シュトーレン

「シュトーレンはお召し上がりになりますか? クリスマスホリデーのサービスとしてご用意しているのですが」
 月子が問いかけると、カウンターに座った城戸は「いただこう」と静かに頷いた。いつものダークスーツに、いつも以上に険しさを感じる表情は疲労のせいだろう。ときどき瞑想するように瞼を下ろす城戸を邪魔しないよう、月子は静かに作業をはじめる。
 カフェ・ユーリカに顔を出してくれるだけの余裕は出来たらしいが、その忙しさは想像に難くない。報道の頻度は幾分か減っていたが、事後処理は未だ続いていることだろう。
 街に被害が出たあの一件から十数日が経った。クリスマス・イヴを迎えた街は軽やかなメロディに誘われるように、華やかな空気に包まれている。第一近界民侵攻と比べれば被害はずっと少なかったし、クリスマスという分かりやすいイベントが日常への回帰を促した側面もあるだろう。誰であろうと心のどこかで奇跡を願えるような、そんなやさしい雰囲気が、クリスマスというものにはあるから。
 その一方で、仮設住宅で年越しを迎えるしかない人もいる。城戸正宗という人は、その現実から目を逸らすことはないだろう。ボーダーの最高司令官として気の休まる日々ではないはずだ。
 ここにいる時間がせめてもの休息になれていたらいいと、そう願うばかりだ。
 珈琲に添えるシュトーレンはドイツの伝統的なパンで、クリスマスまでの間に少しずつ食べる習わしがある。それに倣ってクリスマスまでの期間中はサービスをはじめたが、元々は月久が炊き出しに添える一品として馴染みのパン屋の主人と作ったものだった。
 月久がそういったボランティアに心を尽くすのは、被災者への労りもあるだろうが、少しでも雰囲気を明るくしてボーダーへの不満を散らす狙いもあるのだと思う。『たまには唐沢くんたちの役にも立たねばな』と笑っていたのは、そういうことだ。月子も同じ気持ちだった。何か少しでも、役に立ちたいのだ――ボーダーというよりは、迅の助けになりたい。
 ともあれ、原価率などまったく考えずに仕上げられたシュトーレンは、月久も太鼓判を押す仕上がりとなった。秘蔵の洋酒に漬け込んだ七種のドライフルーツ――レーズン、オレンジピールとレモンピール、白と黒のいちじく、クランベリーにりんご――とアーモンドをたっぷり混ぜこんだ自信作らしい。子ども向けには、洋酒を使わずつくるという気の利きようだ。
 月子も毎朝味見をしているが、どこをどう切っても数種のフルーツが顔を出し、日に日にしっとりとしていくシュトーレンは甘美のひとことである。
 ケトルのなかで湯がゆらめく音を聞きながら、ラップに包んだシュトレンを取り出す。まんなか、ぴたりと合わせた切り口が固くなっていないことを確認し、薄く切りわけた。二枚くらい食べてくれるだろうか。小皿にのせておく。ドリッパーに挽き立ての豆をセットして、お湯が沸くのを待った。
 窓の外に視線を向ければ、薄鼠色の雲が空を覆っている。冬は深まり、寒さは増す一方だ。店内はあたたかいが、水仕事のあとは指先がかじかむ。コンロの前に立ち、そっと指先をあたためた。ケトルがしゅんしゅんと鳴り出す。頃合いを見て火を止め、ドリップを始めれば湯気がふわりと肌をなでる。
 豆はコスタリカ。香りよく、豊かな酸味に嫌味のないコクと苦味。後味はすっきりと軽やか。城戸の気に入りの銘柄のひとつだ。こういう日は、飲み慣れた味わいがよく馴染む。
 お湯を注ぐと珈琲豆がむくりとふくらむ。それは双葉が土を持ち上げるさまにも似ていた。表面に現れる細やかな泡は、よくよく目をこらすと照明を受けて緑とピンクにひかる。珈琲豆も菜種と同じく種子なので、油分を持っているのだ。深煎りの豆だと表面にも浮いてくるからわかりやすいが、浅煎りの豆はこうしてドリップするときに見つけられる。
「……初めてこの店に来たのもクリスマスの時期だった」
 ぽたぽたと珈琲がおちていく音に、城戸の囁く声が重なった。彼の視線は店内のクリスマスツリーに向けられている。あれも、明日の夜には片付けなければならない。迅が少しだけ手伝ってくれたものを仕舞ってしまうのは惜しいと思う自分がいる。
「そうだったんですね」
「きみが大学に入ってからの話だが」
「帰ってきて、祖父から『常連の最高司令官殿だ』と紹介されたときは驚きました」
 二年前、月子がカフェ・ユーリカを継ぐために戻ってきたときには城戸も常連のひとりだった。月久が言うには、ボーダーが結成される以前から時おり店を訪れていたらしい。詳しくは教えてもらっていない。月子も迅との出会いを誰かに詳しく語ったことはなく、店主と客のあれそれを秘密にしたがるのは遺伝なのだろうと思う。
 抽出が終わったドリッパーを外し、澄んだ濃褐色の珈琲をあたためたカップにゆっくりと注ぐ。先に珈琲を、そのあとシュトーレンも出せば、城戸が目礼で応えた。
「時間はあっという間に経つのだと、最近はよく感じます」
 常連客のなかには、城戸と同じく六年前にはそうでなかった人も多い。この二年でずいぶん色んな人と出会ったし、見慣れた顔が増えた。友人と呼べるひとができたのは本当に嬉しかったし――たとえようもなくすきなひともできてしまったのは、まだどう受け止めるか決めかねているけれど。
 いずれにしろ、三門に戻ってからの二年は、振り返ってみればあっという間に過ぎていた。
「……私が最初にこの店を訪れたとき、マスターはきみへのクリスマスプレゼントに悩んでいたらしい」
「そう、なんですか?」
「何かいい案はないかと訊ねられ……まあ、それがきっかけで通うようになった。あのころはマスターの話に出てくる存在だったきみが、こうしてカウンターに立っているのを見るのは――時々、不思議な心地になる」
 城戸がこくりと珈琲を飲み込む。コスタリカのあっさりした味わいは、洋酒が香るドライフルーツがたっぷり入ったシュトレンによく合うはずだ。一切れつまんだ城戸がそっと口元を緩めたように見えて、自分が作ったものでもないのに笑みが浮かぶ。ドイツでは、こうして毎日一切れずつ切り分けて、クリスマスを心待ちにしながら過ごすのだ。
「私も、ふと不思議になることがあります。祖父がいるはずのカウンターに自分がいることが、なんとなく現実味を失う瞬間があると言いますか……」
 中学生の頃は、漠然と、自分はいつまでもここで暮らすのだろうと思っていた。言い換えれば――他に行くところなんてない、と。
 進学を機に三門を出たのは月久の勧めがあったからだ。あの大学にはおもしろい教授がいるぞとか、あの街は住んでみると楽しいぞとか、色々と言っていたが、おそらくはただ月子に自立して欲しかったのだと今は思う。祖父なりに孫の今後を案じて、外に出そうとした。
 三門が怪物に襲われたとき、家に帰ろうとした月子を留めたのは月久だ。
『別に手伝いはいらんよ。そうさな……せめて自分一人を養えるようになってから、それでも帰りたかったら帰っておいで。今はおじいちゃんも忙しいからのう』
 と、そんな声を電話越しに訊いた。簡単に言えば『今のおまえでは力不足だ。世間を知ってそれでも帰ってきたいなら好きにしろ』ということだ。月久は耳さわりの良い言葉で誤魔化すわけでもなく、はっきりとその意志を示した。
 だからこそ、月久から『まだ店を継ぐ気はあるか?』と問われたときは本当に嬉しかった。動けるうちに旅をすると決めて、カフェ・ユーリカを畳むか続けるか迷っていたらしい。ただ義理で訊いてくれただけなのかもしれないけれど、その問いは月子を認めてくれたようで誇らしかった。月久はもうしばらく後でもいいと言ったけれど、時が惜しくて飛ぶように三門へ帰ったのだ。カフェ・ユーリカより大切なものはないと、そう思っていたから。
 あのときの舞い上がるような気持ちを忘れたいわけではないけれど――そろそろ、地に足をつけて、落ち着いて向き合うべき時なのかもしれない。それはあるいは、店を継ぐと決めたときに、そうしなければならなかったことかもしれないけれど。
「まあ、そう思えるだけ余裕が出てきたということかもしれませんが。初めの頃はそんなことを考える暇もありませんでした」
 城戸は静かに頷いた。感情の読みにくい表情だが、気に掛けるようなあたたかみも感じる。
「……悩みは晴れたのかね」
 ――覚えていてくれたのだ。
 城戸が考えるべきことを思えば、ほんとうにとるにたらない月子の吐露を。忙しい合間を縫ってここを訪れてくれたのは、月子を気に掛けてのことだと、そういう人だと、今は知っている。
「そうですね……、すこしだけ」
 自分の胸にいつからか芽生えていたもののこと。この世で最も厭う感情で、けれどこの世で最も大切なものとおなじくらい、大切だと思うひとのこと。我がことなのに、ちっともままならなくて――だけれど、やっぱり手離せない。
「なので……もうすこし、いろんなことと、向き合わなければならないのだと思います」
 忘れられないことがある。つめたいさみしさのなかに取り残された記憶。恋や愛というものに裏切られ、失う恐怖。それでも、迅がすきだと、月子は思っている。これもきっと、忘れられないことだから。
 まだ答えをかたちに出来なかった。問いさえも明瞭ではなかった。城戸はそのすべてを汲むように「そうか」と頷き――心なしか柔らかなまなざしで、月子を見つめるだけだった。

   *

 彼女から離れなければと思うのに、ここを訪れる理由を与えられてしまえば、それに従ってしまう。そんな自分がいやになる。そのくせ、『ここまで来て帰るのもおかしい』だの『急に行かなくなったらまた心配をかけてしまう』だの、何かと理由をつけて、引き返す気もないのだ。
 瀟洒なステンドグラスがはめられた扉の前で、迅はひとつ息を吐く。瞳の奥がじんと痛むような感覚は、きっと寒さのせいだ。あわく白む呼吸に言い訳し、そっと扉を開いた。
 あたたかな空気がふわりと迅を包む。淑やかな音楽と珈琲の香り。クリスマスソングこそかかっていないが、フロアに置かれたクリスマスツリーがいつもと違う。光を受けて煌めく色とりどりのオーナメントは、ふたりで飾りつけた。背後で扉が閉まると、途端に外の喧騒や寒さが遠のいて、熱がじわりとしみる。
「いらっしゃいませ、迅くん」
 いつもとおなじ、朗らかな笑みが無性に心を騒がせる。その声がよろこびに弾んでいることが、浅ましくも嬉しい。今日も店内には迅と月子のふたりだけだった。
「こんにちは。あとメリークリスマス」
 カウンターへ向かいながら、手に持った紙袋を掲げる。林藤から託されたものだ。月子がぱちりと瞳を瞬かせた。
「まあ、うちのボスからのお歳暮なんだけど」
「おせいぼ」
「いつもウチのが世話になってます――だって」
 今日は、ちゃんと用事があった。だから迅が月子のもとを訪れるのも許されるはずだ。きっと、そうだ。
「それは……すみません、こちらは用意がなくて……」
「いいよいいよ、ボスが勝手にやったことだから」
「そういうわけにも」
 やや不服そうな、おそらくお返しを用意しようという算段を整えている顔にふっと唇が緩む。こういう義理堅さが――そこまで考えて思考を振り払う。これ以上に心を傾けるようなことはしないと決めたのだ。
「諸々の迷惑料と口止め料も兼ねてるから、お返しされたほうが困る」
 わざと意地悪く告げれば、月子ははっと顔をあげる。
「……頂戴いたします」
 神妙に頷いた表情は硬く、そうするために発した言葉だったのにじくじくと胸が痛む。熟れた果実がいよいよ地に落ちて、誰にも見向きされずに踏み潰されてしまった気分だ。他ならない迅が踏み潰したのに。
「あの、お歳暮ではないのですが」
 紙袋を奥にしまった月子が、小箱をひとつ、カウンターに置く。薄い青の包装紙と幅広の金のリボンでラッピングされた、一目で贈り物とわかるもの。ぱちり、と青の瞳を瞬かせた。
「メリークリスマス、ということで」
「おれ、に?」
「他にだれか居ますか?」
 どこか後ろめたげな笑みに反して、瞳は甘やかに蕩けた。群青の空に浮かぶ淡い月がかすかな光を街に落とすように、あくまでもさりげなく、どこまでもやさしく。
「どういうものがよいのか、わからなかったので……」
 ちらりと向けられた視線が中を見るように促す。震えそうになる手でリボンを紐解き、包装紙を破いてしまわないように丁寧に剥がす。現れた箱の蓋を開ければ、マグカップと小さなスプーンが収まっていた。
 明るい碧の釉薬が塗られたシンプルなマグカップだ。適度に厚みがあり、縁だけ薄く仕上げられている。木製のスプーンはティースプーンらしいが、皿部分に対して柄がやや長い。マグカップのなかで飲み物を混ぜるため、ちょうどに設えたような大きさだ。柄のトップはわずかに弧を描き、手に心地よく収まる。
 大仰なラッピングからどんなものが出てくるだろうと身構えていたが、思っていたよりもずっとカジュアルな贈り物だった。
「きれいな碧色でしょう? 推し作家さんのなんです。……迅くんには、いつも、お世話になっていて……その、先日も大活躍だったと小耳に挟んで……サンタクロースになりたくなってしまったんです」
 言葉を探しながら、ゆっくりと紡がれる声に、はにかむような笑みが添えられる。サンタクロースになりたくなった、なんて、プレゼントを贈る理由としてはちっとも馴染みがないけれど、そう言われると断りにくいような気もする。この、目の前にいるひとを、傷つけたいわけではないから。
「……ありがとう。大切に、する」
「そうしていただけたらうれしいです」
 やはり甘く蕩けた瞳が、やさしく迅を包む。形に残るものをプレゼントされたのは初めてだ。そして自分も、彼女に形あるものを贈ったことがないと気付く。だからやっぱり、迅が欲しかったのは思い出なのだろう。無意識の徹底ぶりに下唇をやわく噛んだ。
「……ちなみに、なんでマグカップとスプーンなの?」
「それは――」
 つい、と視線をさまよわせた月子が、やや気まずそうに咳払いをしてから「それは、ですね」と囁く。
「スプーンをこどもに贈ると、食べものに困らなくなるというのが、ありまして……」
「……へえ。月子さんはおれのこと子供だって思ってるんだ?」
「そっ、そういうわけではないですが」
 彼女の言葉に踊らされる自分の心の浮き沈みなど、今更説明するまでもなかった。手のうちにあるスプーンをやさしく握れば、木材特有の手触りと温もりがある。金属のものよりも、月子らしい。
「……ほら、二十歳未満は、大まかにいえば、こどもに分類されるでしょう」
「分類って」
「社会の仕組み的に」
「そうだけど」
 月子さんは、ときどき屁理屈を言う。
 スプーンを贈るのだって、ほんとうは新生児に対してのはずだ。焦る様子に肩の力が緩んで吐息をこぼせば、月子の動きがぴたりと止まる。じっ、とその瞳に見つめられて、そっと首を傾げた。
 絡んだ視線にどちらが先に怯んだのかはわからない。揺らめく瞳はまばたき一つで幻のように散らされた。
「さて――ご注文は、いかが致しましょうか。今日は温かい珈琲、紅茶によく合うシュトーレンをサービスさせていただいております」
 紡がれたのはいつもとおなじ穏やかな言葉だ。だから迅もいつもとおなじ言葉を返す。
「月子さんのおすすめで」
 指先からマグカップにじわりと熱が移る。彼女にこそサンタクロースが来たらいい。美しい包装紙に包まれたしあわせな未来が、いくつもいくつも贈り届けられたらいい。もしかしたら、そのたくさんのプレゼントのなかになら――迅の贈り物も、そっとまぎれこませてしまえるかもしれないから。


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