エッグノッグ

《今日、行ってもいいかな》
 唐沢からメールが届いていることに気付いたのは常連客を見送った十八時のことだった。受信したのは一時間ほど前になる。いつもと同じ簡単な挨拶と、簡潔に用件を伝える本文。それから、文末には閉店時間を過ぎるかもしれないから断っても大丈夫だと添えられていた。
 特に予定はない。何よりもただ単純に、会いたかった。月子は返信が遅れたことを詫びる文章を打ってから《店でお待ちしていますね》と了承の旨を伝えた。

 からんっ――と軽やかな音色が紺青の空に響いた。ひゅるりとつめたい風が顔の横を通り抜ける。クローズ作業はほとんど終えて、あとは表の看板を仕舞うだけだった。背筋を伝う冷気を感じながら、月子は風に誘われるように空を見上げる。
 星が瞬いていた。肉眼では見える星も乏しいが、三門市は街中のわりによく見える方だ。月子が学生のころは、こうではなかった。この星空は第一次近界民侵攻の名残だ。ボーダー本部の周辺、いまや瓦礫と廃墟が並ぶ光の灯らない地区があるからこそ、星は煌々と輝く。
 ここ数日のことをぼんやりと思い出す。月子がこの場所で見た白い影ははじまりでしかなかったらしい。三門市の各地で黒い穴が穿たれて、ついには市街地が襲われた。死者は二十ともそれ以上とも言われ、重軽傷者は百人を超えたらしい。月子の生活圏内ではなかったものの――その衝撃は大きい。
 ボーダーの発表によると、異常事態を引き起こしていた原因はすでに掃討された。それが昨日のことだ。節足動物のような白い小さなモノを、カフェ・ユーリカの常連客も道すがら見つけてボーダーに通報したという。掃討作業で忙しかったのか、常連のボーダーの隊員たちはまだ一人も来店していない。
 特別警戒は解除され、街は日常を取り戻し始めている。被害を受けた建物は煤さえも残ったままだし、当然のことながら死者は生き返らず、傷は癒えていない。それでも、月子のように被害を受けなかった人間は『よかった』と言えてしまうような日常が戻りつつある。
 ――よかった、なんて、だめか。
 営業中にこぼした月子に答えたのは、いつもカウンターの端に座る常連客だ。気難しい老齢の男性で、店を訪れると黙って定位置に座り、新聞を開いて読み始める。彼に淹れる珈琲は月子が生まれる前から決まっているので、注文も会話もなく珈琲を淹れるのが常だ。話しかけられるのは珍しく、だからこそ印象に残っている。
 ――すこしも、これっぽちも、駄目ではない。
 彼はそう言った。そして『よかった』と呟いたきり新聞に視線を戻し、それ以上の会話はなかった。
 いつもと同じく素っ気ない態度だった。けれど知っている。今日は本来なら彼が訪れる日ではないのだ。祖父の代から続く常連客たちはお互いのタイミングを熟知していて、普段はあまり重ならないようにしてくれている。それが、そんなことお構いなしに訪れてくれた。彼だけでなく他の常連客もそうだ。自惚れでなければ月子を心配して。
 だから、やっぱり、『よかった』のだろう。少なくとも月子とカフェ・ユーリカが無事でよかったと言ってくれる人はいて、彼らを悲しませずに済んだ。
 ひゅるり、と背筋から忍び寄る寒気に身を震わせた。月子は看板を手にとって、店の中へと運ぶ。扉を開けたままにしていたせいで、入り口のあたりは少し寒い。
 扉の横も、フロアの灯りも、必要なぶんを残して消してもよかったけれど、点けたままにしておいた。暗がりにいるのはいつもよりほんの少し、心細かった。フロアの隅に看板を置いて、カウンターの中に戻る。
 作業台に置いていたスマートフォンを確認すると唐沢からのメールが届いていた。《もう少しかかるから、先に夕飯を食べていてほしい》とある。唐沢さんのぶんも作っておきましょうか、と申し出る前に、読み進めた先には《俺のぶんは用意しなくてもいいからね》と書いてあった。思考を読まれている。思考を読む唐沢も、読まれる自分もなぜだかおもしろくて、それでやっと頰が緩んだ。


 ドアベルが鳴ったのは二十一時を越えようかという時間だった。扉が開く。素早く読んでいた本を閉じて椅子から立ち上がり、カウンターの中から出迎える。
「こんばんは、唐沢さん」
 目が合うと、いつもと同じ微笑みが返される。それでもわずかに崩れた前髪からは疲れが滲んでいた。
「こんばんは。悪いね、遅くなって」
「いいえ。お疲れさまです」
「ありがとう」
 しゅるり、と首にゆるく巻いていたストールを外しながら唐沢が足を進める。カツコツ、と革靴がいい音を響かせた。丈の長いトレンチコートが俳優のように似合う。
「なにか、飲まれますか?」
「いいのかい」
「そのつもりで準備していましたよ。珈琲にしますか?」
「いや……」
 珍しく表情が歪んだ。言葉にはしなかったが、珈琲は飲み飽きているのだろう。ここ数日の出来事と彼の性格を思えば、睡眠時間を削って対応せざるを得なかったはずだ。眠気覚ましとしてカフェインを頼り、珈琲や栄養ドリンクを飽きるほど飲んだに違いない。
「……リクエストしてもいいなら」
「なんでもどうぞ」
「頼もしい。それじゃあエッグノッグを。作れる?」
「お任せください」
 頷いて、月子は棚から取り出した琺瑯の小鍋をコンロの上に置いた。

 エッグノッグは主に北米で親しまれる、その名の通り卵を使うドリンクである。材料は牛乳と生クリーム、砂糖に卵、スパイスとお酒を少々。西洋の卵酒とも言うべき立ち位置だ。アルコールは熱でほとんど飛ぶので、酔ってしまうほどではない。
「前職のときは十二月にアメリカで過ごすことが多くてね」
 こん、と平らな面で卵にひびをいれながら、唐沢の言葉に耳を傾ける。ボウルのなかに卵黄だけを割り入れて、小さな泡立て器で優しくほぐす。
「よく泊まっていた宿の角を曲がったところに、おいしい店があって。偏屈なおばあさんが一人でやってるタバコ屋なんだけど、冬はなぜかエッグノッグを売ってるんだ」
「唐沢さんが甘いものを選ぶの、すこし珍しいですよね」
 懐かしむような声はやわらかく、月子は穏やかな気持ちになりながら手を動かした。牛乳と砂糖を加えて、撹拌を続ける。
「勝手に出てくるんだよ。なにせタバコの本数がちょっと少なかったり、釣り銭が足りなかったりする店だから」
「それは……犯罪なのでは」
「うん。まあでも、俺はそれに納得していたから、罪には問えないだろう」
 くく、と喉で笑ってみせる唐沢に首を傾げる。商売でいちばん大切なのは信頼だ。一年で辞めてしまった会社の上司からも、月久からも、同じことを言われた。
「最初に行ったときはひどい店だと思ったけど、次に行ったとき、その人は俺のことを覚えていたから。一年も間が空いたのに、ね。想像してごらん。見知らぬ異国の地で、たった一度話しただけの自分を覚えてくれている人がいたら――案外、嬉しいだろう?」
「そう、ですね。はい……うれしいと思います」
「だからアメリカで過ごすたびに行ってたのさ。口の悪い偏屈な人だったけど、エッグノッグはすごく優しい味がしたな」
 茶こしで漉しながら卵液を琺瑯の鍋に注ぐ。唐沢の語る、タバコ屋さんのエッグノッグには敵いそうにないなと思ったけれど、月子は月子の味で作るしかない。いや、つくりたい。目の前にいる、月子のヒーローのひとりに――感謝を伝えたい。
「難しい顔をして、どうかした? 他に行きつけをつくっていたことが気に入らない?」
 いたずらめいた笑みと声が投げかけられて、コンロに火を灯しながら否定する。鍋に火をあてながらも手は休めず、ゆっくりと泡立て器で混ぜ続ける。シリコン製だから鍋肌も傷つけない。ゆらりと鍋の中身が揺れ始めたら生クリームを加える。
「ちがいますよ。……唐沢さん、タバコを吸っていたんだなぁと」
「あぁ。まあ、ね」
「知りませんでした」
「そりゃあ、営業ですから。匂いを消すのも嗜みでね」
 にやり、と唐沢が笑った。彼からタバコのにおいが香ったことは、月子の知る限りない。カフェ・ユーリカが禁煙なのもあるだろう。
「でも、その店がエッグノッグを売ってくれてたのはよかった。タバコを買わなくても毎日行く口実になったから」
「お気に入りの店だったんですね」
「この店の次に」
 ウインクとともに贈られた言葉にそっとくちびるが緩む。「光栄です」と、唐沢が常連になったのは月久が店主だったときで、月子の手柄ではないけれど、うれしくてそう返していた。
 琺瑯の小鍋の中は、すこしとろみがついてきた。ゆっくりと動かすと、水面に線が現れてゆるりと消える。いい頃合いだ。ラム酒を加えて混ぜ、温めておいた耐熱ガラスのグラスに注ぐ。上からナツメグを振りかければ完成だった。
「エッグノッグ、お待たせいたしました」
 唐沢の前に給仕すれば、「ありがとう」とやわらかな声が答える。グラスを持ち上げた唐沢がひとくち飲んで、その表情をやわく緩ませた。
「うん、おいしい」
 カスタードの甘さを、ナツメグが引き締め、ラム酒はふわりと香る。とろりとしたエッグノッグは温度以上に熱く感じやすいが、冬にはそれが心地良い。キッチンにはまだエッグノッグの香りが残って、月子もふわりと笑みを浮かべた。
「……きみは訊かないね」
 もうひとくち、こくりと飲み込んでから唐沢が言う。
「訊いてもいいことは、仰ってくださるでしょう?」
 それに。月子が唐沢に会いたかったのは、事態を根掘り葉掘り聞くためではなくて、ただその無事をこの目で見たかったからだ。
 それをそのまま伝えれば、唐沢がゆっくりと目を伏せた。数秒だけ瞑目して、うん、と声がもれる。それから開けば、いつもと同じ穏やかな瞳がある。
「……ホテルの、角を曲がってタバコ屋が見えて、退屈そうにラジオを聴いている横顔を見ると、無性にほっとしたものだけど、」
 唐沢が月子を見つめる。それを正面から受け止めると、ふっ、と微笑まれた。
「今日ほどじゃあ、なかったな」
 よかった。
 かすれたちいさな声が、それだけをこぼした。
 だから月子は、ただ静かに「ありがとうございます」と返す。
「……月久さんや仰木さんは、なんて?」
 エッグノッグを飲み込んで、ほぅ、と吐息をもらした唐沢が問いかける。いつもと同じように、弱さや疲れのかけらもなく。
「祖父はすぐに帰る、と。父は……ついこのあいだ帰ってきたばかりですし、難しそうですね。謝られました」
「忙しい人だからね。でも、月久さんがいてくれるなら安心だ」
「はい」
「またお会いしたいから、しばらく滞在してくれると嬉しいと伝えてもらってもいい?」
「わかりました」
 月久と唐沢はお互いの連絡先を知っているはずだから、きっと月子に伝言を頼む必要はない。けれど、月子が、月久に、しばらくいてほしいと頼めるようにしてくれているのだとわかる。素直に頷くと、いいこだね、と言うように微笑まれた。

「おやすみ」
 唐沢が入り口で振り返る。「おやすみなさい、」と返しつつ、口は塞がらない。
「あの、唐沢さん」
「ん?」
「……前言を撤回してしまうの、ですけど。ひとつ、訊いてもいいですか」
「いいよ」
 優しい声が促す。「迅くんは」その名前を紡ぐと、唐沢はぱちりと瞳を瞬かせた。
「……迅くんは、その……怪我、してませんか?」
「……してないよ。彼は強いから」
 やっぱり、と思う。やっぱり、迅は月子がいなくても――大丈夫なのだ。それに痛みを覚えたことすら申し訳なくて「よかった」と無理矢理に笑みを浮かべる。唐沢は月子を見つめ、言葉を続けた。
「でもちょっと元気がないかもしれないな。店に来たら、美味しい珈琲を淹れてあげてほしい」
「それは、もちろんです。私にはそれくらいしか、できませんから……」
「おや」
 と、唐沢が片眉をあげる。
「もう忘れているみたいだけど、」
 月子の視線の高さに合わせるように、少しだけ身をかがめた唐沢が笑った。それこそ兄が妹に向けるような、ちいさなからかいと、慈しみを含んで。
「きみがここで珈琲を淹れてくれることで、救われる人間はいるんだ――ほんとうにね」
 彼の言葉を嘘だと思いたくはない。けれど、本当にただそれだけでいいのだろうかと、ぐるりと胸の奥が渦巻く。それでも、なにも言えなくなるくらい、やさしい笑みだった。
「……俺はね、」
 唐沢は、その相貌をわずかに歪める。
「きみが今日、ここにいてくれて、嬉しかったよ。本当に……、きみが無事でよかったと、思っている」
 そのまなざしは、今まで見たことのないくらい、切実だった。彼にはいったいどれだけの心配をかけたのだろう。そして彼は、それを押し込み、月子の前でただ笑ってくれたのだ。経験したことのない命の危機に月子が受けた衝撃を見抜いて。
「ボーダーがきみを守れる組織であることを、嬉しく思う。嬉しすぎて、きみを守ってくれた二人に特別ボーナスとか出したいくらいだ」
 冗談めいた言葉を付け足す頃には、唐沢はいつもの表情に戻っていた。
「戸締りはちゃんとするように」
 最後に兄めいたことを告げて、からんっ、と扉を開く。そのつま先が、より星が輝く夜へ――ボーダー本部へと向いているのを見て、彼にはまだやるべきことが残っているのだと知った。なんとなく、わかっていたけれど。忙しい合間を縫って会いに来てくれたことが申し訳なくて、でも嬉しくて、月子はその背中が角に消えるまで見送った。

   *

 閑静な住宅街の夜は深い。街灯と家々から漏れる光はあるが、それもわずかなものだ。このあたりはあまり、夜遅くまで騒ぐ住民もいない。いつもは明るい時間に歩いていることもあってか、夜は別人のようによそよしく迅を出迎えた。
 このあたりに出現したトリオン兵は、その残骸もすっかり回収されて、一時でも平穏が崩されたことを感じさせない。その仕事ぶりにため息が漏れた。感嘆だったのかやり切れなさだったのかは判別としない。
 気負いなく角を曲がり、迅はその青い瞳を瞬かせた。
 カフェ・ユーリカに光が灯っている。とっくに閉店時間は過ぎているはずだが、煌々と、あかるい。他のどの場所よりもあたたかで、やわらかな光だった。
 ――今日も彼女は、そこにいた。ここに、いてくれる。
 それだけで鼻の奥がツンと痛んで、喉が震える。たった、これだけのことで。
 これは、なんなのだろう。光を見つめながら考える。
 『ごめんなさい』と、本部の廊下を歩いていた迅に言ったのは加古だった。三門市に異変を齎していた小型トリオン兵は、近くにいた人間から吸収したトリオンで門を開いていた。謝罪はそのことだろう。自分が彼女のもとを訪れたから、彼女を危険に晒してしまったと――おそらく今、一定以上のトリオンを持つほとんどのボーダー隊員が考えているであろうことだった。
 迅はそれに、『ありがとうございました』と返した。自分があそこに通っていることや、月子を心配していたことをすっかり知られていることに苦笑しながら、それでも、守ってくれてありがとうと。だって、もしそのときそこにいたのが迅だったとしたら――選べただろうか? 彼女を、ちゃんと――いちばんに、選べただろうか。
 事前に察知できていたとしても原因を探るために泳がせたかもしれない。未来を動かすために、その細い糸を手繰り寄せるために、見過ごしたかもしれない。息をするようにたやすく――彼女を選ばなかったかもしれない。
 ぞっとするような考えを、普通にできてしまう自分のことがどうしようもなく嫌だった。でも、そうしてしまう自分がいることを、決して否定できなかった。
 今回のイレギュラーゲートの一件は、少し前から見えていた。だから、わかっていた。解決の糸口がどこかに転がっていることも予感していたし、それが正しく一本の道筋として現実となるように動いてきた。それが無事に済んで、心から安堵している。
 だけど。もしも月子の存在が、その道筋の障害物としてあったなら――迅は。
 息を詰めて、来た道を引き返す。
 あの光に、自分が近づいてはいけない気がした。


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