ヴァン・ショー

 十二月二十九日がカフェ・ユーリカの年内最終営業日だ。いつもなら三十日を最終日にするのだが、今年は定休日と重なっていたので、月久と相談して二十九日までにすると決めた。大掃除が遅々として進んでいなかったのと、三十日は屋根の修繕をお願いすることになったからだ。
 カフェ・ユーリカの特徴のひとつでもある赤煉瓦色のうろこ屋根が破損したのは、先日の一件のときだろう。月久が気付いて手を打ってくれたのだが、ずいぶんと早く修繕の目途が立った。この年の瀬の忙しい時期にだ。街に出た被害や、建材として珍しいことも踏まえると、まさに破格の対応である。馴染みの工務店には頭が上がらない。
「今年もこの日を迎えられてよかったわい」
 天井を見上げていた月子の隣で、月久が機嫌よく呟いた。その手元で、ポン、という軽い音とともにコルク栓が抜かれる。
 まだ開店前の時間だが、カウンターの内側には赤ワインの瓶が並び、オレンジとレモンがどっさりと積み上がっていた。コンロに置かれた大鍋の中では、赤ワインに輪切りオレンジ、レモンの皮にきび砂糖、そしてスパイス類――スターアニスとクローブ、シナモンスティックに香ばしいアーモンド――が一緒くたになってくつくつと揺れている。甘酸っぱい香りがフロアに満ち、なんだか少し酔ってしまいそうだ。
 カフェ・ユーリカでは、年内最終営業日はワンコインで〝ヴァン・ショー〟――ホットワインを振る舞うと決めている。注文があれば珈琲や軽食もつくるが、こんな時期にわざわざ足を運んでくれるのは常連客ばかり。彼らにとっても恒例行事なので、ヴァン・ショー以外のものは滅多に出ない。
 年末の挨拶がてら訪れる人も多いため、フロアのテーブルと椅子は端に寄せ、広々としたスペースを確保しておいた。ヴァン・ショーは持ち帰りにも対応しているが、その場で少しずつ飲みながらご近所さんと語らう人が多く、この日ばかりはカフェ・ユーリカが気安い社交場の様相となる。過去にはフロアの片隅に眠るアップライトピアノや、誰かの私物らしいアコースティックギターで演奏会のようなものが開かれたこともあった。
 どこかお祭りめいた、一年を頑張ったご褒美のような、そういう特別な日なのである。
「うん……本当によかった」
 色々なことがあったし、何もかもが無事に、とはいかないが。カフェ・ユーリカはつつがなくこの一年の営業を終えようとしており、年が明ければまた新しい一年をはじめることができそうだ。
 その幸運を深く噛み締めながら、月子は大鍋の中をかき混ぜる。ふわりと赤ワインと柑橘が香り、あたたかな蒸気はやさしく頬を撫でていく。
「この香りを嗅ぐと年末という感じがするのう」
 言いながら、月久が横からレードルを伸ばしてきて、大鍋の中身をひとすくいする。止める間もなくマグカップに注ぐ月久はにこやかな笑顔だ。その嬉しそうな横顔を見ると、つまみ飲みも怒れない。コルク栓を開けるだけとはいえ、一応、作業を手伝ってもらってもいるし。
 カフェ・ユーリカのヴァン・ショーは、年に一度のお楽しみに相応しく、とくべつおいしい。どうしてこんなにおいしいのかしら、と首を傾げたご婦人に、かつて月久は『秘訣はひとつ、大量につくること』と笑って答えていた。その秘訣に従って朝から何個のオレンジとレモンを切ったのか、月子はもう覚えていない。
「もう火から下ろしてよさそうだの」
 マグカップを空にした月久が言う。月子もちょうど思っていたところなので素早く火を落とす。それからミトンを嵌めて、蓋を被せた大鍋を持ち上げた。中身が詰まった両手鍋は重たいが、しっかりと取っ手を掴めば安定する。大鍋はパントリーへと運ぶ。暖房の入らないパントリーは、いつもなら身を震わせるつらい寒さなのだけれど、こういうときはありがたい。なにせこの大鍋は、冷蔵庫には入らないから。
 赤ワインと果物、スパイスを一煮立ちさせるだけの簡単なレシピだが、一度冷ましてやると味が馴染んで、より深くまろやかな味わいになるのだ。

 開店の時間を迎えると、月久はカウンターから出て、訪れる常連客や旧知との会話を楽しみ始めた。
「いくら店を譲ったとはいえ孫娘に任せっぱなしすぎるだろう」
 と、老教授がなじっている。昨年も耳にした小言だ。月久は悪びれず、
「それも人生というものよ」
 などと適当な言葉で躱す。月子としては店を任せてもらえるのは嬉しいことなので、苦笑を浮かべることしかできない。
 もちろん祖父だけでなく、月子のほうも常連客と色々話すけれど、どちらかといえば彼らが話している姿を見るほうが好きだった。
 今年も飲めてうれしいよ、この一年はたいへんだったね、最近はどうだい、来年こそは、よいお年を、また来年。
 いつもはさほど混みあうこともない店内に、ひっきりなしにだれかが訪れる。家族とやってきて人数分を大事そうに抱えて帰る人も、店に残って思い思いにおしゃべりをする人たちも。さざなみのような楽しげな声と笑みが満ちるこの光景は、月子にとってかけがえのない宝物だ。

 からんっ、と幾度となく鳴ったドアベルが新たな来客を知らせる。入ってきたのは唐沢だった。月子はそちらに目配せしつつ、常連客の一人である男性にヴァン・ショーを注いだテイクアウトカップ――店内で飲む場合でも入れ物は同じだ――を渡す。ありがとう、と小さな声で礼を告げた男性は、ご近所さんたちの輪に加わった。
「やあ、月子ちゃん。盛況だね」
「こんにちは、唐沢さん。年に一度のお楽しみですからね。来ていただけてうれしいです」
 カウンターの前までやってきた唐沢に笑みを返す。コイントレーに置かれた輝く五百円玉を摘まみ上げたところで「月子、代わろう」と唐沢の背後から月久が顔を出した。
「唐沢くんをもてなしてやりなさい、サンドイッチでも食べながら――どうだね? きみにとっても悪い話じゃあないだろう」
「昼を食べ損ねていたので、ご相伴に預かれるなら助かりますよ」
「やはりな! そんな顔だと思ったわ」
 つまり休憩がてら唐沢と二人でサンドイッチを食べていなさい、ということだ。月久が朝のうちにつくっておいてくれたサンドイッチが冷蔵庫に入っている。ちらりと時計を確認すれば、長針は四を過ぎていた。もうそんなに経っていたのか、と目を瞬かせる。
「客足も落ち着いてきたからの。夜は長いのだから、今のうちに食べておきなさい」
 今日は営業時間も特別延長の予定だ。夕飯時になるとまた混み始めるので、月久の言う通り来客が途切れたうちに食べておくのがいいだろう。なお、店を閉めた後はフロアの大掃除がはじまる。
「じゃあ、先に食べちゃうね……というか唐沢さん、お昼からどれだけ経っていると……?」
 月子と月久は、忙しさを見越して開店直前にブランチをたっぷり食べた。唐沢は「この時期は忙しくてね」と苦笑する。どうも彼からは年末年始休暇という概念が失われかけているらしい。
 いつの間にかカウンターの内側に入った月久が、ガラスのマグカップに深いボルドー色のヴァン・ショーを注ぐ。オレンジの輪切りやスターアニスをぎゅっと詰めてくれたおかげで、見た目も賑やかでかわいい。
 唐沢がマグカップを持ってくれたので、月子もサンドイッチを手にテーブルへ向かう。サンドイッチは丁寧にも紙に包まれているが、おしぼりもふたつ持った。皿に盛られたうちの半分は月久のものだけれど、譲ってくれたということはぜんぶ食べてもいいのだろう。
「得したな、月久さんのサンドイッチが出てくるなんて」
「たまごサンドとグリルチキンみたいです」
 フロアの奥、壁に沿わせたテーブルが定住地に選ばれ、ことりとマグカップが着地する。月子がサンドイッチを置いている間に、唐沢がテーブルの長辺と短辺に椅子をそれぞれ並べた。唐沢と同じテーブルを囲んで食事をするのは久々――三門に帰ってきたときに、月久も交えて三人で食事に行ったとき以来だ。
「いただきます」
 と、律儀に手を合わせた唐沢がさっそくサンドイッチを手に取る。どうやらよっぽど空腹だったらしい。なるほど唐沢さんはおなかがぺこぺこのときこんな顔なのか、と眺めつつ月子も三角形を手にする。
 ぺりりと包み紙を破ると、黄色いたまごが白いパンに挟まれながら顔を出した。いただきます、とかじれば、しっとりとしたやさしい口あたりに包まれる。そこに熱々のヴァン・ショーを流しこむと、ほっと肩の力が抜けた。コクのある甘みと柑橘類のかすかな酸味で飲みやすく、溶け込んだスパイスが内側からからだをあたためてくれる。
「そういえば、他には誰か来た?」
「ボーダーの方が、ということでしたら、お昼に東くんが。響子……沢村さんのぶんもテイクアウトして、本部に向かったみたいでした」
 友人たちは一応きちんと年末年始休暇がとれるようだが、東は大学が休みのうちにシフトに入り、年が明けてからまとめて休みを取る予定らしい。昨年度は修論とボーダーの業務で忙殺されていたという東がヴァン・ショーを嬉しそうに飲むのを見ながら、博論のときはこのひとどうするんだろうと素朴な疑問がよぎった。
「成る程。俺も城戸さん用にテイクアウトしていくとするかな」
「ぜひ。まだたくさんあるので……今ならちょっと自分好みにもアレンジできますよ」
 ワインも果物もまだまだ残っている。カウンターを振り返れば、月久が次のぶんの下拵えをしてくれているようだ。普段は手出ししないと決めている月久だが、このヴァン・ショーだけは別だ。常連客だけでなく、祖父の個人的な友人も訪れるからだろう。正直なところ、とても助かる。家で飲む用にとたくさん持ち帰る人もいるので、業務中も作り足す必要があるのだ。
「へえ……白ワインでも作ってくれるかな?」
「ヴァン・ショー・ブランですね。唐沢さんの頼みなら祖父もやる気になるかもしれません。唐沢さん、白がお好きなんですか?」
 フランス語で『あたためたワイン』を意味するヴァン・ショーは、赤ワインでつくるのが一般的だが、白ワインの産地として知られるアルザス地方では白ワインでつくられる。赤よりフルーティーで爽やかな味わいとなり、こちらもまたおいしい。
「俺じゃなくて根付さんがね」
 根付、というのはボーダーのメディア対策室の根付室長のことだろう。テレビをはじめ、メディアでよく見る顔を思い浮かべる。すらりとした痩身の男性の姿は、なるほどワインがよく似合う。
「折角だし、月久さんに頼んでみるよ。同僚方は実家に顔を出すどころかワインを空ける暇もなさそうだ」
「おじいちゃんが断ったら私がおつくりしますよ」
 月子が答えれば、唐沢は柔く目を細めて笑う。それから二つ目のサンドイッチをとった。いつの間に食べたのだろう、と思いながら月子もたまごサンドをもうひとくち食べる。
「……そういえば、以前仰っていたお見合いはどうなったんですか?」
 それを雑談に選んだのは、実家という単語から連想してのことだった。その無意識の選択には、気が付けば抱いていた恋と呼ばれる感情も多分に関わっているのだろう。相談してみるといい、と言った城戸の言葉も覚えていた。
 人生の先輩であり、兄のように信頼し尊敬する唐沢の話が聞きたかった――初恋のひと、でもあるし。その淡い想いを抱いていたとき、月子はまだ、母の帰りを待つ子どもだった。
「ああ、あったね、そんなのも」
 唐沢が軽い調子で答える。
「丁重にお断りしたよ。こっちが忙しいのもわかってるからか、最近は新しい釣り書きも送られて来ないし……圧は感じるけど」
「圧」
「独り身の男には余計な世話を焼きたがる人が多くてね」
「……余計、ですか?」
「まあ、そうだね。紹介するのが生き甲斐と言われれば、ご自由に、とは思うが――ただ、結婚しないと面子を保てない男だと思われているのは癪じゃないか」
 愉快そうに笑う姿からは『圧』を感じている様子はない。おそらく唐沢は、世間が押し付けてくるようなプレッシャーやしがらみを軽やかに躱して、強かにひとり立てるひとだ。それに憧れるような、頼もしく感じるような気持ちがある。
「そうですね……そんなことで唐沢さんの価値が変わるようなことはないと、思います」
 『そんなこと』と言えてしまうことだ、と言葉にしながら思う。結婚というものは、今の月子にとってはやっぱり、そんなものだった。恋心の先にある、おおよそハッピーエンドと認められるものが、欲しいわけではなく。いっそ辿り着きたくないとさえ思っている。
「……好きなひととも、結婚、しませんか? 唐沢さんは」
 かすかな緊張を飲み込んで問いかける。ほんの一瞬、常に浮かべる笑みがゆれたように見えた。それは気のせいかとも思うような、微細な変化だったけれど。
「その選択を思い浮かべるような相手なら、するんじゃないかな。ぱっと思いつくだけでも、赤の他人は集中治療室に入れないし……ルールのほうを変える手もあるけど」
「そう、ですね」
 唐沢にとってそれは目的ではなく手段なのだ、と理解する。それがかえって熱烈な愛情表現のように思えるのは、今の唐沢がひとりで立っていることを知るからこそかもしれない。
「まあ、所詮は制度の話だ。きみにとって大事なのは、そこに至るまでのところじゃないかい?」
 何もかも見抜かれている気がする。月子がうっと言葉に詰まると、唐沢はからかい混じりの微笑を浮かべた。
「楽しめばいいよ。悩みもスパイスにしてね」
「……たのしむ……」
「一緒に煮込めばいい味が出る」
 そうだろう? ――と、唐沢はヴァン・ショーにくちづける。
 月子は今度こそ何も言えなくなって、逃げるようにたまごサンドを食んだ。話し込みすぎてしまったのか、パンの断面がすこし乾いている。こくりとヴァン・ショーを飲み、喉を潤す。甘くて、スパイスの香りとクセがあって、まろやかにやわらかい。指先までじわじわと温もっていくのを感じてから、改めて唐沢を見た。彼は三つ目のサンドイッチを食べ終えたところだ。
「じゃあ、唐沢さんにとって誰かを好きになるって、どういうことですか?」
 反撃を仕掛ける勇気はからだをあたためる赤ワインとスパイスがくれた。唐沢はちょっと驚いたような表情をつくったあと、にまりと笑う。
「内緒」
「……ご参考までに、克己お兄さん」
「…………負けたくなること」
 唐沢が、これ以上は勘弁してくれと両手を挙げる。月子は「参考にします」と苦笑しつつ、何に負けたくなるのだろうか、と考える。相手にか――それとも、身の内にある衝動にか。さすがにそこまでは答えてくれなさそうだった。


 お礼とお詫びの気持ちを込めて、ヴァン・ショー・ブランは月子がつくることにした。さくさくとレモンの輪切りをつくればまな板のうえに薄黄色の花が咲く。林檎は皮を剥いて、くし切りに。スパイスは赤ワインのときよりも控えめに、香り付け程度に抑える。それらを鍋に放り込んだら、月久の晩酌用の白ワインを一本丸々注ぐ。
 カウンターの端の席に座った唐沢が「仕事始めは四日?」と問いかけた。
「はい。たくさんお休みをいただくので、六日も営業しますよ。特別に〝ガレット・デ・ロワ〟を出す予定なので、唐沢さんもよろしければ」
「ああ、フランスの……魅力的なお誘いだけど、年始は挨拶回りがあるからね、しばらく来れなさそうだ」
 残念です、と眉を下げる。「ご無理はなさらないでくださいね」と心配を添えれば、唐沢は「もちろん」と請け負う。
「ガレット・デ・ロワ、好きそうな人に宣伝しておくよ」
 唐沢が笑った。
 それが迅だったらいいと思ってしまったことも、きっと唐沢にはお見通しなのだろう。


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