カフェ・ユーリカ

 三門市、界境防衛機関ボーダー本部を中心とした警戒区域のほど近く、旧くからの家が建ち並ぶ街の片隅。そこにあると知らなければ足が向かないような住宅街の一角に〝カフェ・ユーリカ〟はさりげなく佇んでいる。
 赤煉瓦色のうろこ屋根が目印の二階建ての洋館は、今日もそこにあった。白い漆喰の塗り壁をテイカカズラの青々とした葉が飾り、傍らの低木は純白の花を咲かせている。ドレスのフリルのように繊細に花弁を重ねたクチナシの花が甘やかに香り、初夏の昼下がりに目に見えない彩りを添えていた。
 大きな窓から中を窺えば、一目で居心地がよいとわかる空間が広がっている。長く使い続けてきただろう木目が美しいカウンターに、木製家具を基調したインテリア。壁にかかるいくつもの絵画と、本棚に並ぶ分厚い背表紙、そっと飾られた観葉植物と花。それらをオレンジの光がやわらかに照らすさまは、夕陽に重ねる懐かしさに近いものを感じる。郷愁とも愛着とも呼ぶべきそれは、帰る場所に抱くものでもあるのだろう。
 石畳が敷かれた入り口、瀟洒なステンドグラスがはめこまれた扉を開けば――からんっ、と軽やかなドアベルの音色が響いた。


 細い注ぎ口のケトルを持ち、月子はひとつ深呼吸をした。挽き立ての珈琲豆の香りが肺に満ちて、頬がほころぶ。心を落ち着かせてから、ドリップをはじめた。
 まずは少量のお湯を静かに注ぐ。乾いた珈琲豆はたちまちお湯を吸ってむくむくと膨らんで、芳醇な香りがさらに濃くなる。表面にふつふつと浮かんだ細かな泡のひとつひとつに目を向ければ、豆が持つ油分によってうっすらと青とピンクに光っているのが見える。ドリップをはじめたときの、この瞬間が月子は好きだ。
 数十秒が経過したら、ドリッパーの中心へ向けて、円を描くように細くお湯を垂らす。最初は多めに、手の感覚で湯量を測りながら。こぽこぽとサーバーに滴る珈琲の音が、ゆっくりと変化する。ドリッパーの中の水位が少し下がったら、先ほどよりも少ないお湯を足して、それをもう一度繰り返す。
 ケトルをコンロに戻し、お湯で温めていたカップをしっかりと乾拭きする。そして珈琲の抽出が終わりきらないうちにドリッパーを外した。カップをソーサーの上に置き、淹れたての珈琲をそっと注ぐ。
「――お待たせしました、季節のブレンドになります」
 目の前の特等席――照明の当たり方、音楽の聞こえ具合、焙煎され挽かれる珈琲豆の香り。すべてが完璧に調和する、カフェ・ユーリカの一等地――に座る男性に笑いかけ、珈琲を置く。
「あ、ありがとうございます」
 律儀に礼を言うこの男性客は、最近よく来る。でも、特等席に座るのははじめてだった。月子が「ミルクとお砂糖はなくてよろしかったですね」と念の為に訊ねると、ぱっと顔を輝かせて「はい、そうです」と頷く。
「……覚えててくださったんですね」
「はい。お客様の好みはなるべく覚えるようにしています……もしもそれがご不快であればすみません」
「とんでもない! むしろ、その、うれしいというか……」
 男性客は満面の笑みを浮かべていた。そして続けて何か言おうとしたのか、口を開いたが――
「月子さん、ちょっといい?」
 特等席から、空席をひとつ挟んだ隣。カウンターのいちばん端に座った青年が月子を呼んだ。男性客の口はぽかんと開いたまま固まる。一瞬の後、気まずく閉じられたそれを月子は見逃した。
 月子は「はい」と応えてから、視線を戻し「ごゆっくりどうぞ」と言い添えて男性客の前を辞する。そしてグラスに冷水を満たしてから、青年の前に移動した。月子がドリップを始める直前に訪れた彼は、目配せで『そっち先でいいよ』と教えてくれたのだ。
 やわらかなブラウンの髪は陽だまりの色をそのまま映しとったようだと思ったことがある。穏やかな青い瞳に、楽しげに弧を描いたくちびる。ラフに着崩した私服は心からリラックスしていることを伝えるようで、月子のくちびるも緩んだ。
「お待たせしてごめんなさい、迅くん」
「大丈夫。おれも約束なしに来たわけだし」
 へらりと笑う迅は本当に気にしていないようだ。月子はほっと息をついてグラスを迅の前に置く。
「来てくれてうれしいです。……今日のご注文はどうしますか? 実は〝ユーリカ・ブレンド〟の豆が揃って……迅くんにぜひ飲んでほしいな、と思っていたのですが……」
 先代店主である祖父がつくった店名を冠するブレンドは、とてつもなくおいしいのだけれど、こだわりにこだわって選び抜かれた豆が揃うのはごく稀という欠点がある。月久曰く、気候変動のせいで品質が揃わないらしい。昔はもう少し気軽に仕入れられたそうだが、今ではすっかり幻のメニューだ。
 月子が迅にユーリカ・ブレンドを淹れると約束したのも、もうずいぶんと前のことだった。いったいどれだけ経ったのだろうと心のなかで数えてみたら、積み重ねた時間にちいさく笑みがこぼれる。
「……じゃあ、せっかくだからそれで」
 ――ついに約束を叶えられる。
 それは感慨深いけれど……、月子は自分の心に生まれた落胆に気づいた。笑みで隠しながら「かしこまりました」と頷いたけれど、迅はいたずらっぽく笑って月子を見上げる。
「月子さん、今、悔しいって思った?」
「な、なんでわかったんですか」
「わかるよ。性格的に」
「性格……」
「けっこう負けず嫌い」
「そっ、そんなことは……」
 ある、としか言えない。思い当たるふしが多すぎる。
 答えに窮していると、迅が人差し指をちょいちょいと動かした。月子を呼ぶ動きだ。近くに来てほしいらしい。迅の定位置がカウンターの端になったのは、たぶん話す距離をいちばん近くにできるからだ。それが自惚れではないことを、月子は知っている。
 月子がカウンターを回って隣に立てば、迅は自分の耳を指差した。内緒の話がしたい、だ。少し迷ったけれど、今は他の注文も入っていないし、と迅の口元に耳を寄せる。
「――いつものは明日の朝に淹れてよ。……いい?」
 低い声が甘やかに囁いた言葉の意味を、月子はすべて理解できた。ふっと耳を撫でる呼吸にじわりと皮膚が熱を抱える。
 祖父のブレンドに負けたと思ったことも、夜を一緒に過ごしたいと考えていたことも、迅にはぜんぶお見通しだった。ちょっと恥ずかしい。でも、月子のことをわかってくれていて、願いに応えてくれることがどうしようもなくうれしくて、愛しくてたまらない。
「……わかりました」
 月子は頷いて、それから自分の耳を指差す。迅はぱちりと青い瞳を瞬かせたあと、笑みをこぼした。月子は迅の耳にくちびるを近付ける。
「……夜ごはんになにを食べたいか考えててくださいね」
 ぱっ、と距離をとる。仕事の時間に私情を持ち出すのはあまりよくない。迅が少しだけ恨みっぽく月子を見ているのは、囁くと同時に仕掛けたいたずらのせいだろう。負けず嫌いなので、と目配せで返した。
 カウンターの内側に戻り、ユーリカ・ブレンドの準備をはじめる。数種類の豆を計量してブレンドをつくるところから始めなければならない。小数点単位で計量できるスケールを作業台に置き、ふと顔を上げると特等席に座る男性客とばちりと目があった。しかしすぐにさっと目を逸らされる。
 男性客は珈琲を飲みながら、横目で迅を窺っているようだった。その視線を追って月子も迅を見れば、今度はこっちと目があった。口の端を持ち上げるような笑みを浮かべて月子を見つめている。
 ――もしかして、迅は月子が男性客と話すのが嫌で、わざとあのタイミングで声をかけたのだろうか?
 思い至った考えは、少し前の月子ならそんなわけがないと否定したようなものだった。でも、あとで訊いてみようかな、と今の月子は思う。迅がどう答えるのかわからないけれど、そのときに月子も、迅が誰かと話していると嫉妬しそうになることを打ち明けてみよう。そうなってしまう自分を不甲斐なくも思うけれど――あなたが好きで、大切なのだと伝える機会は逃せない。
 淑やかなピアノジャズに耳を傾けながら、豆を計り、選別する。
 迅が気付いたとおり、本当はちょっと、自分のブレンドを飲んでほしいと思っていた。選ばれたいと思っていたのだ。でも、どんな豆を使うにしろ、営業中だろうとクローズ後だろうと、好きな人のために珈琲を淹れられる時間は月子にとって何にも変え難い大切なひとときだから。
 この日々がこれからも続いて、誰よりも大切な人の心をやさしく抱きしめられるように祈りながら――月子は迅のためだけに、一杯の珈琲を淹れた。


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