アインシュペンナー

「おぉ、月子。やっと降りてきたか。早速で悪いがココアをひとつと……わしにはアインシュペンナーを頼めるか?」
 店へと繋がる扉を開けた途端に響いた声に、月子はぱちりと瞳を瞬かせる。今日も頑張ろうと扉の前でいれた気合いがほわりと緩んだ。
 まだオープンには早い時間だ。店は空調がついているのかすっかり暖かく、淑やかな音楽が流れている。カウンターに座った月久がにこやかに月子を見つめていた。――その影から。ひょっこりと、白色が顔を出す。
「オハヨウゴザイマス」
 子どもの声帯特有の、少し高い声が響く。落ち着いた声色はどこか大人びているが、少年であることには違いない。
 開店前のカフェ・ユーリカ。その特等席に、見知らぬ少年が座っていた。
 えっと。声には出さず視線を月久に。正しく受け止めたらしい老爺は笑みを深める。
「散歩中に拾ったんだ」
「ひろわれました」
 朗らかな笑みがふたつ並ぶ。状況は全くわからないが、直感的に悟った。この二人、類友だ。

 目覚めたとき部屋に月久の姿はなかった。ダイニングテーブルにサンドイッチ、キッチンの小鍋には具沢山のスープが作ってあって、『散歩に行ってくる』と書置きが残されていた。寝起きのぼやけた視界でそれを読んだのが少し前のこと。
 朝食を食べ、身だしなみと整えていると階下から掃除機の音が届いた。月久が散歩から帰ってきて、珍しく準備を手伝ってくれているのだとは思ったが――まさか他に人がいるとは。
 真っ白な髪は見るからにふんわりとして羊を思わせた。いや、兎のようにも、ふわふわの冬毛を蓄えた鳥のようにも見える。赤い瞳はきんと澄んで、やわく細めるようにして笑んでいた。色彩のせいか、どこか浮世離れした雰囲気の少年だ。
「空閑くんだ。空閑遊真くん。帰国子女で最近こっちに越してきたらしい」
「ドウモ」
 軽い動作で椅子から降りた少年が、丁寧にも頭を下げて礼をする。「仰木月子です」つられるように頭を下げれば、「月子サン」と確認するような呟きがもれる。大人びた雰囲気やどこかぎこちない言葉は帰国子女であるためだろうか。
「店の準備も手伝ってくれてなぁ。終わらせといたぞ」
「それはありがとうございます……ええっと、なんて呼べばいいでしょう?」
「ユーマでいいよ」
「ありがとうございます、遊真くん」
 少し落ち着いてきた。カウンターの中へと歩みを進め、定位置についてざっと店を見渡す。月久の言葉通り、今すぐにでも店を開けられる状態になっている。まだ営業時間外には違いないが、せっかく祖父が招いたお客様だ。驚いた気持ちを吐息にとかせば、自然と笑みが浮かぶ。
「それで、ココアとアインシュペンナーですか?」
 グラスに水を注ぎながら問いかける。その間に空閑は特等席に座り直し、隣の月久は頷いた。「どうせならな」と微笑む。
「あいんしゅぺんなー……とは」
 空閑が顎に指をあててむむむと唸る。「いわゆるウィンナ・コーヒーさな」と月久が補足した。説明は譲ることにして、冷蔵庫から珈琲豆を取り出す。月久が気に入っている豆が残っていたので迷わず選んだ。エスプレッソを淹れるので豆は細かく挽けるようセットする。グラスを温める用にケトルでお湯も沸かしておく。
「ウインナー? コーヒー……とな?」
「ウィンナは『ウィーン風の』という意味で、ウィーンはオーストリアという国の首都だ」
「ほほう」
「よってウィンナ・コーヒーとは、ウィーン風の珈琲という意味になる」
 カウンターに子どもが座っている光景はすこし新鮮だ。親御さんに連れられて訪れることはあっても、小さな子どもがカウンターに座ることはほとんどない。それこそかつての月子ぐらいだ。
 懐かしく思いながらボウルに生クリームを注ぎ、砂糖をいれてハンドミキサーで泡立て始める。空閑が興味深そうに月子の手元を覗いていた。
「そしてウィーン風の珈琲とは、珈琲のうえにホイップクリームをトッピングしたもの……ということになっている」
 カフェ・ユーリカのココアにはホイップクリームをのせている。月久がアインシュペンナーをリクエストしたのは、どうせ生クリームを泡立てるならついでに、というわけだ。
「含みがありますな」
「別にウィーンの人たちはその飲み方しかせんわけではないし、他国も同時期に同じ飲み方をしていた記録があるからの」
「なるほど」
 初対面ながら空閑と月久は息が合っているように見える。訊いているだけで心地よいリズムの会話に癒されながら、もこもこと泡立っていくホイップクリームに微笑む。空閑の髪は羊よりもホイップクリームに近いかもしれない。つん、とゆるく角が立った様子が髪のハネを思わせる。
 泡立て終わったらボウルごと冷蔵庫にいれて、琺瑯の小鍋をコンロにのせる。まずはココアパウダーだけで弱火にかけ、香り立つよう軽く煎る。色がいちだん濃くなったら、砂糖と加えて軽く合わせる。砂糖が溶け出す前にミルクをほんのひとたらし加えた。
 焦げ付かないように小鍋を持ち上げて火から離しつつ、ゴムベラで丁寧に練っていく。なめらかな口当たりのために重要な工程だ。
「ただ、おそらく〝ウィンナ・コーヒー〟の元ネタになっただろうものはあり、そのひとつが〝アインシュペンナー〟だ。意味は『一頭立ての馬車』」
「なんでそんな名前なんだ?」
「馬車の御者がお客さんを待っているときに飲んでいたから、という説があるが、実際のところはわからんな」
「ふむふむ」
 パウダーがペースト状になってからも少しずつミルクを加え、とろりと液状になったら残りをすべて注いで、あとは縁に細かい泡ができるまで置いておく。
 ケトルのお湯も沸いたので、マグカップと耐熱ガラスのグラスに注いで温める。マグカップは八分目まで。グラスは浅く二分目までだ。ここまで済んだら、ようやくコーヒーミルから豆を取り出してエスプレッソマシンに充填していく。
「アインシュペンナーに限らず、オーストリアにはホイップクリームをのせた珈琲が多いのだよ。マリア・テレジアという女帝によって珈琲文化が根付いたのだが、まあ、クリームが好きだったんだろうなぁ」
「〝カフェ・マリア・テレジア〟という名前の飲み物もあるんですよ」
 口を挟むと、空閑は「ジョテイ……」と唸った。月久の説明は言葉が難しいのではと思ったが、空閑は理解しているらしい。ぱっと表情を戻して頷く。
「ブンカはイセイシャに左右されるということですな」
「その通り」
 見た目に似合わない大人びた発言に月子は驚いたが、月久は機嫌よく頷くだけだった。最近の子は難しい言葉を知っているんだなと感心する。
 グラスのお湯を捨て、乾拭きしてからエスプレッソマシンにセットし、抽出をはじめる。たらりと落ちていくエスプレッソは、初めは濃く、徐々にクレマのキャラメル色が現れる。耐熱ガラスの器なので、泡立ったクレマとエスプレッソの色の違いがよくわかる。地層を思わせる、明度の異なるブラウンの層だ。ここにさらに、降り積もった雪のようなホイップクリームが加わるわけである。
「それに、オーストリアにとって珈琲は外から入ってきた新しい文化だったからのう。型にとらわれないレシピが生まれると同時に、それが『型』として広まったのだろうな」
「うーむ……コーヒーとはそんなにうまいものなのか……」
「そうさなぁ……オーストリアにとっては、如何にして珈琲文化が入ってきたかという部分も大きかったのかもしれん」
「ほう?」
 ココアを火からおろし、温めたマグカップに移す。冷蔵庫からホイップクリームを取り出し、ゴムベラですくい、ココアの上にのせる。しゅわ、と熱によって周りが溶け始めるが、気にせずもうひとすくいのせておいた。こっくりと深いココアに生クリームの冷たさと軽さがよく合う。
「遊真くん。どうぞ、ココアです」
 ちょうど話の切れ間なのは月久が会話を調整してくれたからだろう。流石だ、と思いながら空閑の前にココアの入ったマグカップとスプーンを置く。
「アリガトウゴザイマス」
 ぺこり、と椅子に座ったまま空閑が頭を下げた。律儀な子だな、と笑みがもれる。
 次いで、月久のためにアインシュペンナーを用意する。エスプレッソの抽出は終えたので、あとは同じ量のホイップクリームをトッピングするだけだが――祖父の健康を考えて、やや少なめにしておく。
「それからアインシュペンナーも出来上がりました」
「ありがとう」
 とん、とカウンターに置かれたグラスは美しい層をなしている。エスプレッソの黒に近い褐色に、薄く中央にはいったキャラメル色のクレマ。上には純白のホイップクリーム。これにもスプーンを添えると、月久は顔をほころばせた。
「あまくてうまい」
 囁いたのは先にココアを飲んでいた空閑だ。満足げな笑みに月子のほうもほんわりとした気持ちになる。「おいしいよ」と、月久からも感想がかかった。空閑はその言葉に月久の方をじっと見てから、ふむ、とつぶやく。
「ひとくちもらってもいいか?」
「勿論」
 ことり、と月久が空閑の前にグラスを置きなおす。躊躇なくグラスに口付け傾けた空閑は、一拍おいたのちに顔をぎゅっとしかめた。
「にがい」
 すぐにグラスを置いた空閑にはホイップクリームの白い髭ができている。月久の自前の髭とお揃いだ。ふたりが並んでいることもあって、申し訳ないことに笑みを抑えきれなかった。月久も同じらしい。
「ほっほっほっ! エスプレッソだからなぁ。口直しするといい」
 とん、と自分の髭を指で示しながら言う。む、と声を漏らした空閑がぺろりとホイップクリームをなめとった。
「これがなぜ人気に……?」
「さっきの話の続きになるが、それはオーストリアにとって珈琲が戦利品だから、という見方もできる」
「戦利品? 戦争の?」
 すっ、と。空閑の纏う気配が鋭くなった気がした。片付けを始めていた手を思わず止めるが、月久に視線で制される。気にしなかったことにして再び手を動かした。
「そう――包囲され、敗戦が濃厚だった戦争での逆転勝利。そうして手に入れた、敵国が有していた文化。わしはその時代にも土地にもゆかりはないが想像はできる。そこには熱狂があっただろうとも。勝利は美酒より酔えるし、他国の文化を奪えば、勝利の味は濃くなる」
「……なるほど」
「だが、そうでなくとも珈琲ははるか昔から人を魅了してきたのだよ」
「そうなのか」
「まあ、最初から受け入れられていたわけではないが」
 にこりと月久が笑う。ふたりの周りには緩んだ空気が戻っていた。
「珈琲はもともと、世界のごく狭い範囲の文化でのう。ヨーロッパでは悪魔の飲み物とされた時代もあったが、その味と香りで人々を魅了し、各地で独自の進化を遂げ、文化交流をも促した。ほれ、アインシュペンナーがウィンナ・コーヒーとして他国に現れているようにの? 思想や信仰を揃えることは難しいが、文化は融け合えるだけの柔軟さをもつのだよ」
「……考えさせられますな」
 腕を組んで、こくりと大きく頷く。話をわかっていないようにも見える仕草だが、彼はすべてを理解している気がした。どうしてそう思うのかはわからない。ただ、幼い見た目のままの思考ではないのだと感じさせるものがある。不思議な少年であることには間違いなかった。

 月久に電話が入り、彼が二階に引き上げたのちも、空閑は特等席に座っていた。このあと人と会う約束があり、待ち合わせまで少々時間があるのだという。
「どこかに遊びに行くんですか?」
「うーん……オサムが会わせたいやつがいるって言っててな」
 『オサム』は友達の名前らしい。『いいやつだぞ』とは空閑の言葉だった。それがいい表情だったので、月子は密かに和んでいた。
「まだ時間は大丈夫ですか?」
「たぶん」
 カフェ・ユーリカも開店時間を迎えている。まだ土地勘もないだろうから、帰りは道を教える必要がありそうだ。月久を呼んで送ってもらうのもいいかもしれない。空閑を連れてくるくらい気に入っているようだし、文句はないだろう。
「待ち合わせはどこなんです?」
「川の大きい橋のとこ」
「大きい橋ですか」
 ざっくりした指定だが、子どもの頃はそんなものだったろうか。大きい橋、というと思い当たるのはいくつかあるが、どれも少し遠い。歩くと時間がかかりそうだ。
「ここまでは歩いてきました? それとも自転車?」
「歩き。ジテンシャって?」
 そういえば帰国子女という話だった。「自転車はバイクのことで……」と言ってみても反応が鈍い。英語圏の国ではなかったのかもしれない。
「ええっと、街で見ませんでした? 車輪がふたつあって、こう、足で漕いで進む……」
「見た。あれのことか」
 手で輪っかを作って並べたりしていたら通じたらしい。小さな達成感に笑みを浮かべ「それです」と頷く。このぶんだと持ってはいないのだろう。
「乗れると便利ですよ。三門は電車やバスが少ない地域もありますし」
「ほほう。どこで手にはいる?」
「自転車屋さんがいくつか……あとで祖父に案内させますね」
「それはたすかる。おねがいします」
 ぺこり、と空閑が頭をさげる。お礼を言うときにきちんとお辞儀をするところは妙に日本らしくて不思議だ。
 ――エプロンのポケットに入れていたスマートフォンが震えたのは、ちょうどそのときだった。自分でもびっくりするような速さで端末を取り出し、画面を確認する。メール。差出人は、彼ではない。がっかりとした気持ちと、お客様の前ですることではなかったという反省が一度に襲ってきて、すごすごとポケットに戻す。
 顔をあげると空閑の赤い瞳と目があった。
「その、話していたときにごめんなさい。……人からの連絡を待っていて」
「気にしてない。ので、お気になさらず」
「ありがとうございます」
 恥ずかしくてすこし頰が熱くなる。空閑はによりと笑った。
「また来てもいいか?」
「はい、もちろんです。祖父はいない時のほうが多いですが……」
 はじめて迅と会ったときのことを思い出した。『また来てもいい?』と訊かれて、内心飛び上がるほどうれしかったときのこと。とても昔のことのようだけど、まだ彼と出会って二年も経っていないのだ。交わした言葉のひとつひとつはあまりにも色濃く、大切で、そんな気はしないのだけれど。
「次は飲めるといいな、コーヒー」
「遊真くんが飲めそうなもの、用意しておきますね」
 にこりと笑みを浮かべると、空閑はじっと月子を見つめ、それから「たのしみだ」と笑った。


 からんっ、と軽やかなドアベルの音色が響いたのは、閉店も間際の夕方。誰もいない時間帯。期待に心臓が跳ねたが、出入り口に立っているのは近所に住む婦人だった。前に柚子を分けてくれた方で、カフェもよく利用してくれる。今回もおすそ分けらしく、ビニール袋にいっぱいの蜜柑を詰めて持って来てくれた。
 小ぶりな蜜柑は、帯島さんという知り合いの農家さんでつくられたものらしい。スーパーにも並んでいる地元の農家さんで、甘くておいしいと評判だ。笑顔でお礼を言って受け取った。
 再びドアベルが鳴り、カフェ・ユーリカの中にひとり残される。
 今日も、迅は来なかった。
 会いたいのなら、会いにいくことも、できないことはない。そのことには気付いていたけれど、会いに行こうと行動することはできなかった。だって月子だけが会いたくて、向こうが会いたくないなんてことだったら、あまりにも申し訳ないし――かなしいから。臆病者で、怠け者で、嫌気が差す。でも。
(……できることを、しよう)
 自分の性格では会いに行くことはできない。だったら、会いに来てくれるかどうかはわからないけれど、その時が来たときに後悔しないよう、できることを頑張ろうと思う。
 できること。この店で珈琲を淹れること。迅が、『また来てもいい?』と訊いてくれたあのときのように、空腹や渇きを癒すこと。おなかも、こころも、満たせるように。
 それはたしかに、月子が迅にしたいことだった。この胸にある気持ちが、きっと、余計にそう思わせる。
 せっかく月久がいてくれるのだから、今のうちにもっと勉強しよう。ぐっと気合いをいれて、月子はクローズの作業に取り掛かった。


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