ブレンドコーヒー

 淑やかなジャズの旋律に、こり、こり、とミルが珈琲豆を挽く音が重なってとけあう。月子は手挽きミルのハンドルをゆっくりと回していた。そうしながら、手のひらに伝わる震動も、弾けるように広がる珈琲豆の香りも、ケトルから漏れる蒸気と熱も、パステルカラーのマカロンも――目の前にいる迅からもらった言葉も、すべて現実であることを理解する。
『好きだよ』
 低い声が鼓膜によみがえり、せっかく引いた熱が再び全身を染め直す。心臓は生まれ初めて野原を駆ける子犬のようにあちこちに跳ねていた。頭のてっぺんからつま先まで熱くって、足元はふわふわとおぼつかない。
 特等席に座る迅がグラスを持ち上げて水をこくりと飲む。そんな些細な仕草でさえ目を離せなくて、そのくせ迅がグラスを空っぽにして十数秒経つまで「おかわり入れましょうか?」という言葉を思い出せなかった。
 迅が「……できれば」とグラスを差し出したので、速やかに冷たい水で満たして返す。別のコップに自分のぶんも入れた。こくこくと飲み干してようやく、喉がからからに渇いていたことを自覚する。きんと冷えた水が熱っぽいからだにじわじわ染みて、すとんと馴染んだ。
 珈琲を飲みませんかと提案したのは、迅の表情が浮かないままだったから――沈みそうな気持ちを掬い上げたいと思ったからだけど、どちらかといえば自分にこそ時間が必要だったのかもしれない。自分が落ち着いていないこともわかっていなかった。
 こりこりと豆を挽きながら、迅のことを考える。
 好きなひとの、好きなひとが、自分だなんて――。
 迅が自分を好きかもしれないと、考えたことがまるでないわけではない。そもそも月子が自分の気持ちに目を向けたきっかけでもある。けれどまさか、本当に、好きになってもらえるだなんて思っていなかった。いや、信じていなかったと言うべきかもしれない。月子はずっと、そういうものを疑ってきたから。
 言葉の意味を理解はしても、まだ信じきれていないところもある。奇跡か魔法でも目の当たりにしてしまったような……いっそ白昼夢を見ていると言われたほうが納得できるくらいだ。
 でも、これを信じないことはできない。作業台の隅に置いたマカロンを見る。
 淡い色彩がかわいらしいそれを迅がつくったのだという。誰かのためになにかをつくるという行為は、言葉を紡ぐ以上に雄弁な行いだった。自分もそうだからこそ、わかる。どんなことを考えていたのかまではわからないけれど、迅が自分への気持ちからつくってくれたことは確かだ。
 ――それは、とても、うれしい。
 足元がおぼつかないのは、よろこびに酩酊しているせいだけれど、この先のことを何も想像できないからでもある。初めての街に放り出されたような不安に付き纏われていないといえば、嘘になる。
 でも、うれしい、というだけでいいのかもしれない。たとえばつないだ指先の温もりだけを信じて歩くような、そんなばかみたいなことをしたって。
 ミルのハンドルがふっと軽くなって、豆がすっかり挽けたことを伝えた。手をとめると、青い瞳はそうすることが自然なことであるかのように月子に向けられる。たったそれだけのことで途端に熱くなる頬に気付かれていなければいいけれど、たぶんそれは無茶な願いだろう。
「今日の豆はどんなの?」
 迅がそれを訊ねたのはもしかしたら気遣いなのかもしれなかった。月子は珈琲のことならいくらだって話せるから、途切れた会話が続くように。でも、今の月子にとってはちょっとだけ答えにくい問いだ。
「……迅くんには〝ユーリカ・ブレンド〟について話したことがありましたよね」
「滅多に豆が揃わないから裏メニュー扱いになってるやつ?」
 迅がさらりと答える。覚えているとは思わなかったからびっくりした。顔に出ていたのだろう、迅はちいさく笑う。
「飲ませてもらう約束だったから……今日の豆が、それ?」
「いえ、残念ながら……」
 いちばんに連絡する、確かにそう約束した。迅を呼び寄せる口実に成り得たものが、今日までにこの手に与えられなかったのは幸運だったのかもしれないと思う。
 だって、ユーリカ・ブレンドはほんとうにおいしいから――あっちのほうがおいしいと思われたら、悔しい。負けず嫌いな自分に笑みをこぼす。
「今日のブレンドは、私がつくったんです」
 月子さんが、と迅が囁いた。
 カフェ・ロワイヤルを淹れたときに祖父から止められていると話したから、そのときのことを思い出しているのだろう。あのときはまだ、月子は自分がブレンドした珈琲を誰かに飲んでもらうことなんて想像していなかった。
「どんな味なのかは……飲んでからの、お楽しみということで」
 ぐらぐらとケトルの中でお湯が沸いている。月子はまずドリッパーとサーバー、それから揃いのカップを二脚、あたためた。少々沸かしすぎてしまったので、適温になるまでしばらく待つ。差水してもよいのだけれど、ゆっくりと待っていたかった。
 深呼吸すると挽きたての豆の香りが肺に満ちる。月子は改めて迅を見つめた。
 こっくりとした暖色の光に照らされて艶めくカウンターと、陽だまり色のやわらかな髪、春の空と同じ青い瞳。淑やかな音楽の調べ、珈琲の香りとキッチンの温もりが伝わる、けれど近すぎも遠すぎもしない距離。カフェ・ユーリカの特等席に座る青年は、この場所にしっくりと馴染んでいる。そう思えるだけの時間を重ねてきて、そのすべてが月子にとってかけがえのないものだった。
 心地よい沈黙のなか、月子は丁寧にドリップをはじめる。まずはフィルターに豆を詰めて、平らに均す。温度が落ち着いたお湯をほんのすこし注げば、挽きたての豆はむくむくとふくらんだ。小さな気泡が現れてはほっと息つくように消えていく。抽出された珈琲がこぽこぽとやわらかなリズムを奏でた。
 三回目のドリップまで集中を切らさずしっかりと見届けて、まだお湯が残っているうちにドリッパーを外す。あたためたカップに注げばやわらかな黒がつやりと光を反射した。
「お待たせしました、ブレンドコーヒーです。ミルクもよく合いますよ。……あの、隣で飲んでも、いいですか?」
 迅の前にソーサーにのせたカップを置いてから訊ねれば、迅は驚いたように動きを止めたあと、こくりと頷いた。月子ははにかみながらお礼を告げて、自分のぶんの珈琲と迅がくれたマカロンを手にとる。
「それ食べるの?」
 思わず、といったふうに迅が声をあげた。
「せっかくですから……写真も撮っていいですか?」
「いい、けど……」
 迅の頬が少し赤い。月子はなんだかいいものを見た気がした。いや、間違いなくいいものを見たのだ。愛おしくてたまらないものを。
 月子がカウンターを回る間、迅は特等席で身動ぎもせず待ってくれた。先に飲んでいてもよかったのに、と思うけれど、一緒に飲みたいと考えてくれたのはうれしい。月子が特等席の隣の椅子に腰掛けると、迅がゆっくりとカップに手を伸ばした。
「いただきます」
 あんまり見つめていると迅が緊張するだろうか。月子はスマートフォンでマカロンの写真を撮りつつ、意識だけを隣に向ける。
 ふーっと湯気を散らした呼吸の音も、こくりと鳴った喉の音さえも、月子の耳は注意深く拾った。
「……おいしい」
 ぽつり、と囁かれた言葉にぱっと顔を上げる。隣を見たら、迅もこちらに顔を向けていた。思いのほか距離が近くて、一瞬息が詰まる。でも、すぐにそれよりもずっと大きなよろこびに包まれて、表情は取り繕う暇もなく緩んだ。
「よかった! 迅くんがそう言ってくれるなら、大成功です」
 この珈琲は、祖父のユーリカ・ブレンドのように、珈琲が苦手なひとでもおいしく飲めて、なのに滅多にお目にかかれない、魔法のような珈琲ではない。
 酸味は控えめに、苦みはほどよく、クセは少なく。豊かなコクと甘み、そして香りたつ珈琲のアロマはやさしく包み込むようなものを。味わいはまどかにまるく、調和がとれている。とはいえそれは、裏を返せば際立った個性がないということでもある。
「このブレンドは、ユーリカ・ブレンドみたいに、なにか特別な豆を使ってるわけじゃないんです。正直に言って、何か尖ったところのある……個性のある味わいではないでしょう?」
「おれは、飲みやすくておいしいって思ったけど」
「ありがとうございます。迅くんにそう思ってもらえるようにつくったブレンドなので、うれしいです」
 月子もひとくち珈琲を飲む。おいしく淹れられたとは思うけれど、目立つところのない平凡なブレンドだと自負していた。でも、迅に淹れる珈琲はそれでいい――それがいいのだ。
 祖父が教えてくれた、おいしいブレンドコーヒーをつくる秘密はたったひとつだけ。
 それを飲む人に、どんな時間を過ごしてほしいか、よくよく考えること。
「豆は、めずらしさではなくて、なるべく、いつだって手に入ることを基準に選びました。迅くんが飲みたいなって思ったときに、いつでも淹れられるようなものにしたくて……この先、どんなことがあっても」
 この街が戦場と隣り合わせであることを、月子は理解せざるを得なかった。カフェ・ユーリカがなくなってしまう可能性だって、自分が迅の隣に居続けられない可能性だって、全くないとは言えない。
 だからこそ、いつでも飲めて、どんなときでも飲みやすくて、ほっと安心できるような、ふかふかの毛布で包み込むような珈琲をつくりたいと思ったのだ。そういうありふれた、けれどかけがえのない時間を、迅と過ごしたかった。
「……これ、おれのためにつくったってこと?」
「はい。迅くんにおいしいって思ってもらいたいと……迅くんにとって、いちばんおいしい珈琲を淹れられるひとになりたいなあって、思ったので」
「もうなってるのに」
 青い瞳がやさしく緩んだ。心からそう思ってくれているのが伝わって、これまでとはまた違う気恥ずかしさが込み上げる。珈琲のこととなると途端に軽くなる口を少し恨んだ。
「あ、ありがとうございます……マカロン、いただきますね」
 月子はそそくさとリボンを摘み、マカロンのラッピングをほどく。話題逸らしではあるけど、なるべく早く感想を伝えたいとも思っていたのだ。月子もそうであるように、誰かのために何かをつくったときは感想を訊くまでずっと不安になるものだから。
 迅は「口にあえばいんだけど」と照れと不安が入り混じった眼差しを月子の手元に向けた。
 ひとまず、いちばん手前にあった薄ピンクのマカロンを手に取る。生地は焦げ目ひとつなくきめ細かく焼きあがっていた。マカロンの特徴である、縁の泡が固まったようなピエもしっかりとある。ドレスのフリルのように華やかだ。間に挟まっているのはバタークリームのようだ。赤い粒はドライイチゴかラズベリーだろう。
「ほんとうにおいしそう……」
 惚れ惚れとマカロンを見つめていると、隣から「ごめん、ほとんどレイジさんがつくってる」と説明が入った。でも、迅もつくってくれたことには、そしてこれを迅が贈ってくれたことには変わりない。
「いただきます」
 小さく呟いて、マカロンをひとくちかじる。かしゃ、と薄い表面が儚く割れて、しっとりとした生地となめらかなクリームがくちびるにふれる。こっくりと甘いバタークリームにイチゴの甘酸っぱさが利いていて華やかな味わいだ。もうひとくち、と頬張る。クリームと生地はまざりあって、体温でやわらかにとろけていく。
 いろいろなマカロンを食べたことがあるけれど、とくべつ、おいしい。
「おいしい……! とってもおいしいです、迅くん!」
「よかった……」
 迅の囁きには安堵以外の何か、諦めにも似たものが滲んでいたけれど、それはすぐにきれいな笑みに覆われた。迅は感情を隠す癖がある。それが悪いことだと、月子に断じることはできない。きっと必要なことなのだろう。
 ――だから、嫌われたくないというあの囁きを聞けたことは、奇跡にも等しい幸運だった。
 おそらくあれは、月子に聞かせるつもりはなかった言葉だ。だけど、聞けてよかった。同じことを考えていたからその気持ちはよくわかったし、なにより、同じ欲を持っていることがわかったから。
「……私、迅くんに謝らなければならないことがあって。前に、迅くんに楽しい時間を過ごしてほしいって言ったの、覚えてますか?」
「覚えてるよ」
「それも決して、嘘ではないのですが……。実は、ちょっと欲張りになろうと思っていまして」
 意識的に笑みをつくったのは、まぎれもなく強がりだ。
「できればずっと、迅くんと一緒にいたいな、って。一番になれなくても、言ってもらえることが少なくても、不安になっても――」
 迅が気にしていたことに、ひとつひとつ答える。だって月子は、それでもいいから、自分を選んでほしいのだ。一緒にいたい、ただそれだけだ。
「――もっと欲を言えば、嫌われても、一緒にいたいです」
 なんて、なんて身勝手な言葉だろう。
 罪悪感がちくちく心を咎めるが、でも、嘘偽りのない言葉を紡ぐことはどこか晴れ晴れしくもある。嫌われることが怖くて動けなくなるよりは、ずっといい。
 迅の青い瞳はまあるく開かれていた。嫌だと言ったら引き下がると約束したじゃないか、と謗られても仕方ないのだけれど、迅の顔に怒りはない。驚きと、それから見間違いでなければ、よろこびがある。
「……でも、私だけ欲張りなのはフェアじゃないと思うので……できれば迅くんも欲張りになっていただけると、とても助かります」
 月子はそれだけ言って、迅の返事を待った。迅のくちびるが開いて、閉じる。はく、と音にならない呼吸が繰り返されて、言葉というかたちを失った感情がこぼれていく。
「……、……月子、さんって、容赦ないな」
「えっ……」
 絞り出すように告げられた言葉は予想外のものだった。でも、どれが失言だったのかは心当たりが多すぎてわからない。月子がおろおろと視線を彷徨わせると、迅がふっと笑った。肩の力の抜けた、いつもの、迅の笑い方だった。
「――ああ、もう、おれの負けだ」
 迅が頬杖をつく。まなざしも体の向きも、月子だけを向いていた。じっ、と視線が絡む。もう片方の手がゆっくりと自分へ伸ばされるのを、月子は不思議な気持ちで見つめた。
 彼は、私にふれようとしている。
 かさついた指先がそっと頬を撫で――その熱が離れようとするより早く自分の手を重ねた。手のひらに震えが伝わる。震えごと迅の手を包んだ。
 迅の手がすっぽりと月子の頬を覆っている。大きな手は、月子の華奢な指先ぐらい振り解けるのだろうけれど、そうはならない。瞳に熱がこもった。かさついた指先が目尻を撫でる。
 体温も、とくとくと脈打つような鼓動も、なにもかもが伝わってくるし、伝わっているのだろう。
「……ずるいことしてごめん」
 低い声が鼓膜を震わせる。意味がわからなかった。ずるい、と言われたのは月子のほうだ。でも、迅も、ずるいことをしていたらしい。熱をもってまとまらない思考では、迅がどの行いを指して言っているのか理解できなかったけれど、でも、なんであろうと月子の答えはひとつだった。
「ずるくても、すき」
 かつて迅にもらった言葉を、そっくりそのまま返せることがなんだか無性にうれしかった。
 青い瞳がまたたいて、ふっと緩む。同じ時間を思い出している。
 あのときの迅は、今の自分と同じ気持ちだったのだろうか。訊きたい気もしたけれど、それはつまり、いつから自分を好きだったのかという問いになって――とても今は受け止めきれる気がしない。
「……迅くんに見つけてもらえてよかった」
 気がつけばそう口にしていた。月子が迅と出会ったのは、初夏の日の十字路だった。迅は誰かと自分を間違えたのだという。間違えてもらってよかったと思う。あの日、このひとの視界に入れてよかった。そうでなければこの胸にあるあたたかな感情を、月子は知らないままだった。
 迅はしばらく黙ったあと「うん」と頷いた。見つけられてよかった、と囁く。
「あのさ、」
 ほんのすこし、頬にふれる手に力がこめられた。
 青い瞳がぐっと近付く。カフェ・ユーリカに満ちる珈琲の香りではない、春の風のようなさわやかなにおいがした。陽だまりと同じ色のやわらかな髪が肌をくすぐる。
「おれも、月子さんが……月子さんだけが、いい」
 耳元で響いた声に心臓がきゅっと締め付けられて、息をするのも難しい。
 痛いくらいに苦しくて、知らない感覚はどこか恐ろしくもあって――でも、それはもう、いやなことではなかった。
 迅の指先がするりと耳のうしろへと回る。ちいさな吐息が肌を掠めた。

「……、月子さん?」
 ふに、と指先にふれるやわらかなものは迅のくちびるだ。迅がぽかんとした顔をしているけれど、月子にはそれを慮る余裕もなかった。これ以上ないくらい熱が上がり切って視界がぐるぐると回っている。
 迅が何をしようとしていたのかわかっている。わかっていてふたりの間に手を挟んだのだ。その意図に気付いた迅が困ったように眉を下げた。
「ごめん、いやだったか」
「いやじゃないです」
 反射的に答えれば、青い瞳がぱちりとまたたいた。
「ただ、あの、こういうの……つきあったり、するのは……迅くんが、二十歳になってからでも、いいです、か?」
「なんで?」
「け、けじめです!」
 迅はまだ、十九歳だ。四月にやっと二十歳になる。たった一ヶ月にも満たない差にこだわるなんて、他人から見ればさぞ滑稽に違いない。自分でもそう思う。他人の目を気にするなら口をつぐめばいいだけだともわかっている。衝動に身を委ねてみたい気持ちも、ある。
 だけど筋を通したかった。責任を果たしたかった。これから先、誰にはばかることもなく迅を好きでいるために。
 でも、どんな思いがあろうと迅を拒絶したという構図は変わらない。これは月子のわがままだ。さっそく嫌われるようなことをしたのでは、と気付いたとき、迅が笑った。
 月子の肩に額を押し付けるようにして俯いた迅が、声をあげて笑っている。笑みに彩られた震えが直接響いて心臓を揺らした。
「――わかった」
 くぐもった声が聞こえた。迅は笑いながら「いいよ、わかった」と繰り返す。
「……いいんですか?」
「決意を揺らがすようなこと言わないでよ」
「す、すみません」
 悪いことをしてしまった、のかもしれない。申し訳なさでいっぱいになっていると、迅の指がとん、と頬をやさしくたたいた。撫でるようなそれが、落ち込まないでと告げている。顔を上げた迅は微笑んだまま囁いた。
「冗談。大丈夫、ほんとにわかってるよ――言われてみれば確かに、おれが好きな月子さんってそういうひとだから」
 仕方ない、と告げる迅はこのうえなく楽しそうだった。
 わけもわからないまま涙がじわりと滲む。迅が焦ったように顔色を変えた。首を横に振って大丈夫だと伝える。なにもかもを受け入れてくれたことが、例えようもなくうれしかったのだと気付いた。
 それからの月子の行動は、すべて衝動によるものだった。椅子を降りて一歩詰め、ぎゅっと抱きしめる。勢いは有り余っていたけれど、迅は確かに月子を受け止めた。受け止めてくれたから、頬から離れた熱が惜しかったのはほんの一瞬で済んだ。
 数秒の沈黙のあと、衣擦れの音が響いた。迅の手が背に回る。抱きしめ返されて、熱と鼓動は互いの区別がつかないくらいにまざりあう。
 ああ、もう、なにもこわいことはないな――なにひとつ根拠はないのに、そう思った。
「……これはいいんだ」
 迅が呟く。月子は「……いい、ということにさせてください」とだけ答えた。


close
横書き 縦書き