騒は遠く、やわらかな静けさだけがある。学校の保健室とか、誰も来ない屋上だとか、そういう場所と似た気配。女性が纏う雰囲気と同じ、穏やかな空間だった。
「よろしければこちらの席に」
 入り口で店内を見渡していた迅を置いて、女性はカウンターの中へ入った。そこが彼女の定位置なのだろう。真白いてのひらがカウンターの一席を示す。大人しくそちらの方へ足を進めて、示された席に座った。
 女性が持っていたトートバッグの中身は食材だったらしい。卵や牛乳パックが顔を覗かせているのを見て、自分が持てばよかったと思った。女性が真鍮色の蛇口を捻って、グラスに水を注いで出してくれる。
「井戸水ですのでご安心を」
 三門市で地下水が飲めるとは知らなかった。氷がひとつだけ落とされたそれはほどよく冷えていて、喉の奥の方が潤う。なんとなく甘く感じて自分がどれだけ渇いていたか思い知らされた。一気に飲むのも行儀が悪い気がして、ちびちびと飲む。
 女性は眼鏡を外して、壁際に設られた棚の上に置いた。色の入ったレンズからしてサングラスだったのかもしれない。蒼みがかった黒い瞳が迅を見つめていた。眼鏡を外した顔は、すこし幼く見える。
「ちょうどお昼にパスタをつくろうと思っていたんです。まかない用にストックがあって。嫌いじゃないですか?」
「凝ったものじゃなくても、」
「いいんです。一人分も二人分もそう手間は変わりませんし。……それに、実は二人分の材料を買っちゃって。ナマモノなので早く食べたほうがよいですし」
 そんな言葉と一緒にトートバッグから出てきたのは、パック詰めされた鮭の切り身だ。赤いシールに白抜きの文字で大特価と書いてある。
「二人分?」
「昨日……というか今日の朝まで、祖父と二人で暮らしていたんです。それを忘れててうっかり二人分。あ、このお店も元々祖父のお店で。祖父が引退するというので私が受け継いだんですよ」
 明かされた事情に迅は目を瞬かせる。たしかに、店の外観と女性の年齢が釣り合わないとは思っていたけれど。さらに詳しく訊くと、さっきは旅行に出るという祖父を見送るために空港に行き、そのあとスーパーに寄って帰るところだったらしい。
 たまたま見てしまってよかった、と迅は思う。女性の祖父も、まさか自分の見送りに来た帰りに事故にあったとなればやりきれないだろう。
「さらにびっくりしてしまうかもしれないことを言ってもいいですか?」
「どうぞ」
「ここが私のお店になったのも、今日の朝なんです」
「……なんと」
 ますます事故に遭わなくてよかった、と表情を引きつらせれば、女性は何か誤解したのか慌てた様子で言い繕う。
「あ、半年くらいかけて引き継ぎはしてもらっていたんですよ、従業員の一人として。なのでちゃんと、あの、大丈夫ですから。……それで、ちょっと前に私が店主になってもいいって許可をもらって……交代の日が決まったら祖父はさっさと旅行の予定を組んで、あっという間に飛行機のチケットを手配していました……」
「……アクティブなおじいさんですね」
「私もそう思います。……昨日は祖父が最後のマスターを満喫する日で、今日は臨時休業。だから、私、店主として接客するのは貴方が初めてなんです」
 だから、少し緊張します。そう続けた女性に、もしかしたら自分を誘ったのも『お試し』みたいなものだったのかもしれないと思う。祖父だという前店主と二人でやってきたのが、突然一人になって、しかも祖父は海外へ行く。女性も緊張していたのかもしれない。
「そして名乗っていませんでしたね。私、仰木月子と申します。
 〝カフェ・ユーリカ〟の新マスター……に、今日からなりました」
 冗談っぽく告げた女性の名前を心の中で繰り返す。仰木月子、仰木月子……月子、さん。暑さからは逃れていたはずなのに、とくとくと指先があたたまっている気がした。
「……おれも、名乗ってなかった。迅、迅悠一。よろしく、月子さん」
「迅くん、ですね。覚えました、私のお客様」
 迅の緊張が解けて雰囲気が柔らかくなったことを敏感に察知したのだろうか。月子はふんわりと笑う。
 私のお客様、という言葉がとても甘く聞こえて心臓が跳ねた。カウンターの中に立つ月子の姿は一枚の絵のようで、その気さくさや柔らかい雰囲気はカフェの店主だからだろうか、とも思う。いや、それだけではないだろう。例え今日からだとしても、きっと月子は相応しくあれるように努力を続けてきた人だ。
 見つめて――あるいは、見蕩れていれば、月子は棚から背の高い寸胴の鍋を取り出して、真鍮色の蛇口から井戸水を注ぎはじめる。パスタ用の鍋だろう。
 重そうに見えたので手伝おうと腰を浮かせたが、「大丈夫ですよ」と、先読みされて制される。月子は華奢な腕に似合わず水の入った鍋をコンロまであげて、火にかけた。塩を加えてお湯が沸くのを待つ。
「苦手な味付けはありますか?」
「何でも美味しく食べる自信があるよ」
「それはよいですね。私もですよ」
 そういえばかつて、何でもいいが一番困る、と木崎が言っていたけれど……月子に困った様子はない。よかった、と胸をなで下ろす。
 月子はバットに出した鮭に塩を振り、それはそのまま隅に置いた。いったん手を洗ってから、艶やかなトマトを木製のまな板の上で切っていく。よく手入れされた包丁なのか、トマトは滑らかにくし切りにされていった。冷蔵庫から出したにんにくは包丁の腹で叩いてからみじん切りに。
「あ、にんにくも大丈夫ですか?」
「本当に苦手なものないから大丈夫」
 顔をあげた月子とばちりと目が合って、ちょっとびっくりしたが、それは迅の方だけらしい。またすぐ手元へと視線を落とした月子を見つめる。
 伏し目がちだと睫毛の長さがよくわかった。睫毛も柔らかな飴色だったので、地毛なのだろうかと考える。そうしている間にも月子は大葉を千切りにして、最後にキッチンペーパーで鮭の水気を軽く拭きとってから、一口大に切り分ける。
 ちょうどそのタイミングでお湯が沸いてきた。月子は棚からパスタの入った入れ物を取り出し、迅を見つめる。
「たくさん食べてくれそうですね」
「成長期なもので」
「食べっぷりに期待します」
 目を細めて笑う月子に、迅はなんだか楽しくなってきた。
 月子は祖父と二人のときよりも多めにパスタを取り出して、鍋の中に入れる。パスタを広げて入れるのにもコツがいるが、そのあたりはすっかり慣れている。放射状に鍋の中に入ったパスタ、下の方を菜箸で揺らしてやれば、麺がきちんとお湯につかる。ピっ、と白い指がタイマーのスイッチを押した。
 使い込まれた様子の鉄のフライパンを熱し、じゅうぶんにあたたまったらオリーブオイルを広げ、鮭の切り身を入れる。ジュッと美味しそうな音が響く。そう時間もかからず、いい匂いが漂いはじめた。
 月子が腕を上に伸ばして換気扇のスイッチを入れる。焼き目がついたらオリーブオイルを追加して、刻んだにんにくを加える。火の勢いを弱めて、じっくりと炒める。
「……迅くんは学生さんですか?」
「高校三年。……月子さんは?」
「女性に年齢を訊ねるものじゃありません。……でもまあ、うん、最後に高校生だったのは六年くらい前ですね」
「…………二十四歳?」
「わかっても言わないのが鉄則です。女の子に嫌われちゃいますよ」
 やっぱり年上で、歳の差があるということと、店主にしては若いこと。迅としてはそれらに驚いた拍子に出てきてしまっただけなのだが、嫌われるという言葉には謝りたくなった。けれど月子は楽しそうで、別に怒っている様子でもなく、謝るのも違う気がする。
「……勉強になるね?」
「勉強は大事ですよ」
 ちょっとずれた答えが返ってきたが、迅としてもずれた言葉を言った気はしている。
 にんにくの香りが立ちこめた。月子は冷蔵庫からワインボトルを取り出して、フライパンの中へ少量入れる。
「燃える?」
「もえ……? あ、フランベはもっと度数が高くないとうまくできないですね」
 月子の言う通り、フライパンの中はじゅうじゅうという音と水蒸気が立ちこめただけで、ぶわっと炎が舞い上がる様子はない。ちょっとがっかりしてしまったのが顔に出ていたのか、月子は苦笑していた。
 トマトを加えて、火を再び強めた。焦げ付かないように炒めて、軽く水分を飛ばす。醤油を少し、鍋肌から滑らせて加えれば、焦がし醤油のいいにおいが立ちこめる。そして月子が冷蔵庫から出したのはガラスの瓶に入った昆布と水。
「それは?」
「昆布水です。水出しのおだしですね」
 ピピピピっ、と電子音が鳴り響く。パスタが茹で上がったらしい。
 月子はタイマーを止めて、トングを使ってパスタを鍋からフライパンへ移す。そしてフライパンに昆布水を加えて、汁気を絡ませるように菜箸で混ぜる。塩と黒胡椒を振ってさらに混ぜ合わせてから、火を止めた。手際がよい、というか、何もかもがちょうどよく収まる流れに感嘆する。
 月子は食器棚から大きめの器を取り出して、半々ではなく片方がちょっと多くなるように盛りつける。最後に上から刻んだ大葉を散らしたら、出来上がりだ。
「お待たせいたしました。カフェ・ユーリカ特製〝鮭とトマトのまかないパスタ〟です」
 箸とフォーク、どっちを使いますかと訊かれて、フォークと答える。カウンターに迅のぶんのパスタとカトラリーが置かれたが、月子のぶんはまだカウンターの内側だ。
「食べないの?」
「私はこちらで……」
「まかないパスタ、なのに?」
 まかないは客席の隅で食べる、というイメージが迅にはあった。普通に考えて、まかないを食べるのは休憩中であり、休憩中にキッチンを占拠してまかないを食べるはずがない。店の営業時間内だったら。
 今は特別に店を開けてもらっているのだから、キッチンで彼女が食事をしていても誰も困りはしないけど。そのことに気付いてもなお、迅は隣の席を指差して、月子を呼んだ。
「こっち空いてるよ」
 見ればわかることをあえて言う。迅が食事に手をつけないことを察したのか、ちょっとだけ困ったように眉が下がる。しばらく何か考えるように視線をさ迷わせたあと、月子ははにかむように笑った。かたん、と迅のとなりにパスタの皿を置いて、自分もカウンターから出てくる。
「そうですね……たぶん、今はきっと、休憩時間なので」
 穏やかに笑う月子が迅の隣に腰掛けた。うん、と頷くことしかできない。もっと気の利いたことが言えないのかと自分に毒づく。
「休憩も、大事ですよね」
 月子がしずかに囁いた言葉を、迅はただ聞いていた。休憩も大事。その一言が、月子の声で紡がれたその言葉が、じんわりと染み込む。
 目の前には湯気をたてるパスタがあって、だしと醤油の香りをふんわりと立ち上らせるさまは文句なしに美味しそうだ。サーモンピンクに少しの焦げ目をつけた鮭と大葉の緑が綺麗な色合いだった。
「うん、食べましょうか。……いただきます」
「いただき、ます」


 人と食べるご飯がおいしいと気付いたのは母を亡くしてからだった。
 あるいはそれは師を亡くしたときだったかもしれない。たった一人で食べるものはどれもひどく味気なくて、喉に詰まった。
 それでも、生きるためには食べなくてはならなくて。
 だって、生きているのは、迅だけだから。
 母や師を亡くした直後は、食べることが、たぶん、苦痛だった。

 おいしいと感じたのは、木崎や小南、林藤たちとテーブルを囲んだときだった。何の変哲もない、いや少し焦げた野菜炒めと、しょっぱめの味噌汁と、ほかほかの白米、菜葉のおひたし。けれどあったかくて、ふんわりしてて、やさしい味がした。
 おいしいと思った。思えた。それが悪いことのようにも思った、けれど。
 一から準備した木崎が嬉しそうに目を細めて、食器を運んだだけの小南が得意気に笑う。ゆりはにこにことそれを眺め、林藤が落ち着けと苦笑で嗜めて、そこにぽろりと涙をこぼした迅がいて。
 思い返してみれば、あのときようやく、迅は救えなかったという罪悪感ではなくて、たださびしいと思う気持ちを自覚した。
 さびしいと思う自分のことを、受け止めてやることができた。

 月子のパスタはあのときと同じ味がした。あったかくて、ふんわりしてて、やさしい。
 知らないうちに心の奥底に沈んでいた澱がほろほろと崩れていく。
 じんわりと胸があたたかくなって、澄んでいく。体を支配していた気怠さが暑さのせいだけではないこと、ようやく自覚した。
 ――つらかったのか。
 大切な人を亡くしたわけじゃないけれど、それでもあのときのように。
 初夏の、まだ少し鬱屈とした暑さを思い出した。じっとりと背中が湿った感触を。風は生温くて、道を歩く人たちは何でもない顔で日々を過ごしていて。そのなにもかもが、ひどくうるさくて。つらくて、疲れていた。たぶん、そうだった。


「……おいしい」
「気に入っていただけてよかった」
 迅が呟けば、月子が得意気な顔で微笑む。その顔には、まるでいたずらが成功したとでも言いたげな無邪気さと茶目っ気が滲んでいて、ひどく子どもっぽい。けれど、その幼さも嫌いじゃなかった。隣に座る月子をより近く感じて、迅も笑う。
「鮭とトマトの組み合わせ、初めてかもしれない」
「意外と合うんですよね。トマトは熱すると甘くなりますが、鮭の塩気で味を引き締めてるんです。臭みがないのは鮭の手柄ですが」
 食べることが好きなのかもしれない。解説する月子の楽しそうな顔にそんなことを思う。調理しているときの様子からしても、つくることも好きなのだろう。でなければ見ず知らずの迅にご馳走するなんて言わない。
「よかったら、食後の珈琲もぜひ。カフェ・ユーリカはこだわりの珈琲を各種取り揃えていますので」
 ――珈琲は飲めますか?
 月子の問いかけに、迅は少し迷ってから「ミルクか砂糖があれば」と告げる。子どもっぽいと思われるだろうかと一瞬だけ思ったけれど、月子は微笑んで「カフェオレにぴったりな豆があるんですよ」と答える。そう返ってくると分かっていて告げたことは否定しない。でも実際に言われたそれはひとつも嫌味がなくて――想像以上に心地よかった。

 パスタを食べながら、珈琲を淹れながら、月子は色々な話をしてくれた。中学と高校を三門市で過ごしたこと、半年前に店を継ぐため戻ってきたこと。学生時代は休みの日に店の手伝いをして、常連客にケーキをご馳走されていたこと。親は海外を飛び回る仕事をしていること。店に飾られた絵は祖父が描いたということ。
 カフェ・ユーリカでのことを中心に月子は朗々と語る。国語の教師みたいな、柔らかで丁寧な言葉と声音が迅の心をくすぐった。

「……三門市に戻ってくるの、恐くなかった?」
 近界民が三門市を襲ったのは月子が離れてからのことだ。今や第一次近界民侵攻と呼ばれる一件以来、残り続ける住民もいるが三門市を離れた人間も多い。ましてや、他の場所で生活していたのならわざわざ引っ越そうなどとは思わないはずだ。ボーダーにスカウトされたというならともかく。
「そうですね……私にとってここは大切な場所なので。祖父が私に継いでほしいと言ったときはただうれしくて、恐いとは、あまり」
 カフェオレを飲みながら月子は語る。穏やかな瞳がそこにいない祖父の姿を映して小さく笑った。心からこの場所を愛し、安心している横顔だった。
「それに、」
「それに?」
「祖父からボーダーのことを訊いて。……ここで起こったことへの怖れはあっても、今、この街に住むことが恐いとは思わないですよ」
「……!」
 ぐっと迅の眉間に皺がよる。それは決して珈琲の苦味のせいではなくて、向けられる信頼のためだ。信じてもらえることは純粋に嬉しい。けれど守れない生命だってあったということを、忘れたことはなかった。
「迅くん……?」
 月子が向けてくれる信頼が、確かに嬉しいはずのそれが、そのくせひどく迅を苦しめる。
 この信頼を裏切る日が来ないとは言えない。そういう未来を選択してしまわないとは、限らない。
「……すみません、失言でしたか? ボーダーの方の前で……不躾なことを、ごめんなさい」
「何でおれがボーダーって、」
 今はボーダーのロゴマークが入ったいつもの上着も着ていない。『風刃』は目立たないように仕舞ってあるし、何よりそれを見てトリガーだと気付けるとも思えない。
 狼狽えたような表情を浮かべた迅に、月子はそっと微笑んだ。迅の気分を害してしまったと思っているのか、慎重にくちびるを開く。
「迅くんが、近界民と戦っているところを見たことがあります。半年前、ちょうど、この街に帰ってきたばかりの頃に」
 静かに紡がれた言葉にくちびるを噛んだ。この店は警戒区域からそう離れていない。人員不足のせいで市街地近くまで近界民――正しくは彼らが作り出したトリオン兵――の侵入を許してしまったこともある。人的被害は未然に防いできたが、いつかのそのとき、月子は彼らと戦う迅の姿を見ていたらしい。
「年下の子が戦っていることにびっくりして……一緒にいた祖父が、彼らがボーダーだと教えてくれました。……そのときは、情けないやら、色々と思いました」
「情けない……?」
「あっ、ボーダーの皆さんが、ではないですよ――私が、です。私はあなたたちより年上で曲がりなりにも自立していて、大人なのに、あなたたちに守ってもらっている。そんな自分が腹立たしかったりもして。……でも、私は、迅くんたちみたいに戦えません。
 じゃあ、その腹立たしい気持ちをどうするかって言ったら、私は私のやり方で頑張るしかないんですよね。迅くんたちが頑張って守ってくれてる日常を、頑張って全うするしかないなって、思ったんです」
 月子は、ほんのすこし照れたような横顔で、ゆっくりと言葉を選びながら告げた。それは守られるばかりの、平凡な、凡庸な市民の言葉だ。彼女がどう生きようとも、きっと戦局は変わらない。そのくらいちっぽけな存在。ともに戦う仲間たちのような力もない人間の――だからこそ意味のある言葉だ。
 戦いとは無縁に生きることもできる彼女が、それでもこちらを想ってくれていることがわかる。胸の奥、心臓の裏側が熱を持つ。呼吸とともにこぼれかけた熱があった。
 ――守ってくれる日常を、頑張って全うする。
 そう言ってくれる人が、どれだけいるだろう。
 迅たちが守ったものを、そんなにも尊いものだと思って生きてくれる人が、いったいどれだけ。
 街を守り続ける迅は、そのサイドエフェクトが映す景色とは裏腹に、とても狭い世界で生きている。対外的なことは大人に任せて戦闘と暗躍を請け負っている。だから、迅が知ることは決して多くはないのだけれど、守るべき存在である市民がボーダーを肯定するばかりではないことぐらいは知っている。自分たちが守る世界の意味や価値だって、思春期のころはよく考えた。
「……月子さんは、いい人、だね」
 きっと、とんでもないお人好しだ、この人は。
 ボーダーにもお人好しはいっぱいいる。けれど、この人は――目の前の仰木月子というひとは、彼らとはすこし、ちがっていた。ボーダーの人間には決して補えない何かを、ぴったりと埋めてくれる。
「『きみがここで店を構えることとボーダーが近界民と戦うことは、どちらも街を守ることだ。そこに戦い方の違いはあっても貴賎はないし、きみがここで美味しい珈琲を淹れてくれると救われる人もいる』」
 月子はそう言って迅を見つめ、微笑んだ。
「ボーダーに父の知り合いがいて、あるとき言われた言葉です」
 そんなことを言うのは誰だろうと疑問がよぎったが、それよりも月子の微笑みに目を奪われた。いたずらっ子のような茶目っ気をにじませた、すこし幼い顔。
「それが本当の真実だとは思わないけれど、このお店で美味しい珈琲を淹れることが私の戦い方なら、頑張ります。――ほら、近界民に恐がっている場合ではないでしょう?」
 だから、ここにいることは、恐くないです。
 月子は、はっきりと告げた。その見た目、儚げな色彩とは裏腹に。瞳は穏やかで、けれど確かに光を宿している。揺らがない強さがあって、それはとても柔軟に示される。
 だけど、よくよく考えれば変な持論だ。それに妙に得意気な顔が笑いを誘う。
「…………月子さんって本当に変な人だね」
「いい人からランクダウン……⁉」
 素直に驚きを見せる月子にまた笑いが漏れる。昼下がりの店内、静かな空間に迅の笑い声が響いた。月子もつられるように笑っていた。鈴の音のようなころころとした笑い声が耳に心地よくて、もっと聴きたいと思う。
「その人が言ったこと、おれは本当だと思うよ」
「え?」
 きょとんとした顔に何も返さず、迅は残っていたカフェオレを飲む。苦みの中にまろやかな甘みと、清々しさがあった。
「ねえ、月子さん」
「はい」
「また来てもいい?」
「――はい、もちろん」
 控えめな笑みは、なのにふわりと甘く匂い立つようで、店先に咲いていた名前も知らない花を思い出した。
「……うん――ありがとう」
 見つけさせてくれてありがとう。そんなことをふと思って、迅は笑った。この人のことを見ていたいと、そう思って。
 ――ヴー……、と低く響くその音に気付く。ポケットの中で通信端末が震えていた。素早く目を滑らせて確認する。『門発生』――場所は近い。
「……っと、ちょうどいいし、そろそろ行くよ」
「お仕事ですか?」
「そう。ちょっと今から月子さんの明日を守ってくる」
「わっ、さすが。ヒーローですね」
 そんなにいいもんじゃないけど。でも、
「それもいいかも」
 ホルダーに収めた『風刃』を撫でる。ヒーローだなんて、笑われてしまうだろうか。
 笑ってくれたら、うれしい。
「いってらっしゃい、気をつけてくださいね」
 そう言ってくれた月子にぴしっと敬礼をして、迅はニヤリと口元に笑みを浮かべた。
 飄々とした、あまり十八歳らしくない表情に月子の瞳がまたたく。こういう顔をする子なのだと、月子は、そのとき初めて知った。
「いってきます」

 ――からんっ

 福音のように響いたその音を、迅はこれから幾度となく耳にする。

   *

「お口に合いましたか? キャラメルカフェオレ」
「うん、甘過ぎなくていい感じ」
 すっかり飼い馴らされている気がする、と迅はストローに口をつけながら思う。
「でしょう! ほろあまにがちょいしょっぱなキャラメールソース、こだわりの手作りです」
「ほろあまにがちょいしょっぱって要素詰め込みすぎでしょ……」
「そ、それはまあ、その、大事な要素なので?」
 迅の言葉でちょっと焦る月子にふっと笑みを漏らす。
 ずるいなぁ、と思った。
 子どもらしさというものを迅から引き出すくせに、目の前の月子は嫌味なくらい大人なのだ。そして大人ぶるくせに、実は子どもなところもあって、迅が油断しているときに出してくるところがずるい。
「ずるい、ですか」
 あ、口に出してた。そう気付いたものの出てしまった言葉は取り消せない。迅はもう開き直ることにした。まだ少し、拗ねたような気持ちが残っているのかもしれない。
「そう、ずるい。月子さんはずるいよ」
「いい人から変な人に、そして今度はずるい人ですか……」
 苦笑した月子に迅はぱちりと目を瞬く。
「……覚えてるんだ?」
 それは、一年も前のことだった。迅と月子が出会ったあの初夏はとっくに過ぎて、季節は一巡した。今はもうあの日の猛暑が当たり前な真夏だから、一年と少しの付き合いになる。
 まさかあんな何でもない会話を覚えてるなんて、迅が驚いていれば、月子は笑った。
「迅くんは、私のお客様ですから」
 やっぱりあの、ちょっと子どもっぽい得意気な顔で言われて、迅は繰り返す。
 ――ほら、こういうところが本当にずるい。
 いちばん初めにきれいなひとだと思ったことは、だから、言わないでおいた。


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