ジンジャーラッシー

「バレンタインまであと一ヶ月やんか」
 重苦しい雰囲気で来店した生駒に「どうされたんですか?」と訊ねた返事だった。月子はぱちりと目をまたたかせる。特等席に座る生駒はきりりとした表情を崩さず「えらいこっちゃやで」と続けた。とても神妙な顔つきなのだが、話題とのギャップについていけない。押し寄せる寒波のせいで赤らんだ鼻先と耳もあいまってどこかコミカルで、反応に迷う。
「そう、ですね?」
 ひとまず、暦の上ではバレンタインまであと一ヶ月で間違いない。月子が頷くと、生駒も重々しく首肯する。バレンタインのチョコレートがほしい、という話だろうか。それにしては少し気が早いけれど。
 カフェ・ユーリカでは二月に入るとショコラ・ショーがメニューに加わったり、飲み物に小さなチョコレートが添えられたりするのだが、教えたらよろこぶだろうか。月子が思案していると、お冷やをひとくち飲んだ生駒が「どしたらええと思います?」と首を傾げる。
「どう……?」
「どんなんもらったらうれしいんやろか、女の子は」
 その段になってようやく、バレンタインに何を贈ればいいのか、という相談をされていることに気付いた。
「生駒さんが贈るんですね」
 確かめるように呟けば、こくり、と生駒が首を縦に振った。つまり逆チョコというやつだ。最近ではそう珍しくもないが、一見すると硬派な雰囲気の生駒がいつもの真剣な表情でチョコレート売り場にいるところを想像すると、なんだか微笑ましい気持ちになる。モテたいと表明する常日頃の姿勢をはじめ、彼の堂々とした振る舞いは月子も少し見習ったほうがいいのかもしれない。
「ちなみに、ホワイトデーを待たずバレンタインに贈る理由はお訊きしてもいいですか?」
「いや、めっちゃ単純な話で。お返ししかできひんやん、ホワイトデー。お礼言いたいひとはめっちゃおるけど、一ヶ月も待つん性に合わんし、貰ってないんに渡したらかえって気ぃ遣わせるやろし。せやったらバレンタインにこっちから贈ったらええんちゃうか、思て」
「とても、すてきなお考えですね。まずそのお気持ちが、貰う方はとてもうれしいと思います」
 思っていた以上にまっすぐな言葉が返ってきた。月子がふふふと微笑みながら答えると、生駒は少し早口で「あとモテたいやんかやっぱり」と付け足した。それもおそらく本心の一端なのだろうが、照れ隠しであることも伝わってくる。いつもお世話になってる人たちに自分もお礼を言いたい、というのが生駒の第一の目的だろう。
「私も学生のころは友達とお菓子を交換するのが楽しみでしたし、きっと喜んでもらえるかと。あと貰ってうれしいものと言ったら……、そういえば、祖父はいつもバレンタインに薔薇の花束をくれます」
「おじいちゃんつよない?」
 率直な感想に苦笑を返す。月久がバレンタインに花束を贈ってくるのは、長く海外で仕事をしていたから……というより、単純にそういったイベントが好きだからだろう。月久はホワイトデーも楽しんでおり、毎年違うお菓子をつくっては得意げな顔をしている。
「今年からなら、お菓子だけのほうが無難かもしれませんね」
 下手に花束を勧めると、生駒なら本当にいろんな人に花束を贈りかねない。もちろんそれは悪いことではないが、生駒のあの真摯な表情で花束を差し出されたら、感謝というより愛と告白の日になってしまう。いや、文化的にはそちらのほうが正しいのだけれど。
「菓子か……オススメのレシピってあります?」
「手づくりされるんです!?」
 びっくりして声が跳ねた。生駒はキリッとした表情で「料理、趣味で」と告げる。あまりそういうタイプに見えなかったのもあり、必要以上に驚いてしまった。生駒が反応を窺うようにじっと見つめてきたので、月子は少し慌てて「すみません、驚いてしまって」と謝罪する。
「おすすめのレシピ……たくさんの方に渡したいのなら、ブラウニーでしょうか。トースターや炊飯器でつくるレシピもあるので、道具が揃っていない状態でも作りやすいかと」
「なるほど」
「ただ、量を作るとなるとどんなものでも大変なので……ごく身近な方には手づくりを、他の方には市販品を、と使い分けてもいいと思います」
「マスターもそうしてはるん?」
「そうですね。私の場合はお店で出すぶんもありますし、手づくりはよっぽど渡したい人だけ、で……」
 バレンタインの期間中にサービスするチョコレートは、月久が気に入っている海外のメーカーのものだ。手づくりのお菓子をプレゼントしているのは限られた常連客と友人だけ――そこに、去年は迅も含まれていた。当時の月子は、ちょうどよくバレンタインのその日に訪れてくれた迅にショコラ・ショーをつくり、手づくりのオランジェットを渡したのである。あたりまえに、迅のぶんを用意していた。
 今年は出会ってから二度目の、そして迅を好きだと自覚してから初めてのバレンタインだ。その事実に今やっと気付いて、頬にじわじわ熱が集っていく。
 日頃の感謝を込めるだけでは、もう足りない。月子はきっとこの感情の受け皿をつくってしまう。迅へと向ける気持ちがどう呼ぶべきものであっても、そこに無視しきれない後ろめたさを含んでいても――やっぱり、渡したいと思っているから。
「マスター、めっちゃ顔赤いけどどしたん?」
「だっ暖房のせいでしょうか? 今日は寒いのでちょっと強めに設定したので……!」
 自分でもひどい誤魔化し方だと思った。月子は意識的に呼吸して、あばらの内側で人知れず騒がしい心臓に、落ち着け、と言い聞かせる。そもそも手づくりのものは常日頃から食べたり飲んだりしてもらっている、今さらそんな特別なことじゃない、と。
「ああ、たしかに。入ってきたときあったかくてほっとしたわ。……あれやったら温度下げてもろてええですよ、俺は平気やし」
 生駒はいたって平静で、月子の下手な言い訳に気付いているのかいないのかよくわからない。どちらにしろ優しい心遣いに感謝しつつ「いえ、大丈夫です……生駒さんのほうこそまだ寒そうなお顔をされていますが、今日は何かあたたかいものをおつくりしましょうか?」と笑いかける。だいぶ落ち着いてきた。
「そういえば注文まだやったな」
 と、生駒がメニューを手に取った。
「ジンジャーラッシーはいかがでしょう? ラッシーは冷たいほうが一般的ですが、冬はぬるめのホットで飲むのもおすすめです。生姜が入っているので身体の内側からあたたまりますよ」
 年明けから加わった期間限定メニューを勧めると、「ほなそれで」と速やかに注文が入る。生駒は食べたことのないものを選ぶ傾向があるのだ。今にして思えば、料理が趣味ということも関係しているのかもしれない。月子も新しいメニューや馴染みのないものを見かけるとつい手を出してしまうので、気持ちはよくわかる。

 ラッシーはヨーグルトと牛乳を混ぜるだけの手軽なドリンクだが、そのぶんアレンジは多彩だ。年が明けてからいっそう厳しくなる寒さに、身体に優しい飲み物を、と思い、生姜を加えてホットで出すことにした。チャイもあるというのに、また生姜である。冬はつい入れてしまう。
 牛乳を小鍋に注ぎ、そこにジンジャーシロップを合わせて弱火にかける。琥珀色の見た目は夏に出していた自家製ジンジャーエールのシロップと同じだが、レシピは乳製品のコクやまろやかさに合うよう調整済みだ。ここで温めすぎないのがおいしくつくるコツである。
 ヨーグルトをビーカーのようなガラスの計量カップに入れ、蜂蜜も加える。カップに温めた牛乳を少しだけ注ぎ、ミルクフォーマーで混ぜ伸ばす。混ぜる道具はなんでもいいが、泡立て器を使うとふんわりやわらかな口あたりになる。アイスのときはハンドブレンダーやミキサーを使った方がすっきりとした飲み口になっていいかもしれない。
 保温性の高い二重ガラスのマグカップに注けば完成だ。
「お待たせしました、〝ジンジャーラッシー〟です」
「ありがとうございます」
 ぺこ、と生駒が軽く頭を下げる。いつも思うけれど、奔放なようでいて行動の端々に律儀さが表れる人だ。小さく笑みがこぼれる。無骨な指先がグラスを持ち上げ、ほんのりと生姜色に色づいたラッシーをこくりと飲む。
「ん、意外と甘い」
「ヨーグルトは温めると酸味が強く出るので、ふつうのラッシーよりも甘みを足しているんです」
 熱々にしてしまうとヨーグルトが分離するし、酸味も尖ってしまう。仕上がりが50度から60度ほどになるのが理想だ。ホットドリンクとしてはぬるいが、とろみがあり、生姜も入っているので、温度以上に身体がぽかぽかとする。
 月子も最近は朝に飲んでいるが、ピリッとしたジンジャーシロップとヨーグルトのやわらかな酸味がさっぱりとしており、寝起きの身体をやさしく目覚めさせてくれる。それでいてまろやかでコクのある味わいは癖になるおいしさだ。玉ねぎのスライスをカレー粉で炒め、チーズと挟んで焼いたホットサンドがよく合う。
「ラッシーのホット、初めて飲んだけどアリやな。うまい」
 グッと親指を立てた生駒に「お口にあってよかったです」と笑みを返す。
「きんと冷やして夏に飲むのもおいしいですけれど、ヨーグルトも生姜も風邪予防によいですから、冬に飲むのもおすすめなんです」
「たしかに。実家おったときはよく生姜の葛湯飲んでたけど、こういうのもええな」
 葛湯とは渋いが、言われてみれば同じとろみのある生姜味の飲み物だ。その瞳に好奇心が見え隠れしている気がして「生姜以外の、身体があたたまるスパイスや食材でつくるのもおいしいですよ」と言い添える。生駒が「たとえば?」と興味ありげに訊いてきたので、思いつく限り答えた。ラッシーと相性が良さそうなのは、シナモン、チョコレート、クミンあたりだろうか。麹の甘酒もいいかもしれない。
「ホットラッシーをご自分でつくられるなら、温め過ぎにだけ注意してくださいね」
 レシピのアイデアとともにいくつか注意点を伝えると「やってみます」と生駒が頷く。社交辞令ではなく本当につくってみるのだろうな、とその真摯な眼差しを見て思った。
「そうだ、もしよかったら私が普段つくっているブラウニーのレシピも教えましょうか? 私はオーブンで焼いていますが、トースターでも何とかなる……と思います」
 注文を受ける前にしていた会話を思い出して提案すると、ぱち、と生駒の目が瞬く。
「ええの?」
「はい。ご参考にでもしていただければうれしいです」
「ありがとうございます。ほな、うまくできたら一番に持ってきます」
「楽しみにしていますね。では私もバレンタインは何かご用意しておくので、交換しましょう……なんで泣いてるんですか!?」
 唐突に、生駒の眦からすうっと涙が一筋すべり落ちていく。動揺が全く隠せず、思ったそのままの言葉がまろび出てしまった。もっと言いようがあったでしょういやでもだって突然で――と心の中で言い訳を重ねる月子をよそに、生駒は「バレンタイン、いい……」としみじみ呟いた。
 はじまってもいないバレンタインにここまで感情を揺さぶられるなんて――なんて、月子も人のことは言えない。
 月子がブラウニーのレシピを書き記しているうちに、生駒は無事に涙を止め、ジンジャーラッシーも飲みきった。ぽかぽかなったわ、と告げる生駒の肌は寒さに煽られたものではない温もりが宿っている。
「マスターは何つくるん? 迅に」
 レシピのメモを大切そうにしまった生駒が、いつもの顔で問いかけた。「えっ」と響いた素っ頓狂な声はどうやら月子のくちびるから零れたらしい。じっ、と真っ直ぐと見つめられて、先ほど押し込めたはずの混乱がじりじりと迫り上がってくる。
「えっと……、その……何を……つくったら、よいのか……」
「お悩み中なんや」
「そうです、ね」
 私はいったいなにを、とはっとした月子だが、言ってしまった言葉は取り消せない。生駒はウンウンと頷き「訊いてきましょか? 迅になに食べたいか」と親切心を発揮してくれる。その親切心がいかなる理由で発揮されたのか、確かめたいような藪蛇のような。羞恥と混乱の渦に落ちた月子にできたのは「……もし、よろしければ」と頷き返すことだけだった。
 だって、月子は迅を――好きな人を、よろこばせたいのだ。できれば自分の手で。何もかもを取り払えば残るのはそれだけだと、素直に思えた。

 *

「じーんっ」
 低い声に呼ばれて振り向いた瞬間、ぷに、と頬に指が当たる。生駒だ。気配を殺して近づいてきていたらしい。迅は飛び跳ねた心臓のことを悟られないよう、へらっと笑みを浮かべつつ「おつかれ〜」と応じる。スマートフォンをするりとポケットに仕舞えば、目敏くそれに気付いた生駒が「ゴメン、なんか報告中やった?」とすまなさそうに眉尻を少し下げた。
「いや、大丈夫」
 どうせ送ることのできないメッセージだ、と空白のままのメッセージ欄を瞼の裏に思い描く。ガレット・デ・ロワの感想を伝えに行くか行かないか迷って、行かないと決めて、それならせめてメッセージをと思ったけれど、結局それもできないでいた。もう一週間も経つし、連絡をとれば今以上に会いたくなりそうだったから。
「それで、生駒っちはどうしたの?」
 ボーダー本部の片隅、屋上へと続く階段の手前に二人はいる。陽はとうに落ち、明かりも少なく活気のない場所だ。こんなところ、わざわざ用事がなければ――それか、一人で考え事でもしたい人間でもなければ、訪れない。
「迅がここおったって訊いて。マスター元気そうやったで」
「……なんで、月子さんの話?」
「だって迅、気にしてたやろ」
 そんな覚えは、と動揺を押し殺しながら記憶を遡る。そういえば数日前に生駒の未来を見たとき、ステンドグラスがはめられた扉のイメージがあったから『ユーリカ行くの?』と訊いてしまった。生駒は『おん』と頷いただけだったから、まさか今その会話が回収されるとは思わなかった。視界を埋め尽くすような無数の未来のなかでは、普段は面白くて目が離せない生駒の存在感も小さく、読み逃してしまう。
「……まあ、元気そうならよかった」
「会いに行かへんの?」
「ちょっと忙しいからね」
 嘘だ。会いに行こうと思えばいくらだって会いに行ける。月子は今日もあの場所でいつもと同じ日常を過ごしていたはずだから。けれど月子と顔を合わせれば、迅は月子の未来を確かめてしまう。それは店を出たあとも、視界に彼女の未来がちらつく限り――きっと、見たいと思ってしまう。
 そんなことをしている暇はないだろ、と自分に呆れつつ、そうやって彼女を選んではいけない未来を見てしまう可能性から逃げている自覚もある。選択から逃れるには、問題そのものを避けるしかない。
「そうか。あんま無理しんときや」
「ありがとね」
「せや、迅ってチョコなにが好き? やっぱぼんち揚げにチョコかけるタイプ?」
「いやまあ、チョコかけてもおいしいけどね、ぼんち揚げは」
 生駒に対して『急に何?』と訊ねることは無意味である。迅としても話題が移ってくれたほうが助かった。
「試したことあるんや」
「小南がね」
「小南ちゃんの手づくりってことやん。めっちゃ羨ましいんやけど」
「友達に渡すやつのついでだよ」
 小南がぼんち揚げにチョコレートをかけて渡してきたのは、まだ生駒がボーダーに来る前のことだ。バレンタインに友達に渡すぶんのチョコレートが余ったからかけただけ、と言っていたが、甘塩っぱい醤油味とチョコレートは意外にもマッチしていておいしかった。
「チョコは特にこれが好きってものはないかなあ……」
 今まで食べたチョコレートのお菓子をいくつか思い浮かべる。月子がつくったオランジェットを思い出したのは、バレンタインからの連想だった。
 一年前、まだ高校生だったとき。あのときは、月子が自分のために用意してくれたという事実がただひたすらに嬉しかった。ショコラ・ショーはとろけそうなほどに甘くて、目の前で微笑んでいる彼女が愛おしくて堪らなかった。オランジェットは、陽太郎や小南に見つからないようにこっそり大事に食べたものだ。
「ほな嫌いなチョコは?」
 腕を組み、首を傾げた生駒が質問を重ねる意図は、やっぱりいくつもの未来に覆われて読みきれない。生駒はただでさえ可能性が多岐に広がっているというか、どんなことでも行い得るせいで分岐が多いのだ。まさか月子さんから訊いてくるよう頼まれたとか……と、一瞬だけ思ったけれど、都合がよすぎる妄想だと迷わず棄却する。
「カカオ90%とかのやつはあんまりかな。眠気覚ましにはいいけどさ」
 生駒っちも食べる? と、ポケットから小さなタブレットチョコを数枚取り出す。開発室のエンジニアにお裾分けされたものだ。この時間に本部にいるということは、今日の生駒は本部待機なのだろう。夕方から夜にかけて敵が来る可能性が一番高い、と本部長である忍田に伝えたのは今朝のことだが、早速シフト調整があったのかもしれない。
 生駒はこくりと首を縦に振り「迅にも今度あげるな」と迅の手のひらから一枚取る。どうやらお返しをくれるらしい。律儀である。タブレットチョコをパキッと噛み砕いた生駒は、一瞬顔を歪めた。わかる、と笑みを浮かべる。徹夜常習犯であるエンジニアが好むこのチョコレートはかなり苦い。
「苦いのは時々でええわ」
 まだ少し眉間に皺を残した生駒が言う。迅も一枚を奥歯で噛み砕きながら「そうだね」と頷いた。鮮烈な苦味は舌に刺さるようで――けれどその刺激がなければ立っていられないような気がしていることは、言わないほうがいいのだろうなと思う。
「ところで最近のトリオン兵の動き、どんな感じ?」
 生駒の話は終わったと判断して、遅番の様子を訊ねる。情報が必要だった。迅の目に映る最悪の未来を、少しでも遠くへ追いやるために。


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