テイクアウトコーヒー

 たったいま淹れたばかりの珈琲を、業務用といって差し支えない大きさのポットに注ぐ。たくさん淹れたものの、ポットの中を満たすほどの量にはならなかった。月子はドリッパーに残ったペーパーフィルターと豆を捨て、新しいものと取り替える。珈琲豆はすでにミルで砕かれている。それをフィルターへ移して、ミルには新しい豆を入れる。
「大変ね」
 カウンターの椅子に浅く腰掛けた加古が笑った。隣では二宮が珈琲を飲んでいる。珍しく砂糖もミルクも入れていないのは、加古がいるからだろうか、それとも飲めるようになったのか。微笑ましくなったのはおそらく言葉にしないほうがいいだろう。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいのよ。私たちが早く着いちゃっただけ」
 二人が揃って訪れたのは、唐沢からのおつかいを受けてだった。月子が淹れている珈琲をボーダーのエンジニアのもとまで運ぶ、というミッションを仰せつかったらしい。
 事の発端は、先日、木崎に託した珈琲とゆず餡のどら焼きだった。『寺島さん』に届けられたものが、エンジニアたちの間でちょっとした話題になったそうだ。どこの店の珈琲かわからず、けれどもう一度飲みたいというエンジニアたちの声を『キヌタ開発室長』が拾い、唐沢の耳にも及んだ、という説明を訊いていた。
 『エンジニアたちに恩を売っておきたくてね』とは電話口での唐沢の言葉である。悪ぶって笑っているのだろうなと思った。
 唐沢から誰かにおつかいを頼むとは聞いていたが、まさか加古と二宮とは思わず驚いたのはつい先ほどのことだ。鼻の頭を赤くしたふたりにすっかり冬だと思って、まずは労いの珈琲を淹れた。
 二宮は都合がつかなかった東から頼まれたそうなので、唐沢が最初に誰をおつかいに指名したのかはわからない。それでも、二人が訪れるそのときまで、月子が思い描いていたのは迅だった。もうずいぶんと顔を見ていない気がする。
 すう、と息を吸って、ゆっくりと吐き出した。ぐるりと絵の具が混ざったような思考が水に薄まって澄んでいくのをイメージしてから、ドリップに取り掛かる。欲張って一度にたくさん淹れようとすると味が変わってしまうから、少しずつ。もう何度か淹れなければならないだろう。
「二宮くん忙しいんだから代わってあげましょうか、って言ったのに『これは俺が東さんに頼まれたことだ』って譲らないのよ。子どもっぽいわよねぇ」
「おい」
 憮然とした表情の二宮に睨まれても加古は涼しい顔だ。東は相変わらず慕われているらしいと笑う。
 そういえば少し前に、二宮と東で飲みに行ったとも言っていただろうか。その話を振ると、加古がやや顔を曇らせた。
「そう、ずるいわよね。私はまだなのに」
「そうなんですか?」
「東さん、未成年にお酒は飲ませないタイプだから。二宮くんは十月が誕生日だったから居酒屋解禁ってわけ」
「それが大人として当然なんですよ……そっか、まだ十九歳ですよね。ボーダーの方々は大人っぽいので、つい忘れてしまいます」
「十九も二十も二十五も、そんなに変わらないのに」
「変わりますよ」
 言いながら自分にもその言葉が刺さった。十九歳と二十五歳は、やっぱり、違うのだろう。六歳という歳の差が、月子にはとてつもないものに感じる。歳下の、若い子だと思う。
 苦笑で痛みを誤魔化すと「そーお?」と加古が首を傾げる。仕草や声音といい、月子と同い年でもおかしくはないのだが、そのあと「月子さんが言うならそうなのかしら」と素直に頷くのは、やっぱり歳下らしく見えた。
「たしかクリスマスですよね、お誕生日」
 ちょうどドリップが終わったので、フィルターを変えながら訊ねる。
「そうよ。だから誕生日とクリスマスと、プレゼントを一緒にされがち」
 頬を膨らませてみせた加古はかなり愛らしいが、二宮は興味もなさそうに珈琲を飲んでいる。昔はチームメイトだったと話には訊いていたけれど、こうして並んでいるのを目の当たりにすると仲の良さ――というか、気安さがよく見て取れて笑みが浮かんだ。
 主に加古と雑談を交わしているうちに、ポットがすっかり満たされる。
 蓋をしっかりと締めて、持ち上げてみるとわりと重い。二宮がすぐに立ち上がって、「持ちます」と声をかけてくれる。コートも着るだろうし、店の外までは自分が、と思ったがカウンターを出た途端に二宮の手が伸びてポットをさらっていく。
 あ、と思ったがもう遅い。軽々と持ち上げるのには少しだけ驚いた。二宮は一度ポットをカウンターの上に置いて、コートに袖を通す。仕方ないのでその隣に帆布の大きなトートバッグを置いた。ポットのまま運んでもらうわけにもいかない。
「望ちゃん」
 と、すでにチェスターコートを纏った加古に声をかける。「なあに」とやわらかい声と視線が返ってきた。
「お茶受けにクッキーを焼いたので、もしよければそれも持っていってくださいませんか?」
「クッキー! 任せてちょうだい」
「ありがとうございます。エンジニアの方がいらないと仰ったら、望ちゃんたちで食べてください」
「はぁい」
 塩のきいたプレーンクッキーは甘さ控えめで珈琲にも合う。量は多いが、余っても社交的な加古なら問題なく捌けるだろうと判断して、詰め込んだ缶を紙袋に入れる。それもすぐに加古にさらわれてしまった。
「ね、二宮くん。私が着いてきてよかったでしょう?」
 確かにポットとクッキーを一度に持っていくのは大変だ。一人に持たせる量ではなかったと反省しつつ、二宮のほうは「一人でも持てた」と意地を張ったように答える。重さはともかく、嵩張って持ちにくくはなりそうだ。
「扉、開けますね」
 持たせてばかりで申し訳ない。カウンターを出たついでだ、と二人よりも先に扉に向かう。
 ――からんっ
 と、ドアベルが鳴って、十二月の凍てついた風が頬を撫でた。ずっと中にいたから、余計に寒さがしみる。
「もう、月子さんは中に居ていいのに」
 追いかけるように早足になった加古が店の外に出る。
「お見送りくらいさせてください」
 声をかけながら、二宮が外に出るまで扉を開けておく。ほかにお客さんもいないし、空気の入れ替えも大切だ。
「どうも」
 扉をくぐりながら二宮が短い言葉を紡ぐ。端的で無駄のない言葉のうちに心遣いを感じるのは気のせいだろうか。外に出たまま扉を閉める。
 からんっ、ともう一度ドアベルが鳴った。夏に比べたらずいぶんとカフェ・ユーリカに親しんでくれたようで嬉しく、つい笑みが止まらない。
「寒いので中に、」

 ――バチッ

 二宮の言葉を遮ったのは、大袈裟な静電気にも似た異音。なんの音だろう。呑気にそう考えたのは一瞬。音は激しさを増していく。呼ばれるように上を向いた。
 住宅街の上空、薄い冬の青に、穿たれたような黒がひとつ。
 ひび割れるように。
 あるいは引き裂かれるように。
 空が、黒に侵される。
「――っ加古!」
 初めてきいた、切羽詰まったような声が響くのと。
 紙袋が視界の端で動いて、紫が空へ躍り出るのは、ほとんど同時だった。

 月子と二宮の頭上、それどころか建物の上まで、一足飛びに駆け上ったのは――金の髪をなびかせる、あれは、あの紫は加古だろうか。その姿が瞬きのうちにかき消えて、より遠くに紫が現れる。まるで瞬間移動でもしたみたいに。
 その背中の向こうに、大きな白い影が見えた。
 あれは、なんだろう。
 どう形容するのが正しいのだろう。
 輪郭だけを見れば蜘蛛かもしれない。けれど振り上げた足の先の刃は蟷螂のようで、そしてなによりも、大きい。加古をひとのみにできそうなものが、空に穿たれた黒い穴から生まれ落ちて――月子の頭上に降り注ぐ前に、ぱかりと両断される。
 その断面にはただ黒が詰まっている、気がした。
 すぐに黒い煙が吹き出して白を隠す。
「落とすんじゃねえぞ」
 耳に届いたのはやや荒っぽい言葉で、それでも今この瞬間ではいちばん受け入れやすい現実だった。月子がそちらを見遣れば、眼つきも鋭く空を見上げる二宮が――黒いスーツ姿で立っている。
 状況を把握するよりも早く、二宮が前に立ちふさがり、覆うようにして月子の頭を下げさせる。
 閃光が視界の端にちらついて――爆発音が轟いた。


 コンコンと雹が降るような音が幾重にも重なる。巻き起こり、駆け抜けていく風は冷たく、少しだけ埃っぽい。それ以外は不自然なほどになにも感じない。そろりと二宮の影から周りを窺うと、半透明の壁のようなものが上空に現れていた。
 なにが起こったのか、まだ、理解できていない。
 きん、と耳鳴りがじわじわと収まって、かわりにどくどくと煩わしい音が耳元で鳴り響く。それが自分の鼓動だと気付くのに時間がかかった。
 空を見上げれば、半透明の壁は空気に融けるように消えていく。灰と黒がぐちゃりと混ざったような煙が空に漂っていた。そこから紫が落ちてきて、軽やかにアスファルトの地面に着地する。足元には細やかな破片が――あの白が散らばっていた。
「月子さんっ!」
 紫色の服を纏った加古が駆け寄ってくる。それでも月子は動けなかった。
 加古の手が月子の肩に優しくふれる。そっと、壊れ物でも扱うように。
 上から下まで、確かめるように見つめ、それから蒼みがかった黒の瞳と視線を交えて、加古が安堵したように息を漏らした。
「よかった」
 ちいさな声が囁く。
「二宮くん、連絡は?」
「入れてある――」
 数秒の沈黙が不自然に挟まった。加古は眉を寄せて「そう」と答える。
「い、」
 声が出せる。自分には声帯が備わっていることをようやく思い出して、張り付いた喉の奥から声を振り絞る。
「今のは、……今の……が?」
 加古と二宮が互いに目配せをしあう。それが既に答えだった。わななく唇をぐっと閉ざして、まとまらない思考から言葉を拾い上げる。いつもならすぐに出てくる言葉を探し当てるまで数秒かかった。
「……ありがとう、ございます。望ちゃん。二宮さん」
「どういたしまして」
 笑みを浮かべて応えてくれる加古の優しさが有り難かった。二宮が耳に手を当てて、何かを小声で話している。ボーダー本部と連絡をとっているのだろうか。
 じわりじわりと、目の前のものを理解していく。空に漂っていた煙は風に流されて散り散りになっていた。なんの変哲もない、平和な空が見える。ついさっきのことなんて、なかったみたいに。心臓がいやな音を立てていた。脊髄が凍えて疼く。
「加古、仰木さんについてろ。近隣住民への説明もだ。俺は本部に向かう」
「ええ。上から見た感じ、出歩いてる人はほとんどいなかったわ。時間帯がよかったのね」
「そうか。……回収班もすぐに来る。それまで現場を保存しろと言ってきた」
「了解。月子さん、中に入りましょう」
 加古がそっと背中を支えてくれた。それで、自分がずいぶんとふらついていることに気づいた。ついさっきまで自分が立っていた場所を、見失ってしまったみたいに。

 からんっ、と慣れ親しんだドアベルの音が響いた。いつもと同じ珈琲の香りと、淑やかな音楽と。急速に日常へと空気が入れ替わっていくなかで、月子の心だけが取り残されて宙に浮く。
「……恐い思いを、させてしまったわ。ごめんなさい」
 加古がそっと囁いた。伏した瞳が物憂げで、慌てて首を横に振る。いつのまにか加古は元のチェスターコート姿に戻っていた。その手にはクッキーの入っていた紙袋はない。二宮が持って行ったのだろうか。加古の紫色のユニフォームも、二宮のスーツ姿も、ボーダーのフォーラムで説明された『戦うための体』だろうから、それが何か関係しているのかもしれない。
「恐いと思う、暇もありませんでしたよ」
 本当のことだった。それは、間違いなく。あの近界民に恐怖を抱く時間さえ、二人はくれなかった。
 それは近界民を両断する、それだけの力を持っている彼女に対しても同じことだ。彼女のことを恐いとも思わない。
 目の前で繰り広げられたあれは、恐くなかったのだ。誓って。だって、三門に戻ってきたときから、距離の違いはあれど何度か見てきた光景なのだから。
 こわかったのはもっと別のこと。
 根本的な、こと。
 この感覚を月子は知っている。
「……望ちゃん。私は大丈夫なので、ご近所の方に説明に言ってあげてください。小さなお子さんのいらっしゃる家も、ご年配の方だけで暮らしている家もありますから」
 頷きながらもためらった表情を浮かべる加古に、笑みを重ねて促した。
「だいじょうぶです。私、けっこう逞しいので」
「……知ってるわ」
 からん、とドアベルが控えめに鳴る。扉の向こうで加古があの紫のユニフォームの姿になった。あの格好のほうがボーダーと認識されやすいからだろう。すぐにその背中が駆け出して、隣の民家へ向かった。

 手近な椅子に座り込んで、そっと吐息をもらす。あぁ、とかすかな囁きがとける。それはまだ、震えていた。
 珈琲の香り。淑やかな音楽。外界は遠く、隔てられたかのような穏やかな空気。月子の愛する〝カフェ・ユーリカ〟――月子が大切にしたいと思う世界。
 その世界に、彼が組み込まれたのは、いつからか。
 恐いのは異形の怪物でもそれを屠る力でもない。
 今、目の前に広がる光景は――薄皮一枚で守られているということ。
 きっかけさえあれば、儚く、脆く、呆気なく崩れ去ること。一秒前にふれていたものに、手が届かなくなること。あまりにも、不安定なのだ。自分がいる世界は。月子が、自分の世界だと思っているものは。
 そのことがなによりもこわい。
 個人の世界をつなぎとめることは難しい。例えばそれは家庭を安寧に保つこと。ほんの些細なきっかけで崩れてしまうそれを前に、幼い頃の月子はいつだって怯えていた。自分の一言が決定打になることをわかっていた。緊張の糸がぴんと張り詰めた、失敗の許されない世界。それでやっと、どうにか保たれる、危うい世界。
 それでも保ちたかったくらい、大切だった。だからそれが崩れたとき――月子は泣いたのだ。
 月子が今感じている恐怖はそれだ。世界が崩れる感覚。薄皮一枚で、やっと保たれているのだとじわじわと実感する。だからこそ、これほどまでに恐ろしい。
 二年前の侵攻は恐くなかった。遠目に見る異形は恐くなかった。戦う人がいることは知っていた。尊敬しても、感謝しても、身近には思わなかった。だってそれは、月子の世界の外側にあったものだから。月子自身はそこにいなくて、月子の世界にそれはなかった。でも今は――違う。

 自分の安全を認識するよりも先に、よぎったのは彼のことだった。
 月子の世界には彼がいて、その彼は、あの世界にいるという。彼はいつも、あんな強大なものと、あんなふうに戦っている。
 月子の世界はいつのまにか向こう側の世界と繋がっていた。彼を介して、向こう側だった世界が自分の世界になる。
 そこで――もしも、なにか危ない目にあったら?
 迅に、なにかあったら?
 そう思うだけで激しく胸を突く痛みがある。痛みがあるから、彼はすでに自分の世界の一部になっていた。彼が損なわれることは、身体をもがれるのと同じだ。

 詰めていた息を意識的に吐き出した。エプロンのポケットのなかで携帯が震えている。取り出してみれば、いちばん最近アドレス帳に追加した人の名前があった。着信。そっと、通話に出る。
「――仰木です」
《月子、さん?》
 耳に馴染むはずの声は、電波を通して少しだけ高くなっていた。やや硬い声に言いようのない距離を感じて、じわりと胸に痛みが染みる。
《……よかった》
 すこしだけ、震えているように聞こえたのは。月子の手が震えたせいだろうか。
「迅くん」
《うん》
「私は……、わたしに、なにかできることは、ありますか」
 力になりたい、そう思うのは月子にとって自然なことだった。だって彼はもう、大切な世界の内側にいる。薄皮一枚で守られた危うい世界。それを少しでも安定させるために、月子は努力を惜しまない。幼い頃からそうしてきた。
《大丈夫。月子さんはそこにいて。あとはおれが――おれたちが、何とかする》
「……頼もしいですね」
 努めて笑った。うまく笑えたと思う。電話の向こうの迅の空気が緩められた気がする。ちいさな吐息が耳を掠めた。
《ちょっとは安心してくれた?》
「迅くんの名前を見たときから安心してましたよ」
《嘘っぽいなぁ》
 どうして、こう、勘が鋭いのだろう。
「どうか、気をつけてくださいね。怪我がないよう」
 せめてなんの憂いもなく、信頼しているのだと伝わるように、明るく言った。
《ありがとう。月子さんも怪我しなかったからって歩き回らないでよ》
 過保護気味の小言めいた言葉はいつもと同じなのに、いまはなんだか突き刺さる。
「わかっています。……今の状況については二宮さんから訊いたんですか?」
《あたり。――っと、ごめん、そろそろ行かなきゃ》
 誰かに呼ばれたのだろう。月子の耳にもその声がわずかに聞こえて、見えるはずもないのに首を横に振った。
「お忙しいところ、お手を煩わせてごめんなさい」
《なんで謝るの。おれが声を聴きたかっただけだよ……月子さんが無事でよかった》
「迅くんが電話をくれて、うれしかったです」
 向こう側で迅が笑った。こぼれ落ちた素直すぎる言葉を、もしかしたら本気に思わなかったのかもしれない。いつもと同じ、戯れに似た言葉のひとつだと思ったのかもしれない。本心、だったけれど。
「迅くん」
《ん? なに?》
「あの……っ気をつけて。いってらっしゃい」
《――いってきます》
 ぷつり、と。電話は月子が切った。そうでないといつまでも彼を引き止めてしまいそうで。
 迅は、ボーダーを楽しいと言っていた。月子の日常を壊し、世界を崩すあの戦いのなかにあっても。大変なことばかりではないと。
 それは救いだ。せめて、そう思える場所に彼がいれてよかった。心からそう思う。思ったことに偽りはない。
「あぁ、もう……」
 でも、逆に言えば。そこに、もはや、月子の出る幕はない。向こう側の世界に月子は関われない。
 なんにもできない。
 だから、月子は迅の救いにはなれない――ただ、救われるばかりで。
 それがとてもかなしくて、悔しかった。苦しかった。
『月子さんはそこにいて』
 あなたのところへ行って役立つどころか、駆けつけることもできない。
『おれたちが何とかする』
 あなたのために何かしたいのに、なにもできない。
 立場の違いを思えば当たり前だ。優しく慮られたのだと理解している。それなのに。そう言うことも、言われることも当たり前なのに――傷ついた。
 何も求められていないことが、力になれないことが。なにもできないことが。本当に、ほんとうに悔しくて仕方なくて。そう思うのは、迅に対してだけで。
(……、……すき、だから)
 すきなのに、なにもできないから。それに、傷つくから。
 月子は迅が好きなのだ。
 どれだけ歳の差があると思っているのだろう。何の役にも立たないとわかっているくせに。きっと、困らせてしまうだけなのに。その先に行き着く場所は、あのさみしさだと知っているはずなのに。
 いっそ恋のように浅ましく、身勝手に、とくべつに――すきだった。


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