白味噌仕立てのおでん

「えっ!? プレゼントあげた? 迅くんに!?」
「おっ、ついに認めたか?」
 それぞれに驚きと好奇心を浮かべた二対の瞳を受け止め、月子はこの二人に打ち明けたのは早計だったかもしれないと密かに思った。

 忘年会をしよう、と東を通じて響子が持ちかけてきたのは、あの悼ましい一件が起きる前だった。どうなることかと思っていたが、二人は約束を覚えていたらしい。改めて誘いの声がかかり、月子が小さく歓声をあげたのが数日前のこと。ただ、三人とも慌ただしい日々を過ごしていたせいで、既に目ぼしい店は埋まっていた。
 そんなわけでクリスマスが明けた二十六日。定休日のカフェ・ユーリカに三人が集まったのだった。
 四人がけのテーブルに所狭しと料理が並ぶ。月子が日中のうちに作ったものだ。『場所と調理を任せてしまうから』と渡された材料費は色がつけられていて、『返すな』と言い含められていたからずいぶんと奮発してしまった。
 サーモンの和風カルパッチョにカツオのたたき、牡蠣と水菜のはりはり鍋、柚子胡椒の鶏唐揚げと、軟骨の唐揚げ、だし巻き卵、箸休めは菜っ葉の胡麻和え、かぶの漬物。クリスマスに洋食を食べたと予想し、和食で揃えた。どれも居酒屋で二人がよく食べているメニューだ。月久が手伝ってくれなければ作りきれなかったかもしれない。その月久は『わしも今夜は友人と飲んでこようかのう』と外出している。
 多すぎたかな、と心配したのも束の間。二十四日から働きづめだったらしい二人によって次々と皿が綺麗になっていく。
「クリスマスも仕事だったんだね」
「つまんない意地みたいなもんだよ」
 空のお猪口にとくとくとお酒を注ぐと、東が苦笑しながら応える。東が持参してきた北陸の蔵元の純米吟醸は、すっきりとした飲み口で食中酒にもちょうど良い。
「意地で仕事?」
「そうなの、大人としての意地」
「ボーダーにいる方が気がまぎれていいってやつもいるけど、まあ基本的にああいう日は遊んどいたほうがいいだろう」
「お節介なんだろうけどね」
「なんだかんだ本部には来てたしな」
 学生たちの顔を思い浮かべたのか、東と響子の表情が緩む。いいなぁ、と思った。羨ましいというよりは微笑ましい気持ちで、月子も柔らかに笑む。それから。
「……迅くんは休んだのかな」
 ぽろり、とくちびるを滑り落ちていった言葉はおそらく酔いのせいだった。
「え?」
 と、聞き返すような視線を受けてはたと口を閉じる。
「今、なんて?」
「なんでもないですよ」
「……ふーん、そう。迅くんは働いてたみたいよ」
「聞こえてるじゃない!」
「動いてただろうなぁ、あいつは。玉狛支部でパーティーやってたみたいだから、それには参加してそうだが」
 で。高低差のある声がふたつ重なった。
「数ある常連からピンポイントに迅の名前が出て来たわけだが」
「なにかあったんです~?」
 あっ、酔っている。
 東も響子もあまり顔に出ないからわかりにくいけれど、好奇心を隠しもしないまなざしは雄弁に語っている。日本酒は度数も高いし、疲れている体にアルコールは回りやすかったのだろうか。
「……何、というほどのことはないけど」
「ほう」
「クリスマスを前に何かあった? もしかして告白された?」
「別に、そういうことではなくて」
 告白なんて、どうしてそんな話になるのか。頬に熱が集っていく。これはまだ月子ひとりの問題なのだ。スタート地点に立って、一歩、踏み出してみただけ。自分の胸のうちにある感情に、ようやく気付いたという話で。泳ぐ視線と下がっていく眉にも追撃の手は緩まなかった。
「何かあったでしょ?」
 ずい、と身を乗り出した響子の目が鋭い。同い年の友人は、おそらく恋話に飢えている。響子にばかり語らせていたという自覚はあったから、自分も言ったほうがいいのかなとも思う。そうでなくとも、誰かにすこし訊いてほしいような気持ちも、たぶん、あった。東に視線を移したが助けるつもりはないようで軽く肩を竦ませるだけだ。しばらくの沈黙の後、月子はついに白状した。酩酊した頭とくちびるはいつもより自制心が効かなかったのである。
「――プ、プレゼントをあげただけです……、その、わ、私にとって迅くんは……、と、とくべつ、だいじなお客さまなの、で……」


 それがまさか、あんなに食いつかれるとは思っていなかった。にまりと笑った沢村が「なにあげたの?」と訊いてくる。うう、と呻いてみても逃げ場はない。
「……その、マグカップと、スプーンを……」
「いや高校生か!」
 ぐさり、と言葉が刺さる。東も「もうちょっとあっただろ」と呆れた顔だ。祖父にも言われた。憐れみがにじむまなざしで。
 でも、だって、どれも気を遣わせたり、重くなってしまったりしそうで。迅が知り合いへ贈るプレゼント選びに付き合ったときの様子を思い出しながら、長々と時間をかけて選んだものではあったけれど。けれどやっぱり、子どもっぽいといえばそうなのだろう。二十五歳の自分にはもっといろんなものが用意できた。
「だ、だから本当にその、ただプレゼントをあげただけで……他意はなくて」
「俺にも沢村にもあげてないのに?」
「そうだそうだ!」
「他意はあるだろ」
 う、と言葉に詰まる。その他意というのは、ここ数十日の自分を悩ませていた――感情のことだ。
「まあ、月子がないって言うならいったん信じてあげましょう。迅くん、どんな感じだった?」
「どうもしてないと、思うけど」
 プレゼントを受け取ったときの迅は驚いてはいたものの、特別変わった様子はなかった。普通に喜んでくれた、以外にはない。思い返すとちょっとだけさみしいけれど、渡したときは緊張しすぎてそれどころではなかった。
「これだから迅くんは! クール気取りがちなんだから!」
「喜んでもらえたか不安がってた、って伝えといてやろうか?」
「東くん、面白がってるでしょう」
「心配してんのよっ」
 かんっ、とお猪口がテーブルに打ち付けられる。飲み干していたのか中身が溢れることはない。響子の手が徳利に伸びた。これはできあがっている。便乗して囃している東も珍しく頬をそめているが、響子のほうはもうだいぶ酔いが回っているらしい。
 いつもより酔いが回るのが早いのは、やっぱり疲れているせいだろう。ちらりと食卓を見たが、ほとんど食べ尽くされている。お酒はまだあるから、このままでは泥酔コースだ。そしてその肴は月子である。
「そ、そうだ、おでんあるけど食べます?」
「おでん?」
「京風の、白味噌仕立ての……日本酒と合うよ」
 我ながらどうかと思う話題の逸らし方だったが「昨日の残りだから出汁が染みてると思うよ」と続けると二人の顔つきが変わる。ボーダーでは年長とはいっても世間的にはまだ若者だ。食欲もお腹の余裕もあったらしい。
「クリスマスにおでんだったの?」
「それっぽいのはイヴに食べたから……」
「余ってるならいただこうかな」
「じゃあちょっと持ってくるね。上にあるから」
 がたん、と席を立ち、ついでに空いた皿を片付ける。二人も手伝おうと腰を浮かせたのを留めた。少し冷静になる時間が欲しい。

ぱたぱたと階段を登りきったところで、酔いが一息に回ったのかくらりと揺れる。暖房を切った二階は空気がしんと冷えていて心地よい。その空気で深呼吸すると、すこし思考が冴えた。冴えてしまったばっかりに、なんで言っちゃったんだろうと少し後悔したが、ああいうことを話せる友達がいるのは幸せなことだ、とも思う。やや脳天気な思考なのはやっぱり酔っているせいだろう。
 キッチンに置いたままの鍋の中を見る。大根と卵とこんにゃく。白味噌は器に盛ってから後がけするレシピなので出汁はそれほど濁っていない。他の具材はもう食べてしまったけれど、お酒のアテにはこのくらいでいいだろう。出汁を吸って深い色になった大根は見るからにくったりととろけている。きっちりと面取りした甲斐あって煮崩れもない。コンロに火をつけて温めた。
 冷蔵庫から出した白味噌は元はお正月のため用意したものだ。月久はどういうわけかお雑煮は白味噌派なので、毎年この時期にだけ買うことにしている。これを出汁でといて、薄口醤油と酒を入れ、隠し味に七味唐辛子を少量加えれば完成だ。まろやかでコクのある味わいは熱燗よりも冷酒でキュッとしめるのがいいだろう。
 ゆらゆら揺れるコンロの火を見ながら、東と響子に言われたことを考える。高校生か。むしろ今時の高校生のほうがもっと洒落たものを贈るかもしれない。
 好きなものとか、普段どんなものを使うのかとか、そういったことを何も知らなかったな、と思う。目を背けていたから。自分は本当に、情けなくなるくらい臆病だったのだ。
「大人なのになぁ……」
 大人だからなんだってできるというのは幻想だ。でなければ月子の子ども時代はもう少し――いや、不幸せだったわけでは、決してないけれど。
 とりあえず、東と響子にはまだちゃんとした相談はしないでおこう。酔いが覚めてきて冷静な判断ができるようになる。
 月子はまだ自分の胸にある恋と呼ばれる感情をどうしたものか決めあぐねているし、歳の差のこともある。六歳差――社会に出ればそう大きな差ではないとはいえ、やっぱりまだ二十歳にもなっていない人に心を寄せるのは後ろめたさが勝る。自分より年下の子どもたちの保護者役になっている二人の前では特に。
「……迅くん、クリスマスは楽しんだかな」
 気持ちを切り替えるように言葉を口に出す。最後に迅と会ったのは一昨日。玉狛支部長のお使いといって、いいところの菓子折りを手に現れた。クリスマスツリーの飾り付けをした日に比べれば元気そうで、いつもの調子を取り戻していたけれど。でも、どこか無理をしているように見えた。昔の自分に似ていた、ような。
 くつくつと出汁の沸く音ではっと思考が掬い上げられる。慌ててコンロの火を止めた。思いのほか煮詰まってしまったが、焦げ付くほどではない。
 しっかりと温まったおでんを大皿に盛って、白味噌のたれをかける。とろり、と広がったたれから味噌のほんのり甘い香りが漂う。冷凍庫で保管していた柚子皮を乗せれば彩りもよく仕上がった。

 小皿にとった大根に箸を入れれば、すっと割れる。繊維まで出汁の染みた大根は頬張るとじゅわりと出汁が溢れて、噛むまでもなく柔らかに崩れる。白味噌の甘みとコクが合わさったところに冷たい日本酒を迎え入れれば、それはもう至福と言うに相応しい味わいだ。
「出汁があふれてとろける! 白味噌もやさしい甘さで沁みるわ……」
「大根は永遠に食えるな」
「からしと柚子胡椒もあるよ」
「さっすが!」
 はふはふとおでんを食べる合間に感想が出て来る。ベースの出汁を取ったのは月久だが、一つひとつの下拵えは月子の担当だ。おいしそうに食べてもらえるのは嬉しい。そして狙い通り話題はおでんに集中した。
「ちくわもいいよな」
「私は餅巾着も好き。月子は?」
「里芋かなぁ」
「えっ里芋入れるの?」
「入れるよ……入れないの?」
「なんだっけ、北陸とか東北の雪国は入れるんじゃなかったか? あとあっちだとお麩も入れるらしいな」
「あっ! テレビで見た! なんだっけ、車輪みたいなやつ!」
「車麩かな。前にご近所さんから金沢のお土産でもらったことある」
「卵もうまいなこれ」
「わかる……半熟のゆで卵が好きだけどおでんのは別」
 卵は三つしかなかったので、平等に一人ひとつとした。煮込まれた卵の白身はぷりっとした口当たりが楽しい。ほくほくとした黄身に出汁を含ませればまろやかとける。食感といえばこんにゃくも捨てがたい。少しこりこりと歯ごたえがあり、控えめな味はほっと一息つくのに向いている。お酒が進むのは自明だった。
「手作りのお菓子とかでもよかったんじゃないか」
 話題はいつの間にか元に戻っている。東の穏やかな声に「そっちの方が月子らしいかと思うけど」と響子の言葉が重なる。ぼんやりと靄がかかったような頭のなかで、ふたりの声をなぞった。
 うん、とほとんど酔いに潰れた声で返す。一足先にアルコールが抜け始めた東と響子が苦笑しながら顔を見合わせる。
「でも月子のことだから、マグカップとスプーンも理由があったんでしょ?」
「……うん、」
「いつでもコーヒーを飲みに来い、とかだろ?」
「……、ううん」
 迅のためなら、その日の珈琲に合わせた器を選ぶことも苦ではない。他のお客様に対してだってそうだけれど、迅相手ならもっと楽しい。どうしてその珈琲と器を選んだのか、月子が語るのを楽しそうに聞いてくれるだろうから。だから、そういうことではないのだ。むしろ逆だった。
「スプーンを、あげると、食べるのにこまらないんだって」
「……それ、新生児の話じゃないか?」
「うん……、だから、おいしいものを、たべれるように……私のところに来なくても」
 マグカップであれば冷たいものも温かいものも入れられる。スプーンがあれば、具のあるものだって食べられるだろう。
 ――きっと、迅は自分がいる世界に月子をいれようなんて、思っていない。月子さんはそこにいて、と明確に引かれた線は、そういうことだ。月子はそこにいたいけれど、それを決めるのは迅だ。
 だから、彼の世界に自分がいなくても、彼がおいしいものを食べられるように。あの初夏の日と同じように、からからに喉が渇くこともないように。誰かとごはんを食べれるように。
 もし、月子が身の内に巣食う衝動のまま彼を追いかけたとして。それでも離れてしまうなら、それは、きっと仕方ないのだと思うから。でも――その先で、あなたが、ちゃんとしあわせでありますように。私がいなくても成り立つだろう彼の人生が、けれど、あたたかくてやさしいものでありますように。
 そんなことを考えながら手にとってしまった、彼を思わせる碧色のマグカップを、贈ろうと思った。結果として高校生みたいな贈り物にはなってしまったし、月子のエゴでしかなかったのだろうけれど。でも、小さな願いを込めた。だってクリスマスだったから。
「……迅にはちゃんとお返し用意しろって言っとくよ」
 肩を竦めた東の声は月子に届かなかった。相当飲んでいたから目が覚めるまで少しかかりそうだな、と苦笑する。「じれったいわね」と呟く響子に、東は「お前が言うか……」と返しつつ、二人でテーブルに残っていた食器を片付け始めた。

   *

「悪いな、遊真。そっちはおれのなんだ」
「む、それはしっけい」
 少年の手のひらが碧のマグカップから離れて、その隣に移る。幼い手が攫ったマグカップの中で、とぷん、と乳白色の液体が揺れた。
 鍋に牛乳を入れ、はちみつを溶かしたホットミルク。普段なら電子レンジで済ませてしまうところなのに、わざわざ鍋を持ち出したのはやはり影響を受けているのだろう。ふっと知らずのうちに笑みが漏れた。木の匙とともに鍋はさっと水で洗い流してシンクに置いておく。
 おれの、と主張した碧のマグカップを持ち上げる。仕舞いこむこともできたはずなのにそれをさっそく使い始めて、他の誰にも使わせない理由なんてわかっている。形あるもの。思い出させるもの。ぞんざいに扱うことはできなかった。
 ゆらゆら揺れる湯気と戯れながらふたりで階段を上がり屋上へ出た。寝静まった街は明かりも乏しい。
「うん……迅さんがつくるホットミルクがいちばんうまいな」
 夜に浮かぶ白髪の少年は寒さにかじかむことも熱さに怯むこともなく微笑む。
 迅はふうふうと湯気を散らしながら「そんな変わんないでしょ」と返した。けれど胸のなかはあたたかい。夕食をつくるときもそうだ。簡単なものでも誰かに喜んでもらえるとうれしくて――たぶん、月子も同じなのだろう。
 あのやわらかな笑みがよぎる。彼女にはいつもつくってもらってばかりで、それは店主と客だから仕方ないけれど、でも、本当にいつも、与えられてばかりだった。
「迅さんはココアつくれる?」
「作れるよ。……いや、粉がないとできないけど……飲みたいの?」
「うまかったから」
 今度つくってやるよ。迅は軽く返して夜の街を見下ろす。月子はもう眠っているだろう時間だ。せめてよい夢を見ていてくれたらいい。迅がいなくても、彼女の世界が幸せに満ちていたら。
 ああでも――その穏やかな呼吸を守るためだけに生きられたら。性懲りも無くそんなことを考えながら口づけたホットミルクは、舌をちりりと痺れさせた。


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