クレームブリュレ

「好きになってもらうよう頑張るって……そんなのその場で抱きしめてほっぺにキスでもしておけば迅くんなんてイチコロよ!」
 アルコールで頬を赤くした友人の言葉に、月子は思わずじとりと目を細める。
「響子は忍田さんにできるの、それ」
 うっ、と響子が口を閉じたので、月子は短く息をつく。くちびるからこぼれた呼吸はじゅうぶんに酒気をまとっていて、ふわふわと雲の上を跳ねるような気分が抜けない。どう考えても飲みすぎたけれど、彼女の言葉にほんとうにそうすることを想像してうるさく跳ねた心臓と顔に集った熱も、お酒のせいにしてしまえる。
 いつも恋の話を聞かせてくれる彼女に、自分の恋を打ち明けたいと思うのは月子にとって自然なことだった。ひとりで抱えておくことはどうにも苦しくて。それから、どこか晴れがましいような気持ちもあって。これを誰かに話すなら響子が良かった。ちょうど、仕事が落ち着いたから近々行くね、と連絡が来たこともあって、ゆっくり話すためカフェ・ユーリカでのディナーに誘ったのだ。
 けれど、いざ話そうとするとなかなか言葉にできなかった。月子がそれを語れたのはしこたま酔ったあとで――辛抱強く付き合ってくれた響子も、すでに酔っていた。カフェ・ユーリカのカウンターの上には空っぽの器やワインの瓶が片付けられることもなく並んでいる。
 ちなみに話を聞き終えた響子の第一声は『そこまで言って付き合ってないの!?』だった。
「で、でも忍田さんはそんなにちょろくないから! やる必要ないし!」
「迅くんだってそんなにちょろくない!」
「いやちょろいよ! 迅くんは絶対! 月子からキスされたら秒で陥落するね!」
 あまりの力説に『もしかしたらそうなのかも?』と一瞬信じかけ、慌てて首を横に振る。ぐわん、と脳が揺れた。
「あっ相手の同意がないのに、ダメです!」
「ふむ……たしかに。じゃあキスしていいですかって訊いてから」
「訊けるわけない……!」
 両手で顔を覆う。やわらかな暗闇に酔いを静めてほしかった。でも、頬も手のひらも熱いから、ますます熱がこもって火照ってしまいそうな気もする。
「キスしたくないの?」
 逃げの姿勢を見せた月子にも追撃の手は緩まない。
「かんがえたことない!」
「抱きしめたいは?」
「ある!」
 酩酊感に包まれて、限りなく口が軽くなっている。勢いよく返事してから自分は何を言ってるんだと後悔したけれど、それさえも長く留めておくことができなかった。グラスいっぱいの冷えた水がほしい。切実に。

   *

 鼓膜を撫でた水音にそっと瞼を上げる。いつの間にかカウンターに突っ伏して眠っていたらしい。肩甲骨のあたりをほぐすように伸びをしながら身体を起こすと「おはよう」と耳慣れた友人の声がする。響子におはようって言われるなんて不思議な感じ、とぼんやり考えて。はっと意識が覚醒した。
「……いま何時!?」
「まだ十時。夜のね」
 がばりと身を起こすと頭に重い痛みがはしった。月子の場合、頭痛がするということはアルコールが抜けてきているということだ。ひたいを手で押さえていると響子が「水飲んだら?」とグラスを置いてくれた。それでようやく彼女がカウンターの内側にいて、食べたきりそのままにしていた器がシンクに移っていることに気付く。もこもことした白い泡を纏った、すすがれるのを待つばかりの姿だ。
「ご、ごめん、片付け……」
「気にしないで。作ってもらったわけだし」
「でもこのあいだもやってもらったのに……」
「このあいだ……ああ、忘年会ね。いいよ、月子もたまには飲みたくなるときもあるだろうし?」
 にまり、と楽しげに笑った顔は飲み過ぎの理由を知っているようだった。否定も肯定もできず、逃げるようにグラスに口付ける。ひんやりと冷たい水はほのかに甘く感じた。ひといきに飲み干して息をつけば酔いはだいぶ醒めた。
「響子」
 呼びかけると、スポンジを握った響子が首を傾げる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 いろんな気持ちを込めた言葉はなんてことのないように受け止められた。伝わっていないわけではないことはわかっていて、それがうれしくて、心地よい。
「……お手伝いするのとデザートの準備するの、どっちがいい?」
 問いかけに響子の顔がぱっと輝いた。その変化にくすりと笑みをこぼす。
「デザート、あるの?」
「あったの。飲んでるうちに忘れてたけど。こんな時間だし、無理にとは言わないけれど……」
「食べる!」
「言うと思った」
 そっとカウンター席から立ち上がる。ふらつかないことに安堵しつつ、カウンターの内側へと回った。友人のためにつくっておいたデザートは冷蔵庫で眠っている。
 かぱり、と冷蔵庫の扉を開いてそれを取り出す。両手の人差し指と親指でつくる円くらいの大きさの白いココット、ぎゅっと詰まったカスタードクリーム。白に映える黄色は卵黄をたっぷりと使った証だ。バニラビーンズの小さな黒い粒が散っているのも美味しそうでいい。
「プリン?」
 月子の手元を覗き込んだ響子が言う。首を横に振って「これから仕上げ」と答えると、丸い瞳に楽しげな好奇心が宿った。
 棚から取り出した瓶には琥珀色の小さな結晶がざらざらと入っている。カソーナドと呼ばれるブラウンシュガーだ。グラニュー糖でもきび砂糖でもいいが、せっかくあるのだから使わない手はない。
 もう一つ、なくてはならないのがトーチバーナー。いわゆる手持ちタイプのガスバーナーだ。それを見て響子が「あっ」と声をあげる。
「もしかしてクリームブリュレ?」
「正解」
 スプーンですくったカソナードをカスタードの上にさらさらと降らせる。ついたくさん入れたくなってしまうが、欲張るのはよくない。あまりにも分厚い飴はスプーンで上手に割れなくなるし、カスタードと一緒に食べたときのバランスも悪い。鋭い飴の破片で口のなかを傷つけてしまう可能性もある。淡い黄色がちらりと見えるくらい、に留めておくのが月子の好みだ。
「にしても、ガスバーナーまであるとは……いやお店だから当たり前かもしれないけど」
 確かに一般家庭にはなかなかない調理器具だ。月子はヘッド部分とガスボンベを組み立て、ココットをステンレス製のバットに並べて置く。
「お菓子づくりではけっこう使うよ……あ、でも、持ってるから使うのかな? おじいちゃんが作るチョコレートケーキはスポンジをキャラメリゼしてるんだけど、チョコレートの甘いスポンジと生地に、ほろ苦くてしゃりっとしたキャラメルの風味が合わさって絶品なの」
「食べたくなるんだけど」
「今度つくるよ。私も久々に食べたいから」
 想像すると食べたくなってきた。くぅ、とおなかがあの味を恋しがってかすかに鳴る。こんな時間だというのに元気な胃袋が少し恨めしい。
 銀のバットに並んだココットに向けてトーチバーナーのノズルを向ける。カチッとスイッチを押せば、ボーッと低い音とともに青い火が伸びた。カソナードの結晶がみるみるうちに溶けて、表面にじゅわじゅわと細かい泡が生まれる。軽く動かしながら全体を炙っていくと、だんだんと泡が大きくなり、甘い香りが立ち上る。
 カラメルは焦がしすぎても苦いし、かといって全く焦がさないと甘すぎる。その塩梅を慎重に見極めて、黒になる数歩手前の深い焦茶色になった頃合いで火を離した。
「完成?」
「ちょっとだけ冷やします」
 バットごと持ち上げて冷蔵庫へ。冷やさないと飴部分が固まらないし、ココットのふちも熱くなっているので危ない。
 洗い物を終えた響子が少し残念そうな顔をしていた。おあずけを申し渡された子犬のイメージが重なる。その愛らしい表情を見せればそれこそ『忍田さん』もイチコロなのでは、と友人目線では思うのだけれど――たぶんこれは、友達だから見れる顔なのだろう。

 ティーバッグで簡単に煮出したカモミールティーに蜂蜜をひとさじ落とし、クレームブリュレとともに並べる。つやりと光を反射するカラメルは月の表面のようなクレーターと焦げ目の濃淡で複雑な模様を描いていた。二十二時過ぎのデザートは背徳的だが、だからこそどうしようもなく甘く、抗い難い魅力がある。
 カウンター席にふたり並んで座り、スプーンを手に取る。響子はスプーンの先で、月子はスプーンの背で、それぞれカラメルを割った。
 かしゃっと割れたカラメルから、濃い黄色のカスタードクリームが顔を出す。たまらなくときめく瞬間のひとつだ。
「おいし~!」
 ひとくち食べた響子が頬を緩ませる。月子もスプーンにのせたクレームブリュレを口に放り込む。ぱり、と砕けるカラメルのほろ苦さ、まったりと広がるカスタードの甘み。卵黄と生クリームで仕上げた濃いカスタードクリームは口のなかでゆっくりととけていく。
 大きめのココットに入れたのはカラメルを割る楽しみを何度も味わうため。月子がぱりんっとカラメルを割っていると、先に食べ進めていた響子の手が止まった。その気配を感じて隣を窺えば、ぱちりと目が合う。
「――さっきはからかいすぎたけど……好きになってもらうように頑張る、いいと思うよ」
 酔いに頼って告白した恋の話だ、とすぐにわかった。でも、もうお互いにアルコールは抜けている。素面で告げられたその言葉はじわじわと心にしみこんで、だけど少しだけ、引っかかるものがある。うれしい言葉を、素直に受け取ることにためらいがある。
「……いいの?」
「月子はよくないって思ってるんだ?」
 図星をつかれて口を閉じた。ざらり、とカラメルの破片が舌にふれて、ほろ苦さが滲む。
 響子のまなざしは真摯で優しかった。沈黙は穏やかに守られて、だから月子は「だって」と言葉を紡ぐ。
「……だって、六つも年下だし……その、二十歳にもなってないひとに、こういう気持ちを向けるのは……」
 酔いに任せなければ口にできなかった理由のひとつだ。同世代の友人に話すには、照れや気恥しさだけではなくて、気まずさがあった。
 響子は迅のことをよく知っているし、まだ子どもだ、というようなことも以前言っていた。月子だって、迅はまだ大人ではないと――そもそも大人の定義も曖昧だけれど、でも少なくともまだ子どもなのもそうなのだと――思っている。ざっくりと分ければ十代と二十代で、同じ立場と言うのは憚られる。
「よくないって思ってたらキスしちゃえなんて言わないでしょ」
 からからと笑う響子にこくりと頷く。言いにくくても言えたのは、アルコールの力もあるけれど相手が響子だからだ。きっとこの気持ちまでは否定しないでくれるだろう、という信頼があった。
「でも、大人げないというか……年上の立場を利用している気がしてよくないというか……」
 他人が何かを言っても言わなくても、月子自身が培ってきた価値観が十代との恋愛にそれって本当にいいのかな、と囁く。目の前に迅がいなくて、酔いも回っていない、冷静な思考が保たれているときは。
「そう思ってるのに、待てなかったんだ? 迅くんがハタチになるまで」
「……そうです、待てませんでした」
「すねないでよ」
 月子は恋心を自覚したあとも本人に言うつもりはなかった。なのに迅がさみしいことばかり言うから、そんなこと言わないでほしくて、この気持ちを知ってほしいと思ってしまって。自分の感情なのにままならなくて本当に嫌になる。
「好きって言わなければよかったって思う?」
 静かに問われて考える。隣に座る友人は、今は言わないほうがいいと思っているから、好きな人と同じ職場で関係性を変えないまま働いている。想いを告げるべきか否か悩んできた彼女は、月子よりもずっと自分の恋心と誠実に向き合ってきたはずだ。そんな彼女に、軽々しく嘘はつけない。
「……ううん。言えてよかったって、思う」
 迅がどう思ったのかはわからない。でもあのとき、月子の言葉に惚けたような顔をしてくれてうれしかった。あのまま当たり障りのない言葉を重ねるよりもずっと。
「じゃあよかったのよ」
 あっさりと言って響子がクレームブリュレをつつく。焦茶色のカラメルが割れないほどやさしく。
「まあ、年の差とか考えちゃうのはすごくわかるけど……口出しは野暮でしょ。それに、信頼してるから」
 得意げに笑った顔は、いつかの飲み会で見た誇らしげに同僚を語るときの表情だ。月子は小さく笑った。確かに彼は子どもでもあるけれど、彼女が信頼する仲間でもある。月子が年上の立場をいいように利用したとしても、迅にはそれを退ける力と判断ができるはずだ。そういうひとだから、きっと惹かれてしまった。
「……さすが実力派エリート、人望がある……」
「なんでよ」
 呆れたように言われて首をかしげる。
「迅くんじゃなくて、月子のことを信頼してるから、でしょう。どう考えても」
「えっ」
 心底びっくりしていれば、響子は「ともだちだもの」とはにかむように笑った。

   *

 あの後ろ姿は、と意識を向けた瞬間にくるりとそのひとが振り返る。艶やかな真っ直ぐの黒髪がボーダー本部の無機質な廊下に翻った。目が合うと「いいところに、迅くん」と朗らかな笑みが向けられる。
 沢村さんがおれにこういう顔をするのはめずらしい、と迅は思う。いつもと違う様子に一瞬だけ戸惑いはあったけれど、ちょいちょいと手招きまでされては歩を進めるしかない。
「ちょうど見せたいものがあったの」
 ボーダーの管理職たちが身に纏う制服のポケットから出てきたのは、おそらく私物のスマートフォンだった。差し出された画面に目が釘付けになる。
 カフェ・ユーリカのカウンターに腕を組んで眠る、見慣れた姿。飴色の髪はゆるやかに乱れ、色素の薄い肌はほのかに赤く染まっている。蒼みがかった黒の瞳は閉じられ、目元には睫毛の影がかかる。穏やかな寝息が聞こえてきそうな無防備な寝顔だった。何かいい夢でも見ているのか、淡い色のくちびるは笑みを描いている。
「かわいいでしょ。酔っぱらい月子」
 かわいい、の「か」だけ、漏れた。残りはなんとか自制できたけれど、清楚な微笑みから一転してにやりと笑う響子にはそのかすかな一音も聞こえていただろう。
「……これ、盗撮したの?」
 苦し紛れに吐き出した言葉に意味がないことはわかっていた。目の前の彼女も、あのカフェで今日も誰かを出迎えている彼女も、そういったことの筋は通すタイプだ。
「ちゃんと月子には撮ったことも言ったし、消さなくていいって許可もらってるわ」
「おれに見せるって言ってあるの?」
「迅くんになら月子も許してくれると思うけど?」
 含みのある言葉にどきりとする。もしかして月子は、あの日のことを話したのだろうか。好きになってもらえるように頑張る、とか言っちゃう人だから、その可能性は十二分にある――外堀を埋めようという打算ではなく、大切な友達に言わずにはいられない、という意味で。
「いや〜、それはどうかな。沢村さんだから許されてる感じあるけど」
 許してくれるかはともかく、少なくとも月子は、迅の前では眠りこけるほど酒を嗜むことはしないはずだ。これは同世代の響子だからこそ見れる景色に違いなかった。響子は「かもね」とあっけんからんと笑ってスマートフォンをしまう。ちょっと惜しい、もうすこし見てたかった、と思ってしまったことが我ながら情けない。
「まあ、悔しかったら迅くんもはやく飲める歳になることね」
 それじゃあこれから打ち合わせだから、と響子は足早に去っていく。どうやら本当に、月子の寝顔を見せたかっただけらしい。どことなく自慢されたような気もする。
「はやく飲める歳にって、無茶を言う……」
 ほんの二ヶ月ほどのことといえ、時の流れを早めることなんてできないのに。迅は苦笑を浮かべて天井を仰ぐ。白白とした蛍光灯の灯りが目を灼いて、その瞬間だけは今も未来も見えはしない。
 ――ああ、でも。お酒が飲めるようになったら一緒に飲むって約束したんだっけ。
 その未来を自分は選ぶこともできるし、選ばないこともできる。月子に好きだと言われる前なら、選ばないと言い切れたはずなのに――約束を破るのはよくないなとか、そんな言い訳が過ぎって離れなかった。


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