ミルクコーヒー

 チョコレートケーキを見て、赤い瞳がきらんと煌めく。カフェ・ユーリカの特等席に座った空閑は「これはまた、うまそうな」とまんぞくげに呟いた。
 空閑の言う通り、白い皿に鎮座するチョコレートケーキは見るからに美味しそうだった。端正に切り分けられた三角形。ふんわりと泡立てられたショコラクリームを飾るのは雪のような粉糖と真っ赤なイチゴ。クリームよりいちだん濃い色をしたスポンジはきめ細かに、しっとりと焼き上がっている。
「そうだろうとも」
 空閑の隣で茶目っ気たっぷりに笑うのは本日のパティシエである月久である。月子はふたりのやりとりを見守りつつ「珈琲もすぐ出ますから」とケトルにお湯を沸かす。
 定休日の午後三時、おやつの時間に空閑を招いたのは祖父だ。中学三年生の空閑は、すでに授業を受ける必要もなく、平日の真昼間も予定が空いているらしい。
 月子がこの少年と会うのはこれが二度目だけれど、月久はよく会っていたようだ。ときどき早朝散歩を一緒にしていたのだとか。二人でどんな話をしていたのかは知らないが、すっかり歳の離れた友人として良い関係を築いている。
 友人のため張り切ってチョコレートケーキをこしらえる月久を微笑ましく思っていたら、『おまえもおいで』と誘われたのが一昨日のこと。せっかくなのでご相伴に預かり、飲み物は任せてほしいと申し出た。
 片付けも請け負う代わりに、チョコレートケーキは二切れもらえることになった。夕方、響子が顔を出せるようなら来てもらって、お裾分けするつもりだ。月子がつくる約束をしていたけれど、祖父のつくるお菓子は本当においしいのでせっかくなら食べてもらいたい。
 あわよくば後日、月子がつくったものも食べてもらって、どこまで再現できているか講評してもらえたら、とも思っている。

「――それにしても、遊真くんはボーダーに入隊していたんですね」
 空閑と月久の会話から明らかになった事実をしみじみと呟く。まさか顔を見せない空閑がボーダーに入隊しているとは夢にも思わなかった。
「うん。約束したのに遊びにくるのが遅くなり……申しわけございません」
「そんな、お気になさらず。また来てくれてうれしいです」
 ぺこり、と頭を下げた空閑に笑みを返す。己の役目は終えたと言わんばかりに椅子に腰掛けた月久が「そうだとも」とくちびるの端を持ち上げた。
「話を聞くに、ボーダーで充実した日々を過ごしていたのだろう? なによりのことだ」
 のう? と月久に訊ねられ、頷きを返す。空閑の表情は明るく、雰囲気も以前より円かになっているように見えた。きっと良い出会いがたくさんあったのだろう――ボーダーにはそういう人々がいると、月子は知っている。
 もっとも、そのことを今日まで教えてくれなかった祖父には少し思うところもあるが。空閑が入隊したのはカフェ・ユーリカを訪れたその日のことだと訊いた。朝の散歩で何度も会っていた月久はもっと前から知っていたはずである。
「遊真くんは玉狛支部の配属だそうだよ」
 そしてまた、月久が寝耳に水の情報をもたらした。玉狛支部。それはつまり――
「迅くんの後輩ということですか?」
 自制する間もなく言葉がこぼれた。空閑が赤い瞳をまたたかせる。
「む、月子さんは迅さんと知り合いなのか」
「はい、私がここを継いだときからのお客様で……」
「ふむ」
 じ、と空閑の赤い瞳が月子を見つめる。その眼差しはまるで月子の建前を見咎めたようだった。思わず息を止める。迅との関係はそんな一言に収まるものではない――収めたくないものだと、月子が誰よりも願っている。
「その、大切な、お客様です……」
「ほほう」
 により。空閑のくちびるが持ち上がった。柔らかに細められた瞳に親しみとちいさなからかいが滲む。月子は居た堪れなくなり、視線から逃れるように背を向けた。そして目についた棚のコップを次々に取り出す。
「遊真くん。今日のコップはどれにしますか?」
「選んでいいのか?」
「せっかくなので」
 空閑の視線がコップへ移ったことにほっと息をつきつつ、作業を再開する。といっても、仕込みはほとんど終わっているから、あたためれば完成だ。
 冷蔵庫から出したドリッパーの中身――やわらかなベージュに色づいたミルクを小鍋に注ぎ、弱火にかける。きび砂糖でできた角砂糖も二つ落として、軽く揺すった。
「――これにする」
 すぐに少し高い少年の声が響く。色も形もさまざまなマグカップの中から空閑が選んだのは、トルコ青のぽってりとしたシルエットのものだ。緑がかった青色が綺麗な陶器製のマグだ。
「かしこまりました。……おじいちゃんは?」
「では、これを」
 月久が選んだのはベリー色の小さめのマグカップだ。月子はシンプルな青色のマグカップを選び、ケトルに沸いたお湯でそれぞれ温める。
「今日はホットミルク?」
 小鍋の中を覗いたのだろう。不思議そうに問われ、月子は「ミルクコーヒーです」と中身が見えるように小鍋を少し傾けた。あたたまりはじめた液体から華やかな香りがふわりとたちのぼる。
「せっかく遊真くんをお招きしたので、昨日からミルクで抽出しておきました」
「ミルクで」
「ミルクブリューと呼ばれている抽出方法ですね。挽いた豆を牛乳に入れて一晩冷蔵庫で寝かせるんです。低温度で抽出することで苦みが出にくくなるんですよ」
 見た目は牛乳をたくさん入れたカフェオレのようだが、小鍋を揺らせばそれよりもとろみがあるとわかる。ミルクブリューは水出しコーヒーと同じく、夏場に冷たいまま飲むイメージが強いが、こうしてあたためてももちろんおいしい。
 布巾でよく拭ったマグカップにあたためたミルクコーヒーを満たし、トルコ青のマグを空閑の前に置く。ベリー色のマグは月久に。自分のぶんは手に持ってカウンターを回る。仰木家で空閑をはさむように席につけば、月久が「さて」と嗄れた声を和らげさせる。
「今日のはお祝いなんだ。遊真くんがボーダーで頑張っていると訊いてのう」
 月久がぱちりとウインクをこぼした。迅が言っていた頑張っている後輩チームというのは空閑のことだったのだろう。
「お土産用のもホールでとっておいてあるから、もしよければチームメイトにも持っていっておくれ」
「それはそれは。お気づかいいただき」
 祖父がチョコレートケーキを二台も焼いていたのはそういうわけだったのか、と腑に落ちる。おかげで響子にお裾分けするぶんも確保できたわけだが――玉狛支部で、迅も食べるのならば、ケーキづくりから手伝えばよかったと思わなくもない。
「まあ、わしからのささやかな……お礼だ。どうぞ存分にご賞味あれ」
「イタダキマス」
 フォークを握った空閑がさっそくチョコレートケーキを掬いあげる。月子も小さくいただきますと囁いて後に続いた。月久は二人の反応を窺うように頬杖をついて動かない。
 三叉の銀色のフォークに、チョコレートの地層をひとかけらのせる。そっと頬張ればショコラクリームが体温でとろけ、ほろ苦い甘みが広がった。それは少しもしつこくなく、ふわりと雪のように儚い。スポンジの間にも挟まれたイチゴはじゅわりと甘酸っぱく、キャラメリゼされたスポンジは少し香ばしくて、しゃりしゃりと奏でられるかすかな音も味の一部だ。
「これはうまいな」
 空閑がニコリと笑った。すぐにもうひとくち掬うフォークが言葉よりも雄弁に感想を語っている。そうして二口目ももぐもぐと食べて、空閑の指はトルコ青のマグカップへと向かった。月子は思わず手をとめ、空閑の横顔をじっと見つめる。
「……ふむ。こーひーっぽくない香りですな」
 こくり、とちいさな喉が上下して……、これもうまい、と空閑が表情を緩めた。ひとまず胸を撫で下ろす。
 月子も自分のぶんをひとくち飲む。カシスに似たフルーティーな香りとまろやかな酸味を包む、ミルクのやさしいコク。ほんの少し入れたきび砂糖が甘みを足して、後味もやわらかい。
「玉狛でかふぇおれ飲んだけど、それとはちょっとちがう味だな」
「淹れ方と豆の違いさな」
 ちら、と月久に目配せされ、月子は「今回は浅煎りの豆を選んだんです」と説明する。
「ケニアの華やかな香りの豆をベースに、フルーツの甘酸っぱさを意識してブレンドしました……その、はじめて自分でブレンドしたので、おいしいと言っていただけて、本当によかったです」
「はじめてのブレンド……?」
 空閑が首を傾げた。おそらく言葉の意味がわからないのではなく、月子がなぜそれに緊張していたのかがわからないのだろう。月子は苦笑して「ずっと、私がブレンドするのはまだ早いと言われてたんです」と補足する。
「マスターとしてお客様に飲んでいただく以上、中途半端なことを許すわけにはいかん」
「つまり、月子さんが一人前になったってこと?」
「まあ、おおよそな」
「……ということのようです」
 ミルクブリューに最適なブレンドの用意がなかったため、月久に相談したら『自分でつくってみるかい、最近練習しとるだろう』と悪戯っぽい微笑みを向けられた。自分なりに勉強しようと思ってこっそりやっていたのに何もかも知られていた、というのは少し恥ずかしい。努力を見ていてくれたことは嬉しいのだけれど。
「とはいえ、やっぱりまだまだ修行中で……今日のブレンドもおじいちゃんが仕上げの調整をしてくれたんです」
「黙っていたらわからんことを自己申告してしまうのがわしの孫の損なところだ」
 月久が肩をすくめる。空閑は両隣をそれぞれ見てから「ふたりとも、ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。相変わらず礼儀正しい。
「遊真くんが飲める珈琲をつくる約束でしたから」
 月子が言うと、空閑は赤い瞳をぱちりとまたたかせた。それからふっとくちびるを緩めて「そうだったな」と頷く。そしてもうひとくち、飲んでくれた。
「――うまい」
 言葉はまっすぐと響いて、月子の胸にあたたかな火を灯してくれる。いくつか試飲したうえで、これなら、と思った組み合わせを選んだが、大事なのは空閑がおいしく飲めるかどうかだった。この一言のためなら、手間をかけた時間はちっとも惜しくない。
「そういえば、前に食べた……がれっとろわ? も、月久さんが焼いたやつ?」
「あれは月子だよ」
「なんと。あれもうまかった、楽しかったし」
「お口にあったならよかった」
 ガレット・デ・ロワの感想は迅からももらっているけれど、他の人からも直接訊けたのはうれしい。月子が頬を綻ばせると、空閑の雰囲気がまたひとつ緩んだ。月子にも少し、心を許してくれたのかもしれない。
「王冠はわしがつくったがね」
 月久がちょっぴり拗ねたように呟く。
「なんと。あれはすばらしい王冠でした」
 さらりと返すところを見て、少年の言葉がまっすぐ響くわけがわかった。空閑は自分にとって当たり前のことを言っているだけで、そこに忖度はないのだ。良い意味で、相手への気回しがない。月久は「そうだろうそうだろう」と楽しげに笑った。

 コン、と控えめなノックのような音がして、ガラスを叩いた水滴に気付いた。よく見れば鈍色の雲からぱらぱらと落ちてくるのは雨ではなく、小さな霰だ。いつのまにか降り出していたらしい。
 だからスウェット一枚だけを着た空閑が「そろそろオイトマします」と告げたとき、月子も月久も待ったをかけた。いくら三月になったとはいえ、まだ冷える。空閑は平気だと言ったけれど、月久は「上に息子のコートが残っておるはずだ」と二階へ向かった。
 足の悪い祖父に代わって取りに行きたいところだったが、あいにく父の昔の服がどこにあるか知らない。防寒具は月久に任せて、月子はお土産のケーキの箱が濡れないように、ナイロン製の買い物袋を広げる。
「月子さんが連絡まってた人って、迅さん?」
「えっ」
 予想外の問いに言葉が詰まって、だからもうそれが答えになってしまう。確かに、空閑が初めてカフェ・ユーリカに来たとき、月子は迅からの連絡を待っていた。ここ最近いつもそうであるように、会いたいと思っていた。
「……な、なんでわかったんですか?」
「さっき月子さんが迅さんのこと訊いてきたし」
「う……」
 言い訳のしようもない。月子がまごついていると、空閑がさらに口を開く。
「あと、がれっとろわ食べたときの迅さん、ヘンな感じだったから」
「変……? そ、それは……どういうふうに?」
「うーん……らしくない感じ?」
「らしくない……」
 気になる単語を聞き返せば抽象的な答えだけが返ってくる。ガレット・デ・ロワが本当はおいしくなかったのでは――と案じたが、どうもそういう話ではないようだ。
「迅さんってできるひとでしょ。迅さんもそれをわかってるから、まわりが自分に頼れるようにふるまってるし。でもあのときは、ちょっと、さみしそうに見えたから」
「そう、なんですか」
「うん。まあ、おれも迅さんのことぜんぶ知ってるわけじゃないし、気のせいかもしんないけど」
 さみしそうだったのは、自分のことを思い出してくれたからだろうか。なんて、そんな傲慢なことばかり考える自分に苦笑をこぼす。
「それで、けっきょく月子さんは迅さんと会えたの?」
 空閑が訊きたかったことはこちららしい。赤い瞳に見上げられ、月子は微笑をくちびるに浮かべた。
「はい。おかげさまで。でも……迅くんはまだまだお忙しそうですね」
「迅さんは暗躍がシュミだからな」
 それは知らなかった。迅がボーダーにとって重要な役割を担っているらしいことはなんとなく察しているところではあるが、暗躍が趣味とまで言われているとは。具体的に何をしているのかは月子には知るよしもないが、迅のことだからあれこれと周囲を気にかけて行動しているのだろう。
 それにしても、空閑の言葉や眼差しの端々には迅への信頼が滲んでいた。それだけで迅は少年にとっていい先輩なのだとわかる。これまで知り合ってきたボーダー隊員は全員迅よりも年上だったから、新鮮な視点だ。
「――月子さんもさみしいのか」
 不意に、少年の声が耳に飛び込んできた。え、と間抜けな音をこぼすも、赤い瞳は月子を見つめて逸らされない。
「そんな感じがする」
「……そうですね」
 本音と弱音はよく似ているから、それを年下の少年に打ち明けることは少し恥ずかしかったけれど、そんなの今更だ。迅の大事な後輩に、なによりそのまっすぐとした眼差しに嘘はつけなかった。
 好きにならなくてもいいと言ったのは紛れもなく本心で、自分自身を大切にしてほしいのも本当だ。そこに嘘はない。だけど、それだけでもない。会えないとさみしいし、嫌われるのはこわい。迅にとくべつ好かれるかもしれない誰かに、嫉妬だってする。これは月子の弱さだ。
「ちょっぴり、さみしいです。私では迅くんの……暗躍の役には立てないので」
「月子さんは正直だな」
 空閑がちいさく笑った。月子も笑みを返す。
 迅が笑っていられるならそれだけで生きていける気さえするけれど、今はまだそれを口にすると嘘になりそうだ。いつか本当にできたらそれは素敵なことだが。
「迅くんの後輩に嘘はつきたくありませんから。……私はボーダーのみなさんを応援することしかできませんが、ちょっと休憩したいときなんかはお役に立てることもあると思います。なので遊真くんも、ひとやすみしたいときはぜひ遊びに来てくださいね」
「……そうする」
 こくり、と空閑が頷く。ちょうどそこに月久が帰って来た。奥の扉が開き、少し息を弾ませた月久がにっこりと笑みを浮かべて現れる。
「待たせたのう。奥に仕舞いこんでおったが、取り急ぎ凌ぐには問題なさそうだ」
 しわが刻まれた手が持っているのは黒いウールのコートだ。空閑には少し大きいが、小さいよりはいい。
「ふむ……ありがとうございます。センタクしておかえしします」
 月久に半ば無理やり羽織らされた空閑が言う。月久は「着るものもおらんし、持っていって構わんよ」と笑った。
「少々古臭いデザインだが、物はいい――ま、もしかすると虫食いがあるかもしれんが。寒そうな格好よりはいいだろう?」
「たしかに」
 祖父がコートを着せている間に、月子はチョコレートケーキの箱を入れたナイロンバッグの口をクリップで閉じる。そして空閑に手渡した。なるべく傾けないように気をつけて、と注意も添える。
「じゃあ、今日はこれで。またな、月久さん、月子さん」
「はい、また。いつでもお待ちしています」
 二人で店の前、道の角のところまで見送る。霰混じりの街を歩く小さな背中を見ながら、『いい先輩』をしている迅のことを想像した。たとえば、もしも自分たちの年齢が逆だったら……いや、迅ほど大人でもなかった自分は、かえって反発して素直になれなかったかもしれない。迅だって、守られるばかりの年下には今よりも頼ってくれないに違いない。
 ――じゃあ、こういうふうに出会えてよかった。
 心からそう思えたことが、なんだかうれしかった。


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