ベイクドチーズケーキ

 曇りひとつないガラスからぽかぽかと陽気が差しこんでいる。ベニヤ板の覆いが外れた店内は以前にもまして明るく見えた。窓ガラスが新しくなったのもあるけれど、どちらかといえば春めいてきた証だろう。気がつけば二月も末で、朝晩はともかく日中は暖かさを感じることもある。
 金曜日の昼下がり、世間は月末ということもあってまだ忙しなく動いているが、カフェ・ユーリカを訪れる客は一足早く休日を謳歌している。まったりとした空間にからんっとドアベルの音が重なり、月子は珈琲を淹れながら「いらっしゃいませ」と新たなお客様を出迎えた。
「よっ、マスター。久々だな」
 薄いくちびるに笑みをのせて告げたのは太刀川だ。本当に久しぶりだ、と月子は目を丸くする。顔を合わせるのは十一月――ずるいと言われた日以来である。気まずい別れ方をしたせいもあり、咄嗟に言葉が出てこない。
 太刀川はずんずんとカウンターまで歩いてきて、自然な動作で特等席に座った。どこにも気負った様子がない。気だるげながら飄々とした態度も変わらない。月子は抽出を終えた珈琲をカップに注ぎ「お水、少しお待ちくださいね」と断ってから、給仕へ向かう。
 ソファー席で本を読んでいるのは、かつて三門大学で教鞭を取っていた老爺だ。彼が教壇に立っていたのはキャンパスが移動するまでのことなので、太刀川は知るよしもないだろうが――奇しくも太刀川が初めてカフェ・ユーリカに来たときと似ている状況だった。
 カウンターへ戻ると、太刀川は顎髭を撫でるように頬杖をついて月子を迎えた。月子はグラスに水を注ぎつつ「本当にお久しぶりですね」と、途切れていた会話の続きを拾う。
「お元気そうでなによりです」
「マスターもな」
 ニヤリ、と太刀川のくちびるに笑みが浮かぶ。たしょうの含みはあるけれど、それはちっとも嫌味ではない。月子は苦笑とともに「おかげさまで」と返した。次に太刀川に会えたら謝罪をしなければと思っていたが、どうも太刀川は以前のことを気にしていない様子だ。
「望ちゃんや蓮ちゃんから、ボーダーの用事で忙しいとはお訊きしていましたが……」
「そっちはわりと早く終わったんだが、レポートがあってな……やっと終わったところだ」
 はて、と小さく首を傾げる。常連客から話を訊く限り、三門大学の後期試験は一月末には終わる。しかし太刀川の口ぶりはつい最近までレポートと試験に苦しめられてきたかのようだ。
「ああ、レポートってのは単位保留のやつ」
「単位……保留」
 月子がますます首を傾げると「ははーん」と太刀川が不敵に笑う。
「マスターは保留になったことないクチか」
「そう、ですね」
「俺も詳しく知らねーけど、教授のいうレポート出したら単位くれんだよ。……そういや、今年は去年より保留にしてくれる教授が多かったな」
 高校でいう補習のような制度だろうか。おそらく単位が取れるか取れないか微妙な成績のところを、自主的なレポートという体裁で提出させて加点しているのだと思われる。その保留が去年より多かったのはいいことなのか悪いことなのか判然としない。
「ここで会った爺さんが他の教授に声かけてくれたらしい」
 なんと保留の多さには月子も間接的に関わっていた。太刀川は「おそく留年はしないだろうってさ」と明日の天気でも話すような気軽さで危機的状況を教えてくれる。いや、危機を脱したわけだから気も軽くなるだろうが、それにしてもあまりにも当人が進級の可否を気にしていない。
「おかげで忍田さんに怒られずに済んだ、助かったな」
 単位取得と進級の可否よりも、忍田に怒られるかどうかが大事なようだ。響子から伝え訊く『忍田本部長』は生真面目で自分に厳しい性格だ。そのイメージは記者会見の映像で見た姿とも合致する。城戸の休みにも配慮するなど面倒見もいいようだが、そのぶん怒ると恐いのかもしれない。
「それはよかったです。レポート、お疲れ様でした」
 保留の多さと太刀川の価値観はともかく、進級できることが喜ばしいことには違いない。労わりの言葉を紡ぎつつ、太刀川が単位を取れるように尽力しただろう人々に心のなかで同じ言葉を贈る。
「まあそんなわけで、やっと暇になったんで最近は迅ともちょくちょく個人戦やってんだけど、そういやマスターとどうなってんだって訊いたら、あいつ、口では何もないとか言いつつ余計なことすんなって感じの顔してさあ――めちゃくちゃ面白かったから来た。で、実際のとこ迅とはどうなってんの?」
 ふむふむ、と話を訊いていたら予想外のところに転がった。月子はどうにか笑みだけは保ちつつ「なるほど……」と意味のない相槌を返す。
「……先にご注文をお伺いしてもよろしいですか?」
 逃げてしまった。
 いや、月子が気持ちを自覚できたのは太刀川のおかげとも言えるから、最近のあれそれを報告するべきかもしれない、とは思うのだけれど。急に舵を切られても心の準備が追いつかない。
「それもそうだな。そんじゃあホットコーヒーと……この本日のケーキってなに?」
「今日はベイクドチーズケーキをご用意しております。ご注文いただければ、チーズケーキに合う豆で珈琲をお淹れしますよ」
「じゃあそれで」
 オーダーは速やかに入った。珈琲を淹れ終わるまで回答を差し控えても許されるだろうか。
「濃厚なチーズケーキには深煎りの豆が選ばれることも多いですが、今日のレシピはフレッシュな風味を楽しめるものですので、甘みのあるインドネシアの豆を中心とした中深煎りのブレンドを合わせようかと思います」
 言いながらケトルにお湯を沸かし、保管庫から豆を出してミルにセットする。太刀川はニヤリとくちびるの端を持ちあげたまま、月子を見つめていた。

 カフェ・ユーリカのベイクドチーズケーキは濃厚でなめらかな口当たりと、クリームチーズとサワークリームの酸味が特徴だ。レモンゼストが爽やかな香りを添え、全粒粉入り(グラハム)ビスケットと溶かしバターを焼き固めたボトムはザクッと心地よく、ひとつまみの塩がチーズの風味を引き立てている。
 それに合わせる珈琲豆は、太刀川に説明した通りインドネシアを主に、香ばしいブラジルを加えたバランスのよいブレンド。繊細なチーズの風味を活かす控えめな酸味と苦味、味わいに奥行きを出すしっかりしたコクと甘み。苦味が強くならないよう、抽出は三つ穴のドリッパーを使って早めに終わらせる。
 ということをひとつひとつ説明しつつ、月子はぽたぽたと珈琲の雫を滴らせるドリッパーをコーヒーサーバーから外した。
 切り分けたケーキは素朴な風合いを持つグレージュの平皿にのせ、粉糖を降らせてミントを飾る。珈琲は渋い色味の灰釉のカップに注いで、お揃いのソーサーを。珈琲とベイクドチーズケーキ合わせて太刀川の前に置いたのは、注文を受けてから十分後のことだった。
「お待たせいたしました。〝ベイクドチーズケーキ〟とインドネシアブレンドです。ぜひチーズケーキ、珈琲、チーズケーキの順番で食べてみてください」
「ほう。いただきます」
 太刀川は素直にベイクドチーズケーキから食べる。フォークが二等辺三角形の頂点を大胆に奪って、乳白色は大きな口に消えた。それから珈琲を飲み、ケーキをもうひとくち。
「……ふつーにうまい。チーズケーキもコーヒーも。ただ正直どう違うのかはわからん」
 率直な感想がもたらされた。太刀川らしい感想だ、と笑みをこぼす。
「たしかに、そもそも珈琲とチーズケーキは永遠のベストコンビですし、どんな珈琲でもある程度合うと思います。とはいえマリアージュによっては好みの差が出るので……太刀川さんにおいしいと思っていただけたならよかったです」
「マスター、チーズケーキも好きそうだな」
 やけに饒舌だし、と付け足された言葉がサクッと胸を刺す。気だるげな瞳が楽しげに細まった。
「でも俺は迅とのことが訊きたい」
 明け透けに言われて言葉に詰まる。時間稼ぎをしていると自覚していたとはいえ、真正面から指摘されると焦った。いや、十分も時間をくれたのは太刀川なりの情けだったのかもしれないけれど。
「……そうですね。太刀川さんには、お礼を言わないと、と思っていました」
「礼?」
「あのとき、その……前にいらっしゃったとき、言ってくださったことのおかげで、いろいろ、気付けたので」
「迅にはあのあと余計なことすんなって釘刺されたけどな」
 それは知らなかった。迅はどういう意図で太刀川に物申したのだろう。自分が身構えていたから、気を遣って、だろうか。もっとも、刺されたはずの釘はすっかり抜けているようだが。
「で。気付けたって、何に?」
 身を乗り出した太刀川に苦笑を落とす。あまりこういった話に興味があるようには見えないが、迅が関わっているから積極的にもなるのだろう。太刀川にとって迅が大事な後輩だから――いや、そのわりには面白がっているだけにも見えるけれど。
「ですからあの……、私が迅くんを好きということ、です」
「そっち」
 驚きと呆れを半々にした表情で太刀川が呟く。そっち。月子からすると自然な成り行きでそうだと気付いたのだが、太刀川が期待していたのは別のことだったようだ。
「……待てよ。ってことはもしかしてあんたらまだ付き合ってないのか」
「わ、私の一方的な片想いですっ」
「マジで」
 うわ~、と太刀川はわずかに身を引いてみせたけれど、仕草とは裏腹にその顔はとてつもなく楽しげだ。表情だけでなく、呼吸にも笑みが滲んでいる。
「いや、悪い。マスターを笑ってるわけじゃないぞ」
「それは、わかりますが……」
 太刀川に悪意がないことは見てとれた。からっとした笑みに他者を嘲るような意図はない。純粋に面白くて笑っているのだろう。しかし何が太刀川の琴線に触れたのかはわからなかった。
「そのこと、迅は知ってんの?」
 により、と太刀川の薄いくちびるが弧を描く。
「……知っています」
「へぇ?」
 上手にできるかはともかく、はぐらかそうと思えばはぐらかせるのだろうが、正直に答えた。
「でも、迅くんにはこの話はしないでくださいね」
「なんでだ?」
「片想いですし……、あんまり迅くんに身構えてほしくないんです」
「迅のためじゃなくて、自分のためか」
「そうです」
 こくり、と頷く。太刀川はわずかに瞳を細めて「そう言われるとやりにくいな」と呟いた。
「マスターのためって言うなら、まあ考えとく。単位の借りもあるしな」
 月子は常連客の教授の存在を教えただけだが、借りと思ってくれているなら有り難く帳簿につけておくことにする。自分の気持ちのせいで迅がからかわれて、嫌な気持ちになるのは避けたい。
「……ん、待てよ。状況がわからん。迅が知ってんなら、あいつ、仰木さんのこと振ったのか?」
「……ええっと……どうなんでしょうか? 好きでいることは迷惑ではないみたいなので……保留、のような?」
「なるほど」
 ニヤリ、と悪どい顔になった太刀川が、再び身を乗り出す。じっと月子を見上げて、低い声が囁いた。
「じゃあ、迅に振られたら俺と付き合うのはどうだ?」
「冗談がお上手ですね」
 にっこり笑って返せば、太刀川はフッと表情を緩める。
「もうちょい驚いてくれてもいいんじゃないか」
「さすがにわかります」
 苦笑を零せば、太刀川は「つまんねえの」と子どものようにくちびるを尖らせた。フォークでベイクドチーズケーキを刺し、大きな口で頬張る。
「しゃあねえ。迅には、『月子さん』に告って振られたって言ってみるか」
「太刀川さん」
「冗談だ」
 食えない表情の太刀川に「ほんとうにお上手ですね」とちょっとだけ嫌味を言ってしまった。もっとも、それは少しも効かなかったようだ。太刀川は席を立つまでずっとからかうような笑みを浮かべていた。


close
横書き 縦書き