カフェ・ラグリマ

 十二月十九日、木曜日。カフェ・ユーリカは定休日だ。
 朝食を食べ終え、出掛ける月久も見送り、ひとりになった月子は飾り気のないモミの木の前に佇んでいた。気付けばクリスマスも来週に迫っている。十二月の前半は慌ただしかったせいですっかり準備が遅れていた。
 モミの木の注文も忘れていたのだが、馴染みの園芸店はきちんと確保してくれていた。昨夜、『いつ持って行きましょうか?』と電話がかかってきて、飾り忘れていると思い出せたのだ。人間、抜けているときは本当に抜け落ちてしまうらしい。ちょうど隣で夕飯を作っていた月久に『やれやれ』と呆れられたのはすこし堪えたが、まだ間に合う。
 二階から降ろしてきたオーナメントはひとまず机の上に並べた。祖父母が長年かけて集めてきたもので、月久が絵付けしたものも多い。褪せた様子のないきらめきには感嘆の息がこぼれる。カフェ・ユーリカのクリスマスツリーを飾りつけるのは、子どものときから好きだった。
 それから、『ひとあし早いクリスマスプレゼントということで』と、園芸店の店主が一緒に届けてくれたヤドリギのリース。初夏の頃、何気なしに『クリスマスにヤドリギを飾るのもいいですね』とこぼした一言を覚えていてくれたのだろう。
 わずかに黄みのある緑の葉と枝には厚みがあり、鈴のような黄色い実が散っている。土台に接着してあるので、無闇に散らばるようなこともなく、クリスマスは問題なく越せるとのことだった。
 金のリボンを長めに切って、小ぶりなオーナメントをひとつ選ぶ。リースと組み合わせれば華やいだ雰囲気になるだろう。飾るならやはり玄関先。いちばんに出迎えてくれる場所にあるのがいい。そもそもリースとは歓迎の意味を込めて飾るものだ。
 からんっ、とドアベルが澄んだ空に軽やかな音色を響かせる。
 いつも『Open』の看板を下げているところに一緒に吊り下げようかと扉にそっとあてがってみる。ステンドグラスを避けると、少し下にはなるが、リボンを短く結べばそう気にならないはずだ。
「あっ」
 しゃがんだ拍子にオーナメントが腕からこぼれ落ちた。
 カンッ! と音を立てたオーナメントが勢いつけて道へと転がっていく。さらにはタイミング悪く吹いた風に押されていった。コロコロと転がっていく小さな球体を呆然と見送って、不意に正気に返る。
 ぼんやりと見ている場合ではない。リースをクチナシの低木の上にのせ、リボンが飛ばないように枝葉に絡めてから行方を追う。
 見ればもう十字路にまで差し掛かっていた。随分と転がったが、この道には目に見えない傾斜があるのかもしれない。
 今まさに十字路を越えようとするオーナメントのもとに小走りで向かい――月子が辿り着く前に、別の手がそれを拾いあげた。
 オーナメントを追った視線を上にあげ、お礼を言おうとして、
「……月子さん」
 ぱちり、と瞬きをしても視界に変化はなかった。
「迅くん?」
 やっとそれだけ絞り出す。見慣れた青いアウターはこの寒さでも前を閉じず、風になびいては膨らんでいた。
「こんにちは」
 わずかに困ったような声が応えた。あれだけ会いたいと思ったはずなのに、こうも呆気なく、不意に顔を合わせてしまうと、現実を飲み込むのにも時間がかかる。
 やわらかそうな陽だまり色の髪。落ち着いた青の瞳、笑みの浮かんだ顔。すこし見上げる背の高さ。小さなオーナメントを手に、ぽつりと佇んでいる。
 ――迷子みたい。
 なにもかもいつもと同じはずなのに、なぜかそう思った。つい、と迅の瞳が別の場所を見つめる。いや、月子から視線を外したのだろうか。お久しぶりですとか、元気でしたかとか、音になる前に言葉が崩れていく。
 ――引き止めなければ。
 そう思ったのはほとんど衝動にも近い。
 いま、ここで、この人をつなぎとめなければ、きっと後悔する。
「……迅くん、――珈琲を、飲んでいきませんか?」
 口をついたのは、結局、月子が迅にできる唯一のものだった。祈るような気持ちで返事を待つ。
 しばらくして「うん」と、小さな声が応えた。

 ヤドリギのリースと金のリボン、それから迅が拾ってくれたオーナメントを手に店内へ戻れば、モミの木に気付いた迅が「クリスマスの準備?」と問いかける。やはりいつも通りの声色だ。
「そうです。暖房を入れておいてよかった。寒くないですか?」
「大丈夫」
 定休日なのでテーブル席の椅子はあげているが、カウンターはそのままだ。特等席に座るように促した。月子はカウンターに回り込んで、グラスに冷水を注ぐ。ありがとうと受け取って、ちびりと口をつけた迅を観察する。
「眠れてますか?」
 目にくまが、というわけではなかった。それどころか瞳の充血もなかったし、浮かんだ笑みにだって不自然さはない――けれど。元気がないですね、というのはあまりにも直截すぎて。
「昨日はよく寝たよ、寝すぎてまだ眠気飛んでないくらい。……だから、月子さんの淹れたコーヒー、飲みたい」
 笑顔で言われては反論も難しい。どこか釈然としない感覚はあったが、これ以上なにか言うのはやめることにした。今の迅には、何を言っても響かないような――優しく躱されてしまうような、そんな感じがした。避けられているのかも、という予想が途端に現実味を帯びる。でも――せっかく会えたのに、後悔はしたくないから。
「かしこまりました」
 笑みとともに告げて作業に取り掛かる。まずはお湯を沸かす。珈琲豆を選び、電動ミルで砕く。戸棚に仕舞っていたコーヒーサーバーとドリッパーを出した。ドリッパーは深い青が美しい陶器製を。コーヒーカップではなく、ドリッパーと同じ色のマグカップをふたつ選んで作業台に並べた。
 迅は、珍しく黙ったまま月子の指先を見つめている。
 だから、月子も何も言わなかった。
 ペーパーフィルターをセットして、粉を平らに均す。一人分にはやや多い量だ。お湯が沸いたらまずマグを温めるために使い、そのあとドリップにとりかかる。
 まずはお湯をほんの少しだけ注いだ。むくりと粉がふくらむのを見つめる。数十秒待つ、このひとときがいちばん大切だ。ふっくらとした粉を台無しにしないよう、細く長くお湯を垂らす。ゆっくりと落ちていく褐色とともに珈琲の香りが広がる。濃くはいるように湯の量は控えめに。
 まだお湯が残っているうちにドリッパーを外し、マグのお湯も捨てた。ピッチャーにミルクを注ぎ、スチームミルクをつくる。ふわふわとしてきたら砂糖も加えて混ぜ、マグの片方だけに注ぐ。
 ティースプンで珈琲をすくう。ひとすくいぶんをスチームミルクのなかにぽたりと落とせば、珈琲がしみのようにうすく広がった。
 ――完成だ。迅の前にマグカップをことりと置く。
「どうぞ」
「待って。ほとんどミルクじゃなかった?」
「そうですよ」
 にこりと微笑んで、サーバーに残っていた珈琲を自分用に出したマグへ注ぐ。すかさず、こくりと一口飲み込んだ。味が崩れるほどではないが、濃く、苦い。思わず少しだけ眉が寄る。
 ぽかん、と自分を見上げる迅の顔にようやく胸を撫でおろした。あのいつもと変わらない笑みは、今はなんだか、心臓がぎゅっと握りつぶされる。
「コーヒーをいれてくれるんじゃ……」
「歴とした珈琲ですよ? カフェ・ラグリマというアルゼンチンのカフェメニューです」
「……そんなに寝てなさそうに見える?」
 戸惑いの混じる笑みにどう答えたものだろう。確かに、月子は今の迅に目が冴えるような珈琲はかえって毒なのではないかと思ってこうしたのだけど、素直にそれを言っていいのかはわからない。踏み込んで、いいのかは。
「……先日、珈琲に飲み慣れていないお客様がいらして」
 ほんの数日前に訪れた空閑を思い浮かべる。このメニューは彼用に勉強したものだから、嘘にはならないはずだ。
「そのお客様が飲めるような珈琲を用意すると約束しまして、迅くんの意見がもらえたらなぁと」
「ああ、そういうこと」
 頷いた迅がいつもの笑みを浮かべてマグカップに口づける。ひとくち飲みこみ、そっと吐息をこぼした。
 ふわりと甘く、なめらかなミルクに珈琲がかすかに混じる。カフェ・ラグリマは、ゆっくりと心を解くようなやさしい味わいだ。
「……思ったよりもコーヒーの味がしておいしい」
「よかった。カフェ・ラグリマは少ししか珈琲を混ぜないので、濃いめに淹れるんです。名前の由来でもあるんですよ」
「ラグリマが『少し』って意味?」
「いえ、『涙』です。涙のようにほんの少し加えるから〝カフェ・ラグリマ〟」
 二口目を飲み込んだ迅は、何かに迷うように視線を漂わせた。開きかけた口が紡ぐ言葉を待っていると、ようやく視線が絡む。
 静かな空間は、跳ねる心臓の音も、わずかな衣擦れの音も、すべて聴こえそうな気がする。
 何秒待ったのかはわからない。迅が、そっと口を開いた。
「…………ごめん」
 ぽつり、と落ちたのは謝罪の言葉だった。
「……どうして、謝るんですか?」
 その声があまりにも弱々しかったから、なるべくやさしく訊ねる。迅はふたたび視線を外し、手元のマグカップを見つめた。
「……危険な目に遭わせた、から」
「迅くんのせいだと思ってませんよ。それに迅くんがいなかったら、常連の方も今よりもっと少なくて……あのタイミングで二宮さんと加古さんはここにいてくれなかったんじゃないかなって、思うんです」
「うん。……だから、ごめん」
 謝られる理由がわからない。迅が、どうしてそこまで苦い声で告げるのか、月子にはひとつも心当たりがない。だって彼はいつも守ってくれている。月子の世界を、この街を。なのに。
 俯いた迅はいつもの余裕が薄れ、年相応に幼くも思える。月子が年上だから余計にそう思うのだろう。
 マグカップから漂う湯気を見つめる迅は動かない。伏せた顔がどんな表情をしているのかも、わからない。見せてはくれないのだ、と思った。
 ――なにか、彼にできることは。
 湧き立つ衝動と同時に、歯痒さを感じている。できることなんてないと知っているから。自分の無力さが恨めしい。
 でも、視界に映るつむじを見つめたとき、ひとつだけ、思い当たった。できること。それをしようと浮かせた指先が、けれど震える。
(……嫌、がられたら……)
 伸ばそうとした指を押しとどめたのは自分の声だ。拒絶されたらどうしようと、恐れる気持ちがある。どう思われるだろう。今より嫌われてしまったら、どうしよう。
(……、でも。それでも――もう、いやだ)
 何もできないことが、いちばん堪えるのだと身を以て知っている。心のままに踏み出した。
 手を伸ばし、髪をそっと梳く。
 驚いたのか、跳ねた肩に一瞬だけ指を離したけれど、すぐに戻す。指のはらをかすめていくかすかな重み。陽だまりのようなブラウンの髪は、月子の飴色の髪と似ているが、すこし異なる手触りがある。不思議だった。彼の髪を撫でているという事実すらも。
「……月子さん?」
 髪を梳く動きは我ながらぎこちない。戸惑いがそのまま伝播するように、迅が月子を呼ぶ。迷子の子どもみたいな、頼りなく、震えるような声で。
 どうして髪を撫でたいと思ったのか、記憶の奥に訊ねる。幼い頃、月子はこうして髪を撫でられるのが好きだった。母の膝に座って髪を結ってもらうのも。好きだったのだと、思う。祖父の大きな手が上から降りてくるのも。
 ただ、ただ、愛の降りそそぐ指先がうれしくて――

「……ゆるします」
 ここに居ていいのだと、そう告げる指先が、きっと好きだった。
 だれかに許してもらえないと、どこにもいられないと思っていたから。
「なにに対して謝っているのかはわかりませんが、私があなたを許したいので、許しました」
 するりと指先に絡めた髪は、陽だまり色。少しずつ滑らかに動きはじめる指。いつまでもこうしていたいと思うような、やわらかな髪を手放せない。離れたくないと思う浅ましさと醜さが、これは月子の厭う感情に相違ないのだと告げる。
 この先に行き着くものを知っていても――それでも、胸に抱いたこの気持ちを、どうしたって消せないのだ。それほどまでにこの感情は、やっぱり、身勝手だから。
「迅くんが、……元気じゃないのは、とても、悲しいです」
「そんな元気なさそうに、見える?」
 顔を伏せたまま迅が囁く。
「見えます」
 そっと返して、ことさらやさしく髪を梳いた。
「休憩は大事、ですよ。……できれば――」
 声が、震える。
「ここで、休んでほしいです」
 情けないほど頼りなく響いた声に、泣きたいような笑いたいような気持ちになる。これは、身勝手な感情だ。指先までもがこわごわと震えそうだ。返事がないのをいいことに、臆病な心は保身の言葉を紡ぐ。
「ほんとうは、迅くんが休める場所ならどこでも、と言うべきですが、」
 ――きっと、彼が休める場所は、ちゃんとあるのだろうけれど。月子がいなくても彼の人生は成り立つのだろう、けれど。
「……頼って、ほしいんです」
 ただ彼のしあわせを願える気持ちだったらよかった。見返りのひとつもなく、献身することのできる想いだったら。でも、ちがう。だって月子は、迅と同じ世界にいたい。月子の世界に彼がいるだけでは足りない。彼の世界に、いたい。
 線を引かれるのはいやだ。ちがう世界の人間だと諦めることができない。月子は迅がすきで――たぶん、すきに、なってほしい。
 自分のその気持ちを、ちっとも誇れはしないけれど。誰よりも月子自身が、その気持ちを疑いたくもなるけれど。それでも、そう思ってしまった。何かに傷ついている目の前のひとを、叶うならば抱きしめて、もうなにもこわいことはないのだと、そう告げてやりたかった。だいじょうぶだよ、なんて、なんの保証もできないのに。
 迅はしばらく何も言わなかった。月子の指を払うこともなく、おとなしく撫でられている。顔は伏せたままだ。
 ふれているのに、どうしても遠い。ふれればふれるほど、これは本当に自分が手を出してよいものなのかと、そんな疑問が生まれて、けれどすぐに熱に埋もれてしまう。自戒すらもできない熱がこもって、心臓まで痺れるようだった。

「……月子、さんは、」
 どれくらい彼の髪を撫でていただろう。動く気配を察して、そっと手を引く。顔をあげてはくれたものの、目元を覆う手のせいで表情は相変わらず読めない。大人びた、男性の、手だった。口元だけを見れば笑っているようにも見える。
「ときどき、すごく、おれを甘やかすよね」
「……そうしたくなるときが、あるんです」
「そっか……――ごめんね、月子さん」
「謝ったってだめですよ。もう許しちゃいましたから」
 見えていないかも知れないけれど、意識して笑みを浮かべる。なんとも思っていないような、当たり前の顔を。
 そっと、手が外された。青い瞳が再び月子を捉えて、ちいさく微笑む。
「……ありがとう」
 言葉も笑みも柔らかいはずなのに、なにか、どうしようもなく――泣いているように見えた。

   *


 腰にいつもの重みがない。
 早朝に目が冴えて、まず思った。ぎしりとスプリングを軋ませながら上体を起こす。静かにトリガーを起動すれば、眠気はすぐにどこかへ消えた。つくづく便利な身体と笑いながら、欠伸のひとつもなく床に足をつける。枕元で充電していた端末を無造作にポケットに入れ、廊下に出る。底に溜まっていた凍てついた空気を掻き乱しながら歩いても、寒さに震えることもない。
 リビングは無人だった。新人たちは帰ったらしい。宇佐美に小南、烏丸もだろう。陽太郎は就寝中で、木崎はランニングだろうか。二階からかすかに聞こえる物音は林藤に違いない。残業したな、と思う。
 もうすぐ学生は冬休みだし、皆が入り浸りになるのは見なくてもわかっていた。空閑遊真は玉狛に住むことになるだろう。荷物の移動に備えて、木崎あたりに声をかけておいたほうがいいかもしれない。彼がどれだけの物を所有しているかにもよるが。
 柔らかなソファーに沈むように座り、プライベート用のスマートフォンを見つめた。もう何度も見返しているメッセージ。返信も、消すこともできず、見つめるだけの言葉。彼女の言葉は、いつだってやさしい。やさしいとわかる――たとえ面と向かって言われたものではなくとも。
 一言も書かれてはいないが、心配させているのだろう。
 きゅう、と心臓のあたりが痛んで、苦く笑った。このからだのどこに心があるというのだろう。起動するトリガーは変わったが、トリオン体のつくりは変わらない。
 なのに、胸の奥に、ぽかりと隙間がある。そこになにか冷たいものが入り込んで、空白感がやわく胸を圧す。
 これは『風刃』を手放したことへの感傷だけではない。きっと。だってあれは、未来のために必要な行動だったから。前から心構えをしていたことだから。だから、この空白は――彼女がつくったものだ。彼女が、今まで埋めていてくれたものだ。
 ぼすりとクッションに背を預ける。冷えた感覚だけが返ってきて、そっと目を伏せた。なにか、あたたかいものが飲みたい。

「おーう、迅。出かけるのか」
 ちょうど、玄関の扉に手をかけたところだった。階段の上。林藤が煙草をふかしながら手を振った。
「夜までには帰るよ」
 静かな支部は声を張らなくてもいい。「なんだそりゃ」煙草をくわえながらよく喋れるなといつも思う。
「まだ朝だろ」
 呆れたような声が耳に痛い。けれど、いつものことでもある。林藤も特に引き止めたいわけではないらしく「ま、いってらっしゃい」とだけ言って部屋へ引っ込んだ。
「いってきます」
 背中に声をかける。林藤がいつも通りの顔をしてくれていることに、心の中で小さくお礼を告げた。油断すると、手は腰にあるはずのトリガーへ手を伸ばそうとする。

 あてどなく街を歩いていたはずだった。
 少し前から見えるようになった未来――およそ歓迎したくない事態は、日に日に明瞭となっていく。だからやっぱり、迅はあのひとに近寄るべきではない。何度も読んだメッセージを思い浮かべる。そう、関わるべきではないのだ。巻き込んでしまうのなら。守れないのなら。
 なのに、妙に軽い腰が調子を狂わせる。気がつけばあの場所に続く角の前に辿り着いていた。ちがうんだ、と誰へともなく呟く。
 ――引き返そう。それで、もう近寄らないでおこう。自分は別に、元々コーヒーを飲む人間でもないし、行かなくなるのは簡単なことだから。
 赤いボールのようなものが転がってきたのは、踵を返しかけたその時だ。
 深く考えず手を伸ばし、ふれたところで伸びた影に――息を呑む。
「……月子さん」
 笑みを取り繕えた自分を褒めてやりたかった。


 真っ白いミルクに、ほんのわずかだけ混じったコーヒーの味。すっかり冷めたそれに口をつけながら、クリスマスツリーを飾り始めた月子を見る。
 迅の頭をひとしきり撫でたあと、彼女は照れたように淡く頬を染め、そのまなざしに一抹の後悔に似た何かを滲ませつつも、迅に『ごゆっくりどうぞ』と微笑んだ。そして迅から逃げるように、モミの木の前に立った。
 まるで迅のことがとても大切みたいにふれてくれた指先、その感触がまだ残っている。ゆるします、と告げた彼女の声はあまりにもやさしく、甘やかに、こころの空白を埋めてくれた。
 それは心臓が痛むほど愛しくて、でも、同じくらい、なぜだか不安で。
 ――そして、気付いてしまった。
 月子との未来は見えにくい。それは本当のこと。けれどもしかしたら、迅は彼女との未来を見ようとしていなかっただけかもしれない。
 たとえば、お客様だから。年下だから。弟みたいなものだから。そんなふうに、月子の言葉の端々から滲む『対象外』のしるしを拾い上げ、自分の言葉を本気にしていないことを知り、安堵してはいなかったか。
 よかった、今日も彼女はおれを好きじゃない、と。
 そう胸を撫で下ろしてはいなかったか。
 いま自分の想いを告げれば正しく伝わるとわかっていたのに、迅が何も言わなかったのは――それを望んでいないから、だ。
 迅は月子のことが好きだ。好きだ、と間違いなく言える。
 けれど、月子からそう思われることには、あまりにも無頓着だった。
(……だから、たぶん、)
 見たくなかったのは結ばれない未来ではなくて――月子が迅の大切なひとになって、迅が月子の大切なひとになる未来だ。
(…………月子さんのこと、ずるいとか、ぜんぜん言えないよな)
 それこそ神様みたいに、一方的に慈しんでいたかった。ただ好きな人にやさしくできることを楽しんでいた。月子との未来が望みではなかった。
 ほんとうに欲しかったのは、彼女が、迅と関わりのないところでだれか善良な人と結ばれて、すこしの胸の痛みに耐えながら『おめでとう、お幸せに』と笑ってみせるような――そういう、うつくしい終わりだ。
 これから、だれとも一緒にいなくてもよくなるような。それさえあれば、いいと思えるような。この街のどこかに彼女のしあわせがあるのだから、と、踏み止まる理由になれるような。きれいで、やさしい思い出が、ほしかった。

「迅くんは、飾ったことがありますか? クリスマスツリー」
 正面の飾り付けを終えた月子が振り返る。カウンターに座ったまま微笑んだ。
「……うん、あるよ。最近はないけど」
 玉狛支部にツリーは飾ってあっただろうか。陽太郎のために、誰かが飾るはずだが。まだだったら、新人たちに飾ってもらうのもいいかもしれない。
「そうなんですね。私は昔からツリーの飾りつけが好きで……ラテアートのことを魔法だと思っていた子どものころは、これも魔法で、たぶん、魔法を使えることがうれしかったんだと思います」
「月子さんらしいね」
 穏やかに微笑みを返しながら、心の中で、最悪だ、と吐き捨てた。
 彼女には、彼女の幸せだけ考えられるひとと一緒になってほしかった。それは迅にはできないと、そう思えるから。
 迅はきっと彼女を不幸にする。不幸にすることを、選ぶときだってある。だから身を引くのが正しい選択だ。彼女が大切ならばこそ。もっと早く、そうするべきだった。彼女が迅に、こころを向ける前に。迅がなんの気負いもなく離れられるうちに。
 出会うべきでもなかったのだと、今はわかる。
 彼女の笑みを見つめながら、たわむれのように愛を囁く日々はあまりにも幸福で――ずっと、そのことに気付けなかった。
 自分に嫌気がして、いっそ泣きたいくらいだ。そんなことも思ってみても、自分は涙のひとつもこぼさず、ただ笑えるのだと知っていた。


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