サン・セバスチャン

 からんっとドアベルが鳴って来客を告げる。月子はカトラリーを磨く手を止め、本日最初のお客様へ目を向けた。扉の前に立つ青年に自然と笑みがこぼれる。
「いらっしゃいませ、生駒さん。今日はお早いですね」
 小さく会釈する生駒は今日も鼻の頭が赤く色づいている。立春を過ぎても三門は寒い。特にオープンから間もない、まだ陽の低いうちは。月子はグラスに水を満たして特等席に置き、ケトルでお湯を沸かし始める。何を注文いただくにしろ、カップを温めるお湯が必要だ。
「午後からは用事あるし、今のうち来たほうがええかな思いまして」
 生駒は特等席に向かって歩きながら、肩にかけたトートバッグの中を探っている。彼が何を探しているのか、月子はすぐにわかった――今日はバレンタインデーだ。生駒とお菓子を交換する約束をしている。
「レシピ、ありがとうございました。おかげさんでわりとうまくいったとは思とるんですけど……よろしければ講評いただければと思います、先生」
「せ、先生……」
 がっしりとした手のひらにちょこんと乗っているのはラッピングされたブラウニーだ。透明な袋に小さな星がいくつも印刷された袋は生駒が買い求めたのだろうか。ブラウニーは恭しい言葉とともに差し出され、真摯で力強い眼差しが月子を見つめた。いつのまにか生駒は月子の生徒になっていたらしい。レシピを教えただけなのに。
 思いがけない呼びかけに動揺しつつ「ありがとうございます」とブラウニーを受け取る。煉瓦のような長方形にカットされたブラウニーは、断面からしてうまく焼きあがっているようだ。表面が焦げている様子もなく、チョコレート生地に散らばるナッツが見た目も楽しげでいい。
「完璧な仕上がりですね」
 簡単なレシピでもはじめてつくるときは多少は失敗するものだけれど、見たところとてもおいしそうだ。料理が趣味という言葉に偽りなしである。月子がしげしげと眺めていると、生駒が「不安なんは味のほうで」と続けた。きりりとした眉が目立つ精悍な顔立ちに不安は表れていないが、味見をしてほしそうな言葉からして本当に自信がないのだろう。
「おいしくできていそうですが……今、いただいてもいいですか?」
 月子が訊ねると、生駒がコクリと大きく頷く。店主として振る舞うならクローズ後に食べるべきだけれど、幸い今は他のお客様もいない。目の前の人がそれを求めているとわかっているのにそうしないのは、月子の思う店主の振る舞いにもとる行為だ。
「では、頂戴しますね……私のお菓子もお渡ししたいのですが、お持ち帰りになりますか? それともここで食べていかれますか?」
「ここで食べます。飲みもんの注文は……おまかせでもええですか?」
「もちろんです。どうぞ座ってください」
 にこりと笑って座るように促し、もらったばかりのブラウニーは濡れないように棚の少し高いところに置く。
「先に珈琲を淹れてからいただきますね……私も飲みたいので」
 そわそわしている生駒にそう声をかけるのも忘れない。はやく味見をして生駒を安心させたい気持ちもあるが、お客様を放っぽり出していただくのはさすがにできない。まず生駒に食べてもらってから、自分もご相伴に預かる形にしたかった。
 チョコレートと合わせる珈琲は深煎りのものがいい。月子は迷いなく豆を選び、二人分の分量をミルにセットした。
 冷蔵庫をがぱりと開ければ、ガラスドームに包まれたケーキが鎮座している。つやりとしたチョコレートでコーティングされた長方形。二本作ったうちの一本はすでにカットしてラッピングしてあるので、生駒に出すのはこちらがいいだろう。作業台に出し、温めた包丁で一切れ分を切り出す。すっと包丁が入ったあとに表れた断面は、黒と白の端正なチェック柄。ふわ、とバターの豊かな香りが広がる。
「市松模様や」
 月子の手元を見ていたらしい生駒がぽそりと呟く。チェック、ではなく、伝統柄の名前がぱっと出てくるのは生駒らしい。
「サン・セバスチャンというケーキです」
「セバスチャン」
 おそらく生駒が思い浮かべているのは執事だろう。妙な確信を抱いてしまったのを笑みに隠しつつ「スペインの都市の名前みたいです」と言い添える。
「お菓子自体はフランス発祥のものなのですが、パティシエがサン・セバスチャンの美しい街並み……石畳の通りをモチーフにつくったそうです」
「どないしてつくるんですか?」
「ココア入りのと、プレーンのスポンジ生地をそれぞれ焼いてから、カットして組み合わせるんです。拍子木切りにして、互い違いになるように。ジャムを接着剤代わりにして」
「なるほど」
 似たような柄に出来上がるチェックアイスボックスクッキーは焼く前の生地を成形して組み合わせるが、今回のようなジェノワーズ生地――スポンジケーキの生地はゆるいためできない。手間はかかるが、焼きあがったものをカットするため、角が綺麗に立って見た目も美しい。
 説明しつつドリッパーをあたため、挽き終わった豆をフィルターにセットした。ゆっくりとドリップに取り掛かりながら「アメリカではこういうケーキはチェッカーケーキと呼ばれているようです」と先生っぽく講義を続ける。ぽとと、とドリッパーから落ちていく珈琲の音と香りが月子の心を穏やかに、そして口を軽くしていた。
「あとはチェスボードケーキとか……フランス語でチェックを意味するダミエとも呼ばれたり」
「いろいろあるんやなぁ」
「生駒さんが仰ったように、市松のケーキと呼んでもいいかもしれませんね。この模様を見たひとそれぞれに思い浮かべる名前やモチーフがあるのも素敵だと思います」
 正方形で構成されたチェック柄は日本でも伝統柄となっているように、世界中に見られる普遍的な模様だ。月子にとってこのケーキは〝サン・セバスチャン〟だけれど、その呼び方でなければいけないというわけでもない。
「ちなみに、本当は円形のケーキなんです。円形の場合はセルクル……丸い抜き型でドーナツ状にするんです。ホールケーキからこういうチェック柄が出てくるともっと不思議な感じがしますよ」
「たしかに。チョコかかってるから中身も見えへんし、おもろいですね」
「ちょっとびっくり箱みたいなケーキですよね……つくるのも楽しかったです」
 月子がサン・セバスチャンをつくることにしたのは、渡したい人が昨年よりも増えたからだ。どうせ二台分焼くのなら、という思いつきだったけれど、細い長方形を組み合わせていく作業は工作のようで楽しかった。
「まだ誰にも渡せていないので、生駒さんもぜひ感想を訊かせてくださいね」
 カップに珈琲を注ぎ、小さな木のトレーにケーキの小皿と一緒にのせる。それをそのまま生駒の前に置けば「ありがとうございます」といつもの律儀なお礼が告げられる。
「……写真撮ってもええですか?」
「もちろんです。ご自由にどうぞ」
 一言断る礼儀正しさに頬を緩ませつつ「私もいただきますね。写真もいいですか?」と声をかける。生駒は「めっちゃうれしいです」と許可をくれた。こういうふうに答えてもらえると嬉しい気持ちになるな、と学びつつ、月子は棚の上に避難させていたブラウニーを手に取った。ラッピングされた状態で写真を撮ってから、小皿に盛り付けてもう一枚撮る。
「いただきます」
 生駒も撮り終わったらしい。両手を合わせて囁いて、大きな手がフォークをとる。月子は自分のマグカップに珈琲を注ぎつつ様子を窺った。黒と白の正方形をひとつずつフォークにとって、ばくり、とひとくちで口に収める。生駒の視線がこちらに向き、ビッと親指が立った。おいしいらしい。
 月子は「よかったです」と声をかけ、自分もブラウニーをひとくち食べた。ココアが甘く香る。しっとりとした生地は口のなかでほろりとほどけて、濃厚なチョコレートの風味が広がる。粗めに刻まれたくるみのサクッとした食感とほろ苦さもアクセントとなっていておいしい。見た目通り、ばっちりな出来上がりだ。
「とってもおいしいです!」
「マスターのレシピのおかげです」
 心なしかほっとしたように言ったあと、生駒が「マスターのもめっちゃおいしい」と続けた。
「周りのチョコも普通のかと思たらクリームっぽいし、スポンジもふわふわで……あとなんか甘酸っぱいのが利いてて」
「甘酸っぱいのはアプリコットジャムですね。チョコレートとよく合うんです」
 杏のフルーティーな風味が加わると、チョコレートが濃厚でも食べ飽きない。クリームっぽいチョコはガナッシュチョコレートだ。生クリームを加えたチョコレートで、トリュフなどにも使われる。ジェノワーズと呼ばれるスポンジはバターを加えたもので、今回は卵白と卵黄をそれぞれ泡立てる別立て法でつくった。そうするとしっとりと肌理の細かい生地に仕上がるのだ。バターが香るやわらかなスポンジはガナッシュとともに口のなかでふわりととろける。
 月子の説明を生駒が感心したように頷きながら訊いてくれる。その様子に自分ばかりが喋っていることに気付いた。珈琲で喉を潤してから「生駒さんのブラウニーも本当においしいです」と話題を戻す。
「きっとみなさんも喜ばれると思いますよ」
「マスターのお墨付きなら自信もって渡せますわ。まあ、うちの……チームメイトにはさっき渡してんけど」
「もしかして、ボーダー本部からいらっしゃったんですか?」
「はい、シフト入ってて」
 もしかして深夜帯のシフトだったのではないだろうか。これから仮眠するところだったらどうしよう、と思ったけれど、生駒は先ほど午後から用事があると言っていた。おそらく仮眠明けだろう、と焦った心をなだめる。
「まあ、シフトなくてもそうなんですけど。ボーダーに部屋あるし」
 そういえば以前、ボーダーにスカウトされた隊員は本部内に部屋が与えられると訊いたことがある。となると、このブラウニーはボーダー本部でつくられたものだろうか。ずいぶん遠く――手の届かない場所だと思っていたから、なんだか不思議な気分だ。
「迅にはどんなん渡さはるんですか?」
「えっ!?」
 ブラウニーを見つめていたところに予想外の問いがもたらされて肩が揺れる。生駒はやはり真面目な顔つきで「義理と本命は分けてはりますよね?」と問いを重ねる。
「ほ、ほんめい……」
「? 付き合うてはるんですよね?」
 生駒が無表情のまま首を傾げる。月子は頬が熱くなっていくことを自覚しながら、くちびるを開いては閉じる。うまく言葉が出てこない。
「つ、つきおうては、ないです」
 生駒の瞳が驚いたようにわずかに縮小した。マジで、という囁きがかすかに聞こえる。いや、確かに、生駒には迅がどんなチョコレートが好きか訊いてきてもらったことがある。苦いのは嫌、という情報も受け取った。でもまさか、付き合っていると思われているとは。
「私が……その、勝手にあげたいだけで。付き合いたいとも、思っているわけでは、別に……私が、迅くんを大事にしたいというか……大事なことを伝えたいというか……」
 しどろもどろな釈明にもなりきっていない言葉がくちびるからこぼれていく。いったい何を言ってしまっているんだ、と思考の片隅で理性が羞恥の叫びをあげるものの、生駒は茶化すでもなく黙って訊いている。
「……もし、付き合えるならそれはとても、うれしいことですけど、大切なのはそこではないというか、」
 そもそも、付き合うという関係を月子はあまり具体的に思い描けていないのだ。おそらく自分は、この身勝手な感情に対する免罪符が欲しいのだと思う。大事にしたい、優しくしたい、甘やかしたい、抱きしめたい、それが許される関係を築きたい。それができる関係を恋人と呼ぶのかもしれないけれど、恋人でなければできないことでもない。
 自分の手で喜ばせたいし、好きになってもらいたいし、それが叶えばうれしいのは間違いなくそうだ。でも、付き合うことは手段であって目的ではなかった。迅に無理して笑ってほしくない、もう少し自分を大事にしてほしい――それが月子が想いを告げた理由の大部分だ。
「……その、だから、付き合ってませんので、どうか誤解はされないでください」
 なんとか言うべき言葉をかたちにする。身体中が熱くて、背中はじんわりと汗をかいていた。ちろり、と生駒を見遣れば「なるほど」と頷いていたのでほっと胸を撫で下ろす。余計なことまで言ってしまった気がして、今すぐ二人の記憶から消す魔法の呪文が知りたいと願った。そんな都合の良いものはないとわかっているのだけれど。
「やっぱり義理と本命はちゃうの用意してはるんですね」
「そ、……そうです」
 そんな話でしたか!? と叫びかけて飲み込む。せっかく生駒が流してくれた話題を自分で掘り返す必要はないし、言われてみれば確かに、そんな話だった。話題を逸らす意味もこめて、生駒の質問に答える形で用意している『本命』について少しだけ教えた。レシピ選びに協力してもらった手前、黙っているのも心苦しい。
「その節は訊いてきてくださりありがとうございました」
「マスターの役に立ったならよかったわ」
「でも、あの、迅くんに渡すのは明日なので……、な、内緒にしててください」
 くちびるに人差し指を当てる。頬の熱が引いていないことはわかっていたが、それでもなるべくいつもと同じように笑みを浮かべた。生駒はこくりと大きく頷き「迅には内緒にします」と承知してくれた。
「……迅には夜に本部で渡すつもりやったんですけど、明日にしたほうがええですか?」
「い、いえ! そこはお気遣いなく……!」
 どうやら生駒は女性へのプレゼント分だけでなく、迅の分も用意していたらしい。わざわざ明日にしようかと申し出たのは、月子が用意しているものが本命だから、だろうか。居た堪れない気持ちになりつつ「早いうちに渡したほうがよろこばれますよ」と説得する。
 ……迅が他の人からバレンタインのチョコレートをもらうことを考えて、ほんの少し、ちくりと感じた痛みのことは、なるべく考えないようにした。生駒に言ってしまった言葉に嘘はないけれど、それがすべてでもない。大事にしたい、という気持ちの裏にある浅ましい嫉妬は、できれば誰にも知られたくなかった。


close
横書き 縦書き