マシュマロコーヒー

 月子はカウンターの内側でカップを磨きながら、奥の壁を見つめていた。大きな窓ガラスがあったはずの空間は、今はベニヤ板で塞がれている。陽光をたっぷりと取り込み、季節ごとの景色を見せてくれていた窓がなくなったせいか、カフェ・ユーリカはいつもより薄暗く、さみしげに見えた。
 音楽の切れ間が訪れ、一瞬、あたりが静かになる。しゅんしゅんと穏やかに奏でられる音が鼓膜を震わせた。フロアの中央に置かれた反射形ストーブの上に置いた、ケトルのお湯が沸いているのだ。そのことに気付いて小さく微笑みを落とす。普段は二階で使っているものが一階にあるのは少し見慣れないけれど、煌々と赤い熱があたりを照らす様子は見ているだけでほっとする。
 マッチで火をつけて使う石油ストーブは、祖母がいたころに買ったものらしい。ずいぶんと古く、赤いブリキのおもちゃのような外装はところどころ剥げている。けれどまだまだ現役だ。今は加湿のためにケトルを置いているが、シチューをことこと煮込んだり、ココアをじっくり練ったりと大活躍なのである。横長の長方形の、どっしりとしたデザインもレトロでどこか可愛らしい。
 ――第二次大規模侵攻、と呼称されることが決まったあの日から、早くも一週間が過ぎた。月子は月久に宣言した通り、三日後には片付けを終えて店を開いたが、まだ日常に戻ったとは言い難い。近所の常連客を中心にぽつぽつと来客はあるものの、心からリラックスできる穏やかな時間は遠のいたままだ。
 それでも、月子にできることは、この日常を続けることだけだから。丁寧にカップを磨き、光に透かす。つややかに光る陶器には一点の曇りもない。磨き上げられた器を見ると、ほんの少し心の靄も晴れるような気がする。
 からんっ、とドアベルが軽やかに鳴ったのは、次のカップを手に取る直前だった。
「いらっしゃいませ――東くん!」
 見知った姿を迎えてつい声が弾む。彼が店へ入ってくると同時に、冬の乾いた空気がするりと入り込んできた。この冷たい風も来客を知らせるものだと思えばちっとも嫌ではない。
 あからさまに喜んでしまったことが伝わったのか、扉を閉めた東が「はいはい、東くんだぞ」といつにないからかい混じりの声で応える。
「仰木が元気そうでよかった」
「東くんも……思ってたよりは元気そう」
 年が明けてから顔を合わせるのは二度目だ。前に会ったときと比べると肌に疲れが見えるが、想像していたよりは元気そうな姿にほっとした。何より、怪我がなくてよかった、と思う。通話やメッセージのやりとりは何度かしていたからわかってはいたのだけれど、やはり自分の目で確認すると安心する。
「本当はもう少し早く顔を出したかったんだが……悪いな、遅くなって」
 特等席に座った東がわずかに眉を下げた。月子はグラスに水を注ぎながら「東くんが謝るようなことは何もないよ」と微笑んで返す。ボーダー隊員の中でもまとめ役のような立場であるらしい東が忙しいのは想像に難くない。本部長補佐である響子もだ。こうしてここに訪れる時間をつくるのだって大変なことだろう。
「むしろ無理して来たなら怒るところだったよ……お疲れさま」
「ありがとう。まあ、落ち着いた、とまでは言えないが……あとは上に任せるさ」
 グラスに口付けた東が苦く笑う。含みのある表情に月子は昨日の夕方に流れた記者会見を思い出す。
 大切な常連客である城戸の凍てついた表情、街の被害、殉職した職員、そしてなにより責任の引き合いにまだ中学生の子どもが取り沙汰されたときは酷く胸が痛んだが、同時に大きな発表もあった。まさか街の防衛だけでなく、向こうの世界への遠征――行方不明者の奪還計画を進めていたなんて寝耳に水である。月子はしがない小市民なのだから、そんな計画知っているほうがおかしいのだけど。
 今以上の危険が伴うのではと思うと不安だったが、少年の真っ直ぐな言葉は響くものがあった。大人としてはなんだか情けなくもなったが。隣にいた祖父も『見どころのある子だのう』と珍しく素直に感心していた。
「……そうだ、東くんに訊きたいと思ってたんだけど、記者会見の子は大丈夫? 怪我してたし、まだ子どもなのに出てきて、びっくりして……」
「ああ、あれな……、まあ、当人も同意の上で出てきたとは訊いてるが……俺も気にかけておくよ」
 最初に訊いてくることがそれって、仰木らしいな、と東が楽しげに笑う。笑えるだけの余裕があるということは、彼のことも部外者が案じるほどのことにはなっていないのだろう。ほっと安堵の息を漏らせば、東が「しかし、」と店内を見渡す。
「まさか本当に店を開けてるとはな……」
 東は呆れと関心をちょうど半分ずつ混ぜたような、苦く柔らかな表情を浮かべていた。
「仰木のほうこそ無理してるんじゃないって沢村と心配してたぞ」
 声音こそ冗談めいていたが、それは東と響子の本心なのだろう。月子は友人たちからの心配にくすぐったいような気持ちになりつつ「無理してないよ」と答える。
「水道も電気もガスも、ライフラインはすぐに復旧したし。ガラスは特注だから時間がかかるみたいだけど……でも、私もお店も無事なんだから、店を開けるのはちっとも難しくないし――こうして東くんに来てもらえたんだから、開いててよかったでしょう? ……今日は何を飲まれますか、お客様?」
 カウンターの内側からにっこりと微笑む。東はふっと頬をゆるめて「久々に仰木のコーヒーが飲みたいな」とちょっと可愛げのあることを言った。
 
 豆は程よい苦みのある中煎りのものを選ぶ。月久がつくったブレンドのひとつで、マンデリンの豆をベースにしている。東も何度か飲んだことがあり、反応がよかったものだ。
 スプーンで豆を計り、ミルで少し粗めに引く。コーヒーミルが静かに仕事を進める間に、コンロにケトルをセットする。石油ストーブに置いたケトルのお湯は珈琲を淹れるには温度が高すぎるし、ずっと沸かしていたお湯よりも、新しく沸かしたお湯のほうがなんだかおいしく淹れられる気がする。
 ドリッパーは陶器製のものを選び、サーバーとカップとともにあたためる。カップは大きな手でも持ちやすい琺瑯製のマグだ。
 豆が挽けたらペーパーフィルターをセットして、ドリッパーに粉を移す。香ばしい豆の香りがふわりと広がった。指先で優しく平らに整える瞬間の、さふ、という感触は何度味わっても心地よい。
 頃合いになったケトルをそっと持ち上げてドリップをはじめる。はじめのお湯は豆を蒸らすために少なめ、けれど全体に行き渡るように丁寧にゆっくりと注ぐ。そうするとむくむくと豆がふくらみはじめる。数十秒待ち、ぺしゃりとしぼむ。ガスが抜けた合図だ。
 ケトルを少しだけ傾けて細く長くお湯を注ぐ。のの字を描くようにケトルを動かす。ぽたぽたと落ちはじめたばかりの珈琲は澄んだ褐色だ。
 中央部が膨らんでいる状態から、平らな状態になれば一回目の抽出は終わり。中央が窪みはじめたら、二回目のお湯を注ぐ。そのころにはドリッパーに珈琲が溜まりはじめて、褐色というより黒に見え始める。
 三回目のドリップも丁寧に終えたら完成だ。ドリッパーを外し、カップにそっと注ぐ。静かな湖面のような淡いさざなみが立った珈琲は、光を受けてつやりと輝いた。
「お待たせいたしました、ごゆっくりどうぞ」
 コルクのコースターを添えてカウンターに置けば「ありがとう」といつものように律儀な礼がある。こっちの台詞のような気がした。顔を見せてくれて、珈琲を淹れさせてくれて、本当にうれしい。誰かのために心をこめて淹れた一杯が、胸のうちにあたたかな火を灯してくれる。
「それから、こちらはサービスですが……」
 月子はやわく微笑みながら、カウンターの下からそれを取り出す。ぎらりと銀に輝く、先端が鋭く尖ったレイピアのような串。
「えっ……」
 と、カップを今まさに持ち上げようとしていた東が肩を揺らした。
「この串でマシュマロをですね……どうしたの東くん?」
 ぽかん、と口をあけて月子を見つめる友人に、こてりと首を傾げて問う。作業台の上に串を置いてから、特大サイズのマシュマロの袋を取り出せば、東は気まずげな表情をしたあと、言いづらそうに口を開く。
「刺されるかと……」
「え?」
「ほら……こう、あるだろ……そんな感じのでグサグサいくスプラッター映画」
 言われてみれば、月子が取り出した串は肘から指先ほどの長さがある。肉用なので太さもあるし、ぱっと見では凶器のように見えなくもない。
「バーベキューにされるかと思った」
「しないよ!? なんでそんな発想が出てくるの?」
「悪い悪い……急だったから驚いたんだよ。それでマシュマロを焼くのか?」
 もしや刺される心当たりが、と考えかけたものの、説明を促す東に気を取り直す。
「うん、そう。せっかくストーブをおろして来たから、何か楽しめたらなと思って……」
 塞がれた窓はいつものカフェ・ユーリカの姿ではないが、せっかくいつもと違うものがあるのだから、いつもと違うことをやってもいい。本当は焚き火や炭火で焼きたいところだが、石油ストーブでも焼くことはできる。
「炙ったのをそのまま食べてもいいし、珈琲に浮かべてもおいしいよ。どうかな?」
「じゃあひとつ貰おうか」
「どうぞどうぞ。椅子、ストーブの前に置くから、それ使って」
「ああ、いいよ自分でやる……というか、仰木もやるか? 他にお客さんもいないし、誤解の詫びに珈琲を奢るけど」
 奢るけど、と言うが、淹れるのは月子である。そんなツッコミを待っているだろう横顔につい笑みがこぼれて、月子はご相伴に預かることにした。

 同じ豆で自分用の珈琲を淹れれば準備は整った。石油ストーブの前に椅子を二つ並べ、串に刺したマシュマロをじりじりと炙る。熱にあてられた手元がじんわりとあたたまっていくのはなんとも言えず心地よい感覚だ。もう少ししたら、熱くて辛くなるのかもしれないが。
「マシュマロのうまい焼き方は知ってるか?」
「ううん。ふつうに焦げ目をつけたらいいんじゃないの?」
「まあそうなんだが……焦げ目をつけたあと、食べるのにコツがある」
 先に炙り終えた東が、月子によく見えるようにマシュマロを掲げた。ふわりと甘い香りが広がる。真っ白だったマシュマロは満遍なく焦げ目がつき、月子が思っているよりも濃い焦茶色をしていた。溶けだしたメレンゲがじゅわりと泡を立て、見るからに熱そうだ。
「表面が焦げて、その下が溶けてくるまで焼くんだ。そしてこれをこう――」
 と、東の指先がマシュマロにふれる。そして、例えるなら頭から被ったワンピースを脱がせるように、するり、と焦げた表皮を取り払った。いやどちらかと言えば、鍋でよく煮えた長ネギを掴もうとしたら、中身が飛び出して外側しか残らなかったときのよう、だろうか。途端に色気がなくなってしまったが、東が朗らかな顔をしているので後者の表現が相応しいだろう。
「で、この外側だけを食べるとじゅわっとしててうまい。残ったのはもう一回炙ったらいい」
「なるほど」
 さっそく月子もやってみる。じりじりと焦げてくるまで、ただし油断するとあっという間に黒焦げになってしまうから注意深く、機を見計らって火から離すのだ。
「熱いから気をつけろよ」
 忠告を聞きながらそっとマシュマロにふれる。確かに熱い。けれどうっかり薄い布越しに熱々の天板を掴んでしまったときほどではない。
「……あれ?」
 東がやったように引っ張ってみたが、マシュマロは焦げ目を着込んだままだった。表面のすぐ下は溶けていて、動く気配はあるのだが、東がしたようにするりと取れない。
「下が温まってないな、まだ溶けていない」
 指摘されたとおり、下の方はまだ真白く溶けていない。意外と難しいな、と思いつつもう一周温めて、今度こそするりと焦げ目を脱がせる。
「ふふ、綺麗に取れると楽しいね、これ」
「バーベキューで教えたらみんな楽しそうにやってたよ」
「望ちゃんたち?」
「ああ」
 なるほど、と頷く。東とマシュマロを繋ぐものはバーベキューだったらしい。東はキャンプをはじめアウトドアが趣味だというから、そのあたりで覚えたのだろう。月子の心を読んだように「長野でキャンプしたときに父親から教わったやり方」と東が補足してくれた。
「それより冷めないうちに食べろよ」
 東に言われるまま、月子は注意深く息を吹きかけてから、ぱくり、とマシュマロを口に放り込んだ。
 さくっ、と、しゅわっ、のあいだ。しゃくっ、と儚い食感。普通に炙ったものはこのあとマシュマロの独特の歯ざわりがあるのだけれど、これはただ違う。ただひたすらとろけていく。バニラの香りが口のなかに広がり、まったりと甘い。
 これは、と思ってカップを手にとった。まだマシュマロが残っている間に、珈琲をひとくち含む――美味しい。甘みを攫っていく苦味にも、ほのかな甘さがプラスされて、丸く柔らかなマリアージュが生まれている。
「……これ……珈琲に浮かべるのとはまた違ったおいしさ……」
「だろ」
 やけに嬉しそうに東が言う。なんとなく、父親に教えてもらった焼き方だからだろうか、と思った。
 しばらく他愛のない話をしながらマシュマロを焼き、珈琲を間に挟みながらとろける甘さを楽しむ。いよいよ小さくなってしまった芯の部分を珈琲に浮かべたとき、東がふと表情を変えて言った。
「――そういえば、迅には会ったか?」
「……ううん。メールは送って、返事は来たけれど」
 その後の連絡はない。会えないならばせめて声を聞きたいと思ったけれど、月子から電話を掛けていいのかもわからない。実力派エリートを自称する迅は、他の人からの口ぶりからしてもボーダーで頼りにされているようだった。そもそも今回の悼ましい大侵攻が起きる前から迅は忙しない様子で、そんなところに連絡をいれて迅の邪魔になりたくない。いや、正しくは、邪魔だと思われて嫌われたくない、だけど。
「……でも、迅くんも怪我はないみたいで、よかった」
「よかった、って言うわりに浮かない顔してるぞ」
 苦笑する東には月子の本音なんて見透かされているのかもしれない。年末の醜態を思い出して少し気まずくなる。同年代である東から見て、六歳も年下の男の子に心を寄せている自分はどう映っているのだろう。響子は恋に年齢は関係ない、と力強く言い切ってくれそうだが。
「仰木も心配なんだな」
「……私も、ってことは東くんも? 何か心配に思うようなことがあるの?」
 ぽつりと呟かれた言葉にはっと思考が切り替わる。思慮深い東が口に出してしまうほど心配されるような状況であるとすればそれは――月子には何もできなくても――見逃せない。東はぱちりと目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
「おまえらよく似てるよ」
「それ、どういう……」
 珈琲を飲む東は目を細めて笑うばかりだ。それからとん、と軽やかにマグを置き、スマートフォンを取り出して何度か画面を叩いた。
「どうぞ」
 と、差し出される。煌々と光る画面には『迅悠一』と表示されていた。呼び出し中。
「なにしてるの!?」
「店は見ておくし、少し話してきたらどうだ?」
 しれっとした顔で言われて、瞬間、頭が真っ白になる。なにもかもが消え去った脳内にいちばんに戻ってきたのは、シンプルな感情だった。
 ――会いたい。
 声がききたい。
 彼が無事だということを、確かめて、安心したい。
 一方的な、身勝手な感情だと思った。そんなことしたって迅のためになるようなことはない。
 そう何度も言い聞かせてきたはずなのに。目の前に差し出された小さな端末に、月子は手を伸ばしていた。ほとんど衝動による行動だったけれど、東は早々に手を離していて、だから、月子が手放すわけにはいかない。
 迅のためにはならない。自分のための行動だけど。そうわかっていても、何かしたくて堪らないのだ。
「お借りします、ありがとうっ」
「どういたしまして」
 耳にあてる、呼び出し音が聞こえる。カウンターの横の扉、パントリーへと早足で向かった。扉を開き、きんと冷えた空気が頬に触れた瞬間、耳元で声が響く。
《どうしたの、東さん。電話なんてめずらしい……》
 いつも月子に向けられる声とまったく同じではないけれど。間違えようもなく、迅の声だった。少し疲れているように感じる。
「――迅くん」
 数秒の沈黙のあとに、やっと四つの音をくちびるにのせられた。電波の向こうで息を呑む音がする。
《…………月子さん?》
 名前を呼ばれるだけで、心臓が痺れるように痛んだ。

 寒々と凍える空気のなか、指先から失われる熱と裏腹に、心はぽかぽかとあたたかい。はじめこそ驚いていた様子だった迅の声は、すぐに平静を取り戻し《まさか東さんからの電話に出て月子さんの声が聞こえるとは思わなかった》と微笑む。
「ごめんなさい、急に……東くんから、その、迅くんと話したらって、電話かけてもらって……本当にすみません……」
《ううん。おれも……おれも、月子さんの声、聞きたかったし》
 この言葉は、月子のために言ってくれている社交辞令だろうか。それとも迅も、本当にそう思ってくれているのだろうか。都合のよい解釈ばかりしてしまいそうになる。
「怪我がないとは、聞いたんですが。その……元気かどうか、知りたくて」
《元気だよ。月子さんは?》
「私も元気です」
 メールにも書いたような近況をぽつぽつと報告する。そんな何でもないことなのに、どうしようもなくうれしい。好き、なのだ。だからたぶん、間違いなく。胸に空いた穴がすっかり埋まってしまったような、そんな気さえしてしまうから。
《そうだ。言い損ねてたんだけどさ、ガレット・デ・ロワ、食べたよ。おいしかった、さすが月子さん》
「よかったです。王様は誰になりましたか?」
《あー、おれだった。王冠は陽太郎にあげたけど、フェーブはまだ持ってるよ、猫のやつ》
「そうなんですね! おめでとうございます……あのフェーブは、前に迅くんが送ってくれた猫によく似ていたので選んだんです」
《どうりで見覚えが……》
 会話をしながら、少しほっとした。声に元気がなかったのは最初だけで、迅の様子はいつもと変わらない。避けられていたわけではなかったのだと思えて安堵してしまう。そんな心の動きも少し前なら厭わしく思ったのかもしれないけれど、今はそんなことどうだってよかった。ただこうして迅と話せる日常が、どれだけ得難く、愛おしいものかわかったから。
《……最近、行けてなくてごめんね》
 雑談を楽しんでいたはずの迅の声が、不意に沈んで謝罪を紡いだ。彼の謝る声は、あまり聞きたくない。いつもとても苦しそうだから。
「いいえ、」
 迅くんが忙しいのは知っていますから、とか。
 軽やかに、傷つけないように、優しく紡ぐはずだった言葉は、続く声を前に形を失った。
《でも、大繁盛したんじゃない? ほら、ジンクス》
 晴れやかな声音は、よかったね、と言っている。
 迅が来るときは、他のお客様がいない。そういうジンクス。月子の好きな時間をつくってくれる、不思議で大切な偶然。
 けれど迅は以前『それって嫌なジンクスじゃない?』と言っていて。そんなことはないのに。なのに迅は、おれが来なくて嬉しいでしょ、と言っている。
 ――うれしくない。
 ちっとも、ぜんぜん、うれしくない。
 迅がそういうふうに言ってくることが、さみしくて、かなしい。
 恋とか愛とか呼ばれるものが月子だけの感情だったとしても、あの時間は、二人にとって心地よくて、大事なものだと、そう思っていて欲しいのに。
 どうしてそんなことをいうの。
 いったいどれだけ話していたのだろう。冷たい空気に指はかじかみ、触覚は鈍く遠い。じんと痺れる痛みが、物理的なものなのか、心の錯覚かわからなかった。
「……たくさんの、お客様には、来て、いただきましたが……」
 会話を続けなければと言葉を探したが、見つからない。人と人を天秤にかけるような真似はしたくないし、たくさんのお客様よりあなたがいいなんて言えない。でも、たくさんのお客様がいたらあなたはいらないなんて、そんなこと絶対に言いたくない。そんなこと、あるわけがない。ないのに――迅はそう思っている。
 胸のうちのあたたかな火に、冷たい水をかぶせられたような気がした。灯火を失い、冷気に指先が震える。吐き出した呼吸も震えていたかもしれない。
《…………月子さん、あのさ……泣いてたり、する?》
「いえ……、すこし、さむくて、」
 嘘じゃない。本当に少し寒かっただけだ。冬場のパントリーは冷蔵庫代わりになるほど冷えるから、そんなところにずっといるから、凍えてしまっただけ。泣いてない。泣きたくない。呼吸の震えも、すんと鳴らした鼻もそういう生理現象で、だから心配されるようなことじゃない――けれど、耳元で響いたその声にこそ、涙がこぼれ落ちた。
 わずかに怯えを孕んだ、それでもやさしくて、あたたかな声だ。ずっと、聞きたかった。会いたかった。
「……迅くんが、いないのは…………、さみしい、です」
 沈黙が訪れた。ほんの数秒ほどにも、数十秒にも感じたそれを破ったのは迅だ。
《今から、行くから》
 ――ごめん。
 掠れるような一言が少し遠くから聞こえて、あとにはツーツーと不通音だけが響く。借り物の画面に浮かぶ通話終了の文字を見つめる。
 話せるだけでよかったのにどうしてあんなことを言ってしまったんだろうという後悔と、騙してしまったような罪悪感と、会いに来てくれることへのよろこびが混ざり合って、泥にまみれた雪のようにぐちゃりと心が掻き乱される。それでも――見失ってはいない。
 深呼吸して、くちびるを噛んだ。小さな痛みが心を律する。
 月子は、月子のできることで、好きなひとを、よろこばせたい。それだけだから。


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