水出しアイスコーヒー

「ありがとうございました。またのお越しを」
 お客さんの背中を見送って、月子はふぅと息を漏らす。休日ということもあってかお昼時に少し混んだカフェ・ユーリカだが、今はもう店内にいるのは月子だけだ。ピークを無事に乗り越え、張りつめていた緊張を少し緩める。
(迅くんが来るかな)
 人のいない店内を見渡して月子は微笑んだ。
 迅はたいてい、ふらっとやってくる。連日訪れることもあれば一週間空いたりと、気ままなところが野良猫のようだなと思う。そんな迅に懐かれるのは、月子としてはうれしいことだった。猫はかわいいので致し方ない。
(……猫とか飼えないしなぁ)
 猫カフェなんてものもあるが、基本的に飲食店で動物を飼うのは難しい。衛生面でも課題があるし、何よりアレルギーの問題がある。はじめからそういうコンセプトで店を開くなら避けられるが、カフェ・ユーリカには古くからの常連も多い。そんな彼らの中にアレルギーを持つ人がいないとは限らない。
(…………お母さんも、動物、嫌いだったし)
 月子もペットを飼ったことがない。猫や犬を飼いたいと思った幼い月子は、当時離れて暮らしていた祖父に飼わないのかとごねたことがある。家で飼えないのならば、せめて時々訪れるカフェ・ユーリカで、と思ったのだ。
 動物が好きだった祖父もお客さんのことを考えてカフェ・ユーリカでペットを飼うわけにはいかなかったのだが、幼い月子がその正論を素直に飲み込めるはずもなく。――かといって、困った祖父が喋って動く犬のぬいぐるみと会わせてくれたのは、今思えば随分と可愛らしい対応と言わざるを得ない。そしてそれで誤摩化される自分も自分だ。
 十年以上も昔のことだから記憶は朧げだが、かえって愛しさと懐かしさが募る。
 子どもの頃から、月子は〝カフェ・ユーリカ〟が大好きだった。祖父のつくるドリンクもデザートも、それから時おり訪れる、個性豊かなお客さんたちも。
 父の仕事関係の人だというその人たちは月子をよく可愛がってくれた。父が仕事の拠点を海外に移したためか、あるいは単純に忙しいのか、ここ最近はお目にかかっていない。
 それでもあまり寂しくないのは、彼らに負けず劣らず個性豊かなボーダーの人々のおかげかもしれない。
 当時のことやボーダーの人々のことを思い出していると、からんっ、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ……っと、東くんだったか」
「なんだ、残念そうだな」
「ちょっとね」
 扉を開けて入ってきたのは東だ。これでカフェ・ユーリカは無人ではなくなって、だから迅は来ない。
 すこし残念に思ったことは事実で、しかも相手は気心知れた東。素直に伝えれば「おいおい、ひどいな」と言われて、苦笑を浮かべ「ごめんなさい」と謝る。
「ほら、お前も入って来い」
 どうやら東は一人ではなかったらしい。扉の外に呼びかけ、場所を譲るように動く。
 中に入ってきたのはすらりとしたスタイルの青年だった。ブラウンの柔らかそうな髪とは裏腹にその雰囲気はどことなく冷たい。顔立ちが整っているから余計にそう思うのかも知れない。
「前言ってたジンジャーエールが好きな後輩だ」
「あっ……」
「『あっ』?」
 二人分のお冷やを注いでいた月子の手が止まる。東が首を傾げて、その後ろの青年は表情を変えずに佇んでいる。とりあえずカウンターに座ってもらうように促し、月子は眉尻を下げる。
「ジンジャーエール、今日は品切れで……」
「ああ、そういうことか」
「ごめんなさい……」
 すっからかんになったジンジャーシロップを入れていたジャグを思い浮かべる。いつもなら切れる前に新しいものをつくるのだけど、今日は来店するお客さんが多く、思ったよりも早くなくなった。その後の忙しさに忘れていたのは月子の責任だが。
(……そして発注も忘れてた)
 月子の責任が大きすぎる失態を頭に思い浮かべた。カフェ・ユーリカのジンジャーエールに使うスパイスが少なくなっていたことはわかっていたのに、発注を忘れていた。いかに東が相手といえどお客さんに言うべきことでもないので黙っておく。月子はカウンターの向こうから東と、その隣に座るジンジャーエール好きだという青年に頭を下げた。
「悪いな二宮」
「いえ」
 短く言葉を返した二宮と呼ばれた青年は無表情だったが、来店時と表情が変わらないことと、東の様子から怒っているわけではないと判断する。
「まあ、ここはジンジャーエール以外も普通にうまいから。コーヒー飲めたよな?」
「はい」
「というわけで、コーヒーを頼む」
「かしこまりました。あたたかいものとつめたいもの、どちらになさいますか?」
「アイスで。二宮は?」
「東さんと同じもので大丈夫です」
「アイスコーヒーなら今は水出しがおすすめですよ」
「ああ、それで頼む」
 二宮の口数は少なく端的で、無駄がないなと思った。月子は「かしこまりました」ともう一度頷いて、冷蔵庫からコーヒーサーバーを取り出す。その中には既に水で抽出された珈琲が入っていた。
「水出しコーヒーって本当に水で出すのか?」
「そうですよ。水と粗めに挽いた珈琲豆を一緒にいれて一晩ぐらい置いておきます。水はお湯よりも抽出に時間がかかりますが、あたたかい珈琲を急冷するよりも雑味が抑えられますし、どうしても氷を入れるとコクが薄れてしまうので」
 濃くだけに、と付け足さないだけの分別はある。
 水出しコーヒーは、時間はかかるが手順自体は他の珈琲よりもずっと楽だ。水出し用の珈琲豆と水を専用器具にいれて冷蔵庫で十二時間ほど放置する。十分に抽出されたら他の器に移して、それでおしまい。
 ただ、時間がかかるから一杯一杯をその人に合わせていれることは難しい。おそらく祖父がレギュラーメニューに加えなかったのは、そのあたりが理由だろう。アイスコーヒーが多く出る夏には、たしょう味の幅が狭まっても飲んで欲しい一品だけど。
「……?」
 東が妙ににやにやしているのでどういうことかと思ったが、その視線が二宮の方に向いていたので気付いた。月子の口調だ。
 一応、彼の先輩である東の顔を立てて敬語で話しているというのに、当の本人は敬語で話しかけてくる月子がおもしろいらしい。一年前はそれが普通だったでしょ、と月子は視線で東の笑みを制した。
 グラスに氷を入れずに水出しコーヒーを注いで、砂糖とミルクの有無を二人に訊く。東は基本的にブラックだが、二宮は初めてだ。
「貰おうかな」
「いただきます」
 おや、とは思ったが顔には出さない。二人分の砂糖――アイスコーヒーなのでシロップとミルクを出して、水色のコースターの上にそれぞれグラスを置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
 東と二宮はどちらもシロップとミルクには手をつけず、まずは一口を混じりっ気なしで味わってくれるらしい。
「――ああ、旨いな。すっきりしてて、なのにコクがある」
「ありがとうございます」
 じっと見ていたせいか、気をきかしたように東が感想を教えてくれる。催促したようで少し恥ずかしくなりながらも笑顔で頷いた。二宮は気に入ってくれるだろうかと横目で様子を窺う。シロップへと手を伸ばそうとしていた二宮は東に促され、月子に視線を合わせた。表情に変わりはない。だが端正な顔立ちは、妙な迫力がある。
「……美味しい、です」
「よかったです。シロップとミルクを加えるまた違った味わいになりますので、ぜひ」
 月子の言葉に、二宮が動きを再開する。シロップを手に取りグラスに注いで、東はミルクを注ぐ。その唇が月子に向かって「ありがとな」と音にせず伝える。
 薄々そんな気はしていたが、二宮は珈琲のブラックがそんなに好きではないようだ。東が普段は頼まないミルクを入れたのも、おそらくそういうことだろう。ちょっと気難しい……誇り高いタイプなのかもしれない。見た目からの月子の勝手な想像だが。
「二宮さんは、蓮ちゃんとも一緒のチームだった方ですか?」
「ああ、そうだよ。あとは加古も同時期だし、そのときの部隊のなかじゃ三輪っていうのが一番若くて、まだ高校生だ」
「望ちゃんも」
「あの二人はよく来るんだろ?」
「おかげさまで」
 蓮――月見蓮と、加古望はお得意様だ。東からの紹介で店を訪れてくれたらしいのだが、特に月見とは母校が一緒だったので話が弾んだ。
 蓮ちゃん、と思わず親しく呼んだときに『私のことも望ちゃんでいいのよ』とウインクをくれた加古のことも月子は好きだ。彼女たちのお気に入りは定休日明けに出している手作りケーキで、時間さえ合えば二人、時には一人で来店する。
「加古と月見も……」
「二宮が通うなら、次は三輪も連れてこないとだな」
 二宮が通うと決まったわけではないのに、別の後輩の名前を出す東に月子は笑い声を漏らす。二宮もそう思っているのか、先程までの素直な返事とは違って口ごもっていた。
 その様子が無表情ながら何となくかわいく見えて、月子は助け舟を出すことにする。
「気が早いね?」
「そうか?」
「そうだよ。売り込んでくれてうれしいけど、東くんが論文で悩んでるときの珈琲代で十分潤っているのでご心配なく」
「……その節はすまん」
「……東、くん……?」
 東の注意を引こうと敬語を崩して話していた月子の元に、二宮の怪訝そうな声が届いた。ニヤリ、と東が笑う。何となくほくそ笑んでいるように見えた。
「言ってなかったか? 仰木と俺は同い年だ。ついでにバイトじゃなくて店主」
「……年上……?」
 じっと自分を見つめてくる二宮の視線に、そんなに若く見えるだろうかと困り顔で笑う。
「東くんとは同学年で、蓮ちゃんが中学一年生のときに高校三年生でした」
 二宮は数度まばたきをした。どうやら信じられないことらしい。
「……すみません、あまり年が変わらないものだと」
「? 東くん、二宮さんの年は?」
「十九。秋でハタチだよな?」
「はい」
「じゅう、きゅう?」
 学年こそ違えど迅と同い年だ、ということに愕然とする。加古も冬生まれと言っていたからまだ十九歳で、彼女も年齢以上に大人びて見えるが、二宮はそれ以上だ。てっきりひとつ下ぐらいだと思っていた月子が、今度はぱちりと目を瞬かせる。
「……ボーダーの子ってみんな大人びてるね?」
「いやちゃんと年相応の若いやつもいるよ」
「東くんも大人びてるし……」
「……俺の年で大人びてるは老けてるってことなんだが」
「あ、ごめん」
「ごめんじゃないぞ。……まあそんなわけだ、二宮。だけど仰木は敬語とか気にしないやつだから、好きに話しかけてやれ」
「はい」
 相変わらず東の言葉には素直に頷くが、月子に向ける視線はまだわずかに棘がある。いや刺というよりは壁だろうか。あまり人を立ち入れようとさせない気配を感じた。
 そういうところはすこし、出会ったばかりの迅に似ている。迅の場合はそれでも笑顔ではあったけれど。
「望ちゃんもくだけて話してくれてますし、二宮さんも話しやすい言葉でどうぞ」
 柔らかく告げると、二宮はゆっくりとだが頷いてくれた。それから「……くんで大丈夫です」と呟く。たぶん『東くん』なのに『二宮さん』は……ということだろう。真面目な性格なのかな、と頭の片隅にメモをする。
 東がわざわざともに来店してくれた意味がわかった。二宮と月子だけでは、互いに手探りが過ぎて、注文以外の会話はしなかったはずだ。だが、東がいてくれるからといって深追いはしない。はじめましてのお客さんとすぐに親しくなれるとは思っていないのだ。
 水出しアイスコーヒーを飲みながら二人で会話をし始めたのを見計らって、カウンターの中で作業に入る。少しだけ耳を傾けて聞くに、どうやら戦い方について東が二宮に助言しているようだった。


「悪い、ちょっと手洗い」
 すっかりグラスの中身が空になったタイミングで東が席を立つ。月子は作業を続ける。静かな店内にジャズが心地よく響いて、グラスを磨く月子の手もリズミカルに動く。一瞬、そこに二宮がいるということを忘れてさえいた。
「……仰木、さんは」
「っ、はい?」
 話しかけられると思っていなくて、グラスを落としそうになった。何とか手のひらに力を込めて支え直して、月子は二宮を見る。
「いつから、この店を」
「一年半くらい前に戻ってきて、継いだのは一年前ですね」
「戻ってきた?」
「ええ。大学が遠いところだったので。高校を卒業してからはしばらく三門を離れていたのですが、先代の店主の祖父から店を譲りたいと言われて……昔から好きな場所でしたから、継ぎたいと思いまして」
「近界民のいるこの街に、ですか」
 憎たらしげに囁いた二宮に重ねる姿があった。似たような質問を、一年前の夏にもされたことがある。月子はそのときのことを思い出しながら微笑んで頷く。
「戻ってきてよかったと思っていますよ」
 月子は軽やかに答えた。
「やっぱりここが好きですし、東くんという友達もできて、ボーダーの方々との出会いもありました。
 ……私はきっと、とても狭い世界で生きてきて……いえ、今もそうで。けれど、ここでの日々を通じて、色んなことを知ることができます。それがとても楽しいんです」
「……そう、ですか」
「さっきの東くんじゃないですけれど、もしもこの店を気に入っていただけそうなら、またぜひ。色んなお話を訊かせていただけると、うれしいです」
 相変わらず多少の壁は感じたが、月子に対して友好的でないわけではない。何か考え事をしているかのようにどこか上の空だった二宮は、しばらくすると再び月子に注意を戻した。
「また来ます」
「東くんの顔を立てなくてもいいんですよ」
 むしろ顔を立てたのを笑ってくるようなやつなんですよ、とまで言うのはかわいそうなのでやめる。二宮はそのとき、はじめて口元をふっと緩ませて――ちいさな変化だったが、間違いなく笑って、言った。
「ジンジャーエールをまだ飲んでいない」
 笑った、と月子が思っているうちにその笑みは幻のように消え失せて、無表情に戻る。笑い方さえもすこしニヒルで、クールだったが、冷たいとは思わなかった。ほんの少しだけ、けれど確かに、彼が纏う空気は和らいだ。
「はい、お待ちしておりますね」
「仲良くなるの早いな」
 タイミングよく戻ってきた東がそんな言葉をこぼす。わざと席を外したのだろうな、という月子の考えを裏付けるように東がウインクをした。加古と同じウインクという動作なのにちょっと小憎たらしく見えるのは何故だろう。
「そろそろ戻るか、二宮」
「はい」
「二人分な」
「ありがとうございます」
 東から紙幣を受け取る。あらかじめ財布から出していたのだろう、二宮が遠慮したり止めたりする暇もなかった。
「いーからいーから。たまには先輩らしいこともさせろ」
 と、東が二宮に告げる。たぶん先輩らしいことなんていつもやっているんだろうなと思いながら、月子は立ち上がった二宮に「ありがとうございました」と軽く礼をした。
 二宮が半ば東に引きずられるように扉まで向かったところで、ぺこりと腰を折る。
「またのご来店お待ちしています」
 からんっ、と、ドアベルの軽やかな音が応えた。

   *

 迅はカウンター席に座って頬杖をつき、月子をじっと見つめた。ぴしぴし刺さる視線に、先に口を開いたのは月子だ。
「……またも元気がありませんね」
「二宮さんもユーリカを気に入ったって訊いて」
「ええ。昨日さっそく来てくれて、ジンジャーエールも口に合ったようでした。テーブル席でゆっくりとしていただけたようです」
 月子の言葉に迅が溜息をつく。東さんだけでも気が気じゃないのに、という言葉はどうにか喉に押し込んだ。
「どうしました?」
「……東さん、なんで二宮さんに教えたんだろ」
「でも、東くんにここを紹介したのは迅くんでしょう? そうやって人の縁で繋がってる感じ、好きですよ。宣伝してくれてありがとうございます、迅くん」
「うっ、……うん、まあ、そう」
 迅は大きく息を漏らして、がっくりと肩を落とす。ぼそりと「でもこんなに仲良くなるのは読み逃してた、完全に……」 と呟いたが、くぐもっていて月子には聞こえなかった。けれど、相当落ち込んでいるらしいということは理解する。
「えーっと、迅くん、元気出してくださいな。私に何かできることありますか?」
「…………月子さんが、」
「私が?」
「……あー、えっと、何でも無い」
 月子さんがちゅーしてくれたら元気出る、などと己の欲望をそのまま口に出しかけて、迅は「はははー」と誤摩化し笑いを入れる。暑さであたまがばかになってるのかもしれない、と月子が出してくれた水出しアイスコーヒーをごくごく飲む。あっという間にグラスは空っぽになって、味わうこともなく飲み干してしまったことが申し訳ない。だが、水出しアイスコーヒーと引き替えに脳は少し冷静さを取り戻した。
「喉が渇いているんですか?」
「……うん」
 月子の言葉に生返事だけ返す。
 よくよく考えれば、二宮が月子に恋する可能性は低い。――彼はまだ喪失を引きずっていて、恋愛どころではないはずだから。最近ようやく折り合いをつけ始めたらしいというのは訊いていた。そんな彼にとって、ここでの時間は癒しになるだろう。
 東が二宮を連れてきた意図がそこにあるというのなら、迅はその慧眼に感服する。ここは確かに、そっと傷を癒すには最適な場所だ。やさしくて、おだやかな空間だから。
 でも、と迅は思う。それでも、だ。

 ――おれが最初に見つけた月子さんだったのに。

 それを言えばとてつもなく拗ねたような声音になるのはわかっていたので言わない。そして言ったら言ったで拗ねた理由までには気付いてもらえず、加えて『城戸さんたちの方が常連歴は長いですよ』などと返されるのがわかっている。でも迅としては彼らはノーカウントだ。だって上層部だし。若者じゃないし。言わないけど。
「おかわりは飲みますか? ミルクたっぷりアイスカフェオレなんてどうです? 今なら上からキャラメルソースもサービスしましょう」
 迅を気遣ってくれる月子の優しさは、しかしどことなく的外れだ。一見すると器用そうに見える彼女はこういうところが不器用……というか冗談みたいに鈍く、それがまた何ともいえずかわいい、と迅は思う。思ってしまう。惚れた方が負けるのは世の摂理だ。
「……飲む」
「かしこまりました」
 甘いキャラメルカフェオレを待ちながら、迅はひとまず気持ちを切り替えて、珈琲を淹れる月子を見つめていた。


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