キャロットケーキ

 定休日のカフェ・ユーリカで、月子はひたすらキャロットケーキを焼いていた。ふんわりと漂うにおいは甘過ぎず、かすかに混じるシナモンの香りがどこか懐かしい気持ちにさせてくれる。朝からオーブンを動かしているおかげか、カウンターの内側はほんのりとあたたかい。オーブンの中ではパウンドケーキ型に入れられた生地がむくりと膨らみはじめている。
 きっかけは月久の知り合いから送られてきた大量のニンジンだ。月久曰く、何年か前に連絡がとれなくなって以来さっぱり音沙汰がなかった旧友で、どうやら人知れず農業をはじめていたらしい。
 段ボールいっぱいに詰められたニンジンは、まだ畑の土がついており、緑の葉が豊かに茂っていた。太い根は濃いオレンジ色で、丹精込めて育てられたのだと一目でわかる出来栄えだ。同梱されていた月久宛の手紙には『うまさに驚け』と書いてあった。そしてそのとおり、送られてきたニンジンを使ったポトフはとびきり美味しかったのである。
 根菜は日保ちするから一冬かけてのんびり消費してもよかった。けれどせっかくの頂き物で、しかも大量にあるのだ。店を訪れるお客様にも楽しんでもらおうとキャロットケーキにして出すと決めた。しばらくの間、曜日限定のケーキとはまた別でメニューに載せる予定だ。
「もうこんな時間……」
 時計の短針は十一を越えようとしていた。月子は洗い物で濡れた手を拭き、作業台に置いた二つのパウンドケーキ型を見る。オーブンの中にあるものが焼きあがれば、この二つを続けて焼く予定だ。何かと便利なパウンドケーキ型はたくさん揃えてあるし、ニンジンを細かく削るのは都度やるには面倒な作業なので、まとめてつくったほうがよいのである。キャロットケーキは冷凍庫すれば一ヶ月ほど保つ。
 それにこうしてストックしておけば、いつでも振る舞える。どんなときでも、彼をもてなすことができる。それがいつになるかはわからないけれど。
 脳裏に描いた青年は、年が明けてから一度もカフェ・ユーリカに顔を出していなかった。最後に会ったのは林藤からのお歳暮を持ってきてくれたとき――月子がクリスマスプレゼントを渡したときだ。そのとき、あるいはその前、カフェ・ラグリマをつくったときのせいで避けられているのだろうか、なんて考えてしまう。迅が今とても忙しいというのは色々な人から耳にしているのに、そんなふうに思う自分のことが嫌だった。
 あばらの内側にいつの間にか生まれた空虚は、いつまでも満たされることなく、何か冷たいものが過ぎ去っていくたびそこが空っぽであることを知らせる。さみしい、とか。かなしい、とか。たぶん、そういった感情の通り道なのだろう。
 キャロットケーキをつくることは、雑音めいた感情からの逃避先としてもよかった、と手持ち無沙汰になって思う。覗きこんだオーブンの中では、生地の表面がぽこり、と割れ始めていた。

 窓ガラスの向こうの空がにわかに曇り始めたのは、最後のキャロットケーキの粗熱をとっているときのことだ。ずしりと重く沈んだ空の色に気付き、月子は作業台を拭く手を止めた。
 ざらり、と心臓が逆撫でされるような感覚が、不意に訪れる。耳の後ろ、うなじのあたりがざわざわと粟立っていく。
 空から目が離せない。
 蛇に睨まれたような硬直を解いたのは――けたたましいアラートだった。
 警告。
 警告、警告、警告――門発生。門発生。発生。発生。発生……。
 警戒区域に近い立地から、サイレンの音も門発生の通知も慣れている、けれど。スマートフォンの画面を一瞬警告が覆い尽くし、それがすぐに《大規模な門の発生を確認しました。警戒区域付近の皆様は直ちに避難してください》という避難指示に切り替わる。勧告ではなく、指示だ。
「――月子ッ!」
 祖父の声がした。二階で昼食をつくっていたはずだ。振り向けば、パントリーの扉からカフェへ入ってきた月久が「すぐに準備をしなさい。ここはわしが片付けておく」と告げる。いつも笑みを湛えている祖父らしくない、緊迫した声音が鼓膜にいつまでも残る。
「じゅんび……」
「一番近いシェルターでも歩くとかかる、手早くな。防災品はまとめてあるだろう?」
「う、うん」
 呆然としていた頭は、月久の黒々した瞳に厳しく見つめられて正気に返った。震える指先を誤魔化すように握り込んでから、自分が感じている恐怖に気付く。呼吸とともに感情をいっとき飲み込み、月子は祖父を見つめ返した。
「おじいちゃんのぶんは?」
「心配いらん、旅支度をそのまま使えばよい」
 パントリーの隅に置いてあるキャリーケースのことだろう。月子は大きく頷き、月久と入れ違いに二階へ向かう。
 世界が震動していた。気のせいではないだろう、そして地震でもない。心臓がうるさかった。階段を駆け上ったからではないことも、わかっている。三門の空は――ほんの一ヶ月前に間近で見上げた、あの黒い穴で埋め尽くされていた。
 危機が迫っているのだ。おそらく、四年半前と同じように。

 戸締まりとガスの元栓を確認し、家を出たのは避難指示が出てから数分後のことだった。祖父がしっかりと地震対策をしてくれていたおかげで、部屋の中も建物もひどいことにはなっていない。今のところは。同じ景色に帰ってこられるかはわからないけれど、と赤煉瓦色のうろこ屋根の建物を目に灼きつける。
 だいじょうぶ、と心のなかで呟く。四年半前もこの家は、〝カフェ・ユーリカ〟は、無事だった。きっと今回も帰れる――いいや、必ず帰ってくるのだ。ここは月子の愛する場所だから。
 通りに出ればざわめきも大きくなる。悲鳴が聴こえてこないだけ幸いなのだろう。近隣の住民も月子たちと同じように荷物を抱えて、あるいは手ぶらで、小走りで駆けていく。車道は早くも渋滞し始めているようだった。家に帰ろうとしている人も多いのか、行き先はばらばらだ。
 冷たい風が吹きつけた。尖った爪先が頬を掠めたように、肌がぴりりと引き攣る。呼吸すると胸のあたりが痛んだ。肺に小さな針を穿たれたような、心臓が軋むような、不可視の痛みだ。
「月子、先にお行き。わしに合わせると遅くなる」
「ううん、一緒に行こう……そうさせてほしい」
 大きなキャリーケースを引く月久は、道を譲るように端を歩いている。月子は自分のリュックサックをしっかりと担ぎ、祖父のキャリーケースを引き受けた。月久は長い距離を歩くときは杖を使うから、手が空いているほうがいい。「すまんな」と礼を言う月久に、きゅっと笑みをつくって返した。道ゆく人々の邪魔にならないよう、杖をつく祖父のすぐ後ろに控えて、シェルターへと向かう。遠くで地響きがした。
 ――大丈夫だろうか。
 擡げた不安を押し殺すように、短く呼吸をする。
 公共施設を中心に配置されているシェルターのうち、月子たちが向かうのは、第一次近界民侵攻後に統廃合を経て新設された小学校だ。受け入れ人数には余裕があったはず、と町内の避難訓練で受けた説明を思い出す。より多くの市民がなるべく警戒区域から離れた場所に避難できるよう、地域ごとに避難先が指定されている。
「……案ずることはない、今はボーダーがいる」
 月久の声が響く。労わるようなその言葉に噛みつきたくなった自分がいた。月子が今、心配しているのは――そのボーダーの隊員である迅のことだ。街を守る役目を負った、その人たちのことだ。
 でも、そんなことを祖父に言ったところでどうしようもない。こうして避難するしかない月子が心配したところで、何の意味もない。それが悔しくて腹立たしくて仕方なかった。


 小学校の地下にボーダーの技術を流用してつくられたというシェルターは、初めから人の滞在を前提として設計しているためか、想像よりは過ごしやすく整えられていた。いくつかのフロアに分かれているらしく、一フロアの人数はそう多くないものの、人口密度は高く感じる。一人に割り振られるスペースは決して広くはない。
「ふう、やっとひと心地ついたわい」
 杖をしまい、こきりと肩を回した月久が息を吐く。わざとらしい一言は、月久からの『もう気を抜いてよい』という合図だろう。シェルターの中に入りさえすれば、当座は安全だ。
 月子もゆっくりと深呼吸し、自分の端末を確かめる。電波状況はあまり良くない。そうでなくとも、月子が今いちばん声が聴きたいひとと連絡をとることは、不可能だろうけれど。
「どれくらい居ることになるのかな」
 パーティションで区切られているとはいえ、心からは落ち着けない。避難指示が出てから数十分でここまで用意してくれた担当者には感謝したいが、長く居たい場所ではなかった。
「さてなあ……前のときは二日ほどで帰れたが……まあ、これからのことはこれからわかる」
 白い髭を軽く撫でた月久は、難しい顔から一転、にやりと笑みをつくった。
「ひとまず腹ごしらえとしよう。腹が空いていると人間余裕がなくなるでな」
 月久がキャリーケースを開く。途端にふわりと鼻を掠めるあまいにおい――キャロットケーキだ。わしが片付けておく、と言っていたが、どうやら焼いてあったものを片っ端からキャリーケースに詰めていたらしい。きちんと四本あった。さらには小鍋と珈琲豆、ガスバーナーまで。ぱち、と月子は蒼みがかった黒の瞳をまたたかせる。
「一杯淹れたいところだが、勝手に火を使うわけにはいかんのう」
「こんなときだけど、飲みたくなるね、珈琲」
 悪戯っぽい笑みに苦笑を返す。
「珈琲は休息のよき友だ……あとでお湯を貰えるか訊いてみよう」
 言いながらも、月久はペーパーナプキン、ステンレスカップを二つとカトラリーを一組み取り出し、キャリーケースを閉める。そこに配布されたおにぎりとミネラルウォーターも並ぶ。どうやらこのキャリーケースがふたりのダイニングテーブルとなるらしい。
 てきぱきとランチの準備を進める月久に、これを旅慣れの一言で済ませていいのだろうかと思いつつも、まずは食事を楽しもうという気遣いに大人しく甘えることにした。
「うむ、うまい。良いニンジンだったからの、シナモンを控えめにして素材の味を出したのは正解だな」
「よかった」
 月久の褒め言葉に、小さく笑みを浮かべることができた。月子も自分のぶんを手に取る。
 どっしりとしたキャロットケーキは、ブラウンシュガーとシナモンのせいでオレンジには遠い焦茶色をしている。本来なら真っ白いチーズクリームをかけて仕上げるのだが、今はそれも難しい。そのままかじりついた。素朴な見た目のままに、ニンジンのやさしい甘みが広がる。気取らないおいしさだ。ほのかに香るシナモンがどこか懐かしくて――ほんのすこしだけ、泣きたくなった。
 ほんとうはこれを、カフェ・ユーリカで、大切な人たちに振る舞いたかったのだ。


 シェルターに漫然と漂う不安は、人が増えていくにつれ指向性を持って凝固していくようだった。喧騒に苛立ちが混ざりはじめたことを察し、月子はニュースサイトを映した画面を閉じる。じっと見つめていても情報はさして更新されず、ただバッテリーを消費するだけだ。無力感を噛み締めていても、事態が好転することはない。
 月久は少し前に知り合いがいないか見てくる、と席を立っていた。快く送り出しはしたが、もうすこし隣にいてもらったほうがよかったかもしれない。
 この瞬間も侵攻を食い止め、街を守ろうとしている彼らは――今、誰よりも危険の傍にいる。そのことを思うと、息が止まりそうになる。ひとりでいると思考がどんどん悪い方に転がってしまう。
「――市街地にネイバーが侵入していたらしいわよ。ボーダーは何をしているの?」
「シェルターには五日分の食糧があるんだとよ……五日だって? 冗談じゃない、家族とまだ連絡も取れてないってのに……」
 ひそひそと交わされる言葉が、張り詰める糸をあちこちから震わせていた。いつそれが切れて、怒りが場を支配してもおかしくないように思える。いくら三門市民が近界民の侵攻にも警報音にも慣れているとはいっても、これだけの広範囲でシェルターへの避難を要する事態はそうあることではない。事実、月子が三門に帰ってきてからは、初めてのことだった。
 飲料水や食糧は配布されているが、長丁場を見越してか少量ずつだ。入ってくる情報も多くはない。不安と不自由さが人々から余裕を奪っているのは明らかだった。月子も、祖父がいなければ今ほど冷静ではなかっただろう。
 通路を挟んだ斜向かいのスペースで幼い子どもが泣いている。必死な表情であやす女性の傍には、誰もいなかった。平日の真昼間だ。家族で揃って避難できる人のほうが少ない。
 十数秒悩んでから、月子は「あの」と、子どもを抱く女性に話しかけた。
「あっ……ご、ごめんなさい、うるさくて……」
 瞬間、子どもの母親であろう彼女の顔に怯えと緊張がはしる。
「大丈夫です! す、すきなので、子どもの泣いてるの!」
 考えるより先に言葉が出た。そういう顔をさせたいわけではなかったし、文句を言いに来たのだとは思われたくなくて。けれど、あんまりな言い方をしてしまった。ぱち、と瞳に浮かぶ色が怪訝そうなものに変わる。月子は頬に熱が集うのを感じながら、すみません、と囁いた。
「いえ、その、だから……子どもは泣くのが仕事といいますし、大丈夫ですよ。それより、あなたの顔色が悪いのが、気になって……」
 月子のあんまりな発言のせいか、その表情から鬼気迫るような必死さは抜け落ちていたが、疲労の色は濃い。遠目には歳上に見えたが、視線を合わせてみればおそらく同世代、下手をすれば歳下のようだった。ぎゅっと抱きかかえられているのはまだ乳離れも済んでいないような赤ん坊だ。
「食事は摂られましたか? 職員の方がおにぎりを配っていましたが……」
「……粉ミルクの列に、並んでいたので……」
 全員に配布される食糧と毛布とは別に、乳幼児用の配布列もあったらしい。彼女はそちらを優先したようだ。いや、単純に手が足りなくて受け取りに行けなかったのかもしれない。
「私、行ってきましょうか?」
 幼子を抱えて歩き回るのは辛いだろう。月子が言うと、彼女は躊躇いがちに首を横に振る。
「ご迷惑をおかけするわけには……」
「いいえ、取りに行くだけですし。荷物だけ見ていてくだされば、大丈夫ですから」
 手持ちの食糧を分け与えたほうが早く、そうしたい気持ちも強かったが、安易な分配がトラブルを呼び込むこともある。市からの配給物があるならそちらを頼ったほうがいい、というのが月久の教えだ。
「それならあたしが行きましょうか」
 遠慮がちに言葉を交わす二人の間に、するりと声が割り込んだ。揃って顔を上げれば、パーティションの影から見知らぬ女性が顔を出している。さっぱりとした笑顔の、ちょうど父親と同世代くらいの女性だ。
「あなた、荷物見ておいて」
 おそらく自分の家族に向けてそう言って、女性は返事も聞かないうちに出入り口のほうへ歩いて行く。とても見習いたい行動力だ、と惚れ惚れとその背中を見つめる。月子ではたぶん、遠慮の言葉に強く出ることもできず、お節介を完遂できなかっただろう。
「あの……ありがとう、ございます」
 月子とともに離れていく背中を見送っていた彼女が、小さな声で囁いた。
「いえ、私は何も……、」
 礼を言われるべきは、彼女のぶんの毛布と食料を取りに行ったあの人だ。月子が何もできなかったな、と曖昧な笑みを浮かべる。少し落ち着いた表情になった女性が首を横に振った。
「声をかけていただいて、よかったです……泣き止むきっかけになったみたいなので……」
 言われて見れば、いつのまにか腕のなかの赤ん坊は泣き止んでいる。まだ頬は濡れていたが、くりくりとした瞳で月子を見上げていた。乱入者に泣いているどころではなくなった、のだろうか。
 月子は支給されていた毛布を手に立ち上がり、通路を跨いで母子のスペースへ渡る。ひとまず毛布だけでも、と手渡せば「ありがとうございます」と女性が囁いた。毛布はすぐに、腕のなかの赤ん坊に巻き付けるようにして使われる。
 お役に立てたならよかったです、と頬を緩めれば、母子もちいさく笑う。ふっ、とこぼれた呼吸はすこし濡れていた。緊張が途切れて、同時に何か、抑えていたものが溢れてしまったような、そんな印象を受けた。
「わたし……、夫の転勤で、こっちに来て……」
 ぽつり、と彼女が囁く。
「知り合いもいないし、ひとりで育てて……、それがこんな、こんなことに……だから、わたし、反対したのにっ……こんなところ……っ!」
 こんなところ、と言われるような場所でも――月子の大事な場所だった。けれど、目の前のひとのこころが限界であることは見てとれる。ちくりと胸を刺す痛みを呑み、黙って彼女の話に耳を傾けた。
 頭の片隅で、母のことを思い出す。随分と霞んだ記憶ではあるけれど、本当に幼い子どもだったころ、自分の周りには母しかいなかったように思う。もしかしたらその姿は、目の前のひとにも似ていたのかもしれない。
「ボーダーがいるから安全なんて嘘だった! なにしてるのよ、っなんで街にまで……おかしいじゃないですかっ」
 くちびるを噛む痛みが言葉を押し留めてくれた。
 ボーダーがいるから安全だ。安全なのだ。ボーダーがいるから――今この瞬間に前線に立つ人がいるから、このシェルターの安全は保たれている。
 彼らが負っている危険を想像しないことはあまりにたやすくて、正体のわからない化け物よりも同じ人間のほうが責任を問いやすい。
 彼女の言葉を否定することは、できる。主観的な感情論でも、客観的な情報でも、月子は目の前のひとに〝界境防衛機関ボーダー〟の存在意義を説き伏せることができる。けれどそうすることが――真実、彼らに報いる方法だろうか。
 ――おれたちが、何とかする。
 迅はそう言ってくれた。そこには明確な線引きがあった。そちらに自分が行くことは許されていないのだろう。許されたとしても、役には立たないことぐらいわかる。でも。
 ――ごめん。
 ぽつりと、涙のように落ちた言葉を覚えている。月子よりも目の前の彼女よりも歳下の青年に、背負わせているものがある。
 この街を守ってくれているひとを守りたいと思う。それは、彼らの正しさを証明すればいいということではなかった。そんなの、好き勝手に正しさを背負わせただけで、月子自身は何もできていない。
 だから、そうじゃないのだ。月子がすべきことは、それではない。
「――恐かったですね」
 息継ぎの合間に、そう返した。目の前のひとは、はっと月子を見る。溢れ続けた言葉たちは、本当は、誰にも聞かせるつもりのなかったものなのだろう。
「私も……とても、恐かったです」
 この街に戻ることが恐くないのか、と問われたことがある。恐くない、と月子は返した。今、同じように問われたら、きっと同じようには答えられない。それでも。
「だけど、お二人がこうして無事に避難できて、ほんとうによかったです」
 月子にできるのは珈琲を淹れることだけだ。オープンの準備を整えて、カフェ・ユーリカの扉が開かれるのを待つことだけ。それが月子の日常だ。そんなことしかできないと、無力だと、腹立たしくも思う。苛まれもする。けれどそういう日常を守ることが、きっと月子の役目なのだ。
 はじめてボーダーと近界民の戦いを見知ったとき――遠目にはためく青色を、見つけたとき。戦うことができないのなら、せめて、彼が守ってくれる日常を全うしようと思っていた。守られるに足るものでいたかった。
 今はその日常に彼らが――迅が、いる。疲れたときには休んでほしい。代わりに背負うことはできないのなら、荷を下ろしてひと息つける場所になりたいと思っている。ただ守られるのではなく、守りたいと。
「ここまで来れたんです、もう大丈夫ですよ」
 そして自分の日常を守るのと同じように、誰かの日常を、安寧を、守れたのなら――それは、彼らと一緒に守ったのだと胸を張れる。背負わせるのではなく、助け合えたと思える。同じように戦うことはできなくても、違う立場から守り合うことは、できる。
「さっきの方が戻ってこられたら、まずはゆっくりごはんを食べてくださいね。赤ちゃんは、もしよろしければ、ですが、私が抱っこしましょうか? ……それか、毛布でお布団をつくって寝かせたほうがいいでしょうか? 数枚集めたらベッド代わりになると思うのですが……すみません、赤ちゃんのことに不慣れで……」
 カフェ・ユーリカを訪れる常連客のなかには、生まれたばかりの子どもを顔見せとばかりに連れて来てくれた人もいる。そのときのことを記憶を手繰り寄せるように思い出していれば「わたし、」と震える声が響いた。
「わたし……、に、にげるのだけで、せいいっぱいで……、な、なにもっ……できなくてっ……」
 絞り出すような告白こそ、彼女がずっと誰にも言えずに抱えていたものなのだろう。
 けれど――逃げられたのなら、それで十分だ。四年半前の侵攻では、自宅に残っていたからこそ助からなかった人もいる。市民がいち早く避難することも、街を守ることにつながる。月子はそっとふたりの前に跪き、視線を合わせた。
「不慣れな土地で、お子さんを連れて避難するだけでも……私には想像しかできませんが、とても大変だったと思います。私だって、逃げるのだけで精一杯で……でも、こうして無事ですから。大丈夫になったときに、できることをしたらいいんだと思います」
 ね、と笑いかける。腕のなかの赤ん坊が、小さなちいさな手を伸ばして、母親の頬にふれた。こくりと頷いた彼女はなかなか顔を上げない。かすかな嗚咽に気付かないふりをしながら、月子はふたりの姿を見つめた。

 お隣の女性が戻って来たのはしばらく後のことだった。「こちらの方です」と後ろに引き連れて来た職員に言う。支給品は一人につき一セットまでだから、職員は本当に未支給の人がいるのか確かめにやってきたのだろう。職員は「気付かなくてすみません」と頭を下げて、毛布と食料を置く。それから、夕方以降も避難の必要があれば、離れ離れになっている家族の合流を目的にフロアの割り振り直しをしますので、と説明して去っていく。
「遅くなってごめんなさいね、入口のほうでちょっと揉めてて」
 子育ての経験があるのか、慣れた様子で赤ん坊を抱いた女性が言う。食事を摂っている母親の隣で、月子が「揉め事、ですか?」と首を傾げると、女性が気まずげに表情を暗くした。
「若い男の子がね、弟がまだ家にいるかもしれないって……今日、風邪で学校を休んでたらしいのよ。でももうシェルターの入口は閉めちゃったみたいで……」
「そう、なんですか……」
「それであっちのほうはピリピリしてたんだけど、気風のいいおじいちゃんが場を取りなしてくれてね、職員さんの手が空いて、着いてきてもらえたの」
 安全のために入口の開閉を最小限に留めたい管理者の気持ちも、大切な家族が避難できていないかもしれない人の気持ちも、どちらもわかる。大事には至らなくてよかったとほっと息をつく。
「――おお、月子。こちらにいたか」
 頭上から降り注いだのは慣れ親しんだ声。月久だ。「おじいちゃん」と月子が呼びかけるのと、「あら、さっきの」と女性が呟いたのは同時だった。
「どうも、孫娘の話し相手になっていただいたようで、感謝します。少し孫に手伝ってほしいことがありましてね、お借りしても?」
 朗らかな笑みとともに月久が用件を言えば、月子が答えるより先に母親が「わたしのほうこそ、その、お孫さんにはお世話になりました」と深々と頭を下げる。「たいしたことはしてないです」と慌てて胸の前で手を振った。
「あの、それでおじいちゃん、手伝いって?」
「なに、いつもと同じことよ。こういうときはあたたかいものを飲めばいいと相場が決まっておる……珈琲やティーの出番というわけだ。幸い、備蓄のなかには豆や茶葉があるようでな。分ければ一人一杯にも満たんが、ひとくちでもないよりはよかろうて」
 ぱち、と月子は蒼みがかった黒の瞳を瞬かせる。月久は、どんなときでも月久だ。そのことが頼もしくて、羨ましくて、それからすこしおかしかった。このひとには一生敵わない気がする。
「菓子も少し配るようでな、おまえがよければキャロットケーキも切り分けて配れたらと思っておる」
「うん、もちろん。私もそうできたらうれしい」
 このまま置いていても食べ切れるわけではないし、また焼けばいい。ニンジンはまだたくさんある。月子が答えると、月久がぱちりとウインクを落とす。
「だがその前に、お友達にお裾分けしてもよかろうて」
 お友達、と呼べるほどの関係ではないかもしれないけれど。月子は頷き、キャリーケースから取り出したキャロットケーキを四カットぶん切り分ける。母子と、支給品を取りに行ってくれた女性とその同行者のぶんだ。ペーパーナプキンで簡単に包み、二人の女性にそれぞれ差し出す。
「よろしければ食べてください。私、カフェ・ユーリカというお店をやっているんです……ぜひ、遊びに来ていただければ嬉しいです」
 あら、あたしもいいの、なんて笑いながら女性が受け取ってくれる。それに背を押されたように母親もキャロットケーキを手にとった。それでは、と別れてから、お互いに名乗り合ってもいないことに気付いたけれど、あまり押しつけがましくなってもいけない。ほんの少しでも役に立てたなら、それでよかった。


 月久は職員と何事か交渉して、珈琲や紅茶、ほうじ茶などのあたたかい飲み物を振る舞えるようにしたらしい。急拵えの長机一つがキッチンだ。炊き出しで慣れているであろう月久にやってくる人の対応を任せて、月子は珈琲と紅茶を淹れる。
 シェルターに備蓄されていたのはインスタントコーヒーとティーバッグ。それぞれを大きな鍋に沸かしたお湯に入れ、コーヒーはよくとかして、ティーバッグは蓋をして置く。いつもとは勝手がちがうけれど、ふわりと漂う珈琲と紅茶の香りが、胸のうちにできた擦過傷のような不安をそっと覆ってくれる。
 小さな紙コップに、ほんの二口ほどで飲み終えてしまうだろう珈琲を注ぐ。お菓子は一粒のチョコレートか、のど飴か、小さく切り分けたキャロットケーキだけ。それでも、それを受け取った人たちの顔はほんのすこし緩むようだった。
「おいしいね」
 こぼれた笑みと、お湯の沸く音に紛れるひそやかな声に耳を傾ける。その一言が、泣きたくなるくらいうれしくて、月子のほうが救われたような気持ちになった。

   *

 界境防衛機関ボーダーが市街地に侵入した近界民を撃退したという知らせが入ったのは、避難から数時間後のことだった。安全が確認された地域の住民から帰宅できるようだが、家が無事である保証はない。あくまでも一時帰宅です、何かあればすぐに戻って来てください、と職員がアナウンスする横を、許可が下りた人から順に通り過ぎていく。
 シェルターを出ると、金色の西日が目を灼いた。長く伸びる影は夜が近いことを知らせている。いちだんと凍える風にまぎれて復旧作業にあたる人の声がする。瓦礫を片付けたり、切れた電線の処理をしていたり、街は忙しなくも頼もしい。
 帰るまでのあいだはあまり会話をしなかった。店は大丈夫かな、なんて、どうしようもないことばかり口にしてしまいそうで。言葉にしたら現実になりそうで恐くて、何も言えなかった。
 歪んだ標識があった。折れた電柱があった。壊れた塀があった。踏み荒らされた庭があった。アスファルトを切り裂いた爪痕があった。月久が角を曲がる。家の玄関である裏口のほうではなく、ステンドグラスがはめられた扉に向かうために。そのことに笑みともつかないものを浮かべながら、月子も慣れた道を辿る。

 ――カフェ・ユーリカは、そこにあった。
 通りに面した大きな窓は割れて、店内にはガラスの破片が散らばり、家具は倒れているものもあったけれど。赤煉瓦色のうろこ屋根も、漆喰の壁に這うテイカカズラもクチナシも、そこにある。鍵をあけ、扉をひらけば、からんっ、とドアベルが軽やかな音を奏でた。
 停電しているのか、灯りはつかない。冷蔵庫の駆動音も聞こえない、しんとした部屋を、月子の祖父はぐるりと見渡した。アップライトピアノの黒い鍵盤蓋をガラスの破片が覆っている。壁にかけられた絵は落ちていた。月子よりも長くこの場所にいたであろう本も散乱していた。
 何か大きなものが、窓にぶつかったのだろうか。建物そのものも揺れたようで、棚の中で食器が崩れ、割れているものもある。少し歩くと、靴の底とフローリングが異物を挟んで不恰好な音が立つ。
 心臓がつきりと痛み、脳裏をいくつもの思い出が駆け巡る。はじめてこの店に遊びに来たときのこと、住み始めたときのこと、数年ぶりに戻ったときもあたたかく迎えてくれたこと。店を継いで、はじめてマスターとしてカウンターに立ったときのこと。特等席に座る常連客たちと、笑いあった時間のこと。
 思い描いていた最悪の光景ほどではないけれど、それでもやっぱり、ほんとうは、何一つ瑕なく無事であってほしかった。変わり果てた店内を見ていると、大切な思い出さえも、ばらばらに解けてしまったような気がする。この場所にかけられていたあらゆる魔法が無遠慮に壊されてしまったような。
 けれど。
 それでも、カフェ・ユーリカは――月子の大事な場所は、まだここにある。
 何もかもがなくなってしまったわけでは、ない。
「……おじいちゃん、」
「大掃除、ちと早くやりすぎたな」
 月久が、白い口髭を持ち上げるようにして笑った。その笑みはきっと、孫娘である自分がいるからつくったものだ。月子は震える呼吸を無理やりに飲み込み「……まあ、こんな年もあるね」とどうにか口角を上げる。
「お掃除は任せて。おじいちゃんはごはんの準備してくれたら、うれしいな」
 ぱちり、と黒い瞳が瞬いた。年末の意趣返しだと気付いたらしい月久が、ふっ、と笑みをこぼして「おじいちゃんに任せなさい」と胸を叩く。その目尻、深々と刻まれた皺には水滴が埋もれている。
「……片付けが済んだら、お店、開いてもいいかな? ……ちょっと、風通しが、良すぎるかもしれないけれど」
 ガラスのなくなった窓枠を見る。ひとまず板かなにか打ち付けて塞ぎ、急場を凌げば、最低限の雨風は避けられるはずだ。カウンターとキッチンの被害は少なく、無事な食糧も多い。
「月子……」
 月久が目を細めて自分を見つめていた。ちいさく笑いかける。呆然と立ち尽くすのは、きっと月久が培ってきたこの店には似合わない。その店を継いだ月子にも。
「ああ……、ここの主はおまえなのだから、おまえが決めたとおりにしなさい。あとでストーブをおろしてこよう、そうしたらお客様にも、少しは暖をとってもらえる」
「重いんだから無理しないで、私が運ぶから」
「では、二人で」
「……うん」
 手始めに、床に落ちた本を拾う。月久は額縁を持ち上げて、絵の表面を撫でた。片付けの段取りを考えながら、月子もカフェ・ユーリカを見渡す。唐沢の言葉を、思い出した。
 ――きみがここで美味しい珈琲を淹れてくれると、救われる人もいる。
 その言葉の意味を、今やっと、正しく理解できたような気がする。そうありたいと、心から願っている。それが月子のできることなら――迅に、とびきり美味しい珈琲を淹れたい。


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