自家製ジンジャーエール

 ――からんっ
 聞き慣れたドアベルの音が鳴って、シンクで洗い物をしていた月子は顔を上げる。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
「ああ。カウンター空いてる?」
「ご覧の通り。どうぞ」
 入ってきたのはこれまた見慣れた姿だった。東春秋。大学院に通う院生で、かつ、界境防衛機関ボーダーにも所属しているという、月子と同い年の青年だ。同世代とは思えないぐらい落ち着きすぎていて『青年?』と首を傾げたくなるときもあるけれど。
 黒い髪を長めに伸ばし、ともすれば女性と見紛いそうなほど見事なキューティクルだが、185センチを超える身長から本当に性別を間違える人はなかなかいない。と、思う。
「どう、最近」
「上々かな」
 ぐるりと店内に目を滑らせて月子は応える。カウンターに座るのは東だけだったが、テーブル席には何人かの姿があった。常連さんとご新規さんがそれぞれ一組ずつ。常連客のほうは近所に住むご婦人四人だが、テーブル同士の距離はじゅうぶんなので、聞こえてくる会話はさざ波のように穏やかだ。
 大盛況というわけでもないが、カフェ・ユーリカは元々このくらいの客入りを想定している。そもそも、あまりに人が増えると月子一人の手では回せなくなる。先代の店主である月子の祖父なら、きっと大丈夫だが。
「東くんは?」
「絶賛論文に追われ中」
「うわぁ……」
「その顔は論文の辛さを知ってる顔だな」
「一応大学は出てるからね。卒論……うっ、思い出したくない……!」
 頭を手で押さえるふりをすれば「あぁわかるわかる」と東からの同意が飛んだ。同い年ということもあって、店主と客という垣根を越えて月子と東は気の合う友人だった。そうなれたことには、もうひとり――東と同じくボーダーに所属する同世代である、沢村響子の存在も大きいが。
 カウンターの真ん中、カフェ・ユーリカの特等席に座った東にお冷やを出しつつ、彼が鞄から取り出す資料と論文用であろうメモ帳をちらりと見る。資料は分厚く、メモには何かが走り書きされていた。
「あ、広げるならテーブル行った方がいいか?」
「これから空いてくる時間だし、カウンターの席も間隔は広めにとってあるから大丈夫。何の論文?」
「歴史。今回は戦術の歴史の総括、って感じかな」
「いつも思ってたけど諸葛亮孔明感あるよね、東くん」
「諸葛亮孔明感の響きが強すぎてすごいな」
「そうかな?」
 首を傾げれば東は苦笑を浮かべた。筆箱からペンを取り出し、くるりと回して、ノック部分を顎に添える。何か考えごとをしているときの仕草だが、視線の先はメニュー表だ。その視線が〝水出しアイスコーヒー〟のあたりでさまよっているように見えて声を掛ける。
「水出しアイスコーヒーにする? すぐ出せておかわりは百円引き」
「いや、コーヒーはちょうどさっき教授に奢ってもらって。そうだな、ジンジャーエールにしようか」
「炭酸強めだけど大丈夫?」
「ああ、平気だ。後輩にジンジャーエール好きがいて、前はよく飲んでた」
「そうなんだ。でも、カフェ・ユーリカのジンジャーエールはそこらのジンジャーエールとはひと味違うから……ぜひ、ご賞味あれ」
 にっこりと笑って告げれば「楽しみだな」と機嫌良く返ってくる。
 早速資料を広げ、どうやら論文の草案を練るらしい姿に邪魔をしてはいけないと口を閉ざして、カウンター内での作業に従事する。とは言っても、ジンジャーエールをつくるのは簡単だ。炭酸と、あらかじめつくってあるジンジャーシロップを一対一で混ぜるだけ。
 氷をグラスいっぱいまで入れて、冷蔵庫から取り出した琥珀色のジンジャーシロップをグラスの半分くらいまで注ぐ。それから、瓶に入った無糖の炭酸水を静かに落とす。マドラーで軽くステアして、ほんの少しつまんだ粉胡椒を円を描くように落とせば、それで完成。
 ストローを差して、コースターの上に置いて差し出す。
「ジンジャーエールってそうやってつくるんだな。原液があったのか」
 邪魔をしてはいけないと無言でやったのに、東は資料を読むわけでもなく月子の手元を覗いていた。こんなことなら解説しながらつくれば良かったかもしれない。
「原液というか、シロップね。うちはこのジンジャーシロップを手作りしてるの」
 東はストローで軽く中身をかき混ぜる。からからと氷がぶつかり合う音が響いた。ジンジャーエールを少し飲んだ東が、驚いた様に目を開く。ぴりぴりと舌先を刺激する感覚は炭酸だけのものではなくて、けれど単純な辛さというわけでもないのだ。
「凄い、……何というか、味に深みがある。生姜と胡椒だけじゃないだろ、絶対」
「ご明察。なんなの東くん、いつも思うけど鋭い」
「流石に何が加えられているのかまでは分からん。企業秘密じゃなかったら教えてくれないか?」
「別にいいけど、論文は?」
「……あとでホットコーヒーを頼む」
 彼がホットコーヒーを頼むのは長々と居座るときと決まっていた。先ほど伝えた通り、これから空いてくる時間なので月子は構わない。苦笑しつつも頷いて、まだ出したままだったジンジャーシロップの入ったガラスのジャグを持ち上げる。琥珀色の液体が濁って見えるのは、刻んだ生姜から出た成分の影響だろう。
「これがジンジャーシロップ。基本の材料は、生姜と砂糖とレモン。普通のジンジャーエールは大体これでつくってるんじゃないかな」
「どうでもいいが生姜をジンジャーと呼ぶと別物感がすごいな」
「わかるけど本当にどうでもいい……」
 東くんってそういうところあるよね、と月子が言えば、「後輩の前では気をつけている」と東が言う。気をつけてるんだ、とちょっと驚いていれば、東が視線で続きを促した。
「うちではこれに、スパイスを足して煮出してるの」
「スパイス?」
「そう。セイロンシナモンと、カルダモンと、アニスシードと、乾燥ジンジャー。ちなみに生の生姜ははちみつに浸けたやつで、そのはちみつときび砂糖をいれてるよ」
「カルダモンって、カレーに入ってるやつ?」
「そう。……どうでもいいけど、東くんってスパイスからカレーつくってそう」
「つくらないよ……たまにしか」
 つくるんだ、と思いつつ。月子はガラスジャーに保管しているスパイスを並べる。
「セイロンシナモンは普通のシナモンだと思っておけば大丈夫。アニスシードはそのまま、アニスって植物の種。確かミイラの防腐剤とかに……ごめん、この情報は不要だよね」
「ああ、ホラーはちょっと遠慮したいな」
「苦手なんだ?」
「そうでもなかったはずなんだが……。最近は過食からの食傷気味、かな」
 呟く東の顔色はなんとなく優れない。彼の脳裏にはホラー映画好きのチームのオペレーターである少女が浮かんでいるのだが、面識のない月子には分からなかった。
「よくわからないけれど、とにかくそんな感じ。生の生姜と乾燥させた生姜を合わせて使うと風味が豊かになるの」
「成る程……スパイスの組み合わせが味の深みの理由か」
「はちみつときび砂糖も良いのかも。普通の砂糖とは甘さの種類が違うし」
 このレシピを考えたのは月子ではなく祖父だ。東と一緒においしさの理由を考える。
 小さい頃につくってもらったときは、シナモンやカルダモンが原因の独特のクセが薬のようで好きになれなかったが、大人になってから飲んでみれば逆にそのクセがおいしく感じられて不思議だった。そういう意味ではカフェ・ユーリカのジンジャーエールは大人向けなのかもしれない。
「あ、よかったらそのジンジャーエールが好きっていう後輩さんも、機会があったらぜひ連れてきて。飲み慣れてるひとがどう思うか知れたらうれしい」
「…………うん、まあ、いいかもしれない」
「その微妙な間はなに?」
「何でもないよ」
 ジンジャーエール好きの後輩について聞き出そうとしてみるが、東の口は固かった。月子が想像する、ボーダーでの東の後輩――東より年下の隊員といえば人懐こい迅だが、彼とはまた違うタイプの人間なのかもしれない。どちらにしろ、無理に聞き出すことでもない。
(あ、迅くんはなんて言うかな)
 まだジンジャーエールを飲んだことのない常連客の姿を思い浮かべる。見た目はすっかり大人だが、内面はどうやらまだまだ子どもっぽいところがある――と月子は思っている――迅はあまり好きになれない味かもしれない。
「しかし、スパイスか。少し意外だった」
「生姜も胡椒も、一応スパイスだとは思うんだけど。あと、ジンジャーエールにスパイスは実はそんなに珍しくもなかったり」
「まあ確かにスパイスといえばスパイスだけどな。……そういえば、生姜は古事記にも出てくるらしいぞ」
「あ、知っているかも。ええっと、何だっけ、確か……はじかみ、って呼んでたのかな? 山椒もその頃にはあったはず」
「詳しいな。流石カフェのマスター」
 優秀な人に褒められるのはそう悪い気がしなかったが、別にカフェのマスターだから知っていた知識ではないので訂正をいれる。
「大学、日本文学やってたの。古事記は友達がやってたんだけど、研究の悩みとかも訊いてたし、たまたま覚えてて」
 だから知っていたのは偶然だ。そう付け足すも、東は褒めた言葉を撤回しなかった。覚えているならそれはそれですごいだろう、ということらしい。
「けど、文学部だったのか。てっきり経営や経済かと」
 それか調理や製菓の専門学校、というのも、カフェ店主の学歴としては思い浮かぶだろうか。月子も同じことを思いはするので、気持ちはよくわかる。
「大学を選んだ頃は、自分が店を継ぐことなんて……継げるなんて、思ってなかったから」
「ああ、成る程な……確かに俺も戦史を研究することになるとはあまり考えていなかった」
「東くんは学部のときの専門は何だったの?」
「普通に日本史学だったよ。院に入って、種類は狭まったが時間や国の範囲は広まった感じだな。理系も好きだから、そっちの勉強もしてるけど」
 気が合うとは思っていたが、大学の専門まで似通っている。もちろん、文学と史学では畑違いだけれど、意外と文献が重なることもあるのだ。その作品や作家が生まれた時代を知らずして文学は語れない。
 理系に関して言えば、月子も化学が好きだった。おそらく『化学は料理に通ず』とかつて祖父が幼い月子に教えたせいだが、東との共通点には変わりない。
 それでか、と月子は妙に納得させられたのだけど、東も同じのようだ。すっかり論文には手をつけず、ペンも離して月子との会話とジンジャーエールを楽しむ姿勢になっている。
「仰木の専攻は?」
「古典、特に百人一首」
「……これまた意外な」
「なにおう。いいじゃん、百人一首」
「いや、渋いと思ってな……大学に入ってからはまった感じか?」
「ううん。どちらかといえば百人一首で古典にはまった方」
「ああ、よく正月とかに歌留多をやるから、そこから?」
「それも一応あるけど、どちらかといえばおじいちゃ……祖父の影響かな」
 とは言っても、直接祖父から百人一首を教えてもらったわけではない。そのことを伝えると東は興味深そうな様子で月子を見つめる。
「入り口のところ、蔦っぽいのが這ってるでしょ。あれ、蔦じゃなくてテイカカズラっていうの」
「ああ、あれか。ちょっと前に花が咲いていた」
「そう、それ。父から、あれを植えたのは祖父だと訊いていて……あっ、お店は庭も含めてほとんど祖母がデザインしたみたいなのに、あえて祖父が植えたっていうから印象に残ってたんだけど」
「おじいさんがテイカカズラを植えた理由っていうのが、何かあるのか」
「うん。テイカカズラって名前は百人一首を編纂した藤原定家からきてるのね。それで、どうしてそんな名前がついたかっていうと、ある伝説があるからで」
「伝説?」
「藤原定家は式子内親王という方を愛していたんだけど、死後も彼女のことを忘れられず、テイカカズラに生まれ変わって彼女のお墓に絡みついた、っていう伝説」
「……それは、また」
 ちょっと微妙な表情になる東の気持ちが分からないわけではなかった。
 執念というか、執着というか……死んでしまっても現世に形を変えて舞い戻り、絡みつくのは少しだけ恐ろしいものがある。
 実際、伝説を元にした能『定家』では、テイカカズラに巻き付けられた式子内親王は成仏できずに苦しんでいるし、解き放たれたいと旅の僧に訴えてもいた。
 けれど月子は、そんな謂れのあるテイカカズラを厭ってはいない。
「で、祖父がテイカカズラを植えたことなんだけど」
「うん」
「祖父がそれを植えたのは、祖母が亡くなってからのことなの」
「……うん」
「それはまた何と言うか、みたいな顔だけど、別に祖父に薄暗い執着心があったわけじゃないと思うよ……思いたい。
 ……祖母は元々、この国の生まれの人じゃなかったみたいだし、祖父にとって、この店は祖母との大切な場所だから……魂とまではいかなくても、繋ぎとめたい何かがあったんじゃないかな」
 月子は知っている。祖父がテイカカズラを手入れする横顔は、いつも少し寂しげで、けれど穏やかなものだった。祖母が植えたというクチナシの低木を、そして祖母がつくった〝カフェ・ユーリカ〟を、なによりも大事にしていた。
 たぶん、月子には想像できないような想いが、そこにはあったのだろう。
 世界中を旅している祖父にそのことを訊く機会はなかなかないし、訊いたところで理解できる自信もない。もう少し、藤原定家や祖父のように一生の恋とでもいうようなものをしてみれば、変わるのかもしれないけれど。今のところその予定はなかった。
「……とまあ、テイカカズラについて調べた結果、藤原定家を知って、そこから式子内親王との恋と、やり取りした和歌も読んで、藤原定家の好きな歌が選ばれたっていう百人一首に興味を持って、古典の世界にはまった、っていうこと」
 改めて振り返ってみると、テイカカズラが――祖父と過ごした日々が月子に与えた影響は、とても大きい。なにせ大学の専攻を決めてしまうぐらいだ。カフェ・ユーリカを継ぐ前は一年ほど文学が関係ない一般企業に勤めていたので、人生において学部の影響など些細かもしれないが、少なくとも大学に通っていた間、月子はとても楽しかった。祖父に感謝していることのひとつだ。
「一つの物語を聞いた気分だ」
「私と百人一首にまつわる、間違いなくひとつの物語ですよ」
「それは確かに。仰木はけっこう面白い人生を送っているよな」
「祖父に比べたらぜんぜん平凡だよ」
「仰木のおじいさんは話を聞く感じそうだよな。まあ、俺も人のことは言えないかもだが」
 苦笑する東に「そうだと思うよ」と月子は心から同意する。大学院とボーダーの二足わらじの東は、ボーダーでも研究……と思いきや、近界民から三門を守る防衛隊員の一人だ。噂によると、凄腕の狙撃手なのだとか。
 初めて耳にしたときは信じられなかった月子だが、今では本当のことなんだろうと思っている。そういう面白い人生を歩んでいるところも、気が合う理由なんだろうなと何とはなしに考えた。月子自身は平凡でも、周囲には祖父をはじめそういう人たちが多い。


「悪い、すっかり遅くなったな」
「いえいえ。ホットコーヒーたくさんおかわりしてくれてありがとう」
「おかげで何とかなったよ」
 東は広げていた資料とメモ帳をまとめて鞄に仕舞う。十八時二十五分、クローズの時間ぎりぎりまで使って論文はまとまったらしい。
 月子も論文をやらなければならない東と会話を楽しんだという自覚と罪悪感があるので、論文が無事にまとまってほっとした。しかも、お客さんが気心知れた東だけになってからは自分も読書などを楽しんでいたので、待っている時間も苦ではなかった。
「これからボーダー?」
「ああ、ちょっと上から呼ばれててな」
「そう。気をつけて。……あ、もしよかったら、城戸さんにまた、ご来店お待ちしておりますって伝言を頼んでもいい?」
「普通なら無理と断るところなんだが……最近、城戸司令の隈がやばいって話は出てるからな。伝えておく」
「やっぱり。そんな頃だと思って。じゃあ、よろしく」
 伝言を届けてもらう代わりにちょっとだけお代をサービスして、帰り支度を整えた東をカウンターから出て見送ることにする。
 からんっ、という音と一緒に、日が落ち始めた夏の夜の気配が頬を掠めた。
「あ、そういえば来週の日曜の夜、空いてるか?」
「店を閉めた後なら」
「月曜の朝も?」
「空いてるね、定休日だし」
「だったら久々に飲みにいかないか? 旨い刺身を出す店があるんだ」
「刺身! いいね、いこう」
「そう言うと思った。じゃあ、八時に駅……はきついか?」
「こんな服装でよければ余裕」
 勤務中の月子の服は黒のスキニー、日によって色や柄を変えるシャツ、上から黒のエプロンだ。お洒落とは言えないかもしれないが、人前に出て恥ずかしい格好もしていない。薄化粧なので、口紅ぐらいは引き直すつもりだが。
「エプロンだけ外してもらえば」
「いやそれは流石に外すよ?」
「よし、じゃあそれで頼む」
「了解。いつも誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ。じゃ、また」
「またね。
 ――ありがとうございました」
 最後は店主としてお辞儀をして、月子は東が角を曲がるまで見送った。薄暮の風にあたりながら来週の飲み会に思いを馳せる。東と飲みに行くのはそう珍しいことではないが、そもそも、月子にとっては飲みに行くこと自体があまりないことだ。中高を三門市で過ごしたものの、大学進学と同時に外へ出た月子には、この街に友人と呼べる人は多くない。――それは、四年前の侵攻がなかったとしても。
 しかも自営業で平日休みともなれば中高時代の数少ない友人とは予定が会わず、飛び休日では大学の友人に会いに遠出するのも難しい。
 自分が狭い交友関係の中で生きていることを知っているが、孤独感はなかった。カフェ・ユーリカには祖父と祖母の面影がいっぱい詰まっているし、雑談に付き合ってくれる常連客も多い。そしてそんな常連客の中には、新しく友達になってくれる人もいる。
 恋などせずとも充実した生活を愛している月子が、テイカカズラに託すような想いを知るのはきっと無理だろう。夏風に揺れるテイカカズラに微笑みかけて、月子はクローズの作業をするために店内に戻った。

   *

「……やっぱり口に合いませんでしたか?」
 どことなく不機嫌そうに見える迅の表情を見て、月子は問いかける。話しかけられた迅はハッとした面持ちで首を横に振り「ぴりってくるの、けっこう好きだよ」といつもと変わらない声音で言う。不味かったわけではないとわかって安心するも、迅の表情は晴れないままだった。
「迅くん、何かありました?」
「……」
「……ふれられたくないことでしたらごめんなさい。でも、いつも違うように見えて……」
 月子が眉尻を下げながら笑いかけると、迅はきゅっと眉間に皺を寄せる。いつもそんな顔をしていた父を思い出したが、迅がそれを浮かべていると慣れているはずの表情でもひやりとした。
「そういえばさ、月子さん」
「はい」
 そういえば、と突然話を変えられてしまったけれど、素直に応える。ふれられたくないと迅が思ったのなら、ふれるべきではない。
「こないだ、本部の隊員が東さんとデートしてるとこ見たって言ってたけど、付き合いはじめたの?」
「えっ⁉ デート⁉」
 予想していなかった言葉に素っ頓狂な声が飛び出た。迅の来店時は他に客がいないというジンクスが今日も守られていて、本当によかった。
「そいつが東さんのファンらしくって、なんか言ってたから」
「それは申し訳ないことをしちゃったな……。東くんとは普通に友達だし、この間は飲みに誘ってもらっただけだよ。にしても東くん、ファンとかいるんだね、すごいな……」
「ふーん、そっかそっか。あ、ちなみにファンって男だけどね」
「男なんだ⁉」
 東を好きな女の子に勘違いさせてしまったかもしれない、なんて思っていた焦りが驚きで上書きされすっかり敬語が抜け落ちていたが、それを指摘してくれる人はいなかった。
 「男なんだ……」とうわ言のように呟いていると「そう、男だよ」と迅がにこやかに告げる。気がつけばすっかり機嫌が治っていて、月子は自分の狼狽ぶりがよっぽど愉快だったのだろうかと首を傾げた。
「でも、勘違いで傷つかれたわけではないのでしたらよかったです」
「ほんと、よかったよかった」
「とりあえず、その方には勘違いですと何卒お伝えください」
「よおーく言って聞かせておくから安心して」
 やけにしっかり言い聞かせてくれるつもりのようだ。いや、そこまでしなくてもという言葉は何故か紡げず、月子は「よろしくお願いします」と頼むのが精一杯だった。


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