アップルコーヒー

 テイカカズラの葉はところどころ紅く染まり、常緑の葉と合わさって凍てついた冬に色彩を添えている。先週は蔓の色も目に入っていなかったな――と、迅は苦笑した。
 あと数十歩ほど進めばカフェ・ユーリカの扉の前へと辿り着くところまで来た。通りに面した大きな窓はいまだにベニヤ板で塞がれていたが、さりげなく置かれた看板が営業中であることを知らせている。ステンドグラスは微光を受けてさやかにきらめき、白い漆喰の壁は街並みにやさしく馴染む。赤煉瓦色のうろこ屋根にはふくふくとふとったスズメが数羽留まっていた。
 窓が塞がれていても、不思議とカフェ・ユーリカの姿は損なわれていないように感じた。月子が、迅の認識をやさしく変えさせたのだ。瞼を閉じれば神秘的な青い炎と、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
 ひとつ、呼吸する。意識的に。そうしたところでこの心臓はちっとも大人しくはならないのだけれど。
 唐沢さんも意地が悪いよなぁ、なんて心のなかで呟いてみた。迅がここにいるのは、唐沢にお使いを頼まれたからだ。ボーダー本部で後輩のデビュー戦を見た後、無機質な廊下を歩いていたときのことだった。
 とびきりにこやかに「そうだ迅くん、ちょっとユーリカまでお使いに行ってくれないかな」と言ってきた唐沢から、逃げる余地は、たぶんあった。
 なのに、迅はここにいる。強制された結果ではなく、自分の選択として。
 応えるつもりがないなら引き返すべきだ、と理解している。気まずいのは目に見えている。どのツラさげて、なんて悪態も思いつくだけ吐いた。
 それでも迅がここに来たのは――無数に瞬く未来のひとつに、ほんとうにうれしそうに笑う月子がいたから。
 どうしてもそれを、この目で見たいと思ってしまった。

 ――からんっ
 カフェ・ユーリカのドアベルが軽やかな音を奏でる。珈琲の香りと心地よいジャズの音色がふわりと頬を撫でた。あたたかな風が逃げ出さないうちに、身を滑りこませるようにして店へ入れば「いらっしゃいませ」と月子の声が響く。顔が見れない。扉をきちんと閉めるふりをしてカウンターから視線を外した。
 店内には、迅のほかに数人の姿があった。おそらく昔からの常連客だろう。ボーダー隊員がいないタイミングは見計らったが、ふたりきりになるのは避けた。逃げた、とも言う。我ながら小賢しい真似を、と思うけれど、さすがに月子もふたりきりは気まずいだろうから、悪くない判断であるはずだ。
「こんにちは、迅くん」
 名前を呼ばれてやっと月子を見る。予想に反して、彼女の様子はいつもと同じだった。壁一面に設られた棚を背景に、艶やかな飴色の髪をひとつに結んで、蒼みがかった黒の瞳をやわらかく細めて笑っている。
 あれ、とまばたきを重ねた。未来視で見たものとちがう。いや、べつにぜんぜんいいんだけど、ちょっと冷静過ぎない? なんて思ってしまう。
 たおやかな手がそっと特等席を示した。どうぞ、と穏やかな笑みが語っている。カウンターの端には老爺が座っているし、テーブル席ではご婦人たちが三人で楽しげに話しているのだから、迅が身を寄せる場所はそこしかない。
「唐沢さんから訊いてると思うけど、お使いで……」
 言い訳がましく用件を告げながらカウンターへ向かう。月子がカウンターの内側でグラスに水を注いでいるのが見えた。
「はい、伺っております。テイクアウトコーヒーと……ここで迅くんが飲むぶんの一杯を、その……すでに代金もいただいておりまして……」
 月子にしてはめずらしく、まごまごとした話し方だ。やっと動揺らしきものが見えたわけだけれど、どう考えてもその原因は唐沢である。
 おそらく、迅のための一杯分の料金をなかば強引に払ったのだろう。お膳立てされている当人からすると気まずいことこのうえない。もっとも唐沢はわかっていてやっているに違いない。ここまでされると、むしろそこまでするか、と笑えてくる。
 くっ、と漏れた笑い声に、月子がちいさく首をかしげた。
 おれが唐沢さんに頼んだとしても絶対にやってくれないお膳立てだ、と思う。いや月子にだって頼まれていないだろう。唐沢はただ月子と迅で楽しんでいるだけなのではないか。そう考えるほうが腑に落ちる。
 迅はもうどうにでもなれ、と特等席に座った。唐沢の手のひらから逃げ切るのは容易ではない。きぃ、と椅子がかすかに軋んだ音を立てる。
「唐沢さんの奢りなら、おとなしく奢られといたほうがよさそうだ」
「すみません、ありがとうございます」
 月子にとって唐沢は身内のようなものだ。へにゃりと眉を下げた月子は兄の行いを謝罪する妹そのものだった。それがおもしろくないのは、月子の振る舞いがとても先週告白してきた人のそれではないからだろう。いや、いつもと同じように接してくれた方が迅は助かるのだけど。だけども。
「今日のおすすめはノルマンディコーヒー……あ、いえ、アップルコーヒーです」
 にこり、と月子が笑う。どうして言い直したのか不思議だったが、どちらも聞き覚えはなく違いもわからない。
「酸味が強いので、もしかしたら迅くんは少し苦手な味かもしれませんが……挑戦してみますか?」
「月子さんのつくったものがおいしくなかったことは一度もないよ」
 ぱちり、と月子がまばたきをこぼした。ふわりとそのくちびるがやわらかな笑みを描く。
「そう言っていただけてうれしいです。すぐに、ご用意しますね」
 くるり、と月子が背を向けて、棚に並んだカップへ手を伸ばす。そのときになってようやく、月子の耳が赤く染まっていることに気付いた。いったいいつからだろう。たった今かもしれないし――もしかしたら、迅がドアベルを鳴らしたそのときから、ちいさな耳はかわいらしく色づいていたのかもしれない。
 カフェのマスターとしての完璧な振る舞いの裏で、彼女が抱いていた感情を想像する。驚いただろうか。うれしいと、思ってくれただろうか。いつも通りにしようと頑張っているのだろうか。
 そうだとしたなら。
 心臓の奥がきゅうと疼く。たまらない気持ちになって足がゆらりと揺れる。ふたりきりにならなくて正解だった、とほぞを噛んだ。笑みがこぼれ落ちないように。

 電動ミルが珈琲豆を砕く。月子がミルに入れたのは薄茶色の浅煎りの豆だった。いつもは中煎りから深煎りの豆を使うことが多いから、それだけでも新鮮だ。
 月子はてきぱきと動いて、サーバーとドリッパー、カップをお湯であたためる。次は小さな木のまな板、ペティナイフ、そして真っ赤な林檎をひとつ。
「アップルコーヒーって、そのまんま林檎を入れるってこと?」
 思わずそう訊いていた。いつもの癖だ。月子がぱっとうれしそうに笑う。珈琲について訊ねると張り切った様子で答えてくれるのはどんなときも変わらない。
「大正解! そのとおりです。といっても、この林檎は飾り用で……珈琲にはこっちのピューレを使います」
 そう言って月子が持ち上げたのはまな板の横にちょこんと置かれていた小さなガラス瓶だ。傾ければ金色の中身がとろりと揺れる。艶めく色は山の向こうから朝日が昇る瞬間の光によく似ていた。瓶の底には角切りにされた林檎が沈んでいる。
「林檎に砂糖とレモン汁を加えて軽く火を通したものです。秋にたくさん仕込んでおいたんですよ。ジャムの代わりに使ったり、紅茶に入れてもおいしいです」
「それも月子さんがつくったんだ?」
「保存食代わりに。季節になると色々、たくさん送られてくるので……食べきれなくて」
 話しながらも月子の手は止まらない。林檎にサクリとペティナイフを入れる。くし切りにしたものをさらに三等分のスライスにして、皮を剥く……うさぎりんごの形だ。薄いスライスだから、だいぶ痩せ細ったうさぎになっているが、当人は楽しそうにしていた。りんごは水と蜂蜜を入れたマグカップの中に入れられる。変色防止の塩水の代わりだろうか。
 そうしている間に珈琲豆は挽き終わる。粉をドリッパーに移した月子が、ふっ、と笑ったのが見えた。すう、はあ、と深く呼吸してから、華奢な手がケトルを握る。
 珈琲をドリップする瞬間の彼女は、独特の美しさがあった。所作のひとつひとつが丁寧なのもあるけれど、浮かべる表情やまなざしで、本当にこの瞬間が好きで堪らないということが伝わるからだろう。細く静かに注がれていくお湯と、むくむくとふくらむ珈琲豆を見て月子が微笑む。
 たらりたらりと珈琲がサーバーに落ちていく。ドリップはうまくいったらしい。出来上がりだけを見て判別するのは迅にはできないけれど、月子の表情が成功を物語っている。
 金色のピューレをとろりとカップに入れて、その上から珈琲をそそぐ。蜂蜜水につけていたうさぎりんごの水気を拭い、二枚を珈琲に浮かべる。残った一枚は次の注文に回されるか、あとで月子が食べるのかもしれない。
「お待たせしました」
 とん、と目の前にカップとソーサーが置かれる。よく見ればカップには林檎の樹の意匠が施されている。これを使うと決めていたのだろうな、と月子の思惑が手に取るように想像できる。
「酸味のある豆なので、ひとくちめは慣れないかもしれませんが……そうですね、珈琲と思わず飲んだ方がいいかもしれません」
「なるほど……? いただきます」
 カップを口元に近付けた瞬間からいつもの珈琲と違う。ふわりと広がる香りは華やかだ。フルーティーだけれど、林檎によるものだけではない。もっと芳醇で甘酸っぱい、ベリー系の香り。
 ひとくち飲んで、月子の言葉の意味がわかった。まず酸味が舌を刺す。ともすれば尖った味わいなのだけれど、それはどこまでも軽やかで、すこしも嫌味ではない。酸味のあとを追いかけるように甘みを感じる。林檎の風味とコクがじわりとしみた。苦味はほとんどなく、香ばしさがまろやかにとけている。
「どうでしょう?」
 月子が固唾を飲むような面持ちで迅の反応を窺っている。
「たしかに、いつもの珈琲とはぜんぜん違う感じ」
 季節やアレンジに合わせてさまざな豆で淹れてくれる月子だが、たいてい適度な苦味とコク、甘みがある。ミルクを入れなければ飲めなかったから、飲みやすい豆を選んでくれていたのだろう。そういう意味でも、今までとは全く違う珈琲だった。挑戦、と月子が言うのも頷ける。
「林檎を入れているのもありますが、焙煎だけでもかなり味が変わりますから……」
 曖昧にされた言葉は、おそらく迅に残してもいいんですよと言おうとした。迅は笑みを浮かべ、その気遣いは不要だと伝える。
「これもおいしいよ。……なにに例えたらいいのかはわかんないけど、思ってたより飲みやすい」
 正直な感想としては、色んな味がする、というものだ。おいしいか、と問われると実はすこし難しい。飲みなれない味をまだ舌が認識しきれていない。もちろんまずくもないのだけれど、ともうひとくち飲む。
 ゆっくりと味わうと、遠くのほうにチョコレートの風味を見つけた。チョコレートに似た風味を持つ珈琲豆があると月子から聞いたことがあるが、これがそうなのだろうか。
「ところで、さっき言ってたノルマンディーコーヒーってどんなの? これとはまた別物?」
 沈黙を埋めるための問いを紡げば、月子がしまった、と言いたげな顔をする。なぜそんな顔をするのか、首を傾げる前に答えが示される。
「カルヴァドス……林檎のブランデーを使った珈琲です。その、迅くんにはまだお出ししない方がいいかと思いまして……お酒なので」
 つまり、お子様扱い、ということだ。
「カフェ・ロワイヤルは飲ませたのに?」
 ムッとしてしまったから自分は間違いなくお子様だ。そのことに安堵していたくせに。彼女にどう思っていてほしいのか、自分でももうわからない。
 じっと月子を見上げると、その頬は赤くなっていた。熟れた林檎と同じ色は、じわじわとその範囲を広げていく。ぱち、と目を瞬かせた。そうしている間にも頬の熱は顔中に伝播して、今や耳どころか首まで赤い。
 ――あっ。墓穴掘った。
 気付いてひやりとしたいのに体温は勝手にあがっていく。月子は、たぶん、迅に好きだと言ったときのことを思い出している。だから迅も、その瞬間を思い出した。さわさわとくすぐるような沈黙にどんな顔をすればいいのかわからない。
 大人っぽくいつも通りに振る舞っておいて、ちょっと滲んだ照れを垣間見させて、極めつけにこれだ。受け取れなかった恋は持て余され、しかし腐ることもなく甘やかなまま、目の前をころころ楽しげに転がっていく。思わず拾いあげたくなるぐらい、無防備に。
「月子ちゃあん、追加の注文いいかしら~」
 割り込んできたのはテーブル席のご婦人の声だった。きゃらきゃらとした高い声はカフェの穏やかな空気を駆け抜けて響く。その無遠慮さが今は本当にありがたい。
「あっ、はい! うかがいます!」
 月子が元気よく返事をしてカウンターを出ていく。助かった、と思った。深く息を吐きだす。
 ふと、カウンターの端に座る老爺と目が合った。厳めしい顔つきにほんのわずか笑みが滲んでいる気がして目をそらす。じわりと汗をかく感覚に、換装してから来ればよかったと思った。

 ちびちびと飲み進めて、アップルコーヒーの味わいにも慣れてきた。ひと息に飲み干してしまうこともできるが、唐沢の注文した珈琲を受け取らずに勝手に帰るわけにはいかない。そして月子は、たった今入った注文に忙しい。
 ご婦人方の追加注文分のサンドイッチと紅茶をつくる月子をぼんやり眺める。もう頬の赤みは引いていた。ぱちり、と目が合えば微笑みさえ向けられる。さっきはあんなに顔を真っ赤にしていたくせに、ずいぶん余裕そうなのが釈然としない。
 ゆっくりアップルコーヒーを味わううちに、月子はルビー色の紅茶もたまごのサンドイッチも手際よく仕上げて、危なげなく盆を腕にのせてテーブル席へと持っていく。ついでに軽い雑談もこなしているようだ。女性たちが月子に親しみを抱いていることは声の調子から伝わってくる。応える月子の声はやわらかい。
 戻ってきた月子を出迎えるのは迅ではなく、カウンターの端に座っていた老爺だ。伝票を持ち、会計へ向かう動きだけで月子を呼んでいる。寡黙な老爺と相対する月子は、控えめな微笑をくちびるに浮かべて、言葉は少なく、お辞儀は深く、いつも以上に丁寧な所作だった。
 今までずっと他の客がいないタイミングを見計らってきたから、自分以外に向けられた接客を見るのは初めてだ。親しげに話しかけられればそのように、目配せで伝えられればそのように。それぞれに合った距離感を選択しながらもその立ち振る舞いは総じて洗練されていて、店主と客との一線を越えてはいない。
 客観的にそれらを眺めて、かえって月子がどれだけ自分に気を許してくれていたのかよくわかった。もっと早く、ふたりきりになるのをやめていれば、自分が月子の特別になった瞬間もわかっただろうか。

「あの、迅くん」
 ふたたび迅の前に戻ってきた月子が、少し声を潜めて言った。老爺が店を出るまで見送ったこのわずかな時間で平静をどこかに落っことしてきたらしく、耳は赤いし目は泳いでいる。どうやら月子はカフェのマスターとして立っているときだけ、冷静でいられるらしい。
「えっと、来週……バレンタインに、会うことはできますか? もし、嫌でなければ……渡したくて」
 そして月子は、冷静さを欠いても手強かった。
 こんなこと言われて――嫌だなんて言えるか。
 いや、嫌だ、と言えばこのひとが諦めてくれることはわかっている。そういうひとだから。彼女は根本的にいい人で、いい子だ。優等生然として、正しくあろうとする。ひとりで抱えようとする。わがままなんて滅多に言わない。
 でも、だからこそ。
 そういうふうに生きてきたひとが、やっと伸ばした手を払い除けることなんてできない。ましてやそれは自分だけに伸ばされた手なのだから。
 ずるい。
 月子さんはほんとずるい。
 でも、おれもおなじくらいずるい。
 いちばんじゃなくてもいい、とまで言われて頷けなかったのに。このひとをいちばん幸せにできるのは自分ではないのに。
「……いつ、来たらいい?」
 ぱあっと月子の顔がかがやく。このうえなくうれしそうに、笑う。
 迅はこれをどうしても見たくて、来たのだ。
「迅くんの都合のよいときで、その、当日ではなくてもいいんですが、ゆっくり、えっと……時間がすこしかかるので、後のご予定があまりないときが、いいです」
「まだ予定わかんないから、わかったら、メール、する」
「ありがとうございます。……唐沢さん用のテイクアウトコーヒー、今から淹れますね」
 お待たせしてごめんなさい、と月子が申し訳なさそうに言った。ここでそっちが引くのか、と言いかけた。だからまだ、自分はここにいたかったのだ。
 何もかも押し殺して「唐沢さん、月子さんの珈琲がかなり楽しみみたいでそわそわしてたよ」と返す。「そわそわ……」と月子が迅の言葉を復唱して、それからにこっと笑った。じゃあ、はやく届けないと、と素直に思ってくれたらしい。
 ずいぶん早いね――完璧な作り笑いで唐沢に迎えられる未来は、今、確定した。


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