カフェ・ロワイヤル

 ――からんっ、とドアベルが軽やかな調べを奏でる。
 月子はちょうど棚にマグカップを戻していたところだった。慣れ親しんだはずのその音色がいつになく心臓を飛び上がらせて、指先が痺れるように痛む。ぐらついたマグカップを間一髪で支え、コトリと置き直す。冷たい風がそっとうなじを撫でた。
 そこに誰がいるのかまだ目にしていないのに、確信にも似た予感があった。少し前に出て行った東が戻ってきたわけでも、他の常連客が顔を出したわけでもない。今から行く、と言った声が鼓膜から離れない。
 背後で、今、扉が閉まった。
 心臓が肋骨を内側から叩いている。ゆっくりと振り返ろうとしたけれど、何ひとつ取り繕えてはいなかったかもしれない。いつも通りになんて振る舞えなかった。動作の一つひとつの正しさを、思い出せない。
 冬のほのかな陽射しがステンドグラスを透かして、あざやかな影が彼の肩に落ちていた。部屋着の上にコートだけ引っ掛けたようなラフな格好。薄暗い店内にその輪郭が浮かび上がる。
 やわらかな陽だまり色の髪はぺしょりと乱れている。青い瞳が月子を見つめたのはほんの一瞬。すぐに逸らされたまなざしにどんな感情が宿っていたのかはわからなかった。自分がどんな顔で彼を見つめているのかも。洗い流した涙の痕は気付かれただろうか。
「……迅、くん」
 その名前をそっとくちびるにのせる。震えて掠れるような声しか出なかった。いつもなら真っ直ぐ特等席へと向かう迅は、それどころかわずかに後ずさる。そんな些細な仕草に気付いてしまって、指先をぎゅっと握り込む。短く整えたはずの爪が手のひらのやわい皮膚に刺さり、痛みにも及ばない熱が籠る。
 いらっしゃいませ、のひとことが言えなかった。頭の中で何度も出迎えることを想像していたのに、言いたいはずのことは何一つ形にならない。
「――よかった。……元気そうで」
 沈黙を破ったのは迅だ。へらり、と笑いながら放たれた言葉に気負いはない。けれどそれは、何かを押し殺して覆うための笑みだった。苦痛が滲む本心を隠して、人と距離を置くためのもの。自分もそうしていたことがあるからこそ、わかる。
「元気です。元気ですよ、とっても」
 思慮もなく言葉が滑り落ちた。
 でも、だって、そんな顔をさせるために会いたいと願ったわけではない。
「来てくれてありがとうございます……その、さみしかったので、助かり、ました」
 感情に言葉という形を与えることはいつだって緊張する。自分の気持ちを晒け出すことは恐ろしい。相手が大切であればあるほど、受け入れてもらえなかったときの痛みは耐え難いと知っている。
 それでも、今、伝えたかった。伝えなければならなかった。
「……迅くんに会えてうれしいです」
 月子が泣いているかどうかを気にした優しい声を思い出す。迅は、月子が泣いていると思ったから、こうしてカフェ・ユーリカに来てくれた――そう自惚てもいいのなら、それは恥ずかしくて、申し訳なくて、謝っても謝りきれないことだ。でも、ぐちゃぐちゃになった心を洗い落とせば、よろこびだけがこの胸に残る。
「迅くんに、」
 このひとに、自分がいなくてもいいだろう、なんて思って欲しくない。
「ずっと、会いたかったんです」
 あなたに会えてうれしいのだと、信じてほしい。
 言葉を重ねるたび鼓動が早まる。心がふわふわと浮ついて、じわじわと頬と耳に集う熱に追われるまま「あ、でも」と笑みを落とす。
「泣いては、いないですからね」
 少なくとも迅に訊ねられたそのときまでは、涙の堰は決壊していなかった。泣きたくなるような気持ちだったことまでは否定できないが。
 なけなしの見栄を張れば、迅がかすかに瞠目する。つくられた表情がわずかに困ったように崩れた。笑み、になりきれていない、曖昧な表情だ。
「……月子さんが泣いてなくてよかった」
「大丈夫です、小さいころから泣かない子と評判でした」
 わざと冗談っぽく返すも、迅の表情は晴れない。
「…………ごめん。お店のこと、守れなくて」
 ぽつりと落とされた言葉に、月子はゆっくりと首を横に振る。謝られるようなことなんて何一つない。
「ベニヤで塞いだから目立つかもしれませんが、お店は、このとおり無事ですから……迅くんたちが守ってくれたから、この程度で済んだとも言えるでしょう?」
 気にしないでほしいと告げる。けれど月子を見下ろす迅の瞳は、暗澹とした感情に翳っているように見えた。いつもの、春の澄んだ青空のような、やわらかな光が遠い。
 迅が謝る気持ちは、月子とて理解できないものではない。界境防衛機関ボーダーは三門市を守るための組織だ。月子は一市民としてそう説明されてきたし、守られているという実感もある。だからボーダー隊員の一人として、街の傷痕を前に苦いものが込み上げることは、理解できる。あくまでも感情論としてなら。
「うん……無事でよかった」
 なのに、迅は自分のせいだと思ってる。
 カフェ・ユーリカの窓――ひいては、近界民に破壊された街。その傷痕を見つめるまなざしに滲んでいるのは後悔だ。深くて暗くて淋しい自責。感情論を逸脱して、迅は本当に自分に責任があるのだと言い出しそうな気さえした。そんなことないと言葉を重ねたって、真実すべてが伝わることはないだろう。だって月子は、迅の抱えているものを知らないから。
 見えなくて、けれど確かにそこにある、迅と月子の生きる世界の差を、街の傷痕が示している。
「でも――迅くん」
 だけど、それは、きっとそれだけのことだ。
 月子は迅のことをまだ何も知らなくて、これからもすべてを知ることはないかもしれないけれど。それは、何もできないことではない。目の前のこの人を――よろこばせたい。
「窓は割れてしまいましたが、おかげですてきなこともあるんですよ」
 にっこりと笑いかけると、迅の青い瞳がぱちぱちと瞬いた。虚をつかれたような表情は、今は笑みよりもずっといい表情だと思える。ようやく、きちんと視線が交わったような気がした。
「マシュマロのおいしい食べ方を教えてもらったんです。さっき東くんに、そこのストーブで。迅くんもあとでぜひ」
 迅が困惑している気配を感じる。うん、と呻くような、肯定とも否定ともつかない曖昧な返事を聞きながら、月子はグラスに冷水を注ぐ。ことん、といつもの席に置けば、迅が一歩こちらへ踏み出した。思わず、といったふうに。
「遅ればせながら――いらっしゃいませ。ちょうど、窓がないときにぴったりの珈琲があるのですが……いかがですか?」
 問いかけのかたちではあるけれど、返事は祈らないし、待たない。
 目の前のひとに、とびきり美味しくて、楽しくて、嬉しくなるような珈琲を淹れる。
 それはもう、迅がここに来てくれたときに、決めていたことなのだ。

 迅がおそるおそるといったふうに特等席へ座るのを目の端にとらえながら、まずはケトルでお湯を沸かし始める。カチッとコンロが音を立てて、火が点く。次は豆選び。まろやかでコクがあるものが向いている。
 いつものように電動ミルに入れかけて、やめる。棚の低い位置から手挽きのコーヒーミルを取り出す。電動に比べると時間もかかるけれど――かかるから、そうしてしまった。
「……いつものミル、壊れた?」
 危うく豆を床にぶち撒けるところだった。やましいところを的確に指摘されて、月子は「いえ!」と背筋を伸ばす。
「電動ミル壊れてません、元気です。えっと、電動ミルでもいいのですが、その、今日の珈琲は手挽きでやったほうがおいしくなるので……いえ、そのあたりは好みなのですが……」
 手挽きでゆっくり挽けば余計な熱がかからずおいしくなるとも、電動は均一に挽けるからおいしい、とも言われる。月子は半ば気分の問題だと思っているぐらいだ。だから、せっかくなら手間暇を惜しまずよりおいしい一杯を、という気持ちも嘘ではないが、一番は少しでも一緒にいたいというわがままである。
 幸いなことに、迅は『おいしくなるので』という言い訳を信じてくれたようだった。そうなんだ、とふっとまなざしを緩めた笑みはやさしくて、心臓が早鐘を打ち始める。些細な表情のひとつでそうなってしまう自分が恥ずかしい。
 逃げるようにミルに豆を入れてハンドルを回した。燻る熱のせいでつい早めてしまいそうになる手を意識的にゆっくりと動かす。こり、こり、と一定のリズムで豆を挽けば、ふわりと珈琲の香りが漂う。豆が挽かれる瞬間に放つ香りは、ドリップしているときよりも力強く芳醇だ。
「珈琲、いい香りだね」
 迅の声に月子はほんの一瞬だけ手を止め、すぐに「ほんとに」と頷き返す。こり、こり、とまた穏やかな音が調子を取り戻す。
「今日の豆は、先日祖父がブレンドしたものなんです。コクがあってやさしい味わいなんですよ」
「月久さんが……、月子さんはブレンドしないの?」
「残念ながら。祖父からまだ早いと言われていまして……実際、自分が飲むぶんでやってみたりもしていますが、なかなか難しいのが正直なところです」
「そうなんだ」
 ふつり、と途切れた会話の尾は追わない。もう無理にそうしなくてもいいことを理解していた。手元を見つめる月子の視界の隅には、迅がいる。迅も月子の手元を見ているような気がする。
 ストーブのケトルはしゅんしゅんと鳴き、ミルが奏でるリズムとしっとりと流れるジャズが沈黙をやわらかに包んでいる。目の前に座る迅の、かすかな衣擦れの音と、その体温さえ感じられる。そんな沈黙が心地よい。迅が隣にいてくれることが何にも代えがたく月子の胸にやわらかな火を灯している。
 豆をすべて挽き終える頃には、コンロのケトルでもすっかりお湯が沸いていた。少し沸きすぎてしまったぐらいだ。火を消し、冷水を少し足して冷ます間にドリップの準備を進める。
 ドリッパーは台形で、三つ穴が空いているものを選んだ。今はもう廃盤になってしまった、深い黄色の陶器製のドリッパーは、見ているだけで気分が明るくなる。いつものコーヒーサーバーにのせ、フィルターもセットする。
 温度の様子見がてら、ドリッパーとサーバーをあたためる。ケトルの細い注ぎ口からほわりと白い蒸気を纏うお湯が流れ落ちる。まだ少し熱すぎる。先にカップの用意をしてしまうことにする。
 今日のカップは最初から決めていた。欧州の伝統的な陶器メーカーのもので、ソーサーとお揃いの緻密な図案が美しい。月久が現地で買い付けてきたアンティークものだという。とっておきのときに使いたい、月子にとってもお気に入りのカップだ。
 それから、小さなスプーンをひとつ。銀でコーティングした艶やかな質感の、先端が下に降り曲がった特別なスプーン。カップにお湯をそそぎ、そこにスプーンも入れておく。
 ドリッパーがあたたまっているのを指先で確かめてから、フィルターへ珈琲豆を移す。手挽きミルでゆっくりと挽かれた豆は、粉というには少し粗い粒だ。いちだんと強く珈琲の香りが広がっていく。撫でるように豆を均せば、あとはドリップしていくだけだ。
 心をこめて、丁寧に。けれど気負いすぎないように。そっとお湯を注げばふっくらと珈琲豆がふくらんでいく。
「……月子さん、」
 低い声が沈黙を破る。
 月子は一度ケトルを置き、迅を見た。ささくれだった指先は緩やかに組まれたままかすかに震えていた。迫り上がっては飲み込まれる呼吸が言葉を形づくるのを、数秒待つ。
「月子さん、は……ここにいるの、嫌になってないの」
「なってませんよ」
 笑みとともに体から力が抜ける。迅があんまり深刻そうだから、いったい何を言われるのだろうと身構えてしまった。ふふ、と笑みをこぼした月子に、けれど迅はどこか縋るような目をする。
「……正直に言えば、警報の音にはまだびくっとしてしまいます。でも私、ここが、大好きですから。ここよりも居心地のよい街はもしかしたらあるのかもしれないけれど、それでも、」
 迅は、もしかしたら『嫌になった』と言ってほしかったのかもしれない。そう察したけれど、嘘はつけない。
「ここには迅くんもいるから……どんなことがあっても、きっと、嫌にはなれないと思います」
 月子がここを好きなのはカフェ・ユーリカがあるからだ、というのは迅も知っているだろうけれど――それだけだと思わないでほしい。心臓の熱に浮かされるように打ち明けてしまった言葉は、ふわりとカフェ・ユーリカのおだやかな空気にとけていく。
 迅は今のをどう受け止めただろうか。顔が見れない。
 豆からガスが抜けた頃合いを見計らってケトルを手に取る。その指先が震えていることは自分でも気付いている。深く息を吸って、ゆっくりと吐く。珈琲の香りを肺に満たし、からだに染みついた動きをなぞる。どんなに自分の感情がままならなくても、珈琲だけは淹れられる。ここで、はじめて自分のお客さまを迎えたその時から今日までの日々が、月子をそういう人間に育ててくれた。
 ケトルを置き、抽出の終わった頃合いを見てドリッパーを外す。サーバーに溜まったひとり分の珈琲は、やわらかな橙色の光を宿しながら揺らめいている。
 カップを温めていたお湯を捨て、淹れたての珈琲をそそぐ。スプーンの曲がった先端をカップの縁にひっかけて、カップにスプーンの橋を渡す。そのうえに角砂糖をひとつ。そこまでできたら、特等席へ給仕する。
「お待たせしました」
 声を掛けると、はっとしたように迅が顔を上げた。ということは、今まで俯いていたのだろうか、と頭の片隅で考える。
 迅はカップを見て、それから怪訝そうに月子を見る。カフェ・ユーリカで、砂糖がこんな形で提供されることはない。
「といっても、これで完成ではなく……」
 微笑みながら棚の奥からブランデーを取り出す。月久が特に好んでいるものだ。他の洋酒に隠れるようにひっそりと置かれていたのを先日の片付けのときに見つけた。
 琥珀色のブランデーをちろりと角砂糖へ傾ける。スプーンからこぼれない程度に、ひとたらしだけ。二十歳になっていない迅にお酒はご法度だが、アルコールはこのあと飛ぶので問題ない。
「見ててくださいね?」
 一声かけてから、シュッとマッチを擦る。ストーブを点けるために置いている、持ち手が少し長いものだ。燃え尽きるまでの時間が長く、この珈琲の仕上げにぴったりなのである。
 ぽっと灯った赤い火を、ブランデーが滴る角砂糖にあてがい数秒――青い炎が、ゆらりと揺らめいた。
 迅の瞳がいつもよりわずかに円くひらかれる。
「窓がないときにぴったりの珈琲――〝カフェ・ロワイヤル〟です」
 カフェ・ロワイヤルは、角砂糖にブランデーをしみこませ、その高いアルコール度数を活かして引火させて砂糖を溶かす飲み方だ。ナポレオンも愛したという、どこか魔法めいたとっておきの一杯である。
「暗いと、フランベが……炎の色がきれいに見えますから」
 迅はもう覚えていないかもしれない。けれど月子は、覚えている。
 自分だけの、はじめてのお客さまをもてなしたあの日のこと。フライパンに白ワインを注いだ月子へ、迅は『燃える?』と問いかけた。ほんのすこし、わくわくした顔で。
 窓を塞いだ店内は、けれど照明だってあるのだから暗闇を感じるほどではない。けれど、迅に見せたかった――彼が守れなかったと悔やむ傷痕だって、月子はこうして愛せるのだと。
 ブランデーの芳醇な香りがやわらかに漂っていた。青い炎はちろちろと踊り、あたりへかすかな光の影を分け与える。ぽたり、と溶けた砂糖は青い炎をまとったまま珈琲へ落ちた。流れ星が降りしきる真夜中の湖を、はるか天空から見下ろせばきっとこんな景色だろう。
「――わかってたんだけどなあ」
 囁いたのは迅だ。いつもの飄々とした笑みは失われ、青い炎がゆらめく瞳には苦痛が見え隠れする。月子は指先に痺れるような痛みを感じた。
 迅は、よろこんでいない。底のない淵のすぐ傍に佇んでいるような気さえする。
「……ここに来たら……、ずっと……」
 みなくたってわかってたんだ。
 ジャズの音色にも紛れた途切れ途切れの言葉がかすかに鼓膜へ届く。涙の気配なんてどこにもないけれど、彼は深い悲しみのなかにいるのではないのか――月子が、そこへ迅を誘ってしまったのだろうか。
「……お、お気に召しませんでした、か? カフェ・ロワイヤル……」
「ううん。月子さんらしくて、いいメニューだと思うよ」
 ふっ、と迅がわずかにくちびるを緩める。それでも、やっぱりその瞳には例えようのない苦痛がある。何かを希うような、切望と哀願が混じり合って――その苦しみを取り除いてあげたいのに、それを与えているのは他ならない自分だった。間違ってしまったのだと、思う。
 迅が口をひらいた。躊躇いがちにひとつふたつの酸素を取り込んで、そして言う。
「……月子さんはさ、おれのこと――好きなの?」
 問いかけは、あばらの隙間に薄い刃を差し込んだようにするりと心臓を貫いた。
 頭からすっと血が引いて、けれど指先まで震えるような熱がわだかまる。この気持ちを自覚する前なら、もちろんです、とあっさり答えていただろう。大切なお客様ですから、弟みたいに思ってます、と予防線を幾重にも張って。好きと告げたところで自分たちの関係は変わらないと――終わらないと思いたいから。
 恋なんてないほうがずっとうまくいく、そう信じたままにこの気持ちに蓋をすれば――迅は。月子にここを嫌になって欲しそうな顔をした彼は、よろこぶだろうか。
 でも。
「…………すき、です」
 声は無様に震えて、掠れて消え入りそうだったけれど、だからこそ何もかも届いてしまっただろう。迅の顔が見れずに俯く。
 胸の奥に閉じ込めていた感情を抑えていたものはもうどこにもなかった。それは瓦礫とともに砕けてしまったのかもしれないし、角砂糖のように溶けてしまったのかもしれない。
 あんなに恋なんてしたくないと思っていたのに。それでもそれを言葉にすると、胸の奥から想いが溢れて止まらなくなる。
 迅の優しいところが好きだ。へにゃりと笑うところが好きだ。おいしいと欠かさず言ってくれるところ好きだ。そのまなざしも、髪のやわらかさも、ひとつひとつ選ばれた言葉たちも、彼をかたちづくるものが好きだ。月子は迅のすべてを知らないけれど――目の前にいるこのひとが、好きだ。
 浅ましくて、身勝手な、月子だけの感情だ。
「……やっぱり、嫌……でしたか?」
 月子の気持ちが受け入れ難いからこそ、迅は訊ねたのだろう。嫌われてはないんだろうけど、と月子は痛む心臓を宥めるようにゆっくりと呼吸する。エプロンを掴んでいた手から意識的に力を抜いて、生まれたばかりのしわを撫でた。
 仕方ない。
 だって月子は、迅に線を引かれてしまうような人間だ。隣では戦えないし、迅が見ているものも知らない。落ち込んでいるときにその気持ちを楽にすることもできない。ついでに六つも歳上ときている。
 自分を受け入れられないだろう理由をいくつもあげつらう。これを上手に使えば、この感情をどうにか説き伏せられるだろうか。痛みは伴うが、そうしなければならない。それが独りよがりに感情を抱いたものの責任だ。
 笑顔の浮かべ方を思い出す。大丈夫。迅が珈琲を飲み終わるまでぐらいは、耐えられる痛みだ、と――まばたきで静かに涙を散らしたとき。
「嫌、だったら……こんな気持ちになってないよ」
 笑みも繕えないまま顔を上げると、迅が月子を見つめていた。青い瞳がいつもよりわずかに色を深めて月子を映している。そのまなざしに揺るぎはない。
「月子さんのこと、嫌になれるわけない」
 嬉しいはずの言葉をそのまま受け止めることはできなかった。迅の表情が何もかもを物語っている。諦めたような笑みは自嘲に似て、やわらかな拒絶を孕む。自分が告げた一言がそれを呼び起こしたのだと、言われるまでもなく理解した。
 嫌になってない、としても。迅は月子の想いを、受け入れたわけでもない。
「ここで、月子さんと話すのが好きだよ。ほんとうに、すきだよ。……だから、ダメだ。いつかその時が来たら――おれは、月子さんを選ばないから」
 傷ついている、と思った。自分の心ではない。月子を拒絶しようとする目の前の迅が、言葉を重ねるたび傷ついていくのを感じる。自分自身を傷つけるようなことを言ってほしくなかった。迅の傷つく姿にこそ月子は耐え難い苦痛を感じる。
「だったら、おれは、月子さんの傍には他のやつにいて欲しい。月子さんのことを一番にできるやつが、いい」
 ――おれじゃなくて。
「迅くん」
 語気を強めた呼びかけに、迅の口が一瞬止まる。月子は痛みを押し殺して微笑んだ。どうしたらこのひとに、もっと、自分自身のことを大事にしてもらえるだろうか。
「私は、私を一番にできる人を、好きになるわけじゃないです。……あとどれだけ、すきって言ったら、伝わりますか?」
 迅には月子より優先するものがある。そんなことわかっている。だけど、そういう迅のことを好きになったのだ。月子が好きになったのは、そういうひとなのだ。あなたに会いたかったとあれだけ言ったのに、ちっとも伝わっていなかったのだろうか。憤りにも似た感情が言葉を紡がせる。
 迅の抱えているものは知らないけれど、それがどれだけ迅にとって大事なものかは、わかる。だから、いいのだ。迅の大事なものならば、月子だってそれを大切にしたい。たとえ迅と並び立てなくても、月子は月子のできることをすればいい。
「一番じゃなくても、迅くんがここに来てくれるなら――私はそれがいいです。他の誰でもなくて、迅くんが、好きなので」
 にっこりと笑ってみせながら、月子は迅の言葉を反芻する。
 嫌だ、とは言われなかった。自分と話すのが好きだと言ってくれた。月子の身勝手な感情を、迅も悪くないと思ってくれるなら――溢れた心を止めることはできない。
 恋とは不確かなもので、いつか失われるかもしれない。その事実を知り、恐怖を抱いていても、それでも。たとえ選ばれない時が来るとしても、それまでの日々は月子にとってかけがえのないものになるはずだから。
 だってこれまでの日々が、そうだった。
「……なので。迅くんに好きになってもらえるように、頑張りますね」
 えっ。と、音になり損ねた呼吸が薄いくちびるからこぼれた。迅はしぱしぱと青い瞳をまたたかせている。月子は羞恥心が熱となってじわじわ迫り上がってくる気配を感じつつも、微笑んだ。頬どころか耳も熱いけれど、思っていたよりも悪い気分ではない。胸のつかえがとれたような、そんな心地だった。痛みと苦さだけではない、甘やかな鼓動が体の内側から響いている。
「あ……、カフェ・ロワイヤル、もう冷めてしまったでしょうか。淹れなおしましょうか?」
 ゆらめく青い炎はすべて降りそそぎ、カップには銀の橋が残るのみだった。ゆっくりとまばたきを落とした迅が、月子を見つめる。心なしかその目元が赤いような気がして、月子は笑みをこぼした。
 まだ、好きだと告げるつもりなんてなかった。
 好きになってもらえるように頑張るなんて宣言も、するつもりはなかった。
 けれど迅に苦痛を少しでも忘れさせることができたなら。かつて月子が押し潰そうとした感情が、役に立ったのなら。この感情もそう悪いものではないと、慈しむことができる。苦くて恐ろしいだけのものではなくて――よろこびも生むことができるのだと。
「いや……大丈夫、です……」
 戸惑いも露わに迅が答え、そっとスプーンを持つ。ひとまぜしてからカップを持ち上げ、ぎこちなくひとくち飲む。いつもなら迅の感想を訊くまで待つところだけれど――それは叶わなかった。
 からんっ、とドアベルが軽やかに来客を知らせる。月子が驚いて入口を見れば、見知った常連客がひょこりと顔を出していた。
 迅くんがいるときに他のお客さんがくるなんて――ささやかな奇跡が解けてしまったようで惜しみつつも、ほんの少しほっとしている。
 自分がいなくて繁盛してよかっただろう、なんて。そんな寂しいことを、もう迅に言わせずに済むのだから。
 
   *

 まだ少し熱をもった珈琲が喉を滑り落ちていく。体の奥が灼けるような感覚はブランデーによるものだろうか。
 ゆっくりとカフェ・ロワイヤルを飲みながら、迅は常連客らしき老紳士のぶんの珈琲を淹れる月子を盗み見る。色素の薄い肌は頬や耳がまだほんのりと赤く染まっていて、先ほどまでのことが都合の良い夢ではないことを告げていた。
 月子は、迅を好きだと言った。好きになってもらえるように頑張る、と。
 そんなの、もう、とっくに、好きなのに。
 迅が守れなかった――守り切らないことを選択した爪痕を、すてきなこともある、なんて笑ってくれる月子を愛しく思わないわけないのに。
 わかっていた。ここに来たら、どうしようもなくなること。今までよりもずっと彼女を好きになること。そんなのサイドエフェクトに訊ねるまでもなく明らかなことだった。
 それでも泣いているかもしれないと思ったら、駆け出してしまったのだ。その涙を拭うのは自分でありたかった。無事をこの目で確かめたかった。会えてうれしいと言う彼女を抱きしめて離したくなかった。月子を一番にできる人間がいいなんて嘘だ。本当は、誰にも譲りたくない。
 よりよい未来と彼女が天秤にかけられたとき、彼女を選べないことがわかっているから目を背けたかった。どれほど凄惨な可能性も直視し、誰を犠牲にするとしてもよりよい未来を選ぶと決めたくせに。だから迅は、それだけ、彼女を選びたくて仕方ないのだろう。月子自身が一番じゃなくていいと言っても、一番にしたいのだ。
 ――まあ、それこそ夢物語だけど。
 感情よりも理性で判断することはもう慣れた。これほど願っていても、自分はやっぱり、彼女を選ばない時もあると確信するくらい。迅が苦く自嘲の笑みをこぼしたとき、不意に視界に未来が割り込んだ。常に変容する未来は、時に迅の都合などおかまいなしにその姿を現す。
 最も恐れるものが映ってなければいいのに――それを認識する一瞬前に抱いた願いは幸運なことに叶えられた。けれど。映し出される幾多の可能性に、迅は笑みをやわく引き攣らせた。
 迅は自分の理性が強靭であることを自負している。心の奥深くまで刺さった後悔という名の杭が早々抜けるはずがないことも、身に染みて理解している。
 だからこそ、迅には好きな相手からのアプローチを受け続ける未来が待っているらしい。今日だけで何度自分も好きだと言いたくなったかわからないと言うのに――月子が諦めている未来は、なかった。


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