フォンダン・オ・ショコラ

 九時二十八分。音もなくゆったりと進む秒針は、いつもより一時間も早くオープンの準備を終えた月子を窘めるようだった。
 月子はくるりと店内を見渡す。無垢材のフローリングは塵ひとつなく、テーブルも椅子も定位置にぴしりと行儀よく並んでいる。ソファーに置いたクッションのカバーも洗い立てだ。観葉植物の葉はオレンジ色の光を受けてつやつやと健康そうに照り映え、ステンドグラスは曇りなく朝日にきらめく。暖房もつけてあるし、ストーブの石油だって補充した。器もカトラリーも丁寧に磨いたし、洗い物なんてもちろんない。キッチンどころかパントリーの棚も整理し尽くしてあって――もう、やることはない。
 やるべきことがなくなると、途端に自分の鼓動が耳についた。緊張している。お客様を迎える定位置についてはみたものの所在なく、暇な指先が作業台をステージにととと、と踊る。
 ピアノでも弾けたらこの時間もすこしは有意義になっただろうか、とカフェ・ユーリカの片隅に置かれたアップライトピアノへ目を向けた。けれど月子に弾けるのはきらきら星の一節ぐらいで、これから三十分それを繰り返すのはあまり現実的ではない。
 落ち着かない心をすこしでもどうにかしようと深呼吸すると、慣れ親しんだ珈琲豆の香りと、やわらかな甘い香りが肺に満ちる。ロウバイの香りだ。今朝、裏庭の草花に水をやっていると、庭先に出ていたご近所さんが枝を切ってお裾分けしてくれた。蝋引きしたような透明感のある黄色の花弁でできた八重咲きの梅にも似た花は、ひとつひとつが小さくて丸っこくて愛らしい。
 やっと一分が経ったようだった。コチッ、と長針が動くかすかな音がする。
 音楽をかけ始めようか少し悩んだけれど、やっぱりやめた。三十分後――オープンよりも三十分早い時間に迎える人は、月子のお客様だけど、厳密には〝カフェ・ユーリカ〟のお客様ではない。だから表の看板もまだ出していないのだ。
 二月十五日の午前中。迅の都合がつきやすい日取りをメールで教えてもらったとき、月子は心のなかにある小さな欲に気付いていた。
 ――できれば、ふたりきりになりたい。
 かといってその日はカフェ・ユーリカの営業日で、ジンクスはもう破られていて、いつ他の誰かが来店してもおかしくない。
 月子は震える指で『では、十時に来ていただいてもいいですか?』と返信した。オープンの三十分前だ。待ち合わせ時間(それからおやつの時間)としては早めだけれど、まったくの常識外れでもないだろう。これまで迅が来店したときの様子からして、三十分あれば珈琲もおやつもじゅうぶん楽しんでもらえるはずだ。オープンすぐはあまり人が来ないから、その後もゆったりと過ごしてもらえるとも思う。
 と、心のなかで釈明を並べてしまうのは、罪悪感が拭いきれないからだった。自分の我儘に付き合わせることへの申し訳なさ。それを誤魔化すように手を動かし続けた結果が、この持て余しきった三十分である。
「おじいちゃんが出かけててよかった……」
 ぽつりと呟く。祖父がこの場にいたら、落ち着きがないのうとからかわれていたに違いない。
 ここのところ、祖父は家を空けがちだ。朝早くから出掛け、夕方から夜、時には一泊してから帰ってくる。特に行先は知らされていないが、どうも友人に顔を見せがてら隣県まで観光に出ているようだった。月久は好きでそうしているのだろうが、半分くらいは月子に気を遣ってのことかもしれない。べったりと張りつくほど子ども扱いはせず、けれど何かあればすぐに駆けつけられる距離を保ってくれていた。
 ちなみに、バレンタインに向けていつになく張り切っていることは、月久にもばれている。何度も試作したせいだ。
 今日のデザートもチョコレートかのう、なんてにっこり微笑む月久に、食べなくてもいいんですよと言ってみたけれど、祖父曰く『健康上の理由もないのに孫娘の手作りのお菓子を食べられないなどとんでもない悲劇』だそうで、祖父に試食されることは避けられなかった。
 頼んでいないアドバイスのおかげでよりおいしくなったことは確かだが、さすがに祖父同席の場で『本命』を渡したくはない。出かけてくれてよかった、と胸を撫で下ろす。
 豆を挽くのは迅が来てからにするとして、器はもう準備してもいいだろうか。とはいえ、どれを使うのかはもう決めていたので、作業台の上に並べればそれで終わる。ちょうどロウバイの花の色と同じ、つややかな黄色の平皿だ。テーブルに置くだけでぱっと気分が晴れるような、明るくて優しい色をしている。
 オーブンを温めるのはまだ早いし、あと他にできることは……、と顎に指を添えて考え始めた月子の耳に、こん、というかすかな音が届く。反射的に扉の方を振り返れば、通りに面したガラス越しに青い瞳を見つけた。
「――迅くん」
 届くはずもないのにくちびるはその名を紡いだ。心臓が高鳴って、頬に熱が集っていくのがわかる。一拍遅れて扉へ向かった。鍵は空いているが、出迎えたい。
 からんっ、とドアベルが鳴った。まだ夜の寒さがうっすらと残っているような、儚い冬の陽光に照らされた冷たい風が皮膚を撫でる。
 近付いていた迅が「おはよう、月子さん」と笑った。ぱちり、と目を瞬かせる。先日来てくれたときは表情に戸惑いが滲んでいたのに、今はそうでもない。
「月子さん……?」
 もう一度名前を呼ばれ、慌てて「おはようございます」と応える。
「ごめんなさい、早い時間から呼び出してしまって」
「いやいや。おれの方こそ思ったより早く着いちゃって。あれだったらどこかで時間潰してくるけど」
「大丈夫ですよ。ちょうど約束の時間まで何をしようか迷っていたところなんです。迅くんが来てくれて、助かりました」
 迅はいつもの、ボーダーの制服らしい青いアウターを着ていた。昨日の生駒のようにシフト明けに来てくれたのだろうか。だとしたら申し訳ない。迅は空いていると言ってくれたが、空けるために無理をしたかどうかも、月子には判断ができない。
 でも、なんとなく。迅はこういう感情の揺らぎがない顔をしているときのほうが、無理をしているように思える。だから心苦しい、のに、やっぱり会えるとうれしくなってしまう。手に負えない感情だ。
「外、寒いでしょう。中へどうぞ」
 冷たい風に吹かれながらいつまでも立ち話を続ける必要はない。扉を大きく開いて招き入れる。
 お礼を囁きながら中へ入った背を追いかけ、ゆっくりと扉を閉めた。ドアベルがふたたび軽やかな音色を奏でる。外気を扉一枚向こうに追い出して、ほわりとあたたかな空気が迅を包むことを願う。赤くもなっていない肌は寒さも感じていないみたいだったけれど、それでも。
「すぐに準備しますので、座って待っていてください」
 ぱたぱたとキッチンに入り、まずはしっかりと手を洗う。それから、特等席に座った迅に「カフェ・ラッテでいいですか? あ、お水もいりますか?」と矢継ぎ早に声をかけてしまった。我ながら落ち着きがない。いつもよりおもてなしが下手くそになっている。迅は特等席に腰掛けつつ、「カフェラテだけでいいよ」と和やかに笑った。
 さっそくカフェ・ラッテ用の豆を挽きたいところだが、それよりも先にすることがある。オーブンの余熱だ。本当は約束の時間の五分前くらいに準備しようと思っていたから、まだ冷え切っている。それから、冷蔵庫で寝かせていた生地を取り出す。絞り袋に入れたココア色の生地。
「ごめん、やっぱり早すぎた?」
 作業を見ていた迅が呟いた。月子は首を横に振る。
「もともと迅くんが来てから仕上げをしようと思ってたんです。その……焼き立てを食べてほしくて」
「……ってことは、焼き菓子?」
「できてからのお楽しみです」
 月子はちいさく笑いながら答えた。たぶんすぐにばれてしまうけれど、どうせなら驚かせたい。準備していたマフィン型に生地を絞り出す。型の三分の一くらいまで埋まったら、丸めたガナッシュチョコレートを入れて、再び生地を絞る。底を叩いて空気を抜けば準備は完了だ。オーブンはまだ温まっていないが、生地を少し室温に馴染ませたいので丁度いい。
 そこまでしてからカフェ・ラッテ用の珈琲豆をミルに入れる。豆が挽かれる音と香りがふわりとあたりを漂った。目の前の迅をちらりと見れば、ぱちりと目が合う。形作られた笑みはほんのすこしぎこちなかった。
「……あ、」
 と、声がこぼれた。迅がまなざしでどうかしたかと問いかけてくる。
「いえ、その、今日はどんな柄にしようかと……」
 咄嗟に誤魔化してしまった。でも、言えない。
 月子は、太刀川にずるいと言われたときのことを、ふと思い出したのだ。太刀川の悪ふざけみたいな冗談――今となっては試されたのだとわかるけれど――で動揺していた月子に、迅が『身構えなくていい』と困ったように告げたときのこと。その気持ちがやっと理解できたような気がして。
 たぶん、迅は今、身構えている。それは緊張とも言い換えられるし、いっそ警戒と言うべきなのかもしれない。そしてその原因は月子である。
「柄?」
「カフェ・ラッテの」
「月子さんの魔法ね」
 くちびるをやわらかく緩めて迅が呟いた。ぽつりと落ちた声はやさしく、そのことに心臓がくすぐられたように疼く。
「いろいろなのをつくれるようになったんですよ。……スワンはまだ難しくて、たまにすごく太っちょさんになりますが……」
 会話を続けながら、沸かしておいたお湯でカップをあたためる。ミルが早々に仕事を終えたので、細かく挽かれた珈琲豆をエスプレッソマシンのフィルターに詰めていく。
「……、今日はハートにします」
 本当は、せっかくならスワンを見ていただけますか、と言おうと思ったのだけれど。でも、その裏にハートを避けようとする気持ちがあることに気づいてやめた。今さらハートのラテアートを恥ずかしがるなんてそっちのほうがなんだか恥ずかしい気がするし、なによりも今日は一日遅れのバレンタイン――愛を伝える日である。
 ちょうど余熱が終わったので、マフィン型をひとつ置いた天板をオーブンに入れる。焼成は八分だ。
 冷蔵庫から出したミルクを銀色のピッチャーに注ぐ。蒸気が出てくるノズルをミルクに沈めれば、独特の稼働音とともにミルクが渦を描きはじめる。均一な流れのなかで少しずつ、まったりとミルクがふくらんだ。温めていたカップを丁寧に拭ってから、エスプレッソを抽出する。優しいキャラメル色の雫がぽたぽたと落ちていく。
 ちらり、と迅の様子を窺った。カウンターに肘をのせ、手で口元を隠すように頬杖をついている。目が合うと苦笑にも似た微笑みが向けられた。少しぎこちない笑みだった。
 ハートにする、と言ったのがよくなかったのだろうか。困らせて、しまっただろうか。罪悪感がちくちくと胸を刺す。今日の約束をしたときからずっと心臓のありかが覚束なくなるくらい浮ついていて、だからって目の前のひとの気持ちに鈍くなりすぎだ。ただでさえ身勝手な感情なのに、困らせてばかりではいよいよ立つ瀬がない。
 月子は短く酸素を吸い込んでから、スチームミルクの入ったピッチャーとカップを手とった。
「……私、」
 そっとミルクを注ぎながらくちびるを開く。迅がかすかに身動いだ。
「迅くんのことが、その、すきですし、迅くんに好きになってほしいとも言いましたが……なにかしてほしいわけでは、なくて……自己満足に付き合っていただきたいというか……つまりすごく我儘で、迅くんを困らせてしまって本当に申し訳ないと思ってはいて、」
「ま、待って月子さん、何の話?」
「えっと、その……私のせいなので、私がいうのはどうなんだと思うんですが……その、あんまり身構えなくてだいじょうぶです……と、言いたくて……」
 勢いはしどろもどろに衰えて、でも、言えた。言ってしまった。身構えなくていいと。どの口が言うのかという話である。迅が月子に言ってくれたときとは状況が違う。迅を身構えさせているのは月子だ。
 でも、だからこそ、言わなければならないと思ったのだ。迅に穏やかな時間を過ごしてほしいから。
 なんて決意は立派だったものの、今も手が震えているし、カップのなかのハートはだいぶ不恰好にゆがんでいる。けれど自分の気持ちは決して綺麗で美しいものではなくて、確かに不恰好なのだから、これこそが相応しい形なのかもしれない。
「いえ、本当に呼んでおきながらなんですが……今日は迅くんにおいしいチョコレートを食べてほしい会なので……」
 カフェ・ラッテを迅の前に置きつつ、囁くように告げる。迅の青い瞳がいつもより少しまるく見えた。月子を見つめるまなざしは驚いているような、困っているような、なんともいえない感情が滲んだものだ。
「……月子さんって、気を回しすぎなとこあるよね」
 迅がぽつりと呟く。かすかに持ち上がったくちびるが苦笑のかたちをつくっていた。
「いえ、ぜんぜんそんなことは……気が回らないなと思うことのほうが多いです」
「まわしすぎだから安心していいよ」
 ふ、とちいさく吐息がこぼれる音がする。そのかすかな音ともに、ぴんと張り詰めた糸がすこし緩んだようだった。
「正直に言うと、緊張はしてる。でも、今日ここに来ることを選んだのは……おれだから。月子さんが気にするようなことじゃないし、気に病ませるような態度だったおれがわるい」
「迅くんはなにも悪くありません」
 自分自身を傷つけるような言葉を紡いでほしくはないのに、また言わせてしまった。迅は本当に、ちっとも悪くないのに。切実な感情を声にのせて否定すると、迅はまるで月子がそう言うこともわかっていたように、ちいさく笑って「ありがとう」と囁く。
「おれは今年も月子さんからバレンタインのチョコがもらえてうれしいよ」
 そんなの月子の台詞だ。今年も渡せてうれしい。迅がこうして目の前に座ってくれるひとときは、決して手放したくないものだ。
「……そう言っていただけるなら、とても、うれしいです」
「――月子さんは、おれにどうしてほしい?」
 軽やかな問いだった。けれど迅はじっと月子を見上げて、静かに答えを待っている。青い瞳は光を受けて澄み渡り、凪いだ空のようにきれいだった。数秒、見惚れてしまうくらい。
 でも、見惚れてしまったと自覚したとき、月子の心は不思議と落ち着きを取り戻した。この色がきれいであることを、きっと前から知っていた。この青色に、自分はもうずっと前から慣れ親しんでいた。
 青い瞳を真正面から受け止めて、ゆっくりと思考を巡らせる。してほしいこと。そんなの、決まっていた。
「楽しい時間を過ごしてほしいです。おいしいものを食べたり、だれかとお喋りしたり、遊んだり」
「……そう、なんだ?」
「はい」
 ぱちり、と瞬く青い瞳に笑いかけて、月子は深く頷く。
 好きになってほしいという気持ちはある。でも、一番してほしいことはそれじゃない。
「そういう……迅くんが楽しいとか心地よいとか感じることを、大事にしてほしいなと思います」
 迅には、自分を大事にしてほしいのだ。
 月子が想いを告げたのは、言わずにはいられなかったからだし、好きだということをわかってほしかったから。迅はときどきひどく自分自身のことを痛めつけるようなことを言うけど、そんなことやめてほしかった。あなたに笑っていてほしいのだと、あなたが傷つくと悲しむひとがいるのだと――愛されていることを、もっと知らしめてしまいたいと思っている。
 ぽかん、とした顔で迅が月子を見上げていた。知らしめたいなんて傲慢な想いを抱いた自分に少し気まずくなる。自分を大事にしてほしい、と言いつつも、やっぱり好きになってほしいのも本心だ。
「……もちろん、たしょう、一緒にしたいこととかは、ありますが……その、迅くんが私を好きになれなくても、それは、それでいいわけですから」
「……いいんだ?」
 自分に言い聞かせるように呟けば、迅が意外そうに囁いた。月子はちいさく頷く。よくない、なんて言う権利は月子にはない。好きになってもらえるように頑張るのは月子の勝手であって、迅が必ずそれに応えなければならないなんてこと、ない。
「それは、そうです。私の気持ちは私だけのものですし、迅くんの気持ちも迅くんだけのものです。そうであってほしいです。……私は、正直に言うと、自分の気持ちにあまり自信がありません。今の気持ちだって、変わらないとは言い切れません……だってもう、変わってしまったので」
 親しみが親愛に、思慕に、恋になっていたように――人の感情は移ろうものだ。愛だとか恋だとか呼ばれるものが、時に呆気なく消え去ってしまうことを月子は知っている。月子は、迅に拒絶されることと同じくらい、今確かにこの胸を焦がす感情が消えてしまうことが恐ろしい。
 だけど――移ろったとしても、捨てたりなんてしない、と思う。なかったことになんてできない。
「でも、なんというか……心のなかに、迅くんだけが座れる椅子があって、そこには他の誰も座れないし、椅子がなくなることもなくて……好きの種類がかわっても、私にとって迅くんがとくべつなことは、かわらないんだろうなと思います」
 迅のためだけにある、特等席だ。その椅子があることを知っていれば、きっと自分はどんな悲しみのなかにあっても朝を待てるだろう。それに座るひとがいない夜であっても。
「だから……、ええっと……言い方はあれですが、つまりその、迅くんがどうしようと私は構わないというか、気にするだけ損になってしまうというか……私とても好き勝手にしてますね、すみません……でも、だから、迅くんも好きにしていいというか……」
 まあるく開かれた青い瞳が月子を見つめ続けている。自分でも言っていることがわからなくなってきた月子を止めたのは、背後から届いた軽やかな音だった。オーブンが月子を呼んでいる。いつのまにかきっかり八分経っていたらしい。鳴り響く音に、くちびるをひらいてはとじる。何を言おうとしたのかすっかり忘れた。
「……焼けたみたいです」
 沈黙を繕うように口にしてから、思い出したかのように頬が熱くなった。たぶん、そんなこと、迅もわかってる。
 しばらくの間をおいて、くっ、と空気が震える。目の前のひとの喉から、それは聞こえた。迅が俯いて肩を震わせる。そうだね、と小さく呟かれたような気もする。いや、たしかに笑ってほしいとは思っていたけれど――こういうことじゃない。
 とはいえ、月子には己の発言を省みて悶える時間はなかった。焼き立てを食べてほしいお菓子なのだ。
 まだ笑っている迅に背を向けて、オーブンの扉をがぱりと開ける。途端に広がる香りは呼吸まで甘やかに染めるようだった。マフィン型からほんの少し顔を出した生地は、焦げ目もなくふんわりと焼きあがっている。
 ミトンをはめた手でそっとマフィン型ごと持ち上げ、やわらかな生地が崩れないよう支えながら型から取り出す。テフロン加工が施された型は生地離れもよく、するりと出てきた。背の低い円柱形の、例えるならチョコレート色のクッションスツールのようなそれを黄色い平皿に盛り付けた。手早く粉糖の雪を降らせ、隣には大きなスプーンですくったバニラアイスクリームをぽてりと添える。ドライラズベリーを砕いた赤いかけらを散らせば完成だ。
 顔を上げると、迅も笑うのをやめて月子を見た。青い瞳がやわらかく細まって『できた?』とやさしく問いかける。まるで子どものすることを見守るようなまなざしが、なのに月子の知るそれより甘くって、胸の奥をくすぐられたみたいにこそばゆくて、あたたかい。
「冷めないうちに、スプーンでどうぞ」
 ぴかぴかに磨いた銀のスプーンを添えて、迅の目の前に置く。上手にできた、と思うのだけれど、いつになく緊張した。
 熱々のほろりしゅわりと消えていく生地は甘さ控えめに、そのぶんとろりと濃厚なチョコレートガナッシュはミルクチョコとスイートチョコを使ってとびきり甘く。ひとつまみの塩を加えて引き締めつつ、バニラアイスクリームはあえて軽い口当たりのものを選んだ。あたたかいのとつめたいの、濃厚なのとさっぱりしたの、と互いに引き立てあう組み合わせだ。
 もう何度も試食したからそういう仕上がりだとわかってはいるのだけれど――おいしくできているだろうかと、ひとさじの不安がじわじわと広がる。迅が「いただきます」と囁いてスプーンを手に取った。
 薄く平べったい銀色が、さふっ、と粉雪に覆われた円柱に着地する。そのままスプーンが潜れば、とろり、と艶やかなチョコレートがあふれた。
「フォンダンショコラだ」
「正解です!」
 やっぱりすぐにわかってしまった。迅はスプーンにフォンダンショコラとバニラアイスクリームをのせて、ひとくち頬張る。
「――おいしい」
 もう幾度も耳にしたそのひとことが、例えようもなく心を震わせる。いつだってその言葉はうれしいけれど――今日は、とくべつに。
「よかった。迅くんのお口にあってよかったです。ほっとしました」
「……不安だったの? 月子さんのつくるものはいつでも、なんでも、おいしいのに」
 小さく首を傾げた迅は、どうやら心の底から疑問に思ってくれているらしい。おいしいのはわかっているのになんで、とその表情が語っている。その信頼を知っているからこそ緊張しているのだと気付いた。
「ずっとそう思っていてほしいので、これからも頑張ります」
 月子が言うと、迅はほんの一瞬動きを止めたあと「じゃあ、」と口をひらく。
「……これからも楽しみにする。月子さんのつくるものを、食べるの」
 そう告げる迅の頬は心なしか赤かった。月子はぱちりと目を瞬かせる。もしかしたら、と思った。
 ――もしかしたら、迅の心のなかにも、自分のための椅子が用意されているのだろうか、と。
 想像するだけで頭が茹だりそうになって、指先にまで熱がこもる。迅の『これから』に月子もいていいのなら――際限なく欲深くなってしまいそうだ。
 迅はあふれるチョコレートをスプーンでめいっぱいにすくって、おおきな口でフォンダンショコラを平らげていく。
 熱にあてられたバニラアイスクリームが黄色い皿のなかでとろけたチョコレートとまざりあっていた。スプーンの軌跡がやわらかな曲線を描き、一皿は東雲しののめを描いた絵画のようだ。明け方、金色に染まる空をゆったりと漂う雲と、朝を迎えた街のやわらかな影。
 月子はこの穏やかな時間がすこしでも長く続くことを――欲張りにも――願う。あまねく光がそうであるように、あふれる気持ちで目の前のひとをやさしく包めたような、そんな時間だったから。

   *

 休日の街はようやく動き始めたようだった。昇る太陽とともに色濃くなる生活の気配が冬の空気を和らげている。迅は青いアウターを風に靡かせながら、何度も通った道を歩いた。
 まだ、おなかの内側にフォンダンショコラとカフェラテのあたたかさが残っている気がする。今はトリオン体だから間違いなく気のせいだけれど、でも、確かにあたたかなものを自分は与えられたのだとも思う。
「……ずるいよなぁ」
 ぽつりと呟いた。月子がそう言われることを悲しむのは知っているけれど、言わずにはいられない。
 ずっと、ずっと、距離を保って、踏み入れさせなかったのに――いつの間にか月子は自分を心のなかに招き入れていた。友人だとか恋人だとか、呼び方にこだわる意味さえ失わせるような、あらゆる親しみと愛を向けていた。次から次に手渡される温もりはどれも知ってしまうと手放せなくなるような心地よさを与えてくれる。けれど。訊いていない。こんな未来は見てない。もう少し段階を踏んでほしい。一足飛びが過ぎる。太刀打ちできない。したくない。ずるい。行動力の暴走だ、こんなの。
「逃げられなさそ~……」
 はんぶんくらいやけっぱちに囁いてみたけど、わかっている。逃げられないのは、逃げたくないからだ。迅のなかにだって、月子のいう椅子はある。もう彼女にしか埋められない空白が、ずっと前から。
 出会う前には戻れない。好きになる前にも戻れない。現実は不可逆だ。だから取り返しがつかなくなる前に離れるべきだとわかっているのに。誰も傷つかないうつくしい終わりよりも、自分の選択で月子を傷つけるとしても――不確定なこれからがほしいなんて。
 そんなの、望んでいいのだろうか。
(……いいですよ、って言うんだろうなぁ)
 訊かなくたってわかるから、好きだった。


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