ガレット・デ・ロワ

 甘く、香ばしいにおいが立ち込めている。オーブンから広がるそれは、真冬の凍てつく冷気も追いやり、カフェ・ユーリカをあたたかな空気で包んでいた。
 月子は両手にミトンをはめ、ゆっくりとオーブンの蓋を開ける。ぶわり、と閉じ込められていた香りが頬を撫でていく。バターに砂糖、そしてアーモンドが焼けた、このうえなく幸福なにおい。鉄板の上には丸いパイ――〝ガレット・デ・ロワ〟が鎮座している。
 バターをたっぷりと織り込んだパイ生地はしゅうしゅうと音を立てていた。黄金色の表面には焦げもなく、渦を巻いたような幾何学的な模様が浮かび上がっている。この模様はパイ生地にナイフで切り込みを入れてつくるのだが、すこしコツがいる。綺麗にできてよかった。
 豊かなバターの香りに今すぐ切り分けて味見したい衝動に駆られるが、ぐっと我慢する。まだ仕上げが残っているし、何よりこれはワンホールのままとっておかなければならないのだ。
 粉糖をまんべんなく振りかけて、もう五分ほど焼いていく。こうすると表面が艶々になり、パイ生地も乾燥せずおいしさが長持ちする。レシピによっては卵黄やシロップを使うが、粉糖がいちばん用意が楽でいい。焦げつかないようにオーブンの前に張りついて様子を窺い、粉糖がとけきったのを見計らって再び蓋を開く。
「完璧!」
 艶々とした照りも、粉砂糖が溶けた焼き目も食欲をそそる。ガレット・デ・ロワの焼き上がりを迎えるのは、実は今日だけで三度目なのだけれど、今回のぶんだけは絶対に失敗したくなかった。ほっと胸を撫でおろす。
 なんといっても、このガレット・デ・ロワは、界境防衛機関ボーダーの玉狛支部へと届けられるのだ。唐沢を通じて玉狛支部の支部長から予約が入ったとき、月子は思わずいつもよりずっと力強く『ありがとうございます!』と言ってしまった。

 からんっ、とドアベルが軽やかな音を立てたのは、ちょうど客足の途切れた昼下がりのことだった。もしかして――むくりと膨らんだ期待は、すぐにしおしおと萎むことになる。
「どうも、唐沢さん経由でパイをお願いしてた、林藤です。……できてますかね?」
 半開きの扉の前に立つ男性は、そう言ってやわく笑みを浮かべた。林藤、という名前だけでピンときた――玉狛支部の支部長。迅の話にもよく出てくる人物である。
 ハーフリムの眼鏡に無精髭が印象的な男性で、年齢は読みにくいが唐沢と同年代らしい。顔を合わせるのは初めてだけれど、迅のおかげで本当に初対面という感じもしない。月子は気を取り直して笑みを浮かべ、「いらっしゃいませ、林藤様。お待ちしておりました」と迎えた。
「ガレット・デ・ロワ、ご用意できております。すぐに準備いたしますね」
「いや、急がなくても大丈夫。ついでに何か飲みたいなと思っててね……こいつも一緒に」
 さっそくパントリーに向かおうとした月子を林藤の一言が留める。こいつ、と言いながら林藤は足元を指さしていた。視線を下へと向ければ、林藤の膝の裏から小さな男の子がにゅっと顔を出す。
「はじめまして」
 きりりとした表情で挨拶があった。飛行士のようなゴーグル付きの帽子を被った、まだ小学生にもなっていないような子ども。もしかして、この子が『陽太郎』くんだろうか。
「はじめまして、こんにちは」
 ほっこりしつつ挨拶を返して、ふと気付く。半開きの扉の向こう、そのすぐ側に控える――茶色い毛並みの動物。
 ぱち、とまばたきをした。それはまばたきをする一瞬前と変わらずそこに佇んでいる。
「……あの……、ペット……? のご入店は、お控えいただいておりまして……」
 月子の目が確かなら、それは犬とか猫とかではなく、カピバラだった。意外と大きい、動物園で温泉とかに入っている、やつだ。近年問題となっているヌートリアはもっと小さい。まさかカピバラが野生でいるわけないから、おそらく林藤と陽太郎の連れなのだろう、と判断する。
「ああ、それはもちろん。表に繋がせてもらえたらって思うんだけど……大人しいやつなんで、噛まないし」
「かしこい犬だからな」
「え、あ……はい」
 犬だろうか? と、思ったけれど。子どもに対して反論するのは大人気ない、ような気がする。
「植え込みのところにペグがありますので、そこにリードを繋いでいただければ……」
 二人が連れてきたのは確からしい。近所で飼われている猫が遊びに来たり、犬の散歩がてら寄ってくれる常連がいたりするので、動物が店先にいること自体は構わない。カピバラは初めてだが。
「お水などご用意しましょうか? その……ペットさんにも」
 いちおう、常連犬のためにジャーキーの用意はあるものの、カピバラが何を食べるのかはよく知らない。月子が言うと、陽太郎がにぱっと笑みを浮かべた。
「おねえさん、やさしいね。らいじん丸もよろこんでる。おなかさわってみる?」
「らいじんまる」
 それなら聞いたことがあった。玉狛支部で飼ってるという犬の名前だ。犬、と迅は言っていたはずだ。いや陽太郎も犬と言ったけれど。
「けっこうきもちいい。おれとけっこんしたらさわりほうだいだよ」
「えっ……」
「こら、初対面の方を口説くんじゃない」
 どしっ、と林藤が陽太郎の頭にチョップする。「おぶっ」と声を上げたものの、手加減されているのかさほど痛くはなさそうだ。林藤は「すみませんね~」と朗らかに笑いつつ、さっと外に出てカピバラ――雷神丸をペグにつなぐ。ドアベルが再び鳴り響くころには、陽太郎は好奇心旺盛なまなざしで店内を見渡していた。
「俺はコーヒーで……おまえ、なに飲む?」
「ふむ……おれもこーひー……といいたいところだが、きょうのところはオレンジジュースでてをうとう」
 大人の真似をしているのか、腕組みしながら難しそうな顔をつくって言うので、つい笑みがこぼれる。
「かしこまりました。お好きな席へどうぞ」
 座るように促せば、陽太郎がカウンター席を選ぶ。子ども連れの場合は奥のソファーが人気だけれど、どうやら彼は少々おませさんのようだ。
 カウンター席は高さがあるものの、背もたれがついているので子どもでも座れる。林藤が陽太郎を持ち上げ、しっかりと特等席に座らせたのを確認してから、ふたりにお冷を出した。それから「お飲み物、少々お待ちくださいね」と断り、陶器のカフェオレボウルにも水を入れる。表にいる雷神丸のぶんだ。
 店先に出れば、クチナシの木の側で大人しく座るカピバラがちらりと月子を見る。犬猫以上に感情の読めない顔つきは妙な迫力があった。間合いを測りかねていると、ふい、と視線が逸らされる。その隙にカフェオレボウルをそっと置く。すると雷神丸はのっそりと立ち上がって、ぴちゃぴちゃと水を飲んだ。
「……かわいい」
 一連の流れにそこはかとなく賢さを感じた。無表情に見える顔つきも、よく見ればどこか愛嬌がある。
 どうして迅と陽太郎が雷神丸を犬と称しているのかは不明だが、犬だというのなら散歩がてら連れてきてくれたらよかったのに、と思った。勝手に撫でるのは憚られたので「ごゆっくりどうぞ」とだけ言い添える。
「雷神丸にもありがとう」
 店へ戻れば、カウンターの手前でコートや防寒具を脱いでいた林藤が軽やかに迎えてくれた。陽太郎もご満悦そうな笑みを浮かべている。
「いえ、こちらこそ……初めて見たのでびっくりしましたが、かわいいですね。賢そうですし」
「おっ、見る目あるなあ」
 本当にそう思っているかはわからない、人好きのする笑みに苦笑を返し「ご注文は珈琲とオレンジジュースでしたね」とカウンターに入る。
「珈琲はお好みなどありますか? 香りが華やかなものや、苦味が弱いもの、コクがあるものなど、お好みに合わせて豆をお選びします」
「そんじゃあ、ガツンと強めのを」
「かしこまりました」
 さっそく豆を選んでミルにセットする。深煎りのブレンドは朝に飲むのもおすすめな目が覚める味わいだ。ケトルにお湯を沸かし、陽太郎のオレンジジュースに移る。といっても紙パックからグラスに注ぐだけだ。背の高いグラスは危なく思えたので、ガラスのティーカップを選んだ。強化ガラスだから落としても割れにくい。入りきらない分は小さなジャグに入れればいいだろう。カップの深さに合わせてストローをカットしたら完成だ。
「お先にオレンジジュースです」
「むっ。わるいな、ボス」
 にまり、と笑った陽太郎が両手でティーカップを持ち上げる。こくこく飲むのを微笑ましく眺めていると、林藤が「いつも迅が世話になってます」と口を開いた。
「あいつ、迷惑かけてませんか?」
「い、いえ! とんでもありません。迅くんのご来店、その、いつも楽しみにしていて……」
 言いながらやましいような気持ちになってしまったのは、林藤が迅の保護者で、月子が迅のことを好きだからだろう。少し前なら他意なく言えたのだけど、今は少しむずかしい。林藤は「そう?」と楽しげに笑った。
「ほんとは今日も迅にお使い頼もうかと思ってたんだけど、あいつちょっと忙しくてね。今更の挨拶になってしまって恐縮ですが、いつもありがとうございます」
「私のほうこそ、迅くんにはいつも本当にお世話になっていて……先日も、」
 と、言いかけて口を閉じる。店の目の前で近界民が現れたことは、口外しないと約束している。林藤はボーダーの一員なのだから問題はないけれど、子どものことで言うことではないだろう。
「……クリスマスツリーの飾り付けを手伝っていただいたり、あ、それとお歳暮も届けてくださって……とても美味しかったです。ありがとうございました」
「喜んでもらえたならよかった」
 お歳暮の返礼はいいということだったが、心遣いのお礼の気持ちも込めて、ガレット・デ・ロワは腕によりをかけてつくった。これから淹れる珈琲も、とびきりおいしく淹れたい。
「おねえさんは迅としりあいだったのか」
 陽太郎がむむむとくちびるを尖らせながら呟く。月子が豆をドリッパーにセットしつつ頷けば、陽太郎は「迅か……」とむずかしい顔をする。
「陽太郎」
 と、林藤が何かを耳打ちした。
「ふむ……迅をよろしくおねがいします」
 むずかしい顔つきから一転、にまりと笑った陽太郎に、月子はぱちりと蒼みがかった瞳を瞬かせる。
「は、はい……あの、今なにを……?」
「ボスとしての心構えをちょっとね」
「なるほど……?」
 詳細はわからないけれど、迅と知り合いであることが目の前のふたりにとって嫌なことではない、というのならうれしかった。
 ケトルのお湯がよい温度となったのを見計らい、ドリップをはじめる。ふわり、と珈琲の香りが立ち上ると、胸の奥がほっとする。ぽたぽたと落ちていく濃褐色の雫は、生み出す波紋さえも美しい。
「お待たせしました、ガツンと強めの珈琲です」
 林藤のオーダーを真似てみれば、その笑みが深まる。ミルクと砂糖はいれず、ブラックのまま口付けた林藤が「おお、うまい」と呟いた。よかった、と小さく息をこぼす。
 飲み物を出し終わったらガレット・デ・ロワの準備だ。パントリーからケーキボックスに収めたガレット・デ・ロワを持ってくる。それから、月久がつくってくれた金色の紙でできた王冠も。蔦のような模様に切り抜かれ、きらきらとしたビーズまで縫い付けられた力作だ。
「おお……なかなかいいおうかんだ」
「ありがとうございます。製作者に伝えておきますね。お二人は、ガレット・デ・ロワの楽しみ方はご存じでしょうか?」
「切り分けて、当たりが入っていた人が王様になるお菓子……って唐沢さんから聞いた」
 よかったら詳しいこと説明してくれる? と林藤が言うので、月子はもちろんです、とお行儀よく返事をする。こほん、と咳払いをしてから、祖父から訊いた話を思い出す。
「ガレット・デ・ロワはフランス語で『王様のガレット』という意味です。古代ローマでは、そら豆を引いた人が王様になる、という選挙があったそうで……そのあたりが起源のお菓子だと言われています」
 今では東方の三賢人がイエス・キリストを見出した日――エピファニーの日に食べるお菓子ということになっている。ただ、フランス本国では一月の間に何度も食べるもので、ガレット・デ・ロワ太りという言葉もあるらしい。
「ガレット・デ・ロワに入っている当たりは『フェーブ』という陶器の置物ですが、これはフランス語で『豆』という意味なんですよ」
 用意していたフェーブをいくつかカウンターに並べる。まさしくそら豆を模したものから、民家に車、動物、お菓子と、モチーフはさまざまだ。フェーブのコレクターもいるくらい、多種多様なのである。
「本来ならこのフェーブが入っていた人が当たりなんですが、今回は誤飲を避けるため別でお付けしますね。代わりにホールのアーモンドが入っているので、それがあたった方がその日一日の王様です」
「おうさまになってなにをするんだ?」
「実は特に何をするということはなく……みんなで祝福し、祝福される、だけですね」
 いわゆる王様ゲームのように、誰かに命令をするという決まりはない。ただみんなでおめでとう、と言うだけの遊びだ。
「へいわでいいな」
 うむ、と陽太郎が深く頷く。しかしその目はしかと王冠を見つめており、彼の狙いは明らかであった。
「ガレット・デ・ロワの正しい作法としては、人数分に切り分けたあと、その場でいちばん若い人がテーブルの下に隠れて、誰にどの一切れをあげるのか決めるそうです」
「おっ、陽太郎、責任重大だな」
 最年少はやはり陽太郎らしい。自分の采配で王冠を他の人へ渡してしまうこともある、というわけだ。ほくほく顔の少年はまだその可能性に気づいていなさそうではあるが。
「十人分とお伺いしていたので、パイには切り分ける目印をつけさせていただきました。これに沿って切っていただければ、アーモンドも見えないはずですので」
 そっとケーキボックスを開いて中を確認してもらう。飲み終わってからと思っていたのだけれど、陽太郎の期待のこもったまなざしには勝てなかった。ふわ、と香ばしく甘いにおいが漂い、頬が緩む。
「ちなみに、この表面の模様は太陽をモチーフにしています。模様にもいろいろと種類はあるのですが、太陽は生命力の象徴なので、皆さんが元気で過ごせるようにと選ばせていただきました」
 うまそうだ、と林藤が言う。なお、陽太郎がこっそり伸ばした手はすぐに林藤に捕まっていた。
「あいつ、今日は帰りが遅いんだけど、必ず食わせるよ」
 レンズの向こうで瞳が細まる。あいつ、というのが誰を言っているのかはすぐにわかった。期待と恥ずかしさが入り混じってもにょりとするくちびるを、どうにか笑みのかたちに整えてから「ぜひ、みなさんで楽しんでください」と返した。

   *

 迅が玉狛支部へと戻ったのは、日付が変わるまであと一時間あるかないか、という時刻だった。川の真ん中に立つ立方体の建物から漏れた光がせせらぎに反射してゆらめいている。骨身に染みるような冷たい川風もトリオンの体では感じないけれど、何もかもが吹き飛ばされたような澄んだ空気は、いちだんと星を輝かせていた。夜にぽっかりと浮かぶ光を一つひとつ辿りながら歩く。
 支部長室や各々の個室はともかく、まだリビングに明かりが灯っているのは珍しいな、と思いながら玄関扉を開けて――
「やっと帰ってきたわね!」
「おそいぞ、迅!」
 ただいま、を言う前にふたつの声に出迎えられた。小南と陽太郎だ。
「おかえり、迅さん」
 そしてやっぱりただいまを言う前に、やってきた遊真に先を越される。隣にはふよりと黒い炊飯器――ではなくレプリカと呼ばれる自立型トリオン兵が浮かんでいて『おかえり、迅』と渋い声を発する。
 ぱちり、と青い目を瞬かせる迅を置いて、陽太郎は意気揚々とリビングへ入った。「迅がかえってきたぞ!」という報告は林藤にしているのだろうか。腕を組んだ小南が「帰る時間は連絡しなさいよ」とくちびるを尖らせた。もしかしたら連絡が入っていたのかもしれない、と通知を切ったまま忘れていた端末を思い出す。
「ただいま。……ごめん、今日って何かあった?」
 帰りを待ち侘びられるような心当たりはない。いつもならとっくに眠っているはずの陽太郎まで起きているとは、よっぽどのことがあったのだろうか。街ゆく人々を見つめた瞳にはこの未来を映す余白もなく、少し不安に駆られる。こういうとき――今よりもずっと先の未来を見続けているとき、自分はたいてい何かを忘れてしまっているのだ。
 でも、たしか今日の食事当番は烏丸で、防衛任務は木崎と宇佐美で、迅はむしろ何もしなくていい休日という扱いだったはずだ。足場の不確かさを誤魔化すようにへらりと笑いながら問えば、小南は「ケーキを食べる日よ」と答えた。
 ケーキ。そういえば林藤がそんなことを言っていた、ような。だけど別に、迅のぶんを残しておいてくれたらいいだけのことでは、と思う。
「みんなハズレだったから、迅さんを待ってたんだ。オサムとチカはモンゲンがあるとかで帰ったけど」
「ハズレ?」
 首を傾げていると「迅さん、飲み物は何がいいですか」と低い声が響く。リビングの扉から顔を出した烏丸だった。「なんでもいいよ」返しながら靴を脱ぎ、廊下を進む。
「手洗いうがい!」
「はいはい」
 こうして出迎えられると、少し懐かしいような気持ちになる。かつてこの場所にはたくさんのお節介と世話焼きがいて、決して迅をひとりにはしてくれなかったのだ。

 ダイニングテーブルには黄金色のパイが一切れ置かれていた。かすかに部屋に漂う甘い香りの発信源はこれらしい。ことり、と烏丸が湯呑みを置いて「どうぞ」と椅子を引いてくれた。レストラン仕込みのスマートな所作を玉狛支部でやってもらうと気恥ずかしい。くあり、とあくびする陽太郎に急かされつつ席につき、フォークを手に取った。
「これを食べたらいいの?」
 こくり、と陽太郎が頷く。小南と遊真、それに烏丸まで迅がパイを食べるのを見守っている。林藤はソファーに座ったまま、いつもの笑みを浮かべていた。
 ちょっと食べにくいな、と思いつつ、フォークの先をパイに刺す。サクっと軽やかな音がする。ひとくちサイズに分けて口へほうりこむ。ほんのりとあたたかいパイはパリッと表面が砕けて、瞬間、バターの芳醇な香りが広がった。
「うまっ」
 少し焦げた砂糖でコーティングされたパリパリの表面のなかには、しっとりとしたアーモンドクリーム。軽すぎず重すぎず、けれどとことんなめらかで、甘くやさしい。凝った味付けではない。素朴といってもいい。どこか家庭的で、気取らない、ほっと胸があたたまるような、そういうまるい味。なのに、不思議と力強くて、突き抜けた美味しさがある。
 単純なように見えて、たいそう手間がかかっているお菓子なのでは――と考えたのは、たぶん、こういう味をつくりそうな人を、知っているからだ。
 ふたくちめは少し大きく切り分ける。疲労なんて感じない、血も通っていないトリオンの体に、なにかあたたかなものがじんわりと染みていく。
「……固っ、」
 何かが歯に当たった。ころりとした塊はどうやらアーモンドらしい。見えないから入ってるのわからなかった、と思いつつ噛み砕いたとき。
「やっぱり迅だったのね」
 小南が言った。陽太郎も「むう……」となにやらむずかしい顔をしている。遊真は「おめでとうございます」と赤い目を細めて笑うし、烏丸は何かを頭にのせてきた。かさり、とかすかな音がする。
「え、なにこれ」
 手を伸ばして頭の上に置かれたものを回収する。金色の厚紙でできた王冠だった。王冠だ、ということが一目でわかるほど精巧なつくりだ。きらきらと光を反射するビーズまでついていて、ずいぶん凝っている。
「迅」
 と、ソファーに座ったままの林藤に呼ばれる。
「当たりを引いた王様にはこいつをプレゼントだ」
 そういって林藤が放り投げたものは、完璧な放物線を描いて迅の手元にやってきた。柔らかなスウェードの巾着袋。紐解いてみれば、小さな猫の置物がころんと出てくる。艶やかな茶色い毛並みに青い瞳の、澄ました顔つきの猫。誰かに似ている。
「王様、って……あー、なんか訊いたことあるな」
 記憶の片隅に引っかかっているお菓子のことは、月子が教えてくれた。ガレット・デ・ロワという、フランスのお菓子だ。何か当たりが入っていて、ということだけ知っているが――どうやら迅が当たりを引いたらしい。みんなハズレだった、という遊真の言葉の意味がようやくわかった。
「やっぱりアンタのにもアーモンドが入ってなかったんじゃない」
「ぐぐぐ……」
「こなみ先輩のにも入ってなかったってことだな」
 九人で食べているときに当たりが出なかったせいで、もしかして当たりに気付かなかったのでは、という話になっていたようだ。ちょっとした疑心暗鬼が生じていましたよ、と烏丸が補足してくれる。それは申し訳ないことをしてしまったのかもしれない。といっても迅がこの一切れを選んだわけではないのだけれど。残り物には福がある、ということだろうか。
「にあっているぞ、迅」
 陽太郎が褒めてくれたが、そのまなざしはずいぶん羨ましげだ。たぶん欲しかったんだろうな、と譲ろうとしたら「いや、おうさまは迅だからな。おめでとう」と固辞された。なかなかに大人な対応をするお子様である。涙目だが。
「王様って言ってもね、何するの?」
「しゅくふくしたり、されたりする」
「なるほど? じゃあおれからのしゅくふくね」
 ぽん、と王冠を陽太郎の頭にのせてやる。にまりと笑った陽太郎に「それ持って部屋行って寝なよ」と告げる。さすがにそろそろ子どもは寝なければならない。王冠を手に入れてご満悦らしい陽太郎は大人しく雷神丸と一緒に部屋へと引き上げていった。
 遊真も「それじゃあおれはしゅみれーしょんしてくる」とレプリカと連れ立ってリビングを出ていく。楽しげな背中を見送りつつ、烏丸が淹れたお茶をすする。口の中の甘さがさっぱりとして、三口目もおいしく食べられそうだ。
「おめでとう、迅」
「おめでとうございます」
 とりあえず、といった感じで祝福する小南と烏丸に、どう返したものか迷って「あの王冠はレイジさん作?」と訊いてみる。
「いえ、ケーキの箱についてましたよ」
「王冠のほうはおじいさんが作ったらしいぞ、カフェの」
 カフェの。ソファーから飛んできた声はおおらかに笑うようで、どこか鋭さを保っている。思わず林藤を見つめるも、眼鏡の奥の瞳は見えず、その感情もまた窺いきれない。
「うまかったし楽しかったよ、って、感想を伝えといてくれるか?」
 すぐに頷けなかった。
 差し出された船に乗り込みたい気持ちは、ないとは言えないけれど。視界に瞬くあまりに多くの人々の未来が喉を締める。そうしてはならない、と告げる声がする。少し息苦しくて、意識的に呼吸をした。そうするとバターとアーモンドの甘やかな香りが満ちて、そのせいで、首を横に振ることもできなくなる。
 林藤は言うだけ言って「もう一仕事するかな」と立ち上がった。視界の片隅で小南と烏丸が目配せし合っているが、説明することはできなかった。代わりに伝えてきてよ、と頼むことも。
 手のひらのフェーブをやさしく握る。そうして三口目を食べた。サクサクとしたパイ生地も、中のクリームも、やっぱりおいしかった――おいしいよ、と月子に伝えたくなるくらいに。


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