カモミールミルクティー

 かすかな震動を感じて、月子はノートに文字を綴る手をとめた。常連客たちは陽が落ちる前に早々に席を立ち、新たな来客の気配もなく、カフェ・ユーリカは月子がひとりじめしている。だから誰かが動いて揺れたわけではない。外の通りを大型車が通った様子もなく、橙色の光に照らされた影は淡く微睡む。
 気のせいかとも思ったけれど――よく見ればロウバイを生けた花瓶の水面に小さな波が生まれている。だからやっぱり、揺れたのだろう。
 思い当たる原因はひとつだけだ。もっと明確に揺れたことだってあった。つい最近も。窓辺に近寄り、耳を澄ませばそれが聞こえたような気がする。遠くて近い、警戒区域から届く音。
 エプロンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、一瞥する。警報は出ていない。祖父から帰りは明日の昼になるというメッセージがきているだけだ。
 からんっ、とドアベルを鳴らして外へ出る。ひゅるると渦を巻く凍風が襟元や袖から入り込んで、月子は肩をふるわせた。
 まだ夕方と言っていい時間だが、あたりはすでに暗く、きんと耳鳴りのするような冷気が満ちている。吐き出した息は白く染まった。濃紺の空を見上げれば、芥子粒のような星々が瞬き――次の瞬間には掻き消える。
 地上から空を照らす光が夜と星を霞ませていた。それは家々に灯る暖かな光ではない。遠雷にも似た閃光。無人となった街の中心から生ずる光は、戦いのためにある。
 界境防衛機関ボーダーは今日も近界民と戦っていた。明滅する光と大気の震えは、いつにもまして激しい攻防を伝えている。
 月子は震える指先を握りこむ。耳の裏からうなじにかけて、ぞわりとした悪寒に襲われる。痺れるような感覚が思考までも覆うようだ。
 空に穿たれた黒い穴から産み落とされる白い影。蜘蛛のような、蟷螂のような、異形の化け物。
 間近で見た近界民の姿を思い描き、しかしあばらの内側に広がるのは安全が脅かされる恐怖ではない。あの閃光のもとに大切な人がいて、傷ついているかもしれないこと。そんな可能性なんて考えたくもないのに考えてしまう。ボーダーに所属する彼らの強さをこの目で見ていて、知っているはずなのに。一抹の不安は消えることなく心臓をざわめかせる。
 そういえば昨日も今日も、界境防衛機関ボーダーに所属する友人たちを見ていない。それもまた不安の種のひとつなのだろう。
 迅くんは……――囁きかけた言葉を呑み込む。
 深く息を吸う。冷たい酸素が肺を刺した。数秒呼吸を止めてから、体温が移った吐息を夜に逃す。それを数度繰り返せば心臓の疼きを誤魔化せると信じて。
 まだラストオーダーの時間にもなっていない。このあと誰かが来るかもしれない――そんなことに小さな希望を見出して、月子は店内へ戻った。


 ティーバッグをひとつ破いて、茶葉を小鍋に放り込む。くつくつと沸いたお湯にわさっとハーブとドライフラワーが広がった。ほんのりと漂うのは林檎に似た甘い香り。大地の林檎を語源に持つカモミールの芳香だ。火を止めて小鍋に蓋をし、砂時計をひっくり返す。ハーブティーは蒸らしに少し時間がかかる。
 月子は二階のキッチンに立ったまま、小窓から外を窺う。窓枠に切り取られた空は狭いが、視点が高いぶん警戒区域の方角――ボーダー本部のシルエットもよく見えた。すでに光も音も跡形なく、街は静かに眠っている。
 あのあと、カフェ・ユーリカに新たなお客様がやってくることはなかったし、戦いの気配はほんの三十分ほどで収まった。そんなものこの街の日常茶飯だと知らしめるように。
 けれど心臓はまだ逆撫でされた毛並みのようにざわついている。カフェ・ユーリカの灯りを落として、食事を済ませて、湯船に身を沈めてもなお、月子の心には小さな不安が――心細さが残っていた。
 まだ湿り気を帯びる髪のひと房を指先に絡めて、整えた爪先でそっと撫でる。
 戦いが終わった様子を察し、よかったとは思ったけれど、それは安堵にはほど遠い。辛うじて理性が感情の手綱を握ってくれているが、油断すると思考が悪い方向へと転落して、くちびるから弱音がこぼれおちそうだった。
 自分はこんなに弱い人間だったろうか、と考える。確かに月子は無力な一般人で、そもそも強い人間ではないかもしれない。でも、こんなふうに不安に囚われてたまらなくなるほど弱くもなかったはずだ。子どもの頃はともかく、今はもう、ひとりでだって生きていける大人だ。
(……ううん、ずっと、弱いままだったのかも)
 自嘲まじりの笑みをそっと呼吸にまぎれさせた。思っていたよりも、情けない気持ちにはならなかった。清々しいとまでは言わないが、苦しくて仕方がないわけでもない。
 どうにもならないことも受け入れて、折り合いをつけて、揺れる感情を理性で宥められるようになったつもりだった。強くなるとはそういうことだと思っていた。だけど、そうではなかったのだ。
 ほんとうは、悲しみと痛みに覆われて心細くてたまらない夜が幾度もあった。それに気付かないことを強さだと信じていた。それも強さだと言ってくれるひとはいるかもしれない。でも、きっと、弱さから逃げていただけだ。これまでの自分は、大丈夫じゃない、と認めることもできないくらい弱かったのだ。
「……会いたいなぁ……」
 呑み込んだ弱音をあえて紡いでみたら、泣きたくなるくらい情けない声だった。苦笑を落として、この弱音が誰にも聞かれなかったことを寂しがる心をやさしく撫でる。
 細やかな砂がさらさらと落ちていく。真白い砂の一粒一粒がキッチンの灯りに照らされて煌めくさまを見つめ、すべての砂が落ち切ってから小鍋の蓋を開けた。
 ふわ、とカモミールの甘やかな香りが広がった。それだけで肩からすっと力が抜けていくような気がする。不安を解きほぐしたい夜にぴったりの香りだ。
 ハーブとドライフラワーはお湯にふやけてほんの少しふくらんでいた。素朴な枯葉色の水色には紅茶のような艶めかしさはないが、どこか懐かしく、穏やかな印象を受ける。
 茶葉を入れたまま小鍋に牛乳を注いで再び火にかける。ストレートで飲んでもおいしいのだけれど、こんな夜はあたたかなミルクが飲みたい。
 スマートフォンが鳴ったのは、ちょうど茶漉しをマグカップにのせたときだった。ちらりと画面を見て、外した視線をもう一度向ける。てっきり祖父からかと思っていたけれど、違う。迅悠一――表示された名前に心臓が跳ねる。
 よろこびを感じたのは一瞬で、すぐにそれよりもずっと大きい不安が襲った。もう夜も更けている。こんな時間に迅が電話をかけてくるなんて、なにかよっぽど急用が――よくないことが起こったのではないか。コンロの火を止めスマートフォンを掴む。
「――っはい、仰木です」
《あ〜……迅です。こんばんは、月子さん。……今、いい?》
 耳元で聞こえるのは間違いなく迅の声で、そこに緊迫した空気はない。
 月子は小さく首を傾げた。どうやら急を要する連絡ではないようだが、だとすれば電話がかかってきた理由に説明がつかない。
「こんばんは。あの……なにかあったんですか?」
 少し迷いつつも、月子は直截に用件を訊ねた。わずかな沈黙のあと《そういうわけじゃないんだけど》と迅にしてはめずらしくぎこちなく言葉が紡がれる。
《……今、どうしてるかなって思って。もう寝るところだったら切るよ》
「今は、お茶を淹れていたところで……まだ寝ません。もし、迅くんがよければ、少しお話しませんか?」
 心配して電話をかけてくれたのだろうか。話している途中でそう思い至った。そう思いたいだけかもしれないけれど。事実はどうであれ、せっかく話せるのだからもう少しお喋りしていたい。月子の誘いに、迅は《うん》と応じてくれた。
「もう夜ごはんは……食べましたか?」
《うん、今日はおれが食事当番だったし。片付けまでばっちり終わったとこ》
「食事当番」
 迅が所属する玉狛支部の食事は持ち回り制だと訊いたことがある。以前に木崎と献立の考え方の話をしたときに、迅は鍋ばかりつくると言っていた。前につくってもらったきのこ雑炊もおいしかったし、鍋奉行なのかもしれない。
「なにをつくったんですか?」
《すき焼き。後輩チームが頑張ってるから、ちょっといい肉で》
「いいですね」
 やっぱり鍋だったらしい。月子はちいさく笑いながら、迅がすき焼きの鍋を両手に持っているところを想像する。エプロンなんかもしているかもしれない。それはかわいいな、と極々自然に思って、んんっ、と咳払いで空想を終える。
《風邪?》
 咳が聞こえたのだろう。呟くような問いかけに気まずさが増す。
「いえ、大丈夫です。風邪ではないので」
《ほんとに?》
「ほんとです」
 疑わしげな声に苦笑する。体調管理に対して信頼がないのは月子の責任なので甘んじるしかない。まさか勝手な空想に気まずくなって咳をしましたとは言えない。
 とはいえ、コンロの火を落としてからキッチンのあたりが薄っすらと冷えてきている。このまま話していると本当に風邪を引いてしまいそうだ。
 放置していた小鍋を持ち、茶漉しでハーブを漉しながら、マグカップにカモミールミルクティーを注いだ。やわらかな湯気とともにふわりと温もりが広がる。マグカップに指先を添えるとじんわりあたたかい。
「食事当番ということは、迅くんは今日、お休みだったんですか?」
 いや、休みだと食事当番もないのだろうか。茶漉しを片付けつつ月子が考えていると《ううん》と迅の声が響く。
《夕方まで防衛任務入ってた》
「そう、なんですか。それは……食事の準備、大変ですね」
 色々なことが頭をよぎったけれど、言葉にできたのは暢気な感想だけだった。迅の笑い声が鼓膜をくすぐる。落ち着かないのに心地よい、不思議な感覚に包まれた。優しく零れた呼吸は月子が呑み込んだ言葉さえ知っているようだ。
《先に準備してたからそうでもなかったよ。割下も売ってるやつだし……今日の、やっぱりそっちまで聞こえてた?》
 軽やかな問いかけは、あの閃光も震動も――近界民との攻防が迅にとって特別なことではないと示している。
「少し。いつもより……賑やかだったので、気になってはいました」
《そうかなって思ってた》
「迅くんにはばれちゃいますね」
 この街にとって日常でしかない夜に、不安でたまらなくなるのは月子の弱さだ。だけどちょっとだけ、弱くてよかったと思った。だって迅のやさしさを素直に受け取れる。
 迅はやはり月子を案じて電話をかけてくれた。その心遣いを嬉しいと思う。心配されるほど弱そうに見えているのは年上として不甲斐ないけれど、ほんとうの月子は弱いのだから、意地を張る必要はない。
「電話をかけてくれて、うれしいです。私も、迅くんがどうしているのか気になってたので……ありがとうございます」
《急にかかってきてびっくりしなかった?》
「……はじめは、なにか悪い知らせかなと、思いました」
《ああ、だから声が硬かったんだ》
「そうじゃなくてよかったです」
《たしかに……よかった》
 低く落とされた囁きに、そうだったら、を考えた。この電話がもしも悪い知らせを伝えるものだったら。その内容は様々あるのだろうけれど、真っ先に思いついたのは、迅に何かあったときのことだ。そしてそれは決して有り得ないことではない。迅がいるのはそういう場所だ。
 そのときがきてしまったら、自分ははたして耐えられるのだろうかと思う。迅にとってはなんでもない、今日のようなことでさえこれほど不安になるのに。
「でも……でも、悪い知らせだとしても、それを知らないままでいることのほうが、怖いかもしれません。だから、その、……いいことも悪いことも、知りたいなと思います」
《おれは、月子さんにはいいことだけ知っててほしいけど……》
 迅が困ったような声で囁く。けれどどこか呆れたような諦めたような、そんなニュアンスが含まれていた。たぶん、迅もわかっているのだ。月子がその言葉に否を唱えると。
 月子はにこりと笑みを浮かべる。見えないだろうけれど、強がりだ。弱い自分にやさしいひとがいるから、強くありたいと思える。
「じゃあ、悪い知らせも受け取れるだろう、と思ってもらえるように頑張ります。もちろん、悪いことが起こらないのが一番ですが」
《……月子さんは、すぐ自分が頑張る方向に話を持ってく》
 呆れられているのか褒められているのかわからない。たしかに、最近の月子はいくつも頑張ることを宣言している。頑張りたいと心から思ってのことではあるが、そういう言い方をする理由は考えてみればすぐに思い当たった。自分の気持ちは自分だけのものだからだ。
「そうですね……たぶん、私がひとりで頑張るぶんには誰にも止められないだろうと思っているところは、あります」
《あったんだ……》
「はい。いえ、あの、周りに迷惑をかけない範囲で、ですが。本当にとめられたら、ちゃんと、とまります」
 嫌な気持ちをさせてまで通したい勝手ではない。月子が付け足すと、迅が深く息をついた。引かれただろうか、と思ったけれど、そうではないことはすぐにわかった。
《とめないよ》
 ちいさく囁かれた声は一瞬泣きそうにも聞こえたけれど、微笑んでもいる。月子の言葉を、心を、受け入れてくれている。
「……では、がんばります」
 うん、と迅が頷く。
 しばらく、月子も迅も何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。見えないものを形にするのは難しい。
 沈黙を破ったのは《ごめん、ボスが呼んでるっぽい》という少し焦ったような声だ。
「もう夜も遅いですし、そろそろお開きにしないとですね。お話に付き合ってくださりありがとうございます。……おやすみなさい」
《……おやすみ。風邪、気をつけて》
「ほんとうに大丈夫ですから。迅くんもお気をつけて」
 それだけ言って、話し続けてしまわないように月子から通話を切った。
 ふう、と息をつく。呼吸はいつもより熱くて、心音も早いのだろう。測らなくてもわかる。まだ微睡みのなかにいるような心地だった。スマートフォンの着信履歴を名残惜しく見つめていることに気付き、苦笑をこぼす。
 マグカップの中身はすっかりぬるくなっていた。いや、むしろ適温だろうか。ひとくち飲めば、ほわり、とカモミールの林檎に似た甘い香りが身体の内側を満たす。熱くはないが、あたたかい。牛乳のほのかな甘みとコクが、凍えたからだの隅々にまでやわらかく染みる。
 ぐっすり眠れそう――と思って笑ってしまったのは、それがカモミールミルクティーのおかげではないことを誰よりも知っているからだ。
 今夜、迅がくれたものは、電話だけではなかった。ふかふかのクッションみたいな、やさしくてあたたかなもの。これからも幾度も訪れるだろう心細い夜に寄り添ってくれる、お守りだ。


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