マカロン

 アスファルトの亀裂から萌黄色の芽が顔を出している。迅はその頭上を跨ぎ、晴れやかな空を見上げた。
 ふわふわの綿菓子をちぎって散らしたような雲が、澄んだ青をぐんぐんと進む。陽光は凍てついた大地をやわらかく照らし、春を告げる風がごうっと街を撫でて背を押した。左手に持った紙袋がかさりと揺れて攫われそうになる。飛んでいかないように抑えながら、いたずらに乱された毛先を視界の片隅に収める。
 風が過ぎゆく一瞬は寒かったけれど、ほわりと緩んだ空気はあたたかい。緑と花の香りが光に滲む。平穏を絵に描いたような、麗かな春の日だった。
 あの日――初めて彼女を見つけたときみたいに、駆け出してしまおうか。そう思うたびに追い風が吹いている気がする。そして、やっぱり引き返そうか、と考えれば向かい風が。三門市を席巻する春一番は北に向かって吹いているのだから、そんなのただの気のせいで、迅が向いている方向の差でしかないはずだけれど。
 目を瞑っても歩けるだろう慣れた道を、迅は風に急かされながらもゆっくりと進んだ。一歩一歩、それが自らの意志であることを刻みつけるように。
 もしもポケットに入れた端末が震えて誰かが迅を呼び出したならそれに応えるつもりだった。でも、そうはならなくて。
 常緑のテイカカズラによる瑞々しいカーテンを見つけて、くちびるは勝手に笑みをかたちづくる。
 ステンドグラスが春の陽にきらきらとかがやいていた。ベニヤ板で塞がれていた窓にはぴかぴかのガラスが嵌っていて、そこから中を覗けば、誰もいない。
 誰も――〝カフェ・ユーリカ〟のマスターである、仰木月子の姿も。
 ひやっと心臓が浮き上がった。寒々しいものがあばらの隙間から体じゅうに入り込み、頭が真っ白になって、次の瞬間には手足が動いた。なかば衝動的に扉を開く。
 からんっ、と。ドアベルが軽やかな調べを奏でた。
「――月子さんっ」
「はい、」
 呼びかけに応じる声は、あっけなく響く。
 迅はドアノブに手をかけたまま、声がした方向を見た。カフェ・ユーリカの特等席の奥、カウンターの内側。月子はびっくりしたように目を丸くしている。
 艶やかな飴色の髪はいつもより低い位置にあって、数秒かけて見慣れた高さに収まった。どうやらカウンターの内側でしゃがんでいて、今、立ち上がったところらしい。蒼みがかった黒の瞳は驚きつつも不思議そうに、ぴしりと固まる迅を見ている。
 いなくなってしまった。そう思い込んだ自分の視野の狭さも、焦りのままの行動も、なにもかもが恥ずかしい。別に余所見を――未来を見ていたわけでもないのに。
「いらっしゃいませ、迅くん」
 やわらかな声が鼓膜に届いた。月子は淡い色のくちびるに笑みを浮かべて、たおやかな手で特等席を示す。どうぞ、と声をかけられて、足がふらふらと動いた。
「……こんにちは、月子さん」
「こんにちは……」
 穏やかに紡がれた挨拶の末尾が震えていた。ふ、ふふっ、とこぼれおちる笑みが、じわじわと迅の頬を熱くさせる。
「……どうして笑うわけ」
「だ、だって迅くん、すごい勢いで飛び込んできたから……ごめんなさい、びっくりした、余韻です」
 釈明を囁きながらも月子が笑い収まる様子はない。どうやらなんらかのツボに入ってしまったようだった。迅は「びっくりさせてごめん」とだけ言って、拗ねる気持ちに後押しされるように特等席に腰を下ろす。
 月子とは、一ヶ月前に会ったきりだ。だからどんな顔で会おうか、どういうふうに話そうか、色々と考えてきたのに……この一瞬ですべて白紙になってしまった。でも、それでよかったのかもしれない。月子が無邪気に笑っているから。
「外から見たら、いないように見えたから」
「ああ……確かに、いないと思って入ったのに出てきたら、びっくりしますよね。こちらこそ驚かせてすみません」
 冷水で満たされたグラスが歓迎のしるしのように置かれる。橙色の光に照らされたガラスとかすかに揺れる水面が、磨かれた木目にちらちらと踊るような光のかけらをこぼした。
 申し訳ないと言わんばかりに眉を下げた月子に、迅は首を横に振って応える。
 いないよりは、ずっといい。
 今日も彼女がここにいてくれてよかった。
 そう思って、気付いた。無意識に恐れていたことが現実になってしまった気がして、だからあれほど焦燥に駆られたのだと。だとしたら、迅が今日ここに来たのは、きっと抗いようのないことだった。そうなってしまっている、ということだから。
 グラスにくちづけて、冷たい水をひとくち飲めば跳ねていた心臓も落ち着く。改めてカフェ・ユーリカを見渡した。
 あたたかな光と珈琲の香りが満ち、淑やかなジャズに包まれた空間はどこまでも穏やかだ。喧騒は遠く、侵攻の爪痕は影も形もなかった。でも、あの日に見た青い炎は瞼に灼きついて、これからも忘れることはできない。
「あたたかくなってきたので、ストーブは片付けてしまいました」
 視線の先を追ってか、月子が口を開いた。「ぜひマシュマロを焼いてもらいたかったのですが……」なんて、迅がまったく気にしていないことを残念そうに言うから笑ってしまう。
「次の冬の、楽しみにしてくださいね」
 思わず月子に視線を戻した。いたずらっぽい笑みは、迅が次の冬もここを訪れることを疑っていない。いや、信じて、願っていてくれている。
 彼女の今と未来には迅がいる。そのことを否応なしに理解して、呼吸がわずかに震えた。
「月子さんに渡したいものがあるんだけど、受け取ってくれる?」
「……もしかして、ホワイトデーのお返しですか?」
 余計なことを言ってしまう前に本題を切り出せば、月子は意外そうに目を見張った。今日は三月十四日、まさしくホワイトデーなのだから、たしょうは予想できていただろうと思うのだが。
「そんな驚くこと?」
「……いただけるとは思ってませんでした」
「なんで。去年もお返しはしたのに」
 記憶を掘り起こせば懐かしさが込み上げる。もう一年が経ったのだ。まだたったの一年しか、かもしれないけれど。ずいぶん遠くへ来たような気がするのは、月子との関係が変わったからだろう。
「だって……、」
 音にならなかった言葉の続きは、あのときは本命ではなかったので、だろうか。確かにそう思われても仕方のないことではある。高校生だった迅は迷いに迷って、プレゼントとしては恐ろしく無難なブランドのハンドクリームを贈った。自分では少々苦い思い出だ。彼女はよろこんで受け取ってくれたけれど、そこに特別な意味はかけらも見出していなかった。
 数秒の沈黙のあと、月子はきれいに笑みを浮かべて「うれしいです」と言った。お気遣いいただいてすみません、という副音声が聞こえる。間違いなく今年も義理のお返しだと思っているのだろう。律儀だ、とでも思っているのかもしれない。
「口に合うかはわからないけど」
 月子が何をどう考えているか手に取るようにわかったけれど、否定はしなかった。彼女が気付かないのなら、そういうことでいい――これまでもそうだったように。ただちょっと、迅の心臓に悪い日々が続くだけだ。
 手に持っていた紙袋をカウンターの上に置く。月子の指先が伸びかけて止まった。その瞳が、ほんとうにもらっていいんですか、と訊いている。月子さんのために用意したものだよ。とは言えずに、ただ頷いて応えた。
 華奢な指先が紙袋の中に消えて、かさり、と紙の擦れあう音が響く。一瞬の間のあとに引き出されたのは透明な袋に入ったマカロンだ。
 水彩画のようにやわらかなピンクに黄色、緑。完璧な円ではなくて、楕円になってしまった。青いリボンが蝶々結びされているだけの簡素なラッピングに、月子の手にある様子を見るともうちょっと頑張ればよかったと後悔する。
「……あの、これ、もしや手づくりですか……!?」
 自分の手の中にあるマカロンと迅を、何度も見比べて月子が言う。迅は「まあ、一応……」と頷いた。ほとんど木崎によってつくられたものだが、迅も手伝ってはいる。そのせいで楕円のマカロンとなってしまったわけだ。玉狛支部の男性陣総出の作業に一枚噛ませてもらった形である。
 迅の返事に、月子はますます落ち着きをなくした。手のひらに置いたマカロンを目線と同じ高さにまで掲げたり、下げたり、忙しない。
 ありがとうございます。うれしいです。いいんですか? 囁くような声は何度も繰り返されて、宝物を目の前にした子どものような素直な感情は的確に迅の心臓に刺さった。こういう顔を、もっと、ずっと、見ていたくて仕方ない。
 ああでも――気付かないか。
 迅がつくった、という部分に意識を引っ張られている様子だ。なんとなくそうなるかも、と思っていたけれど。残念だ、と思いかけて、いやぜんぜん残念じゃない、知らなくて当然、これでよかった、なんて言い訳を重ねて――その瞬間は、不意に訪れた。
「……あっ……」
 ちいさなちいさな囁きがくちびるから転がり落ちて、月子の動きがぴたりと止まる。あ。と、迅のくちびるからも同じ音がこぼれたかもしれない。
 じわり。色素の薄い肌に熱が灯る。
 花が次々咲くように、炎がぱちぱち弾けるように、瞬く間に頬へ、耳へ、そして首へ熱がうつっていく。真っ赤に染め上げられた肌は、ふれればちりりと火傷しそうなくらいだった。果実のように熟れたくちびるが開いては閉じて、潤んだ瞳が手の中にあるマカロンと、迅と、それから明後日の方向をぐるぐる見つめる。
 その反応でわかった。月子は、意味を知っている。
 ただの俗説だろうけれど、でも、調べればすぐに出てくることだ。レシピの歴史や由来も説明してくれる彼女なら――〝あなたは特別な人〟という意味を知っていても、少しだっておかしくない。
「あっ、あの、私、本当にこれ受けとって……いっ、いえ、迅くんは、その……ホワイトデーの、お返しの意味とか、ご、ご存知ですか……?」
 驚きと戸惑いと羞恥から一転、月子はこわごわと、気遣うように問いかけた。どうやら迅が無知ゆえにマカロンを選んだのだと、勘違いしてはいけないと己を戒める方向に思考が向かってしまったらしい。
 ――ご存知に決まってるのに。
 何も知らないまま選んだのではなくて、調べて決めたのだ。木崎をそれとなく誘導して(見透かされてしまった気もするが)、みんなでつくることでいろんなことを有耶無耶にしつつ、月子のぶんだけ別にラッピングして――気付いてほしかったから。
 だってもう、あんなに振り回されてしまうから。少しくらいは向こうを振り回してやりたいような気持ちになって、伝わらなくてもいいけど、伝わったらいいのにと思って。
 おれだってあなたが特別なのだと、伝えたくてたまらなくなってしまって。
 それにしても、いつもあんなに人の気持ちを汲み取るのが上手なのに、自分が好かれているとなると途端に疑り深くなるのはなぜなのか。すこし腹立たしくもあるけれど――でも、そういうところも。
「知ってる」
 月子の頬を染める熱が自分にもうつってきていることはわかっていたけれど、迅はなるべく平静を保った。保っているつもりで、答えた。
「えっ……で、でもそれだと、あの、迅くんが、私のこと好きみたいですが……」
「好きだよ」
 なけなしの平静は混乱する月子によって千々に散らばる。反射的に答えれば、月子は「ひっ」とちいさく叫んだあと、へなへなとしゃがみこんで、迅の視界から姿を消した。
「……月子さん?」
「…………い、います」
「それはわかるけど」
 この隙にトリオン体に換装したらうるさい心臓も静かになるだろうか。いや、つくりものの体になってなお、この熱は引かないかもしれない。確かめる余裕もない。
「だ、だって……なんっ、なんで……?」
 戸惑いの強い呟きに、どちらかといえばこちらの台詞だ、と思う。あなたがおれを好きになるなんて、そっちのほうがよっぽど信じられないことだった。
「ほ、ほんとうに……?」
「うん」
「わたし、わたしで……いいんですか?」
 訊ねられて、迅はかすかに笑みをこぼした。その問いが嬉しかったというよりは、やっぱりそれも、こちらの台詞だと思って。
 特等席に座ったままだと月子の姿はほとんど見えず、そのわずかな猶予で理性が戻ってくる。思っていた以上の反応は心をくすぐって湧き立たせるけれど、同じくらい、申し訳ないとも思った。
 どれだけ熱を持っても思考の片隅は冷えたまま――酷い自分が、嫌になる。このひとの、この感情を、いつか裏切るかもしれないとわかっていて、それがあまりにも苦い。
「……月子さんこそ、本当におれでいいの?」
 静かに問いかける。わずかな衣擦れの音が耳朶を打った。
「おれは月子さんを一番にしないし、言えないことだってあるし、不安にさせたり、傷つけることの方が、たぶん、多いよ」
 おすすめできない理由を指折り数える。そのたびにつきつき走る痛みを呼吸とともに呑み込む。
「前にも言ったと思うけど、おれは、月子さんにはもっと相応しい人がいると思う」
「いませんよ」
 噛みつくように声が割り込んだ。まだしゃがみ込んだままの月子が、声に怒りを滲ませて繰り返す。
「――あなた以外には、いません。私が好きなのは、迅くんです」
 月子が怒りをあらわにするのはめずらしい。以前も、彼女はこんなふうに怒っていた。それは迅の言葉に傷ついてではなく、きっと迅が痛みを呑み込んでいることに対して。迅のために、怒っていた。
 深呼吸が聞こえた。月子が作業台に手をつきながら立ち上がる。のぼせたみたいに赤い頬に涙が一粒だけ残っていた。今にも新たな雫がこぼれおちそうな瞳は迅をまっすぐ見つめている。
「私は、迅くんが、いいです」
 そう言うと思った。
 ゆっくりと息を吐く。諦めにも似た感情があった。動かせていた未来がもうどこにも転ばないことを理解していた。この未来を変えたくなかった自分を、認めるほかなかった。
 月子がこう答えることをわかっていたから――迅はここに来ることを、選んだのだ。
「……月子さんには嫌われたくないなぁ」
 無意識に滑落した言葉を拾って、蒼みがかった瞳は驚いたように丸まる。形を得た言葉を取り戻すこともできず、迅はゆがむ視界に映る月子を見つめた。
 嫌われたっていい。憎まれたっていい。そんなものより、より多くの人が、より良く生きる未来のほうがよっぽど重い。それは迅にとって不変の真実だ。
 そうでなければ、これまで自分が選ばなかった人たちになんて言えばいい。自分の命より、知らない誰かの世界より、よっぽど大切だったのに選べなかった人たちを――彼らの犠牲と選択の果てにある今を、迅は裏切れない。
 だからいつか、自分は月子を選ばない日が来る。嫌われることも憎まれることもあるだろう。そんな終わりが見えているから始めたくないと思った。でも、もう、それもおしまいだ。迅は始めることを選んでしまった。
「迅くん」
 呼びかけられて、自分がいつの間にか俯いていたことに気付いた。顔を上げれば、瞳に映る月子がおだやかな笑みを浮かべる。まだ熱の引かないままのくちびるが開き、やわらかな声が響いた。
「私、迅くんと自分はぜんぜん違うんだって思ってました」
 予想外の表情と言葉に目を瞬かせれば、月子はさらに笑みを深める。
「でも、ちょっぴり、似ているところもあるみたいですね」
「……似てる?」
「私も……迅くんに嫌われるのは怖いので」
 嫌いになんてなるわけない、言いかけて黙る。それを言ったら月子だって、嫌いになんてならないと返してくれるに決まっている。言わせたみたいになるのは嫌だ。
「だから、今、迅くんが私を好きだと言ってくれたことが、ほんとうに……うれしいです」
 華奢な指先がマカロンの袋に結んだリボンをそっと撫でた。心の底から愛しくて、大事なものにふれるように。
 おれも、と囁く声は低く掠れて届かなかったはずだけれど、目の前のひとはなにもかも心得たように微笑む。
「あの、話の続きは、珈琲を飲みながらにしませんか?」
 ごちそうします、と告げる月子は頬を赤く染めつつも得意気な顔をしている。潤んだ瞳が、もうすこしここにいてほしいと訴えている。これに否と言える人間がいるわけない、と思った。
「……月子さんも飲むなら」
 ぱっ、と蒼みがかった瞳によろこびにあふれて、その色がいちだん深く、美しく映える。春に咲く花のようにやわらかく、やさしい笑みが言葉よりも豊かに感情を伝えた。


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