キャラメルカフェオレ

「それじゃあ、月久さんは四月から旅に戻るんだ」
 残念そうに呟いたのは唐沢である。いや残念というより、心配そうに、だろうか。月子は冷水で満たしたグラスを特等席に置きながら「その予定です」と頷いた。
 忙しい合間を縫って訪ねてくれた唐沢には申し訳ないが、月久は席を外している。馴染みの旅行代理店へ出掛けたところだ――という会話から祖父の予定を漏らしてしまったが、唐沢相手なら月久も怒らないだろう。
「てっきりもう少しこちらに留まるかと」
「祖父はそのつもりだったようですが、私から勧めたんです」
「月子ちゃんが?」
 きょと、とその瞳が興味深げに月子を窺う。
「はい。帰ってきてくれて心強かったし、いろいろと勉強にもなりましたけど……」
「けど?」
「ずっと祖父の旅を中断させているのが、申し訳なくて。カフェ・ユーリカを継いでやっと気付いたのですが、祖父はひとつのところでじっとしていられない人なんです」
 月子にとって、祖父とはカフェ・ユーリカのマスターと同義だった。月子の知る限り、月久が自分の都合で定休日以外に店を空けたことはない。
 けれど、若い頃は父と同じく世界中を旅していたというのだから、旅好きは筋金入りである。そうなると、何十年とひとところに留まって、日々欠かすことなくカフェ・ユーリカを営んでいたことのほうが、仰木月久という人間にとっては特異なことだったはずだ。月子は最近ようやくそのことに思い至った。
「なるほど……かわいい孫娘にそう言われたら月久さんも嫌とは言えないか」
「かわいいかはともかく、確かに嫌とは言われませんでした……なぜか『反抗期か?』とうれしそうにしていましたが」
 どちらかと言えば祖父孝行したと思うのに解せない。祖父の悪戯っぽい表情を思い出していると、唐沢が笑った。
「月久さんがそう言うの、わかるよ」
「……反抗期に見えますか?」
「うん」
「えっ……」
 さらりと肯定されてサクッと胸を刺される。唐沢は「見えたほうがいいってことだよ」と付け足した。
「月子ちゃんはこれまで反抗期もなかっただろうし、そのぐらいがちょうどいい。ただまあ、月久さんの性格を考えると……きみが頼もしく見えて、それが嬉しくも寂しくもあったんじゃないかな。つまり照れ隠し」
 そうだろうか。確かに祖父は少し天邪鬼なところがあるが『頼もしく見えて』というのは違う気がする。照れ隠しも。月子はいまいちピンときていないが、自分を見つめる唐沢の表情は穏やかで、冗談を言っているつもりはなさそうだった。
「……頼もしく、なれているといいのですが」
 控えめに笑みとともにこぼせば「なってるよ」と微笑が返される。相変わらず唐沢は自分に甘い。過分な評価にも思えるけれど、親しみのこもった信頼はあたたかく、素直に受け取ることにする。
「ありがとうございます。……そんなわけで、祖父は遅くなると思いますし、ご用件があれば承りますよ」
「いや、大丈夫。そもそも今日は月子ちゃんに会いに来たしね」
「そうなんですか?」
 ドアベルの音とともに出迎えたとき、唐沢は真っ先に祖父の所在を確認したから、何か用事があるのだろうと思い込んでいた。
 こうして唐沢と顔を合わせるのも久しぶりだ。年明けしばらくしてから『遅ればせながら』と挨拶に来てくれたとき以来である。時おり電話でテイクアウトの注文を受けていたが、取りに来るのは唐沢からお使いを頼まれた人――たとえば、迅とか――だった。
 忙しかったのだろう、と思う。唐沢は界境防衛機関ボーダーに勤め、そのうえ営業本部長という役職に就いている。その両肩にかかる重みは計り知れない。
「そう。そろそろホワイトデーだからお返しを、と思って。テイクアウトを頼んだときにつけてくれただろう?」
 そう言われて思い当たる。生駒とお菓子を交換したバレンタイン当日の昼下がり。その日、唐沢にお使いを頼まれていたのは響子だった。バレンタインのお菓子があるよ、と誘ったときは『当日は難しいかも』という返事だったから、早い時間に現れて驚いた記憶がある。
 少し息抜きするように気遣ってくれたんだと思う、と友人はミルクティーを飲みながら苦笑した。いつも凛々しい瞳の下に隠しきれない疲労が滲んでいて、きゅうと胸を締めつけられたものだ。
 だから、月子はテイクアウトコーヒーとともにサン・セバスチャンをいくつも包んで響子に託した。目の前の友人と同じくらい、あるいはそれ以上に仕事に追われているであろう唐沢も、息抜きできるように。
 贈り物がきちんと届けられたことはお礼のメールが送られてきたからわかっていたけれど――それで十分だったから、意識から外れていた。
「そんな、気になさらないでください。いつもお世話になっているお礼だったんですから」
「きみの方こそ気にしないでいい。いつもお世話になっているお礼、だ」
 言葉をそっくりそのまま真似られてしまって二の句が浮かばない。本当にお返しはなくてもいいし、どう考えてもお世話になっているのは自分だけだが、こうまで言われて固辞するのはかえって失礼である。
「……ありがとうございます」
 月子が受け入れたのを合図に、唐沢は鞄からラッピングされた小箱を取り出した。中身は包装紙の柄でわかった。チョコレートだ。速やかに差し出されたそれを両手で受け取る。
「わ! このお店、好きなのでうれしいです……本当にいただいていいんですか?」
「もちろん。出張の帰りに空港で見かけてね。前に好きだって言ってた気がしたから、間違ってなくてよかった」
 などと言っているが、おそらく唐沢は正確に記憶していたのだろう。だってその表情はいつも通り自信たっぷりだ。月子が気負いなく受け取れるサイズや価格も考慮して選んだに違いない。
「あとで大切にいただきますね。ありがとうございます」
 心を込めて感謝を紡げば、唐沢は小さな笑みで応える。
 月子はもらったばかりの小箱を冷蔵庫にしまって、唐沢に向き直った。
「それで、ご注文はいつもの――オーダーコーヒーでよろしかったですか? 祖父が新しい豆をいくつか入れてくれたので、楽しめるかと思いますよ」
「そうだな、それもいいけど……キャラメルを入れたカフェオレはできる?」
「はい、もちろん」
 頷きはしたが、内心では意外に思う。唐沢が甘い飲み物を注文するのはめずらしい。以前、思い出の味だというエッグノッグをつくったこともあるけれど――キャラメルカフェオレもなにか思い入れのあるものなのだろうか。
「カフェ・ユーリカのキャラメルカフェオレは、自家製のキャラメルソースが自慢なんです。シロップを入れてさらに甘くもできますが、どうされますか?」
「……いや。シロップは抜きで」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
 キャラメルカフェオレを選んだ理由を訊きたかったけれど、月子はくちびるを閉ざすことを選んだ。唐沢が話したいなら話してくれるし、そうでないのなら訊くべきではない。
 ケトルにお湯を沸かし、小鍋にはミルクとキャラメールソースを入れてあたためておく。唐沢はフルーティーな香りの豆が好みだが、ほろ苦くコクのあるキャラメルソースに合わせるならマイルドでバランスのよいブレンドがいい。珈琲豆を選んで、ミルにセットした。

「きみにとって、誰かを好きになるってどういうことだった?」
 唐沢がそう訊ねてきたのは、ちょうどドリップをはじめたときだった。ケトルの細い口からとぷとぷと落ちるお湯に豆がむくりとふくらみ、白い湯気とともに珈琲の香りが立ち上る。
「そ、それは……むずかしい質問ですね」
「俺の気持ちがわかった?」
 からかいと呆れを半分ずつ滲ませた笑みに「わかりました」以外の何が言えるだろう。そしてそれを聞き出してしまった自分には、この問いを避けることはできないこともわかっていた。
「……最近、いろんな人に訊かれている気がします。その、私の気持ちというか……迅くんとのことを」
 くちびるを尖らせながら呟けば、唐沢はくっと喉を鳴らす。月子の拗ねたような顔がおもしろかったらしい。
「それは失敬。つい気になってね……まあ、俺には言いたくないかな?」
「か、唐沢さんには言いたくないとか、そういうことは一切ありません!」
 慌てて否定したけれど、唐沢の手のひらで転がされているような気がしてならない。じゃあ教えてくれるかい、と雄弁な眼差しが促している。
 こうなるといよいよ逃げようもない。なんだか思っていた以上に、いろんな人に自分の気持ちを打ち明けることになっているが――これまでの自分の行いが返ってきているわけだから、自業自得である。月子は頬に集う熱を感じつつ、ドリップを続けながら答えを探す。
「……唐沢さんが以前仰った、負けたくなるというのも、少しわかります」
「それは思い出さなくていいけどね」
 肩をすくめる様子に恥じらった様子はないが、なんとなく照れているように見えた。月子はちいさく笑って謝罪する。話しつつも作業は続けて、ドリップの合間に小鍋の火を落とし、カップを用意するのも忘れない。
「でも、私にとっては……なんでもしたくなる、でしょうか。できることを、どんな小さなことでもいいから、したくてたまらなくなるんです。……あんまり気持ちを自由にすると、欲深くもなってしまうので、気をつけたくは思っているのですが」
 ふ、と吐き出した息が熱い。もとは月子が唐沢に訊いたせいとはいえ、自分の感情のあり方を人に話すのはやはり気恥ずかしい。
「欲深くって、例えば?」
「う……、あの、これは、誰にも言ってなくて。唐沢さんだから言うんですが、」
 秘密は守るさ、と唐沢が囁く。紳士的な申し出ではあったけれど、やっぱりちょっとからかいが――優しい軽やかさが滲んでいた。
「……や、やっぱり言いません」
「残念だ」
 眉を下げた表情は本当に惜しくて仕方ないようだけれど、あえてその表情をつくってみせているだけだ。その証拠にそれ以上の追求はなく、代わりに唐沢はいいことを思いついたと言わんばかりにくちびるの端を吊りあげた。
「迅くんには訊かせてあげるといいよ、月子ちゃんが今言わなかったこと」
「な、なぜ……?」
「よろこぶから」
「私の、身勝手な……悪いところが詰め込まれているのですが……」
 どちらかといえば言いたくないことだ。克服してからなら言ってもいいけれど、その日がまだ遠いことも感じている。
「でも、きみの感情の一部だろう」
「……無くしたいと思っているところです」
 例えば嫉妬とか、傲慢な考えだとか、そういうものは相手の負担になるだろう。いやそうじゃない。それが伝わって、今よりも遠くなるのがこわいから、無くしたいのだ。
「もったいないね」
「もったいない、ですか?」
「おや。お湯、落ちきってるみたいだけど」
「えっ、あ……」
 ドリッパーの中の豆はすっかり萎んでいた。慌ててサーバーから外したけれど、ドリッパーのお湯は唐沢の言うとおり落ちきってる。三回に分けたうちの最後のドリップだったから完全に油断していた。
「す、すみません……淹れ直させてください」
「そのままでいいよ」
「ですが、」
「それがいいんだ」
「……味見して、あまりにもひどかったら淹れ直させてほしいです」
 唐沢が意志を翻す様子はなかったが、月子にだって譲れないところはある。唐沢はどうぞ、と手のひらで示した。
 新しいカップにサーバーからほんの少しの珈琲を垂らしてひとくち飲む。苦みが強く出ているが、味が崩れるほどでない。このあとミルクとキャラメルを加えることを考えると、ほとんど気にならなくなるだろう。でもそれでいいのか、と自分自身に問う。お客様に出すものだ。
「今しか楽しめないものを楽しむ権利は、誰にだってあるとは思わない?」
 するり、と低い声が鼓膜を震わせる。顔を上げると、唐沢が静かな面持ちで月子を見ている。表情の変化はいつもよりずっと少ないのに、優しい顔だと思った。
「それも今日のきみらしさなら、俺は楽しみたいけどね」
「……おいしくないかもしれませんよ」
「飲むと決めたのは俺なのに、文句を言う男に見える?」
 にっこり、と浮かべられた完璧な微笑みは反論を許さず、妥協を許した。月子はまだもう少し言いたいことがあるような気がしたけれど、目の前の人に舌戦で勝てるイメージも湧かない。
「わかりました。でも、今日はお代をいただきませんから。絶対ですからね」
「強情だね」
 くすくす笑う声を聞きながら、月子はキャラメルカフェオレの仕上げをする。ドリップコーヒーをカップの七分目まで入れ、キャラメルソースを溶かしたミルクも注ぎ込む。そこからさらにキャラメルソースを網掛けにトッピングすれば完成だ。
「お待たせいたしました――〝キャラメルカフェオレ〟です」
「ありがとう」
 ことりと置くと、唐沢の双眸が緩んだ。そっとカップを持ち上げてくちづける姿を見ながら、前に迅にも飲んでもらったことを思い出す。『ほろあまにがちょいしょっぱなキャラメールソース』は要素が多すぎだと言われた。
「うん、おいしい……雑味も含めてね。きみならうまく料理できると思ったんだ」
「きちんとおいしいものをお出ししたかったのですが……」
「でも、これが味わえなかったのかもしれないのは、本当にもったいないことだよ」
 あとで自分で飲むなりして、無駄にする気はなかったけれど『もったいない』というのはそういう意味ではない。楽しめなかったらもったいなかった、ということだ。
 ヴァン・ショーを一緒に飲んだ日の言葉がよみがえる。だから楽しめばいい、悩みもスパイスにして――嫉妬とか傲慢な考えは苦くて渋いものかもしれないけれど、それすらも味の一部として楽しんでもらえたら、それはどんなに幸福なことだろうか。
 月子を見つめる眼差しは柔らかく、信頼を感じる。唐沢の言葉がじんわりと沁みて、心臓が熱かった。なにより自分自身でさえよくないと思う感情を、肯定してもらえることがこれほど嬉しいことだとは思わなかった。
「……唐沢さんの言葉は、いつも私に勇気をくれます」
「もしかしたら他の誰かが言うべき言葉だったかもしれないけどね」
 おどけたように唐沢が笑う。月子はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。唐沢さんだから、勇気をもらえるんですよ。……とはいえ、私の欲には限りがなさそうで……やっぱり自制も大事だとは思いますが」
「まあ、何事も加減が必要なのはそうだね。でも無欲にはならないほうがいい――そういう相手と交渉するのは骨が折れるんだ」
「唐沢さんの都合ですか?」
 思わず笑ってしまった。その言い方では、ここまでの言葉は月子のためではなく自分のためだったようだ。
「全人類の都合」
 唐沢はにこやかに応える。子どもっぽい言種がめずらしくておもしろくて、危うく吹き出すところだった。
「それなら、仕方ないですね」
 笑みは抑えてもこぼれていく。半ば笑いながら月子が言えば、唐沢は深く頷いた。欲は大事だ、ということらしい。
 ――迅くんにも、欲深くなってもらいたい。
 ふとそんな考えが掠めた。迅が自分を大事にしていないように見えるのは、自分の欲を抑え過ぎているからかもしれない。だとしたら月子は、きっと自分の欲をないがしろにしてはならないのだろう。でなければ欲深く生きることの楽しさを迅には伝えられないから。甘いだけ、苦いだけでは、単調でつまらない。
「唐沢さん」
「ん?」
「欲深く、なろうと思います。……ちょっとだけ」
 我ながら妙な宣言だと思ったけれど、唐沢は「それでこそ反抗期」とくしゃりと表情を崩した。


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